古今亭志ん生 (5代目)
テンプレート:落語家 5代目古今亭 志ん生(ここんてい しんしょう、1890年〈明治23年〉6月28日 - 1973年〈昭和48年〉9月21日)は、明治後期から昭和期にかけて活躍した東京の落語家。本名、美濃部 孝蔵(みのべ こうぞう)。生前は落語協会所属。出囃子は「一丁入り」。20世紀の落語界を代表する名人と称される。
長男は10代目金原亭馬生(初代古今亭志ん朝)、次男は3代目古今亭志ん朝。孫に女優の池波志乃(10代目馬生の娘)。俳優の中尾彬は池波の夫で、義理の孫に当たる。
目次
来歴
出生
1890年(明治23年)、東京・神田亀住町の生まれ。父・美濃部戍行(みのべもりゆき)、母・志う(しう)の五男[1]。出自は高位の士族。生家は徳川直参旗本であった美濃部家で、祖父は赤城神社の要職を務めた[2]。明治維新の際の支給金を父の代ですべて使い果たし[3][4]、孝蔵が生まれた頃父は警視庁で巡査をしていて貧乏暮らしだった。しかし子供の頃から父に連れられ、寄席で売られるお菓子目当てに寄席通いをした。
1897年(明治30年)、下谷尋常小學校に入学。この頃、下谷区下谷北稲荷町(現在の台東区東上野5丁目)に移り住む。1901年(明治34年)、小学校卒業間際の11歳の時、素行が悪いため退学させられ、奉公に出される。奉公先を転々とし、朝鮮の京城(現在のソウル)の印刷会社にいたこともあるが、すぐに逃げ帰った。1904年(明治37年)には北稲荷町から浅草区浅草新畑町(現在の台東区浅草1丁目)に移転し、ここを本籍にした[5]。
落語との出会い
博打や酒に手を出し、放蕩生活を続けた末に家出。以来、二度と実家へ寄り付かず、親や夭折した兄弟の死に目にも会っていない。この頃、芸事に興味を抱くようになり、天狗連(素人やセミプロの芸人集団)に出入りし始める[5]。1907年(明治40年)頃に三遊亭圓盛(2代目三遊亭小圓朝門下、本名:堀善太郎)の門で三遊亭盛朝を名乗るが、まだプロの芸人ではなくセミプロであった[5]。同時期、左の二の腕に般若の刺青を入れたという[5]。
1910年(明治43年)頃、2代目三遊亭小圓朝に入門し、三遊亭朝太との前座名を名乗る[6][7][8][9]。5代目志ん生自身は、当時名人と称された4代目橘家圓喬の弟子であったと生涯語っていた[10]。1916年から1917年(大正5年から6年)頃、三遊亭圓菊を名乗り、二つ目になる[5]。1918年(大正7年)、4代目古今亭志ん生門に移籍し、金原亭馬太郎に改名。その後、1921年(大正10年)9月に金原亭馬きんを名乗り、真打に昇進する[5]。
結婚
1922年(大正11年)11月、清水りんと結婚。1924年(大正13年)1月12日に長女・美津子、1925年(大正14年)10月7日に次女・喜美子(後の三味線豊太郎)、1928年(昭和3年)1月5日に長男・清(後の10代目金原亭馬生)が誕生。笹塚から夜逃げして「なめくじ長屋」として知られる本所業平橋に引っ越したのはこの年である[11]。なお、この間に(1924年・大正13年)3代目古今亭志ん馬を名乗っている。
当時の実力者だった5代目三升家小勝に楯突いたことで落語界での居場所を失い、講釈師に転身する。謝罪して落語家に戻るが一向に食べられず、当時人気者であった柳家金語楼の紹介で初代柳家三語楼門下に移るが、今度は師匠の羽織を質入れして顔を出せなくなった。その後、詫びがかなって復帰したものの、前座同然の扱いで貧窮極まる。腕はあったが愛嬌がなく、周囲に上手く合わせることもできず、結果として金銭面の苦労を強いられた[12]。この頃の5代目志ん生は身なりが悪く、「死神」「うわばみの吐き出され」などのあだ名で呼ばれ、仲間内や寄席の関係者から軽んじられて、寄席でも浅い出番での出演だった。場末の寄席(いわゆる「端席」)を廻ってどうにか糊口を凌いでいたという[13]。一部の好事家からは評判が良かったが、売れ出すのはもう少し先のことになる[14]。
