新ロマン主義音楽

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テンプレート:独自研究 テンプレート:Portal クラシック音楽 新ロマン主義音楽は、19世紀後半から21世紀のクラシック音楽において見られる、ロマン主義音楽の再生、復古、擁護のいずれかを目論む音楽思想によって創り出された音楽作品を指す。

概要

「新ロマン主義」という語は、西洋音楽史の他の時代区分と同じく、文学史ならびに美術史からの借用概念であるが、用法はそれらの場合と異なっている。西洋文学史や西洋美術史において新ロマン主義とは、後期ロマン主義(またはロマン主義)の時代から次の時代への移行期を指す。西洋音楽史においても、このような意味や文脈で「新ロマン主義」という概念を用いる例がなくもないが、後述するように、この事例については、通常は別の語を用いる。

西洋音楽史において「新ロマン主義」とは、19世紀において、フランツ・リストリヒャルト・ワーグナーに代表される「新ドイツ楽派」とその影響下にある音楽を指す場合と、20世紀において、ロマン主義音楽がいったん終息した1920年代以降に、ロマン主義音楽の復権をもくろんだり、あるいは表面上、伝統回帰と見せかけるような創作姿勢をとることを言う。

注意すべきは、20世紀における「新ロマン主義音楽」は、単なる現代音楽に対する保守反動とは言い切れない面もあることである。なぜなら新ロマン主義音楽を目指した人々は、戦後の欧米におけるアヴァンギャルド中心の芸術音楽のあり方、とりわけ、聴衆の存在を無視した極端な作家主義芸術至上主義に対して、疑問を投げかけているからなのである。

新ドイツ楽派

19世紀後半のドイツ語圏(プロイセン王国領およびオーストリア=ハンガリー二重帝国領を含む)で主流となった、クラシック音楽の一大勢力のことを新ドイツ楽派という。そしてこの人たちの音楽家としての気質や傾向を、漠然と「新ロマン主義」と言うことがある。19世紀後半に、ベートーヴェンに対する個人崇拝が強まるとともに、ドイツとオーストリアにおける器楽曲(とりわけ交響曲)創作の停滞と衰退(実際には、そのように見えた現象)を引き合いに、評論家から音楽界の「堕落」を嘆く意見がしきりと出されるようになった。

音楽評論家としても健筆をふるったシューマンワーグナーリストもこうした思想の中心人物であり、音楽史における進歩主義的発想と、音楽文学の相互関係を力説した。こうしてワーグナーとリストを主軸として形成された勢力が、新ドイツ楽派なのである。しかし当時かれらは、ロマン主義音楽を再生させる先覚者と見なされたため、「新ロマン主義」と呼ばれていた。

ワーグナーやリストの直接の弟子から新ドイツ楽派の衣鉢を継ぐ者は、ロイプケドレーゼケを除いてほとんど現れず、グスタフ・マーラーリヒャルト・シュトラウスフーゴー・ヴォルフらによって、楽派の最後の烽火が上げられた。ちなみにマーラーとヴォルフはブルックナーの門弟である。

アントン・ブルックナーは、作風や創作姿勢において、文学性や標題的要素が見受けられないものの、半音階技法や拡張された調性、長大な旋律、巨大なオーケストラを用いたある種の音色操作といった特色において、新ドイツ楽派の巨匠と共通点を有しており、しばしば新ドイツ楽派の一員に数えられる。またブルックナーを、保守主義・伝統主義の立場をとったヨハネス・ブラームスと対比させ、新ドイツ楽派の進歩主義から交響曲を復興させた大立者と評価することもしばしば行われている。

新ドイツ楽派の歴史的位置付け

新ドイツ楽派は、19世紀初頭に生まれたリストやワーグナーと、19世紀後半に生まれたマーラーらとでは、歴史的に果たした役割が異なっている。前者は盛期ロマン主義音楽の体現者であり、後者はロマン主義音楽存亡の時期に、一方においてはその絶え間ない革新者であり続けながら、同時にロマン主義音楽の擁護者も兼ねなければならなかったのである。

