西太后
テンプレート:基礎情報 皇族・貴族 西太后(せいたいこう・せいたいごう、道光15年10月10日(1835年11月29日) - 光緒34年10月22日(1908年11月15日))は、清の咸豊帝の妃で、同治帝の母。清末期の権力者。満州・旗人(鑲藍旗人)の葉赫那拉(エホナラ、イェヘ=ナラ)氏の出身。慈禧太后(じきたいこう)。老仏爺(ラオフオイエ) 。
中国語では「慈禧太后(Cixi Taihou ツーシー・タイホウ)」ないし「那拉皇太后」、「西太后(Xi Taihou シータイホウ)」。英語では「Empress Dowager(皇太后)」という呼称がよく使われる。幼名は蘭児。
紫禁城内における2人の皇太后の住む場所によって東太后(皇后・鈕祜禄(ニウフル)氏。慈安皇太后、母后皇太后)、西太后(第2夫人。慈禧皇太后、聖母皇太后)と区別して呼ばれた。徽号と合わせた諡号は孝欽慈禧端佑康頤昭豫荘誠寿恭欽献崇煕配天興聖顕皇后。
目次
生涯
后への選抜と皇子出産
西太后の出生地は不明で、安徽省蕪湖説、内モンゴルのフフホト説、山西省長治説など諸説があるが、近年の学界では北京出生説が有力とされる。西太后の父親だった恵徴は、清朝の中堅官僚で、最終官職は安徽寧池太広道の「道員」だった。恵徴は1853年、安徽省の赴任先で太平天国の乱に巻き込まれ、その心労により同年六月三日(7月8日)に鎮江で病死した。
1852年、数え17歳のとき、3年ごとに紫禁城で行われる后妃選定面接試験「選秀女」を受けて合格。翌年の五月九日(6月26日)、18歳で咸豊帝の後宮に入って「蘭貴人」となった。後に「蘭」から「懿」に徽号を変えており、貴人から懿嬪に進んだ。ちなみに皇后は、咸豊帝の皇子時代から仕えていた鈕祜禄氏(のちの東太后)であった。1856年、咸豊帝の長男(愛新覚羅載淳。咸豊帝の唯一の男子)を生み、その功績により、懿貴妃に昇進した[1]。
政権掌握
アロー戦争により熱河に逃れた咸豊帝は1861年に崩御した。咸豊帝死後の政治の実権をめぐり、載淳の生母である懿貴妃と咸豊帝の遺命を受け載淳の後見となった8人の「顧命大臣」載垣、端華、粛順らは激しく争った。
懿貴妃は皇后鈕祜禄氏と咸豊帝の弟で当時北京で外国との折衝に当たっていた恭親王奕訢を味方に引き入れた。そして咸豊帝の棺を熱河から北京へ運ぶ途上でクーデターを発動し載垣、端華、粛順らを処刑(辛酉政変:1861年)し権力を掌握した。
北京帰還後載淳は同治帝として即位し、皇后鈕祜禄氏は慈安皇太后、懿貴妃は慈禧皇太后となったが、慈安太后は紫禁城の東の宮殿に住んだため東太后、慈禧太后は西の宮殿に住んだため西太后と呼ばれた。当初は東太后と西太后が同治帝の後見として垂簾聴政を行い、恭親王が議政王大臣として政治を補佐するという三頭政治であったが、東太后は政治に関心がなく、実質的には西太后と恭親王の二頭政治であった。
1874年同治帝は大婚[2]を機に親政を行おうとしたが若くして崩御した。この時代にも、西太后はそりの合わない皇后(嘉順皇后、後に幽閉され死亡した)と皇帝を無理矢理離間する等、依然として権力を握っていた。
同治帝の死因は天然痘、梅毒のいずれか解明されていないが、一説に同治帝は天橋の売春宿へ通うようになり、そこで感染したという説がある。現代中国では天然痘か梅毒か、学者の間でも意見が分かれているが、日本では天然痘によるものであるとされている。
同治帝は子供を残さずに死去したため、後継問題が持ち上がった。通常、皇位継承は同世代間では行わないことになっている。この場合名前に「載」の字がある世代は、皇帝候補者とはなり得ない。しかし、自身の権力低下を恐れた西太后は、その通例を破り、他の皇帝候補者よりも血縁の近い妹の子(父は醇親王奕譞)載湉(さいてん)を光緒帝として即位させた。そして再度東太后と共に垂簾聴政を行い、権力の中枢に居続けた。
1881年、45歳の東太后が突然死去した。公式発表は病死であった。民間はもとより清朝高官にも公然と懐疑を表した者は多いが、脳卒中と考えられている。また1884年、清仏戦争敗北の事後処理に際し、開戦に危惧を表明していた宗室の実力者恭親王奕訢へ責任を被せ、失脚させた。
東太后の死去と恭親王の失脚により、西太后は清朝において絶対的な地位を確立した。1887年光緒帝の成年に伴い、3年間の「訓政」という形で政治の後見を行う事を条件に、光緒帝の親政が始まる。1888年には自身の姪を光緒帝の皇后(のちの隆裕皇太后)に推挙している。