この頃、「染物屋の若旦那」である宇野信夫の家によく出入りして世話になっていた(当時、宇野は浅草・橋場に親の貸家があり、その借家料で生計を立てながら劇作家の修行をしていた)。
馬生・志ん生襲名
1932年(昭和7年)、再び3代目古今亭志ん馬を名乗る。落語界入りしてから長らく売り出せず苦労した5代目志ん生だが、この頃になってようやく少しずつ売れ始める。1934年(昭和9年) 9月に7代目金原亭馬生を襲名。1938年(昭和13年)3月10日、次男・強次(後の3代目古今亭志ん朝)が生まれる[5]。1939年(昭和14年)に5代目古今亭志ん生襲名。朝太から志ん生襲名まで16回改名した(詳細は#改名遍歴参照)。
1941年(昭和16年)、神田花月で月例の独演会を開始。客が大勢詰めかけるほど好評だったが、この頃の5代目志ん生の客は噺をじっくり聞いてくれるような良い客ではなかったという[15]。
満州へ〜帰国後
1945年(昭和20年)、満洲映画協会の傍系である満洲演芸協会の仕事で、6代目三遊亭圓生や講釈師の国井紫香(2代目猫遊軒伯知)らと共に、物資豊富と言われていた満州に慰問芸人として渡る[16][17]。そのまま終戦を迎えて帰国出来なくなり、現地で引き揚げ船の出航を待ちわびながら生死ギリギリの生活を強いられる。
1947年(昭和22年)1月12日、命からがら満州から帰国し、同月27日帰宅[5]。帰国がニュースに取り上げられるなど注目され、後は一気に芸・人気とも勢いを増し、寄席はもちろん、ラジオ番組出演なども多くこなす大変な売れっ子となった。あちこちで仕事を掛け持ちするので、寄席の出番よりも自分の都合を優先してしまい、周囲からわがままな仕事ぶりを非難されることもあった[18]。この頃から人形町末廣で余一の日[19]に独演会を催すようになった。8代目桂文楽と並び称されて東京の落語家を代表する大看板として押しも押されもせぬ存在となり、全盛期を迎える。
1956年(昭和31年)6月、自伝『なめくじ艦隊』を発行。志ん生当人は読むのはまだしも書くのは不得手で、弟子の金原亭馬の助による聞き書きであった[20]。同年12月、『お直し』の口演で芸術祭賞を受賞する。
会長就任
1957年(昭和32年)、8代目文楽の後任で落語協会4代目会長に就任。1963年(昭和38年)まで会長を務める。
志ん生の後任の会長を選出する際、一部で2代目三遊亭円歌を後任に推す動きがあり、2代目円歌本人も会長就任に意欲を示していた。しかし、志ん生は「人気や活躍の期間では円歌の方が上だが、芸の力量では圓生の方が上」と判断し、力量重視で6代目圓生を後任に推した。一時は対立を回避するために8代目文楽が会長に復帰することで人事は決着したが、1964年(昭和39年)に2代目円歌が亡くなったため、結局、翌1965年(昭和40年)に6代目圓生が会長に就任することとなる[21]。
倒れる
1961年(昭和36年)暮れ、読売巨人軍優勝祝賀会の余興に呼ばれるが、口演中に脳出血で倒れる。3か月の昏睡状態の後に復帰するも、その後の高座からは以前の破天荒ともいうべき芸風が影を潜めた。この時を境に志ん生の「病前」「病後」とも呼ばれる。療養を経て復帰した志ん生は半身不随となっていたため、講談で使用する釈台を前に置き、釈台に左手を置いて高座を務めた。
1964年(昭和39年)、自伝『びんぼう自慢』を刊行。さらに5年後に加筆して再刊されたが、いずれも小島貞二による聞き書きである。同年11月、紫綬褒章受章。長女が2代目円歌の息子と結婚したため、一時は円歌と姻戚関係があった[22]。1967年(昭和42年)、勲四等瑞宝章を受章する。
事実上の高座引退