リストやワーグナーは、音楽を軸とした「総合芸術」を訴え、ソナタ形式からの離脱や調性の際限ない拡張を推し進めつつ、音楽の自律性や抽象性に疑義を呈した。リストとワーグナーは「未来の音楽」を標榜しており、進歩主義ないしは急進主義に立って同時代の音楽に一石を投じようとしていた。

リストが、《ファウスト交響曲》などで調性感のあいまいな主題を多用したり、《調性の無いバガテル》などで密かに無調を試みたという例、あるいは、《ピアノ・ソナタ ロ短調》で複数楽章を一つに融解させた例は、作曲者の旺盛な実験精神を物語っている。
またワーグナーは、ベートーヴェンが最後の交響曲に声楽を導入したことを根拠として、オペラの時代の到来を叫ぶとともに、交響楽と歌劇を高度に融合させた楽劇の創出を強弁するようになる。

マーラーやリヒャルト・シュトラウス、ヴォルフらは、リストやワーグナーの最晩年に作曲活動に入っており、この二人の実験があらかたし尽くされた後で、ロマン主義音楽に残された最後の可能性に賭けた作曲家であった。

とりわけマーラーやシュトラウスにおいては、ジャンルの越境・解体、ある種の合成和音、巨大な対位法によって引き起こされる部分的複調や、12の半音が出揃う極端に半音階的なパッセージなどが明らかで、これらの方向をそのまま推し進めるなら、現代音楽への突破口になるものだった。
ちなみに、ブラームスと新ドイツ楽派の融和を目指したマックス・レーガーも、やはり20世紀初頭までに12音的な主題を用いている。

しかしマーラーの死後、リヒャルト・シュトラウスは、やがて楽劇ばらの騎士》において、「モーツァルトへの回帰」やロココ趣味を嘯き、より穏当な方向に転換してしまう。進歩的な作曲家集団としての、新ドイツ楽派の歴史的役割が脆く崩れた瞬間であった。

調性破壊に向けて革新的な一歩を歩みだしたのは、アルノルト・シェーンベルクを指導者とする「新ウィーン楽派」であった。彼らはマーラーの最晩年の革新性を、結局肯定したのである。ここにおいて、新ドイツ楽派と新ウィーン楽派の世代交代が行われた。

20世紀における新ロマン主義

定義

「(新古典主義の作曲家は、ごつごつした主題を愛用するが、)新ロマン主義の作曲家は、朗々と歌うような旋律素材を持ち合わせ、個人的感情を素直な形で表出する。新ロマン主義者は、純粋に美学的な立場にある。というのも、厳密に言えば、われわれは折衷的であるからだ。われわれは、誠実さについての問題を新しいやり方で示すことによって、現代の美学に貢献してきた。他人に感心されようとは思わないし、喜怒哀楽が大げさなのも嫌だ。うそ偽りない自分の感情、それだけが表現に値すると思われる。……情緒とは我々の被写体であり、時には風景のようなものである。しかし出来れば、その風景に人間が居るのが好ましい。」
「19世紀において、新ロマン主義という語は、(例えるなら)シューマンのように、音楽でもって心の動きを高度になぞるような作品のことであった。だが1920年代になると、主情主義のうちでも抑制の効いた、節度のあるものを表した。新ロマン主義は、表現主義者のゆき過ぎた表現を煎じ詰めて、変わらぬ思いという残留物を取り出すのである。」

したがって、20世紀前半の新ロマン主義音楽とは、ロマン主義への復帰を意味するものではなく、文字通りに「新しくなった」ロマン主義という意味だったのである。ロマン主義が「新しくなった」と前提することは、ヨーロッパ中心のロマン派音楽の時代がいったん終焉したことを認め、証明するものであった。それでもなお、20世紀において同時代のモダニズム音楽の人間不在を嘆き、芸術音楽に人間性を回復しようと目論んだ姿勢を見落としてはならない。伝統的・通俗的な音楽語法への回帰という発想の有無を除けば、同じような批判は、メシアンジョリヴェらの同時代の作曲家とも共有される側面があったからである。