日清戦争以後
同治、光緒両帝の在位期間、西太后は宮廷内政治に手腕を発揮する一方、表の政治においては洋務運動を推進する曽国藩、李鴻章、左宗棠、張之洞ら洋務派官僚を登用した。洋務運動がある程度の成果を上げて清朝の威信が回復した期間は同治中興と呼ばれる。
しかし洋務運動は1895年の日清戦争により挫折する。清朝の敗北は北洋艦隊の予算不足により、艦船は整備されたものの操練が遅れていたことが主要因とされている。北洋艦隊の予算の不足については、1885年から始まった頤和園の再建と拡張に伴う予算が不足気味となったため、予算を内務府へ数百万両ほど流用した[3][4]事や西太后の大寿(60歳)を祝う祭典で多額の出費[5][6]をした事が影響している。なお、北洋艦隊の予算不足の原因については、満洲周辺におけるロシアの脅威に備えるために陸軍に経費を充当した可能性や、海軍費を広東水師(海軍)の増強の方に充てた点が指摘されている。[7]。
日清戦争の敗戦と光緒帝の実質的な親政開始に伴い西太后は政治から身を引くことを表明したが、朝廷への上奏のうち重要印がある物は総て西太后の元へも回され、また光緒帝の発言や動向を宦官に報告させ、重要施策についての懿旨を単独で出すなど依然として権力を持っていた。[8]
変法自強運動と戊戌の政変
日清戦争の敗北後の光緒21年(1895)、技術的な改革にすぎない洋務運動ではなく、体制的な改革を推進する変法運動が起きた。変法派に共感する光緒帝は明治維新に倣って政治・行政制度の改革を目指した変法派の康有為・梁啓超らを登用して、1898年に体制の抜本改革を宣言した。これを戊戌の変法(別名戊戌維新、変法自強運動、百日維新)という。
西太后は当初改革を見守る姿勢をとっていた。しかし、急速かつ急進的な改革に対して親貴や軍機大臣を含めた守旧派高官や[9]改革派を含む官僚層の間に不満が高まっていった。[10]多くの官僚・士大夫は康有為の孔子改制説などに賛同せず、馮桂芬や張之洞のより穏健な改革論を支持した。変法運動は支持基盤があまりなく、広い支持を得ることはできなかった。[11]もともと張之洞と康有為は西洋文明の精神は中国古典のなかに示されているという附会論者であり、「中学は体であり、西学は用である」という中体西用論をとっており、康有為の思想は洋務派の思想と大差はなかった。[12]だが、康有為の孔子改制論や孔教国教化運動は当時の知識人からは「異端邪説」と見られ、守旧派や穏健改革派のみならず光緒帝の側近である帝党派大官の翁同龢、孫家鼐や変法派内部[13]からでさえも反発を受ける結果となった。[14]
西太后の再々度の訓政を願う機運が醸成されると、西太后は寵臣の栄禄を直隷総督兼北洋大臣に任命して首都近郊の軍と北洋軍を統括させ、光緒帝側もこれに対抗して改革に好意的な袁世凱を候補侍郎に抜擢して新建陸軍の練兵事務に当たらせた。西太后はクーデターを計画していたが、変法派も軍権を握る栄禄を殺害して西太后のいる頤和園を軍隊で包囲するクーデター計画を立て、譚嗣同は袁世凱を訪ね計画に参加するように持ち掛けた。袁世凱は栄禄と面会した際、西太后派のクーデター情報を知ると、変法派によるクーデター計画が既に露見していると思い、保身のため栄禄に変法派の計画の詳細を密告した[15][16][17]。西太后は宮中に乗り込み無血クーデターにより政権を掌握し、変法派の主要メンバーを処刑、さらに光緒帝を拘束して中南海の瀛台(エイダイ)に幽閉し、三度目の垂簾聴政を開始した(戊戌の政変)。この結果、康有為や梁啓超といったリーダー格は日本へ亡命したが、康有為の弟や譚嗣同を含む6人が処刑された。彼らを「戊戌六君子」という。わずか3か月あまりで西太后は権力の座に返り咲いたことになる。 西太后は権力の座に返り咲くと、光緒帝を廃立すべく、端郡王載漪(さいい)の子溥儁(ふしゅん)を大阿哥に擁立した(己亥の建儲)[18]。ただ光緒帝の廃立は諸外国の反対により実行できず、西太后の意のままにはならなかった。清朝内部においては並ぶものなき権力者でありながらも、列強国には譲歩せねばならないことが多く、彼女は憤懣を蓄積させていった。これが後の義和団支持へとつながっていくことになる。
新説
