日蓮正宗
日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)は、日蓮を宗祖、宗祖より法の相承を受けた[1]日興を開祖とし、日興が開いた大石寺を総本山とする仏教宗派。本迹勝劣[2]、日蓮本仏論[3]を唱え、大石寺の奉安堂に安置された本尊を宗祖日蓮の出世の本懐(ほんがい)とする[4]。日興の流れを汲む富士門流[5]に位置づけられることがある。
目次
主要寺院
- 総本山
- 本山
- 由緒寺院
- 多宝富士山下之坊(しものぼう、静岡県富士宮市)ほか
教義
所依の妙法蓮華経を構成する二十八品(28章)を前半の「迹門」、後半の「本門」に二分し、本門に法華経の極意があるとするのが勝劣派である。勝劣派は、更に、「日蓮を本仏とする派」と「釈尊を本仏とする派」に分かれるが、日蓮正宗は、日蓮本仏論を教義とする。1279年(弘安2年)10月12日の宗祖日蓮所顕と伝えられる本門戒壇之大御本尊(総本山大石寺奉安堂に安置)を帰命依止の本尊と定め、宗祖の出世の本懐(ほんがい)であり、宗祖所顕の曼荼羅の中でも究境の大曼荼羅として位置づけている。教義の基本は、正しい本尊(本門戒壇之大御本尊)を信じて自行化他に題目を修行しさえするならば、どんな者でも必ず一生のうちに成仏できる、ということである。また、仏教各宗派によってさまざまな戒律が説かれているが、日蓮正宗における戒とは「三大秘法の受持」の意である。よって信徒個人レベルにおける戒律の実践は、「一切の謗法を捨てること(=日蓮正宗以外の本尊を拝まないこと)」、「勤行唱題および弘教活動(=広宣流布)を実践すること」で十分である、とされる。すなわち日蓮正宗においては、本尊こそが「三大秘法」の中心として考えられている。
この他に、
- 宗祖は、外用としては法華経に予証された末法の世を救う上行菩薩であるが、その内証は久遠元初の自受用報身、すなわち、末法の御本仏であるとし、宗祖を「日蓮大聖人」と尊称している。
- 宗祖は、1253年(建長5年)3月28日に立宗を内示され、4月28日に立宗を宣した。
- 日興は、1282年(弘安5年)の二箇相承にもとづき、宗祖から「唯授一人の血脈相承(ゆいじゅいちにんのけちみゃくそうじょう)」を受けたとされている。以後、第3祖日目、第4世日道、第5世日行と順次に伝えて現法主第68世日如に至っている。
等々の教義があげられる。
特に、日蓮本仏論については、『開目抄』『諸法実相抄』『就註法華経口伝』『本尊問答抄』『百六箇抄』『本因妙抄』『産湯相承事』を真蹟とした上で、下記の文言を典拠に、日蓮本仏論を唱える。
- 夫(それ)仏は一切衆生に於て主師親の徳有り。(蓮盛抄 建長七年三四歳 平成新編御書28)
- 日蓮は日本国の諸人に主師父母なり。(開目抄 文永九年二月 五一歳 平成新編御書577)
- 今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は一切衆生の父なり。無間地獄(むけんじごく)の苦を救ふ故なり云云。涅槃経に云はく「一切衆生の異の苦を受くるは悉く是如来一人の苦なり」云云。日蓮が云はく、一切衆生の異の苦を受くるは悉く是日蓮一人の苦なるべし。(御義口伝 平成新編御書1771)
- 末法の仏とは凡夫なり。凡夫僧なり。(中略)僧とは我等行者なり。仏共云はれ、又は凡夫僧とも云はるゝなり。(御義口伝 弘安三年正月十一日 平成新編御書1779)
- 凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり。然れば釈迦仏は我等衆生のためには主師親の三徳を備へ給ふと思ひしにさにては候はず、返って仏に三徳をかぶ(被)らせ奉るは凡夫なり。(諸法実相抄 文永一〇年五月一七日 五二歳 平成新編御書665)
現在、所依の経典としては、法華三部経・宗祖遺文(『日蓮大聖人御書』)・第2祖日興遺文・第9世日有遺文・第26世日寛遺文を正依とし、天台宗系統の摩詞止観10巻および弘決・法華玄義10巻および釈籤・法華文句10巻および疏記を傍依としている。
仏教の基礎である三宝は、以下のように説いている。「末法の三宝とは久遠元初自受用報身如来の再誕、本因妙の教主日蓮大聖人を仏宝、無作本有の南無妙法蓮華経の大曼荼羅を法宝とし、血脈付法の第二祖日興上人を随一とする歴代の法主上人が僧宝である」宗祖こそが「本因妙の教主釈尊」であって、インドの釈迦(釈尊)は、法華経を説いて当時の衆生を救済するかたわら、末法における本仏(=宗祖)の出現を予証するために現れた「仮の姿」の「釈尊」(=迹仏)とされてされており、多宝塔や釈迦・多宝如来、等の仏像の制作・崇拝は一切禁止されている。
沿革
日興門流の成立