最後のロマン主義者と遅れてきたロマン主義者

1920年代以降に、ストラヴィンスキーヒンデミットフランス6人組を中心として新古典主義音楽が盛り上がり、モダニズムの作曲家たちが国際現代音楽協会を興して互いに連携を取り合う中、「最後のロマン主義者」(リヒャルト・シュトラウス、ジャコモ・プッチーニハンス・プフィッツナーヨーゼフ・マルクスイルデブランド・ピツェッティら)が共同してそれに対抗しようとする動きは、まったく起こらなかった。またエドワード・エルガージャン・シベリウスセルゲイ・ラフマニノフらは、ほとんど第一線から退いていた。

一方で、19世紀末から20世紀前半に生まれた、より若い世代の中に、ロマン主義音楽の伝統に忠誠を誓おうとする作曲家が現れた。注目すべきは、いずれもアメリカ合衆国の出身であり、あるいはアメリカ合衆国に帰化した作曲家だったことである。

たとえば主な顔ぶれは、ハワード・ハンソンエーリヒ・ウォルフガング・コルンゴルトサミュエル・バーバーであった。その多くは早熟で、10代で作曲を始めており、長じてからもなお、昔からなじみのある音楽語法に忠実だった。
コルンゴルトやバーバーに明らかなように、だからといって決して頑迷な保守主義者ではなく、同時代のモダニズムに知悉し、それを程よく取り入れてもいる。
しかしながら完全に「新音楽」に切り替えるより、自分にとって自然と思われた音楽語法や作曲技法を成熟させることをよしとした。

社会主義リアリズムと新ロマン主義音楽

旧ソ連と、東欧におけるその衛星国では、スターリン体制以降、社会主義リアリズムが挙国一致のもとに推進された。社会主義リアリズムの音楽とは、共産党の指導の下に推奨された、大衆的で通俗的な性格の芸術音楽のことであり、手早く言うなら、19世紀後半の「分かりやすい」国民楽派の音楽様式に回帰することにほかならなかった。

19世紀のロマン主義音楽は、作曲家自身の主観が反映されているのに対し、社会主義リアリズムの音楽は、決まりきった枠組みが他者に決められた上で、情緒的に響くように指導されて作られたという点において、確かにこれも「新しい」ロマン主義であると言えた。しかし、かなり倒錯したロマン主義であったことも事実である。死の直前のプロコフィエフの「石の花」などはそれである。

アルフレット・シュニトケは、初期にはマーラーやショスタコーヴィチ新ウィーン楽派に影響を受けつつ、無調表現主義音楽的な作風を追究したが、後に、政治的な強制に拠らずに、自発的にポピュラー音楽からの引用や、調的・旋法的な要素の回復へと乗り出した。

ニコライ・ミャスコフスキーはその初期にプロコフィエフから影響を受けた辛口の和声と正教会的な歌謡性を伴った「交響曲第6番」を発表、嘱望された直後に共産主義体制が始まる。彼はその国家の求める「社会主義リアリズム」の全てに答え、和声を保守化させていった。その中でも歌謡性を手放さず、西側が前衛一色になる中で、孤立した「新ロマン主義」音楽を書き続けた。

後の時代への影響

戦後西側における前衛音楽の一時的な盛り上がりと活況の後、1960年代末のその停滞にともない、調性や伝統形式、明確な旋律要素の顕在化への回帰が試みられるようになる。ただし、現時点において必ずしも主要な流派となっているとはいえず、その手法や音楽思想にも統一性が見られるわけではない。

たとえば、伝統回帰が露骨な作曲家(コーネリアス・カーデュージョージ・ロックバーグデイヴィッド・デル・トレディチマイケル・トーキー別宮貞雄原博吉松隆)、近代音楽に戻っているがロマン派音楽にまでは辿り付いていない作曲家(ジョージ・ベンジャミンマーク=アンソニー・タネジ武満徹)、民族音楽ポピュラー音楽・商業音楽を仲立ちとして和声と旋律を再発見した作曲家(ルチアーノ・ベリオマイケル・トーキー小鍛冶邦隆中川俊郎藤家渓子)といった相違が見られるうえ、作品またはジャンルごとに、伝統的な音楽語法と現代的な音楽語法を使い分ける作曲家も少なくない。