1968年(昭和43年)、上野鈴本演芸場初席に出演。これが最後の寄席出演となった。同年10月9日、精選落語会に出演。これが最後の高座になる。この時、「二階ぞめき」を演じていたはずが途中で「王子の狐」に変わってしまったことをマネージャーである長女に指摘されたため、以降高座に上がらなくなった。ただし、高座に上がる気持ちは持っていたとされる[23]。
1971年(昭和46年)12月9日、妻・りん逝去。12月11日に葬儀が行われる。その翌日には8代目文楽が逝去。晩年の文楽は寄席や落語会に出演せず引退同様の状態であったが、高座に上がる気持ちは持ち続けていた。この年、すでに高座を去っていた文楽がウイスキーを土産に志ん生を訪ねて歓談し、別れ際に「二人会の相談をしよう」と呼びかけていたと家族が証言している。妻の葬儀でさえ涙を見せなかった志ん生だが、文楽の訃報を聞いて「皆、いなくなってしまった」と号泣した[24]。
1973年(昭和48年)9月21日、自宅で逝去。享年83。戒名は「松風院孝誉彩雲志ん生居士」。墓所は文京区小日向の環国寺。現在では同じ墓に息子の10代目馬生、3代目志ん朝も眠っている。
年表
5代目志ん生の無名時代の経歴は、資料が乏しい上、当人の記憶もあやふやだったために諸説ある。下記#改名履歴と食い違う部分があるが、脚注に示した史料のままとした[25]。
- 1890年(明治23年)6月28日[26] - 神田亀住町に出生。
- 浅草区永住町127(現在の台東区元浅草2丁目)に転居(年月日不明)
- 浅草区北稲荷町51(現在の台東区東上野5丁目)に転居(年月日不明)
- 1904年(明治37年) - 北稲荷町から浅草区浅草新畑町(現在の台東区浅草1丁目)に転居
- 1905年(明治38年) - この頃、博打や酒などの素行不良が重なり家出する。
- 1907年(明治40年) - 芸事好きが嵩じて落語のセミプロになり、この頃、三遊亭圓盛の下で三遊亭盛朝の芸名をもらう。
- 1910年(明治43年) - この頃、2代目三遊亭小圓朝に入門。三遊亭朝太の芸名でプロの落語家になる。
- 1916年(大正5年) - この頃、三遊亭圓菊に改名して二つ目昇進。以降、目まぐるしく改名を繰り返す。詳細は#改名遍歴を参照。
- 1918年(大正7年) - 4代目古今亭志ん生門下に移籍し、金原亭馬太郎に改名。
- 1920年(大正9年) - 谷中清水町(現在の台東区池之端4丁目)に転居して下宿生活。
- 1921年(大正10年)9月 - 金原亭馬きんに改名して真打に昇進。
- 1922年(大正11年)11月 - 清水りんと結婚。
- 1923年(大正12年) - 滝野川町大字田端(現在の北区田端1丁目)に転居。
- 1924年(大正13年)1月12日 - 長女・美津子誕生。
- 1925年(大正14年)
- 4月 - 3代目小金井芦州門下で講釈師になり小金井芦風を名乗る。
- 9月 - 師匠の3代目小金井芦州逝去により落語家に戻る。
- 10月7日 - 次女・喜美子誕生。
- 1928年(昭和3年)
- 1934年(昭和9年) 9月 - 7代目金原亭馬生を襲名。
- 1936年(昭和11年)2月26日 - 永住町(現在の台東区元浅草)に転居。
- 1937年(昭和12年)8月 - 駒込神明町(現在の文京区本駒込)に転居。
- 1938年(昭和13年)3月10日 - 次男・強次誕生(戸籍上は3月11日)。
- 1939年(昭和14年)3月 - 5代目古今亭志ん生を襲名。
- 1943年(昭和18年)8月 - 長男・清が入門。
- 1945年(昭和20年)
- 4月13日 - 空襲で罹災。駒込動坂町(現在の文京区千駄木)に転居。
- 5月6日 - 満州に慰問に出るがそのまま終戦を迎えて帰国できず、およそ1年8か月を現地で過ごす。
- 1947年(昭和22年)1月27日 - 満州から帰宅。