日興は、宗祖の本弟子六老僧の1人として積極的な折伏に目覚しい成果をあげ、特に駿河において強力な教団組織を創りあげた。この急速な布教展開は他宗派関係者や鎌倉幕府内権力者の警戒心を招き、1279年(弘安2年)には熱原郷付近の僧俗が徹底的な弾圧を受け、最終的に3名の農民信徒が殉教を遂げるという事件も起きている(熱原法難)。宗祖日蓮滅後、法の相承を受けた日興が直ちに身延山久遠寺別当職となり7年間過ごす。廟所は本弟子六老僧による輪番制が敷かれたが、戦乱や疫病、遠方の布教活動を理由に日興以外の五弟子が輪番制を放棄。その後身延山に進山してきた六弟子の1人、日向の示唆によって地頭・波木井実長(はぎりさねなが 後に出家して六郎入道日円)が謗法行為を犯したので、日興はやむなく身延を離山した[6][注釈 1]身延離山後、地頭南条時光の招きにより総本山大石寺(たいせきじ)を建てて「御開山」すなわち事実上の開祖となり、その教義的方向性を決定づけたとされる。日興は大石寺を日目にまかせ、晩年は地頭石川氏の招きにより重須談所(現在の日蓮宗北山本門寺根源・重須本門寺)に移住し、日目に血脈を譲ったのち、師弟の教育・指導にあたり、ここで遷化(逝去)した。
日興は 1289年(正応2年)に多宝富士山下之坊を開山し、多宝富士山下之坊は現在では富士門流・日興門流発祥の聖地とされている。翌1290年(正応3年)、日興は南条時光の寄進によって富士山の麓に大石寺を開いた。日蓮正宗では、日蓮大聖人の正しい教えが日興 - 日目 - 日道と続く法脈以外には伝わらなかったとして、日朗系などの全ての他門流、また、日蓮本仏論や大石寺管長の血脈相承を認めない、他の日興門流=富士門流諸派も、すべて謗法としている。一方、日蓮正宗以外の富士門流、日朗門流、日向(身延)門流、日常(中山)門流などは宗祖大聖人御入滅以来、正嫡を主張し、日蓮正宗に異論をとなえ続けている。
近世における大石寺の展開
江戸時代、仏教の諸宗派の教学研究の拠点は各本山から檀林にうつった。大石寺は、勝劣派である日興門流の他の本山や日隆門流の各本山とともに細草檀林をつくった。
江戸時代、大石寺は江戸城では独礼席を許され、また第25世の日宥は後水尾天皇の皇孫であり第6代将軍徳川家宣正室の天英院の猶子(養子)に迎えられている他、将軍家や大名家、江戸時代著しく力の衰えていた皇室・公家などの崇敬を得たが、他の宗派と同様に布教活動は江戸幕府の厳しい統制を受け続けた。
法華経正宗分の意味合いからであろうか少なくとも江戸時代中期には自宗派を正宗と呼ぶことがあったことが、金沢郷土史の文献(「正宗の題目」とある)から分かる。
日蓮正宗の成立
明治維新政府の祭政一致、神道国教化政策[注釈 2]のもと、1872年、仏教界に強制合併の大弾圧が加わる中[注釈 3](一宗一管長制)、他宗派との形式上の合同を余儀なくされていた大石寺の本末が独立を回復するのが1900年、日蓮正宗を正式に名乗るのは1912年である。[注釈 4]
1868年の明治維新によって、大石寺教団と国家権力との間には新たな緊張関係が生まれた。[注釈 5]すなわち、江戸時代まで仏教勢力が圧倒的に優位だった日本宗教界の序列を覆し、神道の準国教化を宗教政策の根幹とした明治政府は、仏教各派に対しては、行政制度上の統合整理強制によって「分割支配」をはかる方針を採った。この背景として、日蓮宗管長・新井日薩らによる「全日蓮門下の統合」を目指す画策もあった。大石寺第54世日胤は、1873年に教部省へ「大石寺一本寺独立願」を提出し、以降も数度にわたって諌暁を繰り返したが容れられず、結果的に1876年より、興門八本山の他の七山とともに日蓮宗興門派(のち本門宗と改称)の設立に参加することを余儀なくされた。[7]
大石寺とその貫主が「富士門流の嫡統であり、唯一の血脈相承者」であり、ゆえに大石寺を日蓮宗興門派(本門宗)の総本山、その貫主を宗派全体の管長とするべきである、という大石寺の主張は他の七山の受け入れるところとはならず、大石寺は日蓮宗興門派の発足当初から、大石寺とその末寺のみによる独立宗派の設立を指向した。
行政上の宗派代表としての「興門派管長(本門宗管長)」の職は、八本山が一年任期の輪番制で務める運営形態となり、大石寺からは、1881年-1882年にかけて第55世法主日布が第4代の管長に、1891年-1892年にかけては第56世法主日応が第15代の管長に就任している[8]。
だが、このような形式は、大石寺派僧俗にとってみれば、大石寺の住職は依然変わりなく法主(ほっす)の地位ではあるが、管長の地位は謗法の人間が占めている場合もあるという、信仰上の異常事態が続くことを意味し、教団の存立こそ篤信の信徒団体に支えられて強固であったが、教義的には許されざる事態となった。
しかしその後、第55世日布・第56世日応と、数度にわたり政府への抗議活動と他の七本山に対する破折活動が続けられた結果、ついに1900年(明治33年)にいたり大石寺の本末・中末の独立が公許され、日蓮宗富士派として独立を回復させた[9]。
