南条時光
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南条 時光(なんじょう ときみつ、正元元年(1259年) - 元弘2年/正慶元年5月1日(1332年5月25日)は、鎌倉時代後期の武将で、日蓮の強信者。駿河国上野郷(現在の静岡県富士宮市北西部一帯(上野地区))の地頭で、上野殿と称された。3祖・日目のおじにあたる。
生涯
7歳のときに父・兵衛七郎と死別し家督を継いだ時光は、父と同様に法華経信仰の道に入る。以後、身延山に住する日蓮のもとへ供養の品々を定期的に送り続けている。
1278年(弘安元年)以降の熱原法難に際しては、日興の指導の下で鎌倉幕府の宗教弾圧に抵抗し、信徒の保護と支援のために尽力奔走した。日蓮は時光のこの深い信仰心に対し、「上野賢人殿」との称号をもって賛嘆したという。
日蓮の滅後、日興は後に波木井実長と意見の相違にて身延山を離山した。この時ただちに時光は日興を自領内に迎え入れ、正応3年(1290年)一帯の土地を寄進して、大石寺の開基檀那となった。
正中元年(1323年)には、亡くなった妻・妙蓮の供養のため、下条堀之内の自邸を改め妙蓮寺とした。
正慶元年(1332年)、74歳で卒した。
法号(戒名)は、大行尊霊(だいぎょうそんれい)。