台湾の学者・雷家聖の説[19]では、戊戌変法の間、日本の前首相・伊藤博文が中国を訪問していた。当時、在華宣教師・李提摩太(ティモシー・リチャード Timothy Richard)は、伊藤を清の顧問にして権限を与えるように変法派リーダーの康有為にアドバイスしていた。[20]そこで、伊藤が到着後、変法派の官吏は彼を重用するよう上奏した。そのため、保守派官吏の警戒を招き、楊崇伊は「日本の前首相伊藤博文は権限を恣にする者であり、彼を重用するのは、祖先から継承した天下を拱手の礼して人に譲るようなものだ」と西太后に進言した[21][22]。西太后は9月19日(旧暦八月四日)に頤和園から紫禁城に入り、光緒帝が伊藤をどう思っているかを問い質そうとした。
伊藤は李提摩太と共に「中、米、英、日の“合邦”」を康有為に提案すると、それを受け変法派官吏の楊深秀は9月20日(八月五日)に光緒皇帝へ上奏、「臣は請う:我が皇帝が早く大計を決め、英米日の三ヵ国と固く結びつき、“合邦”という名の醜状を嫌う勿かれ」。[23]もう一人の変法派官吏の宋伯魯も9月21日(八月六日)に次のように上奏した。「李提摩太が来訪の目的は、中、日、米および英と連合し“合邦”することにあり。時代の情勢を良く知り、各国の歴史に詳しい人材を百人ずつ選び、四カ国の軍政税務およびすべての外交関係などを司らせる。また、兵を訓練し、外国の侵犯に抵抗する。……皇帝に速やかに外務に通じ著名な重臣を選抜するよう請う。例えば、大学士・李鴻章をして李提摩太と伊藤博文に面会させ、方法を相談し講じさす」。[24]あたかも中国の軍事、税務、外交の国家権限に外国人を参画させる内容である。西太后は9月19日(八月四日)に紫禁城へ戻り20-21日に報告を受けると、クーデターにより復権を果たし、変法自強運動を鎮圧した。
この新たな研究に対しても反論が出されるなど、戊戌変法をめぐる西太后の評価については論争中である。しかし、これまでの戊戌変法の解釈・評価と関与した人物への評価について、更なる研究の必要性を求めることとなった。
義和団の乱とその後
1900年に義和団の乱が発生。義和団は「扶清滅洋」を標語に掲げ、当初国内にいる外国人やキリスト教徒を次々と襲った。清朝内には義和団を支持し、この機会に一気に諸外国の干渉を排除しようとする主戦派と、義和団を暴徒と見做し、外国との衝突を避ける為討伐すべきという和平派が激しく対立した。義和団は勢力が拡大するに連れ暴徒化、無差別な略奪を繰り返すようになるが、清朝内部では次第に主戦派が優勢となり野放しとなった。ついにはドイツ公使や日本公使館員が殺害されるという事態になり、諸外国は居留民保護のため連合軍を派遣。当初義和団を優勢と見た西太后は主戦派の意見に賛同し、諸外国に対して「宣戦布告」した。西太后はこのとき「中国の積弱はすでに極まり。恃むところはただ人心のみ」と述べたという[25]。しかし、八ヶ国連合軍が北京へ迫ると、西太后は側近を伴い北京を脱出、西安まで落ち延びた。この際、光緒帝が寵愛していた珍妃を紫禁城内の井戸へ投げ捨てるよう命じた。
義和団の乱の処理を命じられた李鴻章と慶親王奕劻は、諸外国に多額の賠償金と北京への外国軍隊駐留を認める代わりに、清朝の責任は事件の直接首謀者のみの処罰ですませ、西太后の責任が追及されないようにした。そのため西太后は1902年に北京に帰還し、これまで通り政治の実権を握り続けることができた。
義和団の乱終結以後、遅まきながら民衆・知識人の間に起こる政治改革機運の高まりを察知した西太后は、かつて自らが失敗させた戊戌変法を基本に、諸所の配慮(中央に於ける立法権の未付与、責任内閣制の阻止)を加えた、いわゆる「光緒新政」を開始した。1905年には5人の大臣を日本と欧米に派遣し政治制度を視察させたが、李鴻章ら五大臣の奏摺した「中央の上級官吏を政務にも参与させ議院の基礎とする旨、また地方の名望家を政務に参与させ地方自治の基礎とする旨、責任内閣制の準備及び冗官整理を含めた新官制、併せて立憲の準備とする旨」の奏摺を保留、1906年に官制の変更(冗官の廃止統合と地方官制の追認)と9年後の立憲制への移行を宣言する「預備立憲」上諭を下した。
1908年光緒帝が崩御した翌日、西太后も72歳で崩御した。西太后は死の前に溥儀を宣統帝として擁立し、溥儀の父醇親王を摂政王に任命して政治の実権を委ねた。しかし、西太后の死からわずか3年あまりで清朝は辛亥革命によって倒されてしまう。
光緒帝毒殺
2003年から2008年に掛けて行われた法医学者などによる遺体の科学分析の結果、遺体の頭髪から経口致死量を上回る残留砒素(推定投与量ではなく残留砒素が致死量を超過)が検出され、国家清史委員会は光緒帝が毒殺されたと結論づけた。