本門宗から脱却した直後より、「能く宗旨・宗体を表す」宗号の再検討が行われ、1912年(明治45年/大正元年)6月7日、第57世日正の決定により、現在にいたる「“日蓮正宗”」という宗号が政府の認可のもと公称されることとなった[10][11][注釈 6]。
僧俗護法会議
昭和に入り、再び軍部による思想統制・信仰弾圧が激化する中、[注釈 7]宗教界に発せられたのが1940年〈昭和15年〉施行の「宗教団体法」である。仏教界全体が13宗56派から13宗28派に統合されるという大激震が走るに及び、日蓮正宗僧俗は1941年〈昭和16年〉3月10日、大石寺御影堂にて『僧俗護法会議』を開き、「本宗六百年来の伝統と信条を守る為に、不純なる合同は絶対にしりぞけることで一決した」[12]
これを受けて、第六十二世法主・日恭上人は文部省宗務局長と面会、合同拒否と単独認可を訴えた結果、神嘗祭遥拝等の容認を条件に、3月31日付けをもって単独宗制の認可決定が出された。[注釈 8]暗雲立ち込める時代状況下とはいえ、解散の覚悟まで迫られた末に勝ち取った独立は「日蓮正宗並びに大石寺が持つ底力の強さを、遺憾なく世間に知らしめることができた」[13]ともいえる。
このことはまた、昭和16年4月1日付けの朝日新聞「仏教の宗派は半減・・・日蓮正宗だけがそのまま一派として残った」の記事からも、明確な証拠として読み取れる。
日蓮正宗の発展と他門流の顛末[14]
第二次世界大戦後、日蓮正宗は日本の全宗教界の中でも突出した飛躍的発展を遂げる。外護団体を中心とした「折伏大行進(しゃくぶくだいこうしん)」と呼ぶ布教活動で、短期間に著しく信者を増やし、[注釈 9]平成2年には信徒数1800万人を公称(宗教年鑑)するに到った。その後世俗化した信徒団体である創価学会の破門などもあり規模を縮小させたが、平成21年の大結集総会以後、再び拡大布教路線に転じている。[注釈 10]
一方、大石寺と本末が第二次大戦の激動期に独立を守ったのと対照的に、本門宗(富士門流)の七本山とその末寺は戦前の宗教政策により、1941年にいたり、教義的には対立する勝劣派・一致派48本山が三派合同して結成した日蓮宗に参加し、その内部で興統法縁会を組織した[15]。
戦後、本門宗(富士門流)の七本山とその末寺は、日蓮宗から独立して日蓮正宗に合流するもの、富士門流の新たな宗派の設立に参加するもの、引き続き興統法縁会に留まるもの、などに分かれた[16]。 また、正信会住職が日蓮正宗当局より殯斥処分を受けるなどの道をたどるものもあらわれた。[注釈 11][17][18]
日蓮正宗は、これらの諸寺院とは、教義的にも宗教行為上の交流はないが、学術面での交流を持っており、日蓮宗僧侶が大石寺を訪れることがある。
宗門の体制
法主の地位と権能(法義上)・権限(組織上)
唯授一人の血脈相承を受けた法主(ほっす)が、日蓮正宗の宗門における僧侶の最高位であり、僧侶の階級は大僧正(だいそうじょう)である。近年の宗規では、法主のみが管長推戴会議の選定を経て宗務行政の長である管長の職に必ず就くことになっている。また法主は総本山大石寺の貫首(住職)をも兼ねている。現在の法主は、第68世早瀬日如である。
次期法主候補者があらかじめ公表されている場合、次期法主候補者は学頭に任じられる。学頭の僧侶としての階級は権大僧正(ごんだいそうじょう)となる。ただし公表されない場合は、学頭は空席のままである。法主の下には若干名の能化(のうけ)が、法主に次ぐ高僧衆として存在し、現在は前法主の日顕を除く7名の僧侶が能化の位にある。
法主の尊称として「御法主日○上人猊下」もしくは「日○上人」が用いられる。生前に退座して隠居した前法主は御隠尊猊下または御隠尊上人と敬称される。
なお、上人の称号は、法主の許可により、能化をはじめ、法主経験者以外の者にも贈与または追贈されることがある。また、日の字がつく法名を日号(にちごう)といい、僧侶には存命中に与えられる。ただし能化(権僧正)以上の高僧しか存命中に公称することは許されない。ただし逝去された後は、やはり法主の許可により、一般僧侶も、また在家信徒にも戒名中に日号がつけられる場合がある。
上人号・日号等の授与権は、本尊書写権や教義裁定権と並んで「法主のみの権能」とされている[19]。このような法義上の重要権能は正宗が認定する重要相伝書の『二箇相承書』及び第二祖日興遺文『富士一跡門徒存知事』『五人所破抄』『日興跡条々事』『日興遺誡置文』等に定められた宗規とされており、750有余年に渡り引き継がれている。統一的な規律を持たず、地元の住職が個々に文字曼荼羅本尊を書写し、親しい信徒に販売・下賜することもある身延系の日蓮宗とは対照的である。
宗務行政