いずれにせよ、これらの音楽家に共通する作風を言い表すことができるとすれば、聞き手の存在を自覚し、「聴かせる」ことより「聞かれる」ことを前提とした、感覚的で記憶しやすい、親密な作品づくりを目指しているという姿勢である。

1970年代に大多数の作曲家によって提起されたポスト・フェストゥムの作曲

新ロマン主義という定義は20世紀内にさまざまな形でなされてきたが、1970年代以後「新しい単純性」を意味する「新ロマン主義」は直裁に1970年代の停滞をさす言葉として使われることとなった。全く同じ用語を使ったために混乱したという音楽学者も多い。ここではその創作を「ポスト・フェストゥムpost festum(祭りの後)」と定義する。

ピエール・ブーレーズは、《プリ・スロン・プリ》以降、「ワーク・イン・プログレス」という創作手法や、国際的に活発な指揮活動もあいまって、新作の作曲・完成が滞りがちになった。カールハインツ・シュトックハウゼンは、《モメンテ》(ヨーロッパ版)において、伝統的に聞こえるような旋律要素(旋律そのものではない)やオーケストレーションを「復活」させる(この作品は、彼の一連の電子音楽とともに、「プログレッシブ・ロック」に影響をおよぼした)。大成が期待されたベルント・アロイス・ツィンマーマンジャン・バラケテンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクは同時期に相次いで逝去しており、「1968年以後」は人材の払底した、不毛の時代になることが明らかになった。さらに、前衛のメッカであった「ダルムシュタット夏期講習会」は、1970年より隔年開催になっていた。

ポスト・フェストゥムの音楽1:西欧

そのような時代に頭角を現したのが、1969年当時わずか17歳であった、ドイツの作曲家ヴォルフガング・リームである。リームは、シェーンベルク一派によって因襲的であるとして退けられた、伝統的な音楽語法(オクターブ三和音ゼクエンツ、断定的終止、古典的構成など)を、前衛的なイディオムと共存させるということを強行した。これは当時の前衛音楽家の常識からすると「暴挙」であったが、思い切った行動だったために、時代の寵児とみなされるのも早かった。「蘇ったロマン派」の残滓を聞き取ることが可能な主要作品は、《弦楽四重奏曲 第3番「奥底に」》、《ヤーコプ・レンツ》、《ピアノ曲 第5番「墓」》などである。ただしリームは、1980年代に入ってこれらの作品を自己批判に晒しているが、だからといって、これらの魅力や新しさが失われてしまったというわけではない。

ダルムシュタット夏期講習会は、隔年開催になってのち「クラーニヒシュタイン音楽賞」を再設立して、作曲家と演奏家を表彰する制度を取り入れた。これは「前衛世代」が後進世代を評価する賞としての色合いが濃厚になっている。にもかかわらず、この賞を弱冠17歳で獲得したテンプレート:仮リンクも、結局は、新ロマン主義とみなされる流行の枠内でしか作曲することが出来なかった。(メシアンやリゲティを含む)恐るべき師事歴から生まれた、幅広い音楽性が当時は評価されたのかも知れないが、1990年代以降も原則的に作曲語法に変化がなく、取り残された感があるのは否めない。

1970年代は、伝統的な題名や作曲様式をそのまま取り入れることが確かに大きな流行となった。

イタリアのサルヴァトーレ・シャリーノは《アスペレン組曲》や《六つの奇想曲》のなかで(「組曲」も「奇想曲」も伝統的な楽種である)、「1・2カッコを伴う繰り返し」をともなう19世紀的なリート形式を採用している。ただし、これは記譜上の話であって、響きそのものは、全編宙を舞うような軽量ノイズに支配され、現在でもこれらは聞き応えがある。1983年以降は三和音やモルデント、長すぎるグリッサンドなど、ロマンティックな属性を過度に吐露した《ヴァニタス》等の作品により、音響面でも新ロマン主義を強調するに至った。しかし、この流行も危ないと察してからは、コンピュータソフトを使った音楽劇《ペルセオとアンドロメダ》、《ソナタ第5番》、《6つの小さなカルテット》等の作品で再び転向し、純粋な未聴感を追究するに至っている。