光緒帝のカルテ(病案)は1000件を超えているが、時期の解る記録のうち1898年9月の戊戌政変以前は76件で、900件前後は瀛台幽閉以後に集中している。また、光緒帝崩御前年の1907年7-8月、新御医に力釣が就き一人で診ていた期間は10年の中で唯一快方していた記録が見られる、9月以降に他の御医が光緒帝へ関わり始めると容態は元へ戻り、力釣も数ヶ月でお役御免となっている。
誰が光緒帝を殺害したかについては様々な議論があるが、決定的な証拠は無く不明のままである。西太后殺害説、袁世凱殺害説、李蓮英殺害説、崔玉貴殺害説などがあるが、中国第一歴史档案館編研部主任の李国栄氏によると、西太后、袁世凱、李蓮英のいずれにも可能性があるという[26]。
西太后犯人説をとる『崇陵伝信録』では、死期が近づいた西太后が光緒帝が自分よりも長生きしないように毒殺したとしている[27][28]。李蓮英犯人説をとる徳齢の『瀛台泣血記』では西太后の威を借りて横暴を極めた宦官の李蓮英が報復を受けることを恐れて毒殺したとしている。袁世凱犯人説をとる溥儀の『わが半生』では、戊戌政変で光緒帝を裏切った袁世凱が光緒帝が復権して報復を受けることを恐れて毒殺したとしている[29]諸説いずれも決定的な証拠は無いため、犯人は特定されていない。
西太后に関する俗説
西太后については、民間に多くの逸話が伝えられている。たとえば、
- 西太后は、下級官吏の貧しい家に生まれ育った。
- 最初、円明園の宮女となったが、たまたま通りかかった咸豊帝に声と容姿が美しいことからみそめられ妃に昇格した。
- いわゆる『葉赫那拉の呪い』の伝説のせいで皇后になれなかった。
- ライバルの麗妃の手足を切断して甕の中で飼った。
上に挙げた例は根拠のない流説であると判明している。(加藤徹『西太后』中公新書2005年を参照のこと)
ライバルの麗妃の手足を切断したというエピソードは映画『火焼円明園』(邦題『西太后』)でも描かれているが、これは完全なフィクションである。
宮中の西太后
西太后が嫉妬深いというのは俗説であり、かつてのライバルであった咸豊帝の側室たちは危害を加えられることなく後宮で生活している。前述の麗妃は咸豊帝の唯一の娘栄安固倫公主を生んだ後、咸豊帝の没後も後宮で静かな余生を送っている。同治、光緒朝には麗皇貴妃、麗皇貴太妃に加封され、1890年に54歳で死去した。荘静皇貴妃と諡号され、清東陵にある咸豊帝の定陵の妃園寝(側室達の墓)に葬られている。なお栄安固倫公主は咸豊帝の唯一の娘として東太后と西太后にかわいがられ、妃の生んだ娘であるが皇后の娘に与えられる固倫公主を授けられている。また、東太后と西太后は恭親王奕訢の娘を養女として宮中で育て栄寿固倫公主とした。
一方で西太后は権力への執着が強く、同治帝が西太后の推す慧妃ではなく東太后の推した阿鲁特氏を皇后とした事を忘れず同治帝の崩御後に阿鲁特氏を死亡させ、また光緒帝に親政を促した寵姫の珍妃を殺害させるなど、自分を脅かす可能性のある人物を排除している。
西太后の本名について
近年西太后の弟桂祥の曾孫を名乗る那根正が『我所知道的慈禧皇太后』(中国書店、2007年)で西太后の本名は杏貞、隆裕太后の本名は静芬であるという説を提唱してから広まったが、那根正の語る話には矛盾が多く、信憑性には疑問が残る。
- 那根正は自分の祖父を桂祥の息子増錫(原名徳錫)であるとしているが、桂祥の息子で確認されているのは徳恒、徳祺の2人で、徳錫という人物は確認できない。[30]
- 那根正は『我所知道的末代皇后隆裕』(中国書店、2008年)で桂祥の没年について1928年としているが(63頁)、実際には桂祥は娘の隆裕太后が死去した同年の1913年12月に死去しており、史実と一致しない。『宣統年交旨档』(全国図書館文献縮微複製中心、2004年)宣統五年十一月十八日(1913年12月15日)諭旨によると、(419頁)、死去した桂祥のために清室から五千両が下賜され、長子徳恒を頭等侍衛、乾清門行走とし、次子徳祺を侍衛として用いたとある。
注
西太后を題材にした諸作品
- 小説
- 『蒼穹の昴』浅田次郎著 講談社(1996/4) のち文庫
- 『Empress Orchid』 Anchee Min著 Bloomsbury Publishing PLC (2005)
- 『西太后』全11巻 高陽著 鈴木隆康,永沢道雄訳. 朝日ソノラマ, 1994-95
- 戯曲
- 『天壇の西太后』中村哲郎作. 沖積舎, 1989.10.
