早坂文雄

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テンプレート:出典の明記 テンプレート:ActorActress テンプレート:Portal クラシック音楽 早坂 文雄(はやさか ふみお、1914年8月19日 - 1955年10月15日)は、日本作曲家である。宮城県仙台市出身。

生涯

幼少期から青年期

1914年(大正3年)、宮城県仙台市に生れる。早坂家は代々宮城県志田郡の地主の家系で、祖父の代までは裕福だったと言われるが、父(順之助)の代には没落していた[1]。幼時北海道札幌市に移住した。家庭はこれといって音楽的環境ではなかったが、父は日本画をたしなみ、早坂も北海中学入学時には洋画家になろうと思っていたが、15歳の頃から作曲家を志すようになった[1]。しかし16歳の時に父が出奔し、翌年には母も病没したため、2人の弟妹の面倒を一人で見なければならなくなり、音楽学校への進学を断念し、中学卒業ののち実社会に入った[1]

音楽への情熱は冷めやらず、ピアノが買えない彼は、ピアノの音が聴こえれば、見知らぬ家であろうとかまわずに、その家でピアノを弾かせてもらっていた[1]。1934年、旧知であった伊福部昭・三浦淳史らによって「新音楽連盟」が結成されると、早坂もメンバーとなり、同年9月に開催された『国際現代音楽祭』では、ピアニストとしてサティ・ファリャなどの作品を演奏した[1]。また同じころ、雑誌『音楽新潮』の寄稿者であった清瀬保二にピアノ曲《君子の庵》を送ったことから、清瀬との交流が始まる[2]。カトリック教会でオルガニストを務めていた1935年、《二つの讃歌への前奏曲》が日本放送協会「祝典用管弦楽曲」懸賞に第2位入選し、翌1936年(昭和11年)1月に放送初演される[1]。この時上京し、清瀬保二、菅原明朗江文也らに会う[1]。3月には日本現代作曲家連盟に入会し、この頃から『音楽新潮』などに寄稿するようになっていく[1]。また、同年来日したアレクサンドル・チェレプニンの指導・影響を受けた[1]

上京後

1937年(昭和12年)、ピアノ曲《夜曲第1番》(1936年)がチェレプニン楽譜no.31として出版される。翌年、管弦楽曲《古代の舞曲》(1937年)がワインガルトナー賞優等賞を受賞する[1]。同年胸部疾患にかかり静養するが、1939年(昭和14年)東宝映画社長の植村泰二に認められて上京、東宝映画に音楽監督として入社した[1]トーキー音楽の新分野に多くの仕事をこなし、名声を確立していく。同年、荻原利次石田一郎塚谷晃弘の「独立作曲家協会」に加わる[1]

翌1940年、管弦楽曲《序曲ニ調》(1939年)が日本放送協会主催紀元二千六百年奉祝管弦楽曲懸賞に主席入選[1]。5月、日本現代作曲家連盟創立十周年記念作品発表会で《ピアノのための五つの楽章》(1940年)が初演され、7月の連盟総会で第18回国際現代音楽祭に出品決定。同年、独立作曲家協会の第4回作品発表会で《五音音階によるピアノアルバム第1、第2》(1940年)などが初演された。

1941年(昭和16年)、日本大学芸術科講師となり、新設の「映画音楽」を担当した。同年、日本音楽文化協会が発足し、その作曲部委員に就任する。1942年(昭和17年)、《室内のためのピアノ小品集》(1941年)が日本音楽文化協会「第3回室内楽作品試演会」で初演される。また同年、東京交響楽団主催「現代日本の作曲」演奏会で、《左方の舞と右方の舞》(1941年)がマンフレート・グルリットの指揮により初演される[1][2]。しかし、肺浸潤を発病し、医師に2年間の療養を勧告され、入院する[1]。1944年(昭和19年)、退院し、映画音楽などの仕事を再開するが、秋に再発[1]。再び療養生活に戻る[1]