宗務院の事務を総理する長として、管長の職を置く。管長は法主・大石寺住職が兼任する。宗務院は、総本山大石寺境内に置かれている。管長を補佐する宗務総監の指揮監督の下、庶務部・教学部・布教部・海外部・渉外部・財務部の6部門によって宗務行政が分担される近代的事務機構が構築されている。なお、管長・総監に次ぐ役職として重役も設けられており、顧問的役割を持つ。各部には部長、副部長(現在、布教部と海外部は空席)、主任が置かれており、特に庶務部長は実質的に総監を補佐する立場にある。この他に、僧侶の中から選挙によって議員が選ばれる宗会、綱紀粛正機関である監正会、管長が任命した権大僧都以上の者5名による参議会などの合議システムも導入されている。
宗務院は全国に大布教区と大布教区に統轄される布教区を敷いている。総本山塔中には特別布教区を敷いている。特別布教区の事務は、大石寺内事部において取り扱われている。内事部では法主のもと塔中坊の住職の中から主任理事が1名、執事が1名ないし2名、理事が若干名任命され総本山の寺務の責任者となる。法的に、大石寺の代表役員は法主が務め、主任理事、理事、総代が責任役員となる。
また、主任理事、執事は法主の大石寺住職としての法務を補佐する立場にあり、法主不在の場合代理で法要の導師を務めるなどする。
出家制度
日蓮正宗寺院の住職・主管、副住職・副主管は僧の妻帯が解禁された明治維新以降の伝統仏教でよく見られるような世襲制、家族経営ではなく、ローマ・カトリック教会同様に管長の辞令により総本山から派遣される極めて中央集権的なシステムとなっている。[20]そのため、短期間で住職が交代したり、2つの寺院の間で住職が入れ替わるということもある。副住職・副主管に関しては、宗規で、住職・主管が教師の中から選び、法主の承認を得て着任する決まりとなっている。したがって、住職は寺院の財産を私的に用いる(相続など)ことは出来ない。
僧侶となる場合、かつては宗内の僧侶が弟子をとることもあったが、現在は得度審査に合格して法主上人の弟子となる。大半の僧侶は少年得度で12歳、小学校卒業と同時に出家する。それ以外の一般得度者(高卒~57歳まで)も随時募集される。出家得度し高校3年生まで総本山大石寺で修業した後、地方寺院(主に本山格寺院や大都市周辺の寺院)で4年程度在勤し、最後に総本山で1年在勤したのち教師補任式をへて教師に補任される(説法を許される)。管長の辞令があれば地方寺院の住職(副住職の場合もあり)として派遣される。一部の僧侶は得度以来総本山で一生を過ごす者もいる。法衣は全階級とも白五条袈裟に薄墨色の衣(僧階が上がると模様が入るなどの違いはある)であるが、袈裟・衣は管長の免許がなければ着用することはできないことになっている。
僧侶の階級
日蓮正宗では僧侶の階級(僧階)は次のようになっている。
- 教師
- 大僧正(法主及び法主経験者)、権大僧正(学頭)、僧正、権僧正(ここまでが能化となる)
- 大僧都、権大僧都、僧都、権僧都、大講師、講師、少講師、訓導、権訓導
- 非教師
- 一等学衆、二等学衆、三等学衆、沙弥
それぞれの階位の授与等は内部規定による。
宗門役僧
- 管長 早瀬日如(総本山大石寺住職)大僧正
- 前管長 阿部日顕(前・総本山大石寺住職)大僧正
- 総監 八木日照(東京・法道院主管、法華講本部指導教師)権僧正
- 重役 藤本日潤(東京・常泉寺住職、元・総監)僧正
- 宗会議長 土居崎日裕(東京・妙光寺住職)権僧正
- 教学部長 水島公正(所沢・能安寺住職、法華講本部指導教師)
- 布教部長 阿部信彰(東京・常在寺住職、法華講本部指導教師)
- 庶務部長 斎藤栄順(東京・妙国寺住職)
- 海外部長 漆畑行雄(富士宮・本山妙蓮寺住職)
- 財務部長 長倉教明(札幌・日正寺住職)
- 渉外部長 秋元広学(東京・宣徳寺住職)
- 副教学部長 宮野審道(埼玉・啓信寺住職、(株)大日蓮出版代表者)
- 副庶務部長 田中導正(大石寺塔中蓮東坊住職)
- 副渉外部長 梅屋誠岳(藤沢・寿照寺住職)
- 副財務部長 森田厚道(大石寺大坊内)
信徒団体
- 法華講
- 法華講は日蓮正宗唯一の信徒団体である。各末寺に檀家グループの○○講(講中)が存在し、この○○講の総称を法華講という。法華講は日常の唱題行や総本山への団参登山を行うものとして、宗史上古来より存在していたが、1962年にこれらの○○講の連合体として日蓮正宗法華講全国連合会(略称全連)が結成されて加盟するようになった。この全連は1967年に日蓮正宗法華講連合会(略称連合会)に改称され、現在に至っている。