ポーランド楽派の寵児であったクシシュトフ・ペンデレツキは、この流行で勝負できると見切り、《ルカ受難曲》でオクターブや三和音を豪放に鳴らし、当時の聴衆の熱狂的な支持を受けた。オペラ《ルドンの悪魔》のように、宗教的なテーマを黒色クラスターで表現したものはそれほど効果はなく、ネタ切れになりかかった彼はこの時代を存分に活用した。しかし同じような作品にこの手法を乱発し、新ロマン主義が終わる頃には別人のような作風に変わってしまった。オペラ『ユビュ王』が大批判を受けたショックと言われる。

前衛の嫡子であるはずのファーニホウやラッヘンマン、プラッツなどは「新しい複雑性」を掲げて楽壇にデビューしたが、彼らは新ロマン主義に特徴的な反復、三和音、そしてメロディーを受け入れた上での創作であり、「新しい単純性」と「新しい複雑性」は同根の問題を抱えたポスト・フェストゥムの創作であったと定義できる。

ポスト・フェストゥムの音楽2:イギリス

イギリスにおけるポスト・フェストゥム音楽の開拓者は、おそらくコーネリアス・カーデューであろう。シュトックハウゼンに師事して、助手としても信頼を受けながらも、帰国後は電子音楽の創作にとどまらず、ジョン・ケージ偶然性の音楽アール・ブラウン図形記譜法にも影響を受けて、イギリス屈指の実験音楽の創作を追究した。やがて即興演奏集団「スクラッチ・オーケストラ」の結成を機に、急激に左傾化を深め、1970年代に入ると毛沢東主義のもとに恩人シュトックハウゼンを「資本主義の走狗」と糾弾、自己批判によって社会主義リアリズムの方向を模索するに至った。きわめて政治的なロックバンドを率いていたこともある。現代音楽シーンで、前衛から伝統へと最も急旋回を遂げた作曲家の一人であるとも言える。

カーデューのスクラッチ・オーケストラの創設メンバーには、ジャンルを超えて活躍する音楽家が含まれており、ミニマリズムに影響されたマイケル・ナイマンブライアン・イーノも参加者のひとりであった。

カーデュー以降の重要な新ロマン主義の作曲家は、パリでメシアンとブーレーズの薫陶を受け、リズムと音色に創意を示すジョージ・ベンジャミンと、表現主義音楽とジャズのニュー・ウェーブに感化された、サイモン・ラトルの信頼篤いマーク=アンソニー・タネジの名が挙げられよう。前者はその作風から、新印象主義とも言いうるエレガントな色彩感が際立っているのに対して、後者はより劇的で荒々しい表現と、多様な手法が顕著である。

ファーニホウはオランダ、ドイツ、フランス、(後にはアメリカ)へ脱出したので、この項では扱われない。最後の新ロマン主義者に、トーマス・アデスを挙げることもできる。彼の作品はベルリンフィルにも取り上げられ、クラシックの初心者からテンプレート:仮リンクのようなプロにまで熱狂的に受け入れられ「ブリテン以来の才能」などというキャッチ・コピーまで付いた。

ポスト・フェストゥムの音楽3:アメリカ合衆国

ジョージ・クラムは、電子変調された弦楽器の利用に明らかなように、特殊奏法を好んで用い、音色の驚くほどの豊穣さを好んでいる。バルトークやメシアンへの傾倒を自認する無調の作曲家にもかかわらず、神秘主義悪魔主義の様相も見え、ある意味においてはスクリャービンの精神的な末裔ともいいうる。代表作に、《ブラック・エンジェルズ》や《鯨の歌》、《私生児の歌》、《マクロコスモス》など。

ガウデアムス大賞受賞者のテンプレート:仮リンクは、ポスト・ミニマリズムの作曲家である。学生時代に12音技法を学んだものの、聴きやすくきれいな響きの音楽しか作曲しないと決心し、テープ編集と、ミニマリズムの周期性を組み合わせた作品を書き続けている。中世やルネサンスの音楽にも影響を受け、ホケトゥスの技法や、二重合唱におけるエコーやディレイなどの効果も取り入れている。《影のミサ》が代表曲である。