戦後から亡くなるまで

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アサヒグラフ』(朝日新聞社)1955年2月16日号のインタビュー記事より

終戦後、箕作秋吉によって「再結成」された「日本現代音楽協会」の作曲部推薦委員に就任する[1]。同年、清瀬保二、伊福部昭、松平頼則渡辺浦人、塚谷晃弘、荻原利次らと「新作曲派協会」を組織し、早坂は幹事として戦後の作曲家グループの先端の一翼を担った[1]

戦後は新作曲派協会において毎年作品を発表するなど精力的に活動を続けながら、同時に映画音楽の分野でも卓越した才能を発揮し、多忙な日々を送る。1947年(昭和22年)、新作曲派協会第1回作品発表会においてピアノ曲《詩曲》(1947年)などが初演される。同年、黒澤明と初めて会う[1]

翌1948年、《ピアノ協奏曲》(1948年)が「第11回東宝グランド・コンサート 日米現代音楽祭」で初演される。1949年(昭和24年)、第3回毎日映画コンクールにおいて、「酔いどれ天使」「富士山頂」「虹を抱く処女」の映画音楽で音楽賞を受賞する。翌1950年も「野良犬」で同賞を受賞。同年、東宝を離れ、「映画音楽家協会」を設立する[1]。1951年(昭和26年)、音楽を担当した黒澤明監督の「羅生門」がヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞し、その音楽も大きな話題となる。

1953年(昭和28年)、以前より次第に悪化していた結核により、一時危篤状態に陥るが、奇跡的に回復を果たす[1]。同年秋、新作曲派協会、日本現代作曲家協会を脱会、また蔵書を売るなど身辺整理を始める。翌年、『音楽芸術』誌上で三浦淳史と「早坂文雄と汎東洋主義(パンエイシヤニズム)音楽論」と題して対談し、自作を語る。

1955年、交響的組曲《ユーカラ》(1955年)が東京交響楽団定期演奏会で初演される[1]。その年の10月、映画「生きものの記録」作曲中に容態が急変し、亡くなった[1]。没後、毎日映画コンクール音楽特別賞、芸術選奨が贈られた。

早坂はピアノ曲管弦楽曲室内楽曲映画音楽の分野で作品を残している。特にピアノ曲は全創作期に渡っている。また映画音楽の分野では「羅生門」「七人の侍」他の黒澤明作品、「雨月物語」などの溝口健二作品など数多くの作品の音楽を手掛けた。また、『日本的音楽論』(1942年)の著書があり、多くの作品評・作曲家論(清瀬保二・諸井三郎など)も残している[2]

没後の動き

没後45年経った2000年10月から12月にかけて、東京・上野の旧東京音楽学校奏楽堂において、『早坂文雄展』が開催された[3]。没後ちょうど50年にあたる2005年10月15日には、東京・新宿のホテルで早坂を偲ぶ「没後50年 感謝の会」が開かれた。早坂の親族をはじめ、湯浅譲二佐藤慶次郎(作曲家)、野上照代スクリプター)、村木与四郎美術監督)、土屋嘉男(俳優)、桂木洋子(元女優・黛敏郎未亡人)、黒澤和子(黒澤明長女)など、数多くの音楽・映画関係者が出席した[4][5]

生誕100年にあたる2014年には、京都文化博物館フィルムシアターにて、『生誕100年記念 早坂文雄の映画音楽世界』が1月4日から2月2日にかけて開催され、早坂が音楽を担当した『女優』『酔いどれ天使』『野良犬』『めし』『雨月物語』『山椒大夫』などの作品が上映された[6]。8月29日・30日には、下野竜也指揮・札幌交響楽団により、『ユーカラ』が演奏される[7]。また、早坂の多くの作品を初演した東京交響楽団は、9月21日にミューザ川崎シンフォニーホール、9月23日に新潟市民芸術文化会館で、準メルクルの指揮により『左方の舞と右方の舞』を演奏する予定である[8][9]