- 1951年(昭和26年)11月 - 日暮里町9丁目(現在の荒川区西日暮里3丁目)に転居。
- 1953年(昭和28年)7月1日 - ラジオ東京と放送専属契約を結ぶ。
- 1954年(昭和29年)7月1日 - ラジオ東京と放送専属契約を解除し、ニッポン放送と放送専属契約を結ぶ。
- 1956年(昭和31年)
- 6月 - 『なめくじ艦隊』発行。
- 12月 - 芸術祭賞受賞。演目は「お直し」。
- 1957年(昭和32年)
- 2月 - 落語協会の会長に就任。戦後4人目の会長。
- 4月 - 次男・強次入門。
- 3月1日 - 退院。以降、自宅で療養する。
- 11月11日 - 新宿末廣亭で高座復帰。
- 4月 - 『びんぼう自慢』発行。
- 11月 - 紫綬褒章受章。
- 1967年(昭和42年) - 勲四等瑞宝章受章。
- 1968年(昭和43年)10月9日 - 精選落語会に出演。これが最後の高座となる。
- 1971年(昭和46年)12月9日 - 妻・りん逝去。
- 1973年(昭和48年)9月21日 - 逝去。
人物
芸について
- 次男の3代目古今亭志ん朝は、「(5代目志ん生に)なろうとしてもなれるものではない。(8代目桂文楽を)お手本にしている」と語っている[27][28]。また、「完成した志ん生」を見ると「天衣無縫」と思えるが、実際は売れない時代が多く、芸について苦労して非常に考えた上であの芸風を苦心して作り上げたことが、同時代人の証言から窺える[29][30]。
- 6代目三遊亭圓生は「志ん生とは道場の試合では勝てるが、野天の真剣勝負では斬られるかもしれない」と芸へのアプローチの違いを剣に例えて、5代目志ん生を賞讃した[31][32]。
- 満州滞在中に満洲電信電話の新京放送局が主催した演芸会で、当時アナウンサーだった森繁久彌と出会う。5代目志ん生と6代目圓生の二人でバレ噺(下ネタがかった噺)を交代で演じ、森繁が「こんなバレ噺もある」と紹介しながら司会進行した。演じる側としても実に楽しい会だったようで、客が鈴なりになって他のお座敷の仕事を放り投げて延々と続け、そのあと森繁が酔い潰れた志ん生をおぶって帰った。森繁の芸達者ぶりに二人は瞠目し、志ん生は森繁を「あなたなら日本ですぐに売り出せる」と絶賛した。のちの森繁の活躍で志ん生の目の確かさが証明されたことになる[33][16]。
- 独特のクスグリのセンスで高い評価を得ている志ん生であるが、実際はそのかなりは初代柳家三語楼の作に負うものである。三語楼宅が火事になった折、そのどさくさにまぎれて三語楼のネタ帳を盗み出して自分のものにしてしまったのは落語家内では有名な話であると、後に5代目柳家小さんがTBSラジオ「早起き名人会」で川戸貞吉に述懐している。
- 余芸として端唄などを得意とした。元慶應義塾塾長・小泉信三は5代目志ん生の「大津絵」を聴き、度々目頭を濡らしたという[34]。
- 噺に出てくる登場人物の名前はかなりいい加減で、最初の「熊さん」から最後には「八っつあん」に代わるなどといったことは日常茶飯事であった。次男の3代目志ん朝が噺の登場人物名を問うと「何だっていい」と答えたり、噺の途中で登場人物の名前を忘れてしまったが「……どうでもいい名前」と何食わぬ顔で済ませて客を爆笑させたりするなど、登場人物の名前を忘れて高座を去った8代目文楽とは対照的であった[35]。
- 気に入らぬ客の前ではいい加減な噺で切り上げ、周囲を呆れさせていた。ある日、数名の酔客にヤジを飛ばされた時、無視してじっくりと「富久」を演じた。酔客は黙ってしまい、志ん生が退場すると大きな拍手を送ったという[36]。
