影武者 (映画)
テンプレート:Infobox Film 『影武者』(かげむしゃ)は、1980年(昭和55年)に公開された日本映画。監督は黒澤明。カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した。
当初、予算難で制作が危ぶまれていたが、フランシス・フォード・コッポラ及びジョージ・ルーカスの助力で予算を確保し、完成させることができた。
黒澤作品では唯一、実在の戦国武将にまつわるエピソードを取り上げたスペクタクル巨編である。黒澤は、次回作 『乱』の撮影準備(リハーサル)としてこの作品を作ったとも語っている。
当時の日本映画の歴代映画興行成績(配給収入)1位を記録し、1983年に蔵原惟繕監督の『南極物語』に抜かれるまで破られなかった[1]。
外国版プロデューサーには、黒澤を敬愛するフランシス・フォード・コッポラ、ジョージ・ルーカスらが名を連ねた。また、黒澤とは助監督時代からの盟友である本多猪四郎が、監督部チーフとして製作に加わっている。
目次
あらすじ
戦国時代、小泥棒が戦国武将・武田信玄の影武者として生きる運命を背負わされた悲喜劇。
時は戦国時代の中ごろの天正元年、勇猛と恐れられる武田信玄とその軍勢は上洛を睨み、東三河で野田城を攻め落とそうとしていた。しかしある夜、信玄は城内から狙撃され、思わぬ深手を負う[2]。この一大事を重く見た武田軍は、攻城中にもかかわらず甲斐へ引き返すが、その道中で信玄の命は尽きる。重臣たちには、後々多くの人間の運命を左右することとなる信玄の遺言が託された。それは、自分の死を絶対の秘密とし、3年間は動かずに領地を固め、まだ幼い嫡孫(竹丸)の成長を待って力を貸して欲しい、というものだった。信玄の弟武田信廉や重臣らは、信玄の死を内部にも明かさず、影武者を立てて難をしのごうと考える。そこで、信廉が以前から目をかけ、手元に置いていた男、処刑寸前のところを信廉に助けられた盗人が立てられた。その素性にふさわしく、品性は信玄と比ぶべくもなかったが、面差しは不思議なほど瓜二つだった。
思わぬ大役に恐れを抱き、当初は逃亡をも企てた男だったが、信玄の死を知り、以前対面した折に圧倒されたその威容や言葉などを思い出すと、やがて影武者としての人生を受け入れ、信玄のために働こうと思うようになっていく。そして信玄として屋敷へ戻った影武者は、嫡孫竹丸や側室たちとの対面を無事に果たし、評定の場においても信玄らしく振舞って収めるなど、重臣たちが期待する以上の働きを見せていく。
しかし一方、武田の不審な動きから信玄の死を疑う織田信長や徳川家康は密偵を送り込み、自ら陽動によっても武田軍を揺さぶっていく。また、それに反応する形で諏訪勝頼が独断で出陣し、武田家中に不協和音を撒き散らしてしまう。勝頼は信玄の子であるが側室との間の子ゆえ嫡男とはみなされず、遺言においても自身の息子である竹丸の後見人とされ、芝居とはいえ盗人の出である影武者にかしずいて見せねばならぬことに憤慨していたのだった。
こうして徐々にきしみ始める武田家と影武者の運命。新しい時代の寵児となる織田信長と徳川家康、そして没落していく武田家、歴史の歯車の中に巻き込まれていく影武者。そして、運命の長篠の戦いを迎えることになる。
勝新太郎の降板
当初主演だった勝新太郎は撮影開始後に黒澤と衝突し、降板した。直接の原因は、1979年(昭和54年)6月末のクランクイン直後の7月18日、勝が自分の演技を撮影するためのビデオカメラを東宝砧撮影所に持ち込んだことによる。勝はこれを自身の役作りの参考にしようとするつもりであったが、黒澤の許可を得ていなかった。勝が黒澤にビデオカメラの持込を許可するように頼んだところ、黒澤は「演技は監督である自分が見ているので信用してほしい」と言った。勝はこれに納得せず「それは解っているが、こちらはこちらでビデオを撮りたい」と再度ビデオカメラの持込を頼むも、完璧主義の黒澤は撮影現場に自らの映画のカメラ以外の撮影機材を持ち込むことを許さず「撮影はこっちでやるから大丈夫だ」と断った。このような問答をした後、勝は怒り心頭で撮影現場から出て行ってしまった。そして勝の降板となった。出演者の一人の阿藤海がその場に居合わせており、黒澤は怒った様子で「辞めてもらおう」と言った、とテレビなどで証言している。
これにより、『乱』の主演が内定していた仲代達矢が代役として起用されることとなった。仲代は独自の影武者像を作り上げたが、劇場公開の際に映画を観た勝は「(映画は)面白くなかった。」「おれが出ていれば面白かったはずだ。」とコメントした。