- 日蓮正宗の信徒団体を作るには、末寺の住職が信徒団体の指導教師となって信徒団体を作ろうとする代表者と連名で「組織結成許可願」を宗務院に提出し、宗務院での審議を得て日蓮正宗の管長である法主が「組織結成許可書」に署名押印して「組織結成許可書」が交付されて指導教師から○○講に手渡される。これは明治時代からのシステムであるが、第2祖日興の「この法門は師弟子をたゞして仏になる法門にて候なり」(佐渡国法華講衆御返事)の伝統と慣習を踏襲したものであり、「組織結成許可書」に類する江戸期の古文書も残っている。こうして結成された○○講は、日蓮正宗法華講全国連合会に加盟申請書を提出し、総本山内の日蓮正宗法華講全国連合会事務所(通称法華講事務所)で加盟手続きが行われる。よって「組織結成許可願」と指導教師のない団体は日蓮正宗の正規の信徒団体とはいえないことになっている。
- なお法華講では、日蓮正宗法華講連合会発行の大白法(だいびゃくほう)が唯一の機関紙となっている。毎月1日と16日に発行され、定価は100円である。
- 法華講の役員
- 各末寺の法華講の役員には講中の代表者の講頭、副講頭、幹事、会計がいるが、法華講の役員はすべて「組世話役」と定義され、他の寺院に所属する講員に対して指導することは指導教師(住職・主管)に対する越権行為に当たるのでしないことになっている。日蓮正宗法華講連合会には事務機構上、委員長、副委員長、理事、地方部長などの役職があるが、これも「組世話役」と定義され、「連合会」に加盟する各法華講を指導・監督することはない。また名誉職として総講頭、大講頭の称号があるが、信徒を指導することはない。大勢の信徒の前でスピーチをする場合には「挨拶」や「激励」の名目で行う。なお、前総講頭柳沢喜惣次(やなぎさわ・きそうじ)氏が死去して以来総講頭は任命されていないため、現在総講頭は空席である。
- 海外の法華講
- 法華講の役員
- おもな法華講の団体
1928年(昭和3年)、牧口常三郎は、日蓮正宗の信者で、東京池袋の常在寺に属する「大石講」の幹部でもある三谷素啓の紹介で入信し、追って、戸田城聖も入信する。1930年(昭和5年)11月18日(実際は、『創価教育学体系』第1巻が出版された日で、奥付に初めて同会の名前が出る)、両名らにより、日蓮正宗の教義と牧口の『価値論』を合体させた教義を奉ずる教育者を主とし構成される団体として「創価教育学会」が設立され、初代会長に牧口が、理事長に戸田が就任した。当会は、”教育”の文字が示す通り、また、牧口自身が宗門に提出した調書で、「創価教育学会は純然たる日蓮正宗ではなく、自分の価値論を実践する一個の独立した団体」と明記するように、日蓮正宗の信徒団体(講中)ではない。1936年(昭和11年)、8月13日から16日までの4日間、総本山大石寺で、9名が参加して第1回創価教育学会修養会が開催された。 第二次世界大戦終結後、1946年(昭和21年)に創価教育学会の名称が創価学会と改称される。1951年(昭和26年)5月3日、第2代会長に戸田が就任した。 1952年(昭和27年)8月27日、東京都知事より宗教法人の認証を得て9月8日「宗教法人創価学会」が正式に発足する。以後、日蓮正宗も格段に発展することとなった。とりわけ、1960年(昭和35年)5月3日、第3代会長池田大作(現・名誉会長)の会長就任以降、大石寺には、従来の法華講(旧来の檀家)と創価学会信者の寄進により大客殿や正本堂などが建立されるなど、長らく双方の間には蜜月状態が続いた。1970年代後期の昭和52年路線の教義逸脱問題・池田による本尊模刻事件などを経て、1991年(平成3年)11月28日に、日蓮正宗宗門は、当時の第67世法主日顕の名前で池田大作を破門処分にした。
手続き上のことを付言するならば、そもそも宗務院録事には、創価学会の組織結成を許可した事実が記載されていない。日蓮正宗の信徒団体(講中)は末寺住職(指導教師)と信徒の代表が宗務院に「組織結成許可願」を提出し、宗務院の審議を経て日蓮正宗の管長である法主が組織結成許可書に署名押印するが、創価学会は組織許可書の交付も受けていなければ指導教師も初めから存在していない。宗教法人設立当時に戸田が指導教師とした65世法主日淳はあくまでも戸田個人の指導教師であった。
- 信徒の活動
信徒の修行としては、本尊に向かって「南無妙法蓮華経」の題目を唱え、法華経を読誦すること(自行の題目)と並び、それを他の人に伝える折伏の修行(化他の題目)が基本となる。自行としての日常の勤行は、妙法蓮華経方便品・如来寿量品(長行、自我偈)の読誦、唱題(「南無妙法蓮華経」の題目を唱えること)を基本構成とし、古来からの朝五座・夕三座の格式を守って行われている。総本山への「登山参詣」(総本山大石寺に参詣すること)末寺への参詣は重要な修行として、成仏への功徳を積むことができる行為と考えられている。
日蓮正宗の檀信徒名簿へ登録を受けるためには、末寺において授戒を受け、さらに曼荼羅本尊を下附されなければならない。授戒のみ受けて本尊未下附の者は内得信仰と呼ばれる。
- 信徒団体との紛争