- 大阪でも8代目文楽らと共に戎橋松竹などの寄席に上がることがあったが、当時大阪はトリオ漫才(かしまし娘など)の全盛期で、客席には漫才を見に来た団体客が多く、落語はまったく受けなかった。そのため、志ん生は時間を守らずにすぐ切り上げてしまい、次の出番の芸人を慌てさせていた。東京でも気分が乗らないとさっさと高座から下がってしまった[37][38]。
- 1958年(昭和33年)10月11日、「第67回三越落語会」において「黄金餅」をトリで演じる予定であったが、8代目林家正蔵(後の林家彦六)がその前に似たような内容の「藁人形」を演じてしまった。これは落語会の事務関係者のミスによるものだが、落語界では、一つの興行で同じ傾向の噺が続くことは「噺がつく」と呼ばれるタブーである。正蔵の後に高座に上がった志ん生は、客席に断って演目を変更し、手持ちの噺の中から艶笑噺の「鈴振り」をたっぷりと演じた[39]。
- 芸にはプライドを持っており、ある落語会で「牡丹灯籠 〜御札はがし〜」を演じることになった際には「これは生半可なことじゃあできねえんだから、ワリ(出演料)に「牡丹灯籠代」が付くよ」と言い出して関係者を困らせた。このゴタゴタでやる気をなくしたのか、高座では散々な出来であったという。
- 「酒気を帯びて高座を務める」「時間通りに来ない」「自分の独演会に来なかった」などズボラなエピソードが多く伝わるが、当時電通でラジオ番組制作を担当しており、親しく交流していた小山観翁によると、小山が担当した録音の当日に酔っていたり遅刻したりしたことは一度もなく、録音する演目の口演時間を前日に寄席で計測し、録音時に時間調整するといった丁寧な仕事ぶりだったという。また、「売れなかった頃に自分を粗略に扱った連中には、同じ様に粗略に扱い返して構わない」と小山に語っていたという。小山は「志ん生くらい計算されたきちんとした芸をやった人はいない。貧乏・天衣無縫・融通無碍・出たとこ勝負、といったエピソードばかりが紹介されるが、貧乏を売り物にしたがその頃の噺家は皆貧乏だった。落語の速記本や音曲の修行など芸事に使うお金はあった訳だしそもそもその道で数十年を経て超一流になった人が芸に対していい加減である筈がない」と語っている。[40]。
酒について
- 関東大震災発生時は、酒が地面にこぼれるといけないと思って真っ先に酒屋へ駆け込み、酒を買おうとしたという。また、戦時中、すでに東京が空襲にあっていた頃、漫談家の初代大辻司郎に招かれて数寄屋橋に出かけ、散々ビールを飲んだ後、お土産にビールを詰めた大きな土瓶を貰うが、帰宅中に空襲が始まり「どうせ死ぬならビールを残してはもったいない」とすべて飲み干し、酔ってそのまま日本橋の地下鉄入口の横で寝入ってしまった。翌朝、奇跡的に無傷のまま目覚めて帰宅。家では「志ん生は空襲で死んだらしい」と諦められていたという。
- 満州で終戦を迎えたものの、混乱状態の満州から帰国する目処がつかず、1946年(昭和21年)頃の国内では「志ん生は満州で死んだらしい」と噂が流れていたという[41]。実際、本人も今後を悲観して、支援者から「強い酒なので一気に飲んだら死んでしまう」と注意されたウォッカ一箱を飲み干し、数日間意識不明になったことがあったが、その後意識を回復した[42]。当時、圓生と二人で極貧生活をしていた時、苦労して手に入れて持ち帰った酒瓶を蹴躓いて落として割ってしまった。人生で情けなくて涙をこぼして泣いたのは後にも先にもこの時だけだと後に語っている。
- 酒に酔って高座に上がったことが何度かある。1958年(昭和33年)5月30日の「第13回東横落語会」では大幅に遅刻し、真っ赤な顔、怪しい呂律で高座を務めた。噺も支離滅裂だったが、その様子が笑いを誘い、当日一番客の拍手を浴びたのは志ん生だったという[43]。人形町末廣の大喜利でも居眠りしてしまい、トリの4代目(自称9代目)鈴々舎馬風がいくら起こしても起きなかった。新宿末廣亭でも一度居眠りしたことがあるという[44]。
放送専属契約