勝がビデオカメラを撮影現場に持ち込んだ理由として、勝が単に、いわゆる「メイキング映像」を撮りたがっていただけ、とする関係者の証言もある。
黒澤作品の常連脚本家である井手雅人が語ったところによれば、当初は勝が武田信玄と影武者を、勝の実兄の若山富三郎が信玄の弟信廉役を演じるという、実際の兄弟関係を逆転させた配役の案があったという。しかし、若山は勝と黒澤のトラブルを予期し、それに巻き込まれることを嫌って出演依頼を断ったため、当初から実現しなかった。
なお、若山は、「何、黒澤明? そんなうるせぇ監督に出られねぇよ、俺は」と、出演依頼を断わった、その本音を語っている[3]。
スタッフをめぐるトラブル
- 音楽では、『どん底』から『赤ひげ』までコンビを組んできた佐藤勝が黒澤と対立して降板し、武満徹の推薦で急遽池辺晋一郎が起用されることになった。武満の映画音楽のアシスタントをしていた池辺は『どですかでん』にも関わっており、その後『乱』を除く全作品を手がけることになる。なお、『乱』を手掛けたのは武満であるが、この作品でも黒澤は武満と激しく対立し、武満は降板こそしなかったものの黒澤と決別に至っている。
- その他、撮影の宮川一夫が体調不良(白内障)により降板している[4]。
出演者
ほとんどの出演者がオーディションで選ばれた。油井昌由樹や隆大介、清水大敬(当時は「清水のぼる」名義)、阿藤海、島香裕など、無名の俳優、新人俳優から演技経験の全くない素人までが数々の重要な役で出演した。
無名時代の電撃ネットワークの南部虎弾(出演者クレジットは南部虎太となっている)、柳葉敏郎、山田五郎(クレジットなし)が、雑兵や死体役などのエキストラとして出演している。当時大学生だった鴻上尚史はオーディションに合格したが、当日の都合で参加できず、石田純一はオーディションで落とされたという。
外国版と国内版
外国版では、上杉謙信が信玄の訃報を聞く場面など、日本国内版の一部シーンが日本の歴史を知らない外国人には理解しにくいとの理由でカットされた。それだけではなく、公開時の淀川長治との雑誌対談で黒澤は「国内版は時間がなかったため編集が不十分。もっと切りたかった。外国版は時間が許す限り再編集した。」という主旨の発言をしている。
ドキュメンタリー・関連書籍
- 1979年(昭和54年)11月2日にNHKの『NHK特集・黒澤明の世界』で、「影武者」製作の舞台裏が放送された。
- シナリオ・絵コンテ集 『黒澤明 影武者』 (講談社、1979年)がある。
- 『全集黒澤明 第6巻』(岩波書店)、台本他が所収。
スタッフ
- プロデューサー:黒澤明、田中友幸
- 海外版プロデューサー:フランシス・コッポラ、ジョージ・ルーカス
- シナリオ:黒澤明、井手雅人
- 演出補佐:本多猪四郎
- 音楽:池辺晋一郎
- 指揮:佐藤功太郎
- 演奏:新日本フィルハーモニー交響楽団
- 撮影:斎藤孝雄、上田正治
- 撮影協力:中井朝一、宮川一夫
- 編集:吉崎治
- 美術:村木与四郎
- 録音:矢野口文雄
- 照明:佐野武治
- 監督助手:岡田文亮
- 製作担当者:橋本敏明
- アシスタントプロデューサー:野上照代
- 武家作法:久世竜
- 馬術指導:白井民平
- 騎馬訓練:長谷川敏
- スチール:橋山直巳
- 音響効果:三縄一郎
- 衣裳提供:三松
- 現像:東洋現像所
- 監督:黒澤明
協力
キャスト
- 仲代達矢(武田信玄/影武者)
- 山崎努(武田信廉)
- 萩原健一(諏訪勝頼)
- 根津甚八(土屋宗八郎)
- 大滝秀治(山縣昌景)
- 隆大介(織田信長)
- 油井昌由樹(徳川家康)
- 桃井かおり(お津弥の方)
- 倍賞美津子(於ゆうの方)
- 室田日出男(馬場信春)
- 志浦隆之(内藤昌豊)
- 志村喬(田口刑部)
- 清水紘治(跡部大炊助)
- 清水のぼる(原昌胤)
- 山本亘(小山田信茂)
- 杉森修平(高坂弾正)
- 山中康仁(森蘭丸)
- 油井孝太(武田竹丸)
- 松井範雄(酒井忠次)
- 土信田泰史(石川数正)
- 曽根徳(本多平八郎)
- 山下哲夫(丹羽長秀)
- 清水利比古(上杉謙信)
- 阿藤海(雨宮善二郎)
- 藤原釜足(医師)
- 江幡高志(托鉢僧)
- 島香裕(原甚五郎)
- 井口成人(温井平次)
- 矢吹二朗(伝騎)ほか
脚注
外部リンク
- 黒沢明監督とぶつかり、映画「影武者」を降板した勝新太郎さんがつぶやいたこと [リンク切れ]
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