現在「紛争」といえるような対立関係は教義面も含めて、いずれも日蓮正宗から破門された団体である正信会、冨士大石寺顕正会、創価学会がある。特に創価学会は1991年(平成3年)の破門後から現在に至るまで機関紙上で激しく宗門批判を繰り返し、会員にも正宗僧侶への批判を喧伝してきた経緯があるが、日蓮正宗信徒団体としては一切衆生への布教という立場から、相手によって態度を変えることなく冷静に対応している結果、200件近い日蓮正宗対創価学会の裁判で84%以上の勝訴となっている。[21]。
顕正会については、宗門が1974年(昭和49年)、顕正会の前身の妙信講に対し破門よりもさらに重い講中解散処分をしたため、これ以後、日蓮正宗への攻撃に多くの時間と労力を費やしてきた。しかし、特に東日本大震災後は日本の宗教界全体において、被災者、犠牲者への追悼が連日強調されたこともあって、宗門への批判は大きく減少させざるを得なくなり、正宗信徒団体としては本来の信仰活動に励める状況となっている。
機関誌(教誌)
- 大日蓮
- 日蓮正宗唯一の機関紙誌(教誌)は大日蓮(だいにちれん)である。時局に応じて号外も発行されている。宗務院録事、総本山録事、宗務広報、法主の説法、布教講演及び論文、総本山の動き、末寺の動き、海外の動き、住職晋山の挨拶などが載せられていて、定価は300円である。宗務院録事には、総本山での法要などの達示、住職などの辞令、講中組織結成許可、檀徒団体の法華講の役員の承認、末寺の檀家総代の承認などが掲載されている。総本山録事には、総本山における人事が載せられている。総本山の動きには総本山で奉修された法要など、末寺の動きには末寺で奉修された法要などが掲載されている。1916年創刊。この他、各末寺で寺報が発行されており、大日蓮と末寺の寺報のみが機関誌紙とされている。
- 大白法
- 信徒団体の全国組織である法華講連合会が月2回発行する信徒向け新聞
- 妙教
- 大日蓮出版内の妙教編集室が月1回発行する信徒向け冊子
行事
年中行事・恒例行事(総本山の行事は大石寺の項目を参照)
- 1月1日 元朝勤行
- 正月3ヶ日 新年勤行会
- 1月成人の日 成人式(各寺院で檀信徒に新成人がいない年は行わない)
- 2月3日 節分会
- 2月7日 興師会(開祖・日興の祥月命日)
- 2月16日 宗祖御誕生会
- 3月春分の日 春季彼岸会
- 4月28日 立宗会
- 虫払い法要(宝物がある一部の古刹寺院のみ、大石寺では毎年4月6日、4月7日に営まれる)
- 8月15日 盂蘭盆会
- 9月12日 竜口法難会
- 9月18日、9月19日 寛師会(第26世日寛上人祥月命日)
- 9月秋分の日 秋季彼岸会
- 10月 - 11月 宗祖日蓮大聖人御大会(大石寺では11月20日から11月21日にかけて営まれる)
- 11月15日 目師会(三祖・日目の祥月命日。七五三を兼ねる)
- 11月20 - 21日 宗祖日蓮大聖人御大会(日程は末寺によって違う場合あり)
- 毎月1日 御経日(信徒精霊、先祖供養)
- 毎月第1日曜 広布唱題会(大石寺と全ての末寺で一斉に午前9時からの1時間唱題会)
- 毎月第2日曜 日蓮大聖人御報恩御講(大石寺大坊では13日のみ、一部の寺院では命日にあたる13日にも行われる)
- 御経廻り(春秋の彼岸やお盆に僧侶による檀家回りが行われる)
冠婚葬祭(日蓮正宗の冠婚葬祭は化儀に則って行われるが、地域の風習などで多少の違いがある)
- 結婚式、葬儀、起工式、上棟式、初参り、七五三、成人式
他派からの批判と対応
- 日蓮本仏論について
- 興門八本山の数ケ寺を含む日蓮宗の諸派は、『百六箇抄』『本因妙抄』『産湯相承事』を偽書とし、日蓮本仏論は宗祖、派祖の時代にその思想はなく、中世以降に展開された教義で、日蓮本仏論の根底にある、法華経本門の経文を解脱益・本門文底の南無妙法蓮華経を下種益として末法において脱益の教えに効果がないとする「種脱相対」の教えは、日蓮正宗第26世法主・日寛からの教義であり、宗祖日蓮のものではない、と主張。
- これに対し、以下の日蓮遺文を反証の一例とする。
- 「在世の本門と末法の初めは、一同に純円なり。但し、彼は脱、此は種なり。彼は一品二半、此は但題目の五字なり」(彼=釈尊、脱=解脱益、此=宗祖、種=下種益、一品二半=法華経の枢要な章)(『観心本尊抄』新編656頁)
- これに対し、以下の日蓮遺文を反証の一例とする。
- 日蓮本仏論は、「文底」読み、すなわち、文字に表れていないことを前提に論を進めるが、これは、「三証」のうちの「文証」を欠いている。また、仏教の開祖・釈迦よりも宗祖・日蓮を本因とするのであれば、釈迦が説いたとされる『法華経』に全く依存せずに、日蓮自身が一番の本(もと)なり、最初の因(いん)であることを主張できなければならない。そうした主張を日蓮自身がしている、とは考えられない、と主張。
- これに対し、以下の日蓮遺文を反証の一例とする。
- 「一念三千の法門は、但、法華経の本門・寿量品の文の底に秘してしづめたり」(『開目抄』新編526頁)