- 映画
- 『慈禧西太后』(1940年、演:譚蘭卿)
- 『西太后與珍妃』(1964年、演:李湄)
- 『西太后』(原題:火焼圓明園、垂簾聴政、1984年、演:劉暁慶)
- 『続・西太后』(原題:西太后、1989年、演:劉暁慶)
- 『真説 西太后』(原題:両宮皇太后、1987年、演:方舒)
- 『李蓮英 清朝最後の宦官』(原題:大太監李蓮英、1990年、演:劉暁慶)
- 『ラストエンプレス 西太后』(原題:慈禧秘密生活、1994年、演:チンミー・ヤウ)
- ドラマ
- 舞台
- 『西太后』(演:藤間紫)
参考文献
- 徳齢、太田七郎・田中克己訳『西太后に侍して 紫禁城の二年』(1942)研文社、1997
- 慈禧光緒医方選議 西太后と光緒皇帝の処方集 陳可冀ほか編著 宮川マリ訳. 東京美術, 1983.11.
- 西太后秘話 その恋と権勢の生涯 徳齢 さねとうけいしゅう訳. 東方書店, 1983.12.
- 濱久雄『西太后』教育者歴史新書、1984
- 素顔の西太后 徳齢 井出潤一郎訳. 東方書店, 1987.9.
- ジョン・ブランド、エドマンド・トリローニー・バックハウス共著、藤岡喜久男訳『西太后治下の中国―中国マキアベリズムの極致』光風社出版、1991
- スターリング・シーグレーブ『ドラゴン・レディ 西太后の生涯と伝説』上・下、サイマル出版会、1994
- 徳齢、井関唯史訳『西太后汽車に乗る』東方書店、1997
- 加藤徹『西太后 大清帝国最後の光芒』中公新書、2005
- 島崎晋『名言でたどる世界の歴史』PHP研究所、2010年6月。ISBN 978-4-569-77939-3
- 雷家聖『力挽狂瀾 戊戌政変新探』 萬卷樓(台湾)、2004、ISBN 957-739-507-4
- 西太后とフランス帰りの通訳 渡辺みどり 2008.10. 朝日文庫
- 西太后の不老術 宮原桂 2009.3. 新潮選書
- 西太后最後の十三日 宮原桂 牧野出版, 2010.12.