調性音楽への退却組としては、ロバート・ヘルプスデイヴィッド・デル・トレディチの2人がいる。ヘルプスは、感傷的な叙情性を感じさせる調性の部分と、より激しく荒々しい無調性の部分を自在に行き交い、その意味ではシュニトケの多様式に近い。一方のトレディチは、もっとはっきりと調的であり、無調性や複調性などのモダンな部分は微塵もない。一連の「アリス・シリーズ」は、ゲオルク・ショルティもとりあげた作品であるが、ロマン主義とポピュラー音楽の臆面もない融合と言ってしまって差し支えない。

中国出身のタン・ドゥンは、京劇と中国の少数民族音楽の要素を、武満徹譲りの色彩的なオーケストラと結び付けている。バッハの意味ありげな引用や、交響曲などの伝統的なジャンルの好みに、西洋音楽の伝統との結びつきを見ることは難しくない。

ポスト・フェストゥムの音楽4:旧ソ連などの社会主義国

アルフレッド・シュニトケは調性的言語を西側の前衛言語と統合するといったスタンスで、1970年代にヨーロッパで注目を浴びるようになるが、日本やアメリカに伝えられたのは1990年代初頭になってからである。チープな伴奏音形の反復はシュニトケのオリジナルではなく、ボリス・ティシチェンコからの借用である。

シュニトケが新ロマン主義の枠内で語られる最大の要因は、「合奏協奏曲第1番」でロマン派のイディオムをクラスターで動かすという斬新な音響であったことが主な原因であった。シュニトケ本人はあまり多様式に依存する目的はなかったらしく、晩年は独自の境地で多様式とは縁を切った。

ソフィア・グバイドゥーリナガリーナ・ウストヴォルスカヤの作品も前衛の停滞時期に注目されたが、両者の作品は現在は新ロマン主義の枠内では語られていない。

アルヴォ・ペルトは現代音楽を消化した作風を樹立後、放送音楽の仕事に従事する頃に創作を中断、そしてメロディーに三和音のメロディーを付加する「ティンティナブリ様式」を数年かけて確立し、この様式による合唱曲と宗教曲が世界中で大ヒットした。ペルトのみならず、バルト三国の作曲家の何割かは、新しい単純性と呼ばれる枠内の合唱曲の創作を行っている者も多い。

ポスト・フェストゥムの音楽5:日本

時代の流行から若干遅れて、日本でも同種の傾向が見え隠れするようになっていた。吉松隆三枝成彰、そして廣瀬量平といった作曲家たちも「これからは美しいメロディーとハーモニー」の時代がくると確信し、作風を転換させていった。廣瀬の場合はフルートオーケストラといった特殊なジャンルにのみこの流行を採用するという点において、前衛の残滓が見出せる。

西村朗も数曲ほど新ロマン主義の作風で作曲したものの、多くの批判および自己様式の徹底に伴い、1980年代終わりごろにこの路線からは撤退する。しかし、この時代の作品に手抜かりがあるという意味ではなく、「メディテーション」などは美学的に退行しているとはいえ完成度はかなり高い。

八村義夫の『彼岸花の幻想』は前衛の終わった1969年に初演されているが、そこでは大きなクライマックスを経た後に「アフリカの民族音楽からの影響」と自ら語るニ長調の三和音の緩いトレモロが聴こえる。しかも、冒頭はペンデレツキ譲りの半音トーン・クラスターの連打である。当時の日本は、現代音楽の最先端を消化する作曲家たちで楽壇が埋まっており、ポスト・フェストゥムの動きに作曲家が即応するのは当然であった。

総括

なぜこのような「停滞が起きた」のか、その理由は「ブーレーズや武満、シュトックハウゼン、リゲティのような前衛作曲家が、メロディーを歌った」からである。シュトックハウゼンは「小さなハルレキン」をセリーだと強弁したが、聞こえるのはメロディーである。ブーレーズは「リチュエル」で変拍子こそ奇妙だが、ストレートにメロディーが歌われる。武満はもともとメロディーの人だったが、「鳥は星型の庭に下りる」ではオーボエのソロが最初から悩ましく響く。リゲティの転向後の作品第1作は「メロディーエン」というそのままの命名である。これだけの出典が確認できるが、全世界的に反復と旋律を謳歌した、このような有様だった。