- これに対し、以下の日蓮遺文を反証の一例とする。
- 日興が書いたとされる『御義口伝』の「末法の仏は凡夫なり」の文言にしても、一切衆生、すなわち、万民が凡夫であり、これらすべてに仏性があるとするのは、釈迦の説いた「大衆部仏教」の教えであり、日興もこれに沿ったに過ぎず、『御義口伝』の文句を典拠として日蓮本仏論を主張することはできない、と主張。
- これに対し、以下の日蓮遺文を反証の一例とする。
- 「今日蓮等の類の意は、総じては如来とは一切衆生なり、別しては日蓮が弟子檀那なり。されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり」(『御義口伝』新編1765頁)
- 「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」(『撰時抄』新編864頁)
- これに対し、以下の日蓮遺文を反証の一例とする。
- 『御義口伝』に対しては特に身延門流日向派を中心とする日蓮宗系から偽撰説が強く提出されている、との主張。
- これに対し、以下の論点を反証の一例とする。
- 『御義口伝』には『諸法実相抄』等に見られる後期の凡夫即仏論がそのままの形で具体的に説かれていること。
- 『日宗年表』(京都要法寺、富谷日震)の記録によれば正安2年(1300年)9月に日興が重須大坊で御義口伝を講義したことが記録されていること。
- 天文8年(1539年)5月14日の日付の八品派・日経の写本の存在が確認されていること(この写本は大阪・妙徳寺に所蔵されていた)。日興門流とは全く異なる流れの八品派の一学僧がこの写本を遺したということは、当時この『御義口伝』という書が日蓮門流の諸派でよく知られていたことが推察できる。八品派のたった一人の僧侶だけが『御義口伝』を知っていて他は誰も知らなかったということは、考証学の常識に照らして、あり得ないからである。
- 『御義口伝』の偽書説は近年に入ってから出たものであり、江戸時代以前にはほとんどこれを偽書扱いする論は存在していないこと。多くの偽書説は昭和に入ってからのものである。つまりその時期に特定の宗派を攻撃する意図があったのだろうと推測できること。
- 宗祖の法華経・講義の記録として、もう一つ『御講聞書』という身延門流の派祖・日向筆記のものが存在すること。日向記も日興記も、ともに講義の筆記であり、厳密な意味での宗祖の著作とは言えないにせよ、「宗祖の思想を伝えない書」とするのは誤りであろう。なぜか日向記に対する偽書説はほとんどないのは、奇妙なことであり、『御義口伝』が後世の偽書とするなら、当然『御講聞書』にも偽書説が流布されておかしくないのにもかかわらず、その痕跡は無く、『御義口伝』のみを偽書扱いする点に、偽撰説の不可解さがあること。なお、日蓮正宗では『御講聞書』も『御義口伝』とともに宗祖の講義録として認定している。
- これに対し、以下の論点を反証の一例とする。
- 本門戒壇の大御本尊について
- 日蓮宗の諸派は伝統的に、「本門戒壇の大御本尊=第9世法主・日有偽作」説、「二箇相承偽作説」、並びに、「三大秘法抄=偽書説」等でこの宗派を批判してきた。しかし、、本門戒壇の大御本尊は「日蓮大聖人の魂魄が宿る」とされているため、放射線による科学的な鑑別などは行われたことがない。二箇相承および三大秘法抄の原本は現在失われて存在しておらず、挙証責任は真正性を主張する側にあるはずだから、700年にわたる論争に未だ決着はついていないとする主張。
- これに対し、以下の論点を反証の一例とする。
- 『今日二箇相承が存在しなかったという証拠を上げることは難しいが、存在したという証拠は多分にある』(「日蓮正宗史の基礎的研究 山口範道」)
- 否定する側にこそ、立証責任がある。
- これに対し、以下の論点を反証の一例とする。
- 昭和53年2月7日の帝国ホテルで日顕上人との面談に基づくとされる河辺慈篤メモというものがある。流出経路は不明とされている。創価学会等が日蓮正宗批判に利用している。
- 戒旦の御本尊のは偽物である。
- 種々方法の筆跡鑑定の結果解った。(写真判定)
- 多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、その他は時師か有師の頃の筆だ。
- 日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている。
- このメモの存在が日顕上人(当時、教学部長)の「戒壇の大御本尊」に対する疑念の証拠であるという批判に対し、以下の反証を掲げる。
- 『当時の裁判や以前からの「戒壇の大御本尊」に対する疑難について様々な話が出た中でそれらと関連して宗内においても戒壇の大御本尊と、昭和45年に総本山へ奉納された「日禅授与の御本尊」が共に大幅の御本尊であられ、御筆の太さなどの類似から、両御本尊の関係に対する妄説が生じる可能性と、その場合の破折について話を伺ったものであります。』(河邊慈篤『大日蓮』H11.9・4頁)