エピソード

  • 映画研究者のドナルド・リチーは、1947年に占領軍のタイピスト(のち機関紙記者)として来日した際、趣味の音楽を通じて早坂と親交を持つようになった。その縁で、当時外国人の立入が困難であった日本の映画撮影所の見学が出来るようになったという[10][11]
  • 2007年10月、北海道歌志内市の安楽寺で、早坂が使用していたオルガンが一般公開された。同寺の前住職・相河悳昭は、早坂とは北海中学時代の同級生で、在学中は早坂宅に下宿していた。中学5年の時、母親を失ったことで経済的苦境に陥った早坂は、相河の実家の寺の日曜学校で教えることと引き換えに、寺から学費等の援助を受けるようになった。早坂は、当時自前のピアノを持っていなかったこともあり、その後も相河家でオルガンを演奏したり、曲作りをすることが多かった。その中から生まれた作品の一つが『古代の舞曲』で、楽譜の草稿が現在も同寺に保管されている[12]

作風と後世への影響

早坂は「汎東洋主義」を唱え、日本的・東洋的な美学を、作品に生かそうと試みた。その美学とは主に東洋の伝統芸術から見出した様式美であり、戦前の代表作《左方の舞と右方の舞》(1941年)では、円熟した雅楽的要素とともに絵巻物との近似性も認められる(清瀬保二の評)[2]。また、彼は調性音楽では東洋的な形而上的世界を表現するのは不可能と考え、その突破口を東洋的な感性に立脚した上での無調に見出した[13]。この試みは晩年の作品《管弦楽のための変容》(1953年)、《ユーカラ》(1955年)などに結実された。

早坂の「汎東洋主義」は、音楽の枠組みをそれまでの西洋的なものから東洋的なものへと開放するための試みと言うことも出来る[14]が、その方法論は後の世代の作曲家(芥川也寸志黛敏郎武満徹佐藤慶次郎湯浅譲二佐藤勝など)にも大きな影響を与え、特に武満は《弦楽のためのレクイエム》を早坂に献呈している。湯浅譲二は、「早坂さんは映画音楽で名高く、私にとっては音楽の先達として尊敬してきた人。現代音楽史において、日本と西欧の違いを真剣に考えた最初の作曲家」と位置づけている[4]

現在ではあまり演奏される機会はないが[15]、《うぐひす》などの歌曲作品は、青山恵子米良美一ら国内の声楽家によって、コンサート等で取り上げられる回数が徐々に増えている。また、近年キングレコードから管弦楽作品集、ナクソスから《ピアノ協奏曲》、フォンテックから《ユーカラ》などがCD化されている。なお、ピアニストの高橋アキは、2000年のサントリーホール機関紙によるアンケートで、「21世紀に伝えたい20世紀の音楽」として、早坂の《室内のためのピアノ小品集》を挙げており、2004年に同作品を中心としたアルバムをリリースしている[16]

作品リスト

管弦楽曲・協奏曲

  • 2つの賛歌への前奏曲(1935年)
  • 古代の舞曲(1937年)
  • 管弦楽のための音楽 第1番 ト短調(1938年)
  • 虎杖丸(1938年)
  • 序曲ニ調(1939年)
  • 管弦楽のための音楽 第2番(1940年)
  • 弦楽オーケストラのためのアダージオ(1940年)
  • 左方の舞と右方の舞(1941年)
  • 讃頌祝典之楽(1942年)
  • 民族絵巻(1944年)
  • 交響的童話「ムクの木の話」(1946年)
  • ピアノ協奏曲(1948年)
  • 管弦楽のための変容(1953年)
  • 交響的組曲 「ユーカラ」(1955年)
  • 交響曲(スケッチのみ。未完)