関連項目
外部リンク
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- ↑ 当時習慣性流産に苦しんでいた西太后は、不妊治療の効果が高いとされた生薬阿膠の服用を薬師に勧められ、その結果載淳(のちの同治帝)を身籠ることができた。以降、重度の更年期障害に悩んでいた際にも服用を続けている。
- ↑ 皇帝や天皇の結婚を意味する。
- ↑ 光緒17年2月16日付、総理海軍事務・奕劻の奏文中に、毎年30万両を流用している「頤和園自開工以来、毎歳暫由海軍経費内騰挪三十万両、抜給工程処応用。」という一文がある。王道成「颐和园重建之谜」『历史档案2007年第3期』p129-130
- ↑ また頤和園への流用によって海軍衙門の経費が不足したため、260万両の借銀(海軍巨款)を各地から徴収し李鴻章の直隷からも20万両が供出されており、この分からも一部が頤和園建設へ回されている。王道成「颐和园重建之谜」『历史档案2007年第3期』p130-131
- ↑ 日清戦争に注ぎ込まれた費用250万両に対して、西太后の60歳の慶典には各衙門合わせて541万6000両が費やされ、頤和園の拡張には約500~1000万両が費やされたと推定されている。李嵐、『光緒王朝』、中国青年出版社、〈清宫档案证史书系11〉、p133-136
- ↑ 梁啓超は『瓜分危言』の中で、海軍費用と称して3000万両が借款されたが、その中の多くが頤和園の建設などに流用されたと語った。
- ↑ 「清が圧倒的優位であったはずが、なぜ日清戦争では日本海軍が優位になったのか。この点についてはさまざまな説明がある。典型的な説明は、北洋艦隊の予算の大部分を西太后が頤和園の造営費に充当したため、新造艦の購入、艦船の補修などができなかったというものである。この説明は一見わかりやすいが、真偽のほどは不明だ。一八九〇年代前半の海軍預算の不足については、満洲周辺におけるロシアの脅威に備えるために陸軍に経費を充当した可能性や、海軍費を広東水師(海軍)の増強に充てていた点も重要だ。この広東水師の新造艦船もまた日清戦争に参加して日本海軍に撃沈されている」川島真(東京大学総合文化研究科国際社会科学専攻准教授)『近代国家への模索1894-1925』6-7頁、シリーズ中国近代史②、岩波新書、2010年
- ↑ 1896年には寇連材という宦官が、政権の返還・光緒帝の親政を見守る事・円明園の修改築凍結・海軍経費の頤和園への流用即時停止などを上奏するという事件をおこすが、西太后はこれを刑部へ送り処刑している(李嵐『光緒王朝』6-1:慈禧杖斃小太監)。ただし寇連材が宦官の身分で上奏して政治批判を行うという行為は、宦官の政治関与を禁じていた清朝では常識を逸脱する行為であり、処刑という裁断が下されたのも無理からぬことであった。
- ↑ 李嵐『光緒王朝』6-3:戊戌政変起因之謎
- ↑ 「…この急進的、かつ急激な改革は改革派を含む官僚層や皇族には受け入れがたいものであった。そうした不満は、政務を光緒帝に任せていた西太后の下に集まった。そこで、西太后は再び政務にかかわることとし、変法の推進役でもあった翁同龢を罷免し、また自らに近い栄禄を直隷総督兼北洋大臣に任命して北洋三軍を統括した。光緒帝側もこれに対抗して、直隷按察使の袁世凱を味方に引き込もうとしたが、袁世凱は西太后にこれを報告した。」川島真(東京大学総合文化研究科国際社会科学専攻准教授)『近代国家への模索1894-1925』34-35頁、シリーズ中国近代史②、岩波新書、2010年
- ↑ 「…多くの官僚・士大夫も、康有為の唱える孔子改制の説など経学上の新奇な意見には全く賛成できなかった。このころ、より穏健な改革論として、先にみた馮桂芬『校邠盧抗議』や、張之洞『勧学篇』が朝廷の命で印刷・普及されたのは、康有為の学説についていけない人々の存在を暗示している。結局のところ、この戊戌の年の変法運動は、光緒帝を後ろ盾とするだけで、支持基盤があまりなかったというほかない。」吉澤誠一郎(東京大学大学院人文社会系研究科・文学部准教授)『清朝と近代世界19世紀』219頁、シリーズ中国近代史①、岩波新書、2010年