- 『正信会・大黒喜道編纂による「日興門流上代事典」の736頁には、本門戒壇の大御本尊の解説文として、次のように記されており(該当解説文略)、その中で戒壇の大御本尊に向けられた疑難は、まさに、「河辺メモ」に記された疑難と、みごとに一致しているではないか!(中略)「河辺メモ」に記された、昭和53年当時、「日禅授与の御本尊」と「戒壇大御本尊」の関係を疑って云々していたのも、後に正信会となる宗内一部僧侶であったことは、もはや確実である』(慧妙・平成14年6月1日号)
- このメモの存在が日顕上人(当時、教学部長)の「戒壇の大御本尊」に対する疑念の証拠であるという批判に対し、以下の反証を掲げる。
- 教団の体質についての批判
- 正信会などの破門された旧信徒団体との対立のなかから、法主個人への絶対帰依や権力の集中を指摘する主張が生まれてきた。
- 日蓮正宗側ではこうした主張は成り立たないとしている。根拠としては、日興遺戒置文などにおいて法主と他の僧侶の関係が示されることで法主として判断の客観性が担保されていることなどが挙げられる。
- 日蓮正宗側ではこうした主張は成り立たないとしている。根拠としては、日興遺戒置文などにおいて法主と他の僧侶の関係が示されることで法主として判断の客観性が担保されていることなどが挙げられる。
- このような批判がなされる背景には、テンプレート:要出典範囲のに対し、日蓮正宗は伝統的に管長一人に権限を集中させており中央集権制を維持しているとの主張がある。
- 日蓮正宗側ではこうした主張も成り立たないとしている。根拠としては、そもそも、どの宗派がどういう民主化をして、どのように教団体質を改めたのか明らかではないこと。
- 次に日蓮正宗においては、全国600箇寺に及ぶ寺院運営は、本山から派遣された指導教師と、各寺院の信徒団体である講中に全面的に任されており、運営面における管長の介入は全く存在しておらず、あくまでも管長=法主・猊下は仏道修行上の指南を行うだけであること。
- また、信徒団体の全国組織である全国法華講連合会の組織運営も、もとより伝統的に民主的・共和的・合議制で行われており、「中央集権化」との批判は、管長=法主・猊下の法義上の権能と、組織運営上の権限を、意図的にすり替えたか、認識不足で混同したものであること。
- 上述の「信仰上の権能」と「組織上の権限」の区別は、宗教法人法第18条に明確に定められている[22]。日蓮正宗はこの宗教法人法にのっとった運営がなされており、「中央集権」との批判は不当なものであること、などが挙げられる。
- 日蓮正宗側ではこうした主張も成り立たないとしている。根拠としては、そもそも、どの宗派がどういう民主化をして、どのように教団体質を改めたのか明らかではないこと。
外国政府の評価
- 台湾では、日蓮正宗寺院が5箇寺建立され、信徒は近年激増している。日蓮正宗の第67代法主日顕上人が2011年11月26日に訪台、台中と宜蘭で行われた宗教イベントで司会を務め、台湾の幸福を祈った。
- マレーシアでは仏教団体に関してはこの宗派のみが僧侶の常駐を許可されている。
- ヨーロッパではその存在をほとんど知られていない。欧米では日蓮仏教=創価学会という認識が一般的である。創価学会がカルトと同一視されるようになったため、組織的に別のものであることが強調される。他の宗派はすべて邪宗であるとの主張が批判されることもある。特に、フランスでは、1980年代に「日蓮正宗(創価学会)」の名称でセクトとする報告が国民議会へ提出されたこともあるが、1996年の新しい報告書において該当部分はSGIフランスと書き改められており、一部の団体を除き、日蓮正宗と創価学会を分離した上で判断を下している。
- 南米のアルゼンチンでは、「日蓮正宗のみが正しい宗教で、他の宗教は邪教」とする基準での評価が、マザー・テレサへの誹謗中傷と判断されたことと、政府の許可を得ずに布教所の開所式を行ったことによって、1998年7月に現地の法人格を抹消されて僧侶も国外退去処分を受けたが、現在は布教所は儀式を奉修して、寺院活動は継続している。大統領令によって1年に亘って公式に活動はできなかったが、「法人取り消し及び活動禁止処分の停止の仮処分」が1999年4月28日に現地裁判所で認められ宗教活動を再開した。その後、アルゼンチン政府は2009年8月10日付で宗教登録抹消処分を撤回し、これを受けて裁判所も同8月27日に関連する訴訟の終結を宣言した。
脚注
注釈
関連項目
外部リンク
引用エラー: 「注釈」という名前のグループの <ref>
タグがありますが、対応する <references group="注釈"/>
タグが見つからない、または閉じる </ref>
タグがありません