室内楽曲

  • 夜の田園詩曲(1938年)
  • フルートとピアノのためのバラード(1945年)
  • キャプリチオ(1949年)
  • 弦楽四重奏曲(1950年)
  • ヴァイオリンとピアノのための二重奏(1950年)
  • 8人の奏者による7つの部分の組曲(1952年)

ピアノ曲

  • 君子の庵(1934年)
  • 激越なる小品(1934年)
  • 夜曲第1番(1937年)
  • 2つの舞曲(1939年)
  • ピアノのための五つの楽章(1940年)
  • 五音音階によるピアノアルバム第1、第2(1940年)
  • 子どものためのピアノ音楽(1940年)
  • 武曲三彩(1940年)
  • 室内のためのピアノ小品集・第1集(1941年)
  • ピアノのための4つの前奏曲(1942年)
  • 或る秋の祭りのための前奏曲(1944年)
  • ロンド(1944年)
  • ミュージカル・ボックス(1945年)
  • ピアノのためのロマンス(1945年)
  • 九月のワルツ(1945年)
  • 恋歌(1946年)
  • 夜の悲歌(1947年)
  • 詩曲(1947年)
  • 三つの挽歌(1947年)
  • 夜曲第2番(1947年)
  • バルカローレ(1947年)
  • 秋(1947年)
  • 告別(1947年)
  • 雨(1947年)
  • 孤独(1947年)
  • 筝うた(1947年)

舞踊曲

  • 若柳敏三郎氏のための舞踊曲『武曲三彩』(1941年)

歌曲

  • 海の若者(1939年、佐藤春夫詞)
  • 春夫の詩に拠る四つの無伴奏の歌(1947年、佐藤春夫詞)
    • うぐひす
    • 嫁ぎゆく人に
    • 孤独
    • 漳州橋畔口吟(しょうしゅうきょうはんくぎん)

映画音楽

親族

次女は元歌手の早坂絃子(いとこ)[17]。写真家の北浦凡子(なみこ)は孫(絃子の長女)に当たる[17]。また、縁戚に当たる人物として、ソプラノ歌手の平山美智子がいる[18]

関連書籍

関連番組

  • ラジオドキュメンタリー『八人目のサムライ 作曲家・早坂文雄の生涯』(1993年2月7日、東北放送。ナレーター・山崎努

脚注

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参考文献

外部リンク

  • 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 1.12 1.13 1.14 1.15 1.16 1.17 1.18 1.19 1.20 1.21 1.22 1.23 『日本の映画音楽史』
  • 2.0 2.1 2.2 2.3 『日本の作曲20世紀』 203 - 205頁、「早坂文雄」の項。
  • キネマ旬報』2000年11月上旬号、198頁
  • 4.0 4.1 共同通信』2005年10月19日付「作曲家早坂文雄しのぶ会 没後50年で命日に」
  • 『キネマ旬報』2005年12月15日号「早坂文雄 没後五十年 感謝の会レポート」
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  • 朝日新聞』2008年12月2日付
  • Japan Journals: 1947-2004 著者: Donald Richie
  • 「名曲誕生に一役 北海道ゆかりの作曲家・早坂文雄が奏でたオルガン初公開」2007年10月6日付朝日新聞北海道版朝刊
  • 佐野仁美『武満徹と戦前の「民族派」の作曲家たち:清瀬保二、早坂文雄と「日本的なもの」の認識について』 Kobe University Repository:Kernel, 178p.
  • 佐野仁美『武満徹と戦前の「民族派」の作曲家たち:清瀬保二、早坂文雄と「日本的なもの」の認識について』 Kobe University Repository:Kernel, 180p.
  • 社団法人日本オーケストラ連盟 作曲家別演奏頻度ランキング
  • 高橋アキ旧公式サイト・CD紹介
  • 17.0 17.1 福田滋『日本の作曲家と吹奏楽の世界』ヤマハミュージックメディア、2012年、63p.
  • クラシックニュース「平山美智子 - 90歳の軌跡 - 」