- ↑ 「…康有為も戊戌奏議の中で、科挙制度の改革に触れて次のように語っている。「中学は体であり、西学は用である。体がなければ立たず、用がなければ行われない。二者はあい需(ま)ち、一を欠くも不可なり。」これは、張之洞が周知の『勧学篇』の設学で述べた「旧学を体となし、新学を用となし偏廃せしめず」と寸分違わぬ表現である。もし『勧学篇』のこの語をもって張之洞を中体西用論者と目するのであれば、同じ理由で康有為も中体西用論者と見なされるべきであろう。二人の中学/西学または旧学/新学に対するスタンスは、形式的に見て驚くほど近接している。…前述したように康有為の中学に対する基本的立場は、経書の精義に西洋「政教」の原型が提示されているというものであった。この点において康の議論は洋務的附会論者と大差はない」村田雄二郎(東京大学総合文化研究科教授)「第十章康有為と「東学」―『日本書目志』をめぐって」、村田雄二郎、孔祥吉『清末中国と日本―宮廷・変法・革命』288-289頁2011年8月、研文出版
- ↑ 「当時「保教」に反対した変法派知識人の代表に厳復がいる。その「有如三保」(原載『国聞報』光緒二十四年四月十五―十六日)にいう「今日更有可怪者、是一種自鳴孔教之人、其持孔教也、大抵於[与]耶蘇(イエス)、謨罕(ムハンマド)争衡、以逞一時之意気門戸而已」(王栻編『厳復集』北京・・中華書局、一九八六年、第一冊、八二頁)とは、明らかに康有為に向けて放たれた矢であった。また黄遵憲も康の尊孔保教には終始批判的であった(鄭海麟前掲書、四四四頁、また前掲『梁啓超年譜長編』、七六、二七九頁)」村田雄二郎、孔祥吉『清末中国と日本―宮廷・変法・革命』302頁。
- ↑ 両者(康有為と張之洞)の決定的な差違は、経書から読み取るべき「精義」をどのように解釈するか、という点にこそあった。いうまでもなく。康有為においてそれは『春秋』に込められた微言大義であり、孔子の託古改制の教えであり、また三世進化の理論であった。周知のように日清戦争前から萌芽を見せていたこの孔子改制説に最も鋭く反発したのは張之洞であった。清末中国において初めて体系的な中体西用論を開示したとされるその『勧学篇』(一八九八年)が、ほかならぬ『孔子改制考』の刊行直後に著されていることはきわめて重要な意味をもつ。…彼(張之洞)が最も懸念していたのは、康党による尊孔保教や保種合群(学会活動)の高まりであった。張之洞の眼に、それらはすでに保国という大前提を逸脱しかねないものとして映っていた。康有為らの保教・保種運動が保国会の結成というかたちをとって突出しようとしていたとき、彼はどうしてもこれに反駁せずにはおれなかったのである。とくに彼が畏れていたのは、保教運動を支える託古改制なる「異端邪説」が士人の間に浸透することであった。実のところ『勧学篇』は『孔子改制考』への理論的反駁の書にほかならなかった。…附会説に戻っていえば、康有為は他の誰よりも西学の中国古典への附会を徹底させたといえるだろう。『日本書目志』按語にも示されるとおり、彼は「中学即西学」といった論理を展開していたのであり、西学はそのまま中学に連続しうるものと理解されていた。ここで興味深いのは、彼の変法論が従来の洋務論を超えて附会説を徹底化させてゆくことで、現実における政治改革の主張が一層ラジカルになっていったという逆説である。これは古今の復古イデオロギーが例外なく抱えるイロニーというべきであろうが、張之洞らの穏健改革派が終始警戒し反発したのも実にこの点にあった。康有為の幾多の新政建議の中で、中央官界に大きな衝撃をもたらしたものが二つある。一つは制度局の開設であり、一つは孔教の国教化であった。周知のように、前者は「祖宗の法は変えるべからず」とする守旧派からの徹底的な抵抗に遭い、新政の挫折をもたらす直接の原因となった。また後者の主張も、実際には変法派内部ですらほとんど支持を得られぬまま、「保教」のスローガンだけが空転を続けることとなる。彼の孔子改制説がそれまで新政に比較的同情的だった帝党派大官(翁同龢や孫家鼐ら)の離反を招く原因となったことはよく知られている。光緒二十四年五月には「厳禁悖書」を上奏した孫家鼐と歩調を合わせるようにして、湖南巡撫陳宝箴(湖南における変法運動のパトロン的存在であった)までもが『孔子改制考』の焼却を願い出ている。康有為の孔子改制説がいかに矯激な政治的主張として受けとめられたか想像に難くない。限度つきとはいえ、光緒帝の新政に一定の承認を与えていた西太后が、結局クーデターによって百日維新を葬り去ったのは、孔教国教化の主張と結びついた制度改革の「危険性」を敏感に察知していたからにちがいない。村田雄二郎、孔祥吉『清末中国と日本―宮廷・変法・革命』289-291頁。
- ↑ 戴逸(中国人民大学清史研究所所長)によると、袁世凱は西太后がクーデターにより訓政再開を画策している事を知ると、変法派のクーデター計画が露見していると思い、保身のため栄禄に変法派のクーデター計画の詳細を密告した。それにより多くの変法派の逮捕と処刑を招き(当初逮捕令が出ていたのは康有為と弟の康広仁のみだったが、袁の密告後に譚嗣同などいわゆる戊戌六君子が逮捕されることになる)、結果的に袁世凱は変法派を裏切っている。袁世凱は変法派を密告した功績により栄禄の信任を得て、栄禄の入京後に署理直隷総督に任じられ、新建陸軍の費用として4000両を与えられるなど、栄禄に重用された。戴逸「戊戌変法中袁世凱告密真相」『江淮文史』2010年6期