1980年代には「誰もが前衛イディオムについていけるわけがない」といったスローガンが全世界的に拡散し、混迷は深まるばかりであった。「この時代の中で、道が見えなくなった」と述べた西村朗のみならず、全世界的に「道の見えない」作曲家だらけになっていた。そのようななか、平義久コンロン・ナンカロウカイホスルー・シャプルジ・ソラブジなどの「前衛から一歩距離をおいた」作曲家たちは個人様式の徹底に熱心であった。結局は流行に翻弄された者と、そうでなかった者とがこの時代の中で淘汰されただけに過ぎないという見解が一般的である。

1990年代以降は社会主義国の政権崩壊によって、それまで活動を封じられていた作曲家たちが前衛イディオムに遅れて群がるといった事態が旧東独を中心に展開した。「ジョン・ケージの最後の文通相手」といった具合に作曲家のヤーコプ・ウルマンが西側と日本で紹介されるなど、「誰もが前衛語法についていけるわけがない」といった多くの教育機関で叫ばれた物言いは、環境整備の遅延であることが判明するやいなや、いっせいに姿を消した。キプロスや中南米や後進アジア諸国からも傑出した若手の作曲家が現れ、流行としての「ポスト・フェストゥム」は1990年代をもって完全に消滅した。旧ソ連邦と同じくして崩壊した「新ロマン主義」と言われているが、2001年の9・11テロでアメリカからも消滅したと考えることも可能だろう(事実、21世紀に入りアメリカ人作曲家のガウデアムス国際作曲賞を含む受賞が相次いでいる)。欧州では「ポストモダン」、日本では「ニューアカ」との類似が指摘されている。

最大の謎は、これらの様々な傾向をもつ音楽を「ポスト・フェストゥム」という形容で括るのかである。これは幾多の研究者の論文も明らかにしてくれない。ロマン派の音楽は回顧的傾向を持つものではなく、楽器の改良や速度、音量、表現に於いて様々な実験の歴史であった。にもかかわらず「新ロマン」という言葉は、時代によっては意味が反転するなど、実に曖昧な需要に答えつづけている。ジェイムズ・ディロンの音楽は一時期「構造主義的ロマン主義」(H.Halbreich, 1995年)と名づけられたが、これは新ロマン主義であることを意味しない。ロマンティックという形容で音楽を語ることが不可能になったことを、この項は伝えている。ポスト・フェストゥムではなくポスト・アヴァンギャルドだったという見解も可能だが、これについては多くの音楽学者の間で意見が割れている。

「聴かせることより聞かれることを前提とした、感覚的で記憶しやすい親密な作品づくり」を行う作曲家はまだいる。しかし、それは「時代の求める前提」では最早ない。

出典

  • 出典1:ワルター・ギーゼラー「20世紀の作曲」佐野光司による日本語訳版の217-220ページ。日本語訳版にしか新ロマン主義の記述はない。絶版。
  • 出典2:作曲の20世紀2 1945年以降(クラシック音楽の20世紀)のポスト・フェストゥムの項は、シャリーノやファーニホウの作曲作品が日本で始めて具体的に公開された最初の例である。しかし、その本はポスト・フェストゥムに新ロマン主義作品を含まないばかりか、「新しい前衛」の項に吉松隆が含まれるなど、評価の過度期的側面を大いに示す。絶版。
  • 出典3:現代音楽のパサージュ - 松平頼暁の「新しい単純性」の項目にはヴォルフガング・フォン・シュヴァイニツが新ロマン主義の枠内で語られた経緯が詳細に述べてあるが、シュヴァイニツの渡米後の作風は「21世紀」の創作に該当するため触れられていない。絶版。

参考文献

テンプレート:参照方法

  • Thomson, Virgil. Possibilities, 1:1. Cited in:
    • Hoover, Kathleen and Cage, John (1959). Virgil Thompson: His Life and Music, p.250. New York: Thomas Yoseloff.
  • Albright, Daniel (2004). Modernism and Music: An Anthology of Sources. University of Chicago Press. ISBN 0226012670.

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