- ↑ また、栄禄がその時点で西太后のクーデター決行と訓政開始の腹積もりを知っていた事と袁世凱が変法派のクーデター計画を密告する様子は、陳夔龍『夢蕉亭雑記』(巻二)にも記されている。「八月初三、袁深知朝局将変、惘惘回津。文忠(栄禄)佯作不知、迨其来謁、但言他事、絶不詢及朝政。袁請屏退左右、跪而言曰・・・袁知事不諧、乃大哭失声、長跪不起。文忠曰:“君休矣,明日再談。”因夤夜乗火車入京,晤庆邸,請見慈聖,均各愕然。越日,奉朱论以朕躬多病,恭請太后訓政,時局为之一変。首诏文忠入辅。慈聖以袁君存心叵測,欲置之重典。」
- ↑ 近年発見された譚嗣同の友人畢永年が残した『詭謀直紀』には、変法派が栄禄を殺害し、西太后のいる頤和園を軍隊で包囲する計画が書かれており、変法派によるクーデター計画があったことは間違いない。戴逸「戊戌変法中袁世凱告密真相」『江淮文史』2010年6期
- ↑ 大阿哥とは、この場合皇嗣子を指す。
- ↑ 雷家聖の学術的な研究成果は、「戊戌変法時期的借才、合邦之議:戊戌政変原因新探」(『歴史月刊』181期,台北:歴史月刊社,2003)、『力挽狂瀾:戊戌政変新探』(台北:萬卷楼,2004)、「書評:茅海建戊戌変法史事考」(『漢学研究』23卷2期,台北:国家図書館漢学研究センター,2005)、「失落的真相:晚清戊戌変法時期的合邦論與戊戌政変的関係」(『中国史研究』61,大韓民国:中国史学会,2009)などがある
- ↑ Timothy Richard ,Forty-five years in China, Chapter 12
- ↑ 楊崇伊「掌廣西道監察御史楊崇伊摺」,『戊戌変法檔案史料』,北京中華書局,1959,p.461.
- ↑ 歴史学者の李嵐は、西太后が楊崇伊の口を借りて言わせたものでしかなく、根拠の無い話とする
- ↑ 楊深秀「山東道監察御史楊深秀摺」,『戊戌変法檔案史料』,北京中華書局,1959,p.15.「臣尤伏願我皇上早定大計,固結英、美、日本三國,勿嫌『合邦』之名之不美。」
- ↑ 宋伯魯「掌山東道監察御史宋伯魯摺」,『戊戌変法檔案史料』,北京中華書局,1959,p.170.「渠(李提摩太)之來也,擬聯合中國、日本、美國及英國為合邦,共選通達時務、曉暢各國掌故者百人,專理四國兵政稅則及一切外交等事,別練兵若干營,以資禦侮。…今擬請皇上速簡通達外務、名震地球之重臣,如大學士李鴻章者,往見該教士李提摩太及日相伊藤博文,與之商酌辦法。」
- ↑ 島崎(2010)pp.294-295
- ↑ 谁害死了光绪?慈禧、袁世凯、李莲英都有嫌疑 http://news.china.com/history/all/11025807/20081119/15194345.html
- ↑ また『启功口述历史』では、金石学者・啓功の曾祖父で雍正帝から6代目の子孫である当時の礼部尚書・溥良から「楽寿堂(西太后の居所)から出て来た太監に何をしているか問い質した処「老仏爺(西太后)が賜わる光緒帝の為の塌喇(ヨーグルトのような乳製品)を配ります」と聞き、届けられた後に間も無くして崩御した」と聞いたという。赵仁珪,章景怀作、『启功口述历史』、北京师范大学出版社、第1章-我的几位祖上和外祖上(1)
- ↑ 『慈禧大伝』の作者徐徹は、慶親王奕劻,隆裕皇后,李蓮英,袁世凱を疑う説もあるが、西太后の命令や黙認が無ければ、どうして警戒の厳重な宮中で族滅の危険を冒してまで皇帝である光緒帝の毒殺という大逆行為に及べようか、首謀者は西太后以外に居ないと主張している(徐徹、『慈禧大伝』、遼海出版社、p430)が、証拠は一切存在しないため憶測に過ぎない。
- ↑ 溥儀は、当時宮廷に仕えていた李長安という宦官から「光緒帝は前日まではぴんぴんしていたというが、薬を一服飲んだとたんにいけなくなったと」と聞いたという。そして、後にその薬は袁世凱から贈られたものと知ったとしている。また溥儀は、西太后が幼い溥儀を皇位につけたのは、幼い皇帝のもとで自分が引き続き政治を行うつもりだったからであり、「(西太后は光緒帝の死亡時に)自分の病状が再起不能なほど重篤だとは考えていなかった」はずだとして、自分の死期を悟り光緒帝を毒殺したという説を否定している。愛新覚羅溥儀著、小野忍、野原四朗監修、新島淳良、丸山昇訳『わが半生』上巻、大安出版、1965年、20頁。
- ↑ http://oldbeijing.org/dispbbs_11_47857_59938_skin1.html