- 1953年(昭和28年)7月1日、ラジオ東京(現在のTBSラジオ&コミュニケーションズ)と放送専属契約を交わす。専属時代にも他局の番組に出演したが、それを指摘されると「専属は他に出てはいけないのが不自由だ」と周囲にこぼしていたそうで、そもそも専属契約というもの自体をよく理解していなかったようである[45]。ラジオ東京側も「志ん生だから仕方がない」といってあきらめたというエピソードがある。1954年(昭和29年)6月30日に契約解除し、翌日からニッポン放送と放送専属契約を結ぶが、この時期にも、ニッポン放送専属だったにもかかわらずNHKに出演した録音や映像が残っている。ニッポン放送との放送専属契約は1962年(昭和37年)9月3日に解除するまで続いた。
改名遍歴
志ん生は幾度も師匠替え・改名をしていることで有名である。度重なる改名の背景には、借金から逃亡する目的と一向に売り出せない状況の打破を願う意味があったと言われている。志ん生の改名遍歴には諸説あるが、ここでは一般的に知られている遍歴を記載する[46]。
番号 | 年月 | 名前 | 注 |
---|---|---|---|
1 | 1905年(明治38年) | 三遊亭盛朝 | 天狗連時代 |
2 | 1910年(明治43年) | 三遊亭朝太 | |
3 | 1917年(大正6年) | 三遊亭圓菊 | 二つ目 |
4 | 1918年(大正7年) | 金原亭馬太郎 | 6代目金原亭馬生後4代目古今亭志ん生門下 |
5 | 1920年(大正9年) | 金原亭武生 | |
6 | 1921年(大正10年)9月 | 金原亭馬きん | 真打 |
7 | 1924年(大正13年)11月 | 3代目(本来5代目)古今亭志ん馬 | |
8 | 1925年(大正14年)4月 | 小金井芦風 | 3代目小金井芦州門下で講釈師となる
噺家との兼業 |
9 | 1925年(大正14年)9月 | 3代目(本来5代目)古今亭志ん馬 | 噺家専業に戻る |
10 | 1925年(大正14年)9月 | 古今亭馬きん | |
11 | 1926年(大正15年)4月 | 古今亭馬生 | |
12 | 1927年(昭和2年)1月 | 柳家東三楼 | 初代柳家三語楼門下 |
13 | 1927年(昭和2年)11月 | 柳家ぎん馬 | |
14 | 1928年(昭和3年)5月 | 柳家甚語楼 | |
15 | 1930年(昭和5年)9月 | 隅田川馬石 | |
16 | 1930年(昭和5年)10月 | 柳家甚語楼 | |
17 | 1932年(昭和7年)7月 | 3代目(本来5代目)古今亭志ん馬 | |
18 | 1934年(昭和9年)9月 | 7代目金原亭馬生 | |
19 | 1939年(昭和14年)3月 | 5代目古今亭志ん生 |
4代目古今亭志ん生は「志ん生」襲名のわずか1年後、ガンで没した。「志ん生」を襲名した歴代の落語家はみな早死にしているとされるため、5代目を襲名する際に危惧する声が上がったが、5代目志ん生は「5代目は長生きして看板を大きくすれば良い」と取り合わなかったという[47]。
メディアにおける志ん生
7代目馬生時代から5代目志ん生襲名前後の頃、落語全集の中に実演の速記が掲載され始め、「講談倶楽部」などの当時の落語雑誌に小噺や新作落語が多数発表されている。ただし、新作落語は雑誌発表用に作ったもので、実演用ではない[48]。
1932年(昭和7年)7月以降の3代目古今亭志ん馬時代、『元帳』を日本ポリドール蓄音器から発売。7代目金原亭馬生時代の1935年(昭和10年)、日本ビクター蓄音器からSPレコードで『氏子中』を発売した。3代目古今亭志ん馬時代から5代目古今亭志ん生襲名後まで、十数枚SPレコードを発売している。戦後出演したラジオ東京、ニッポン放送、NHK、電通制作地方局向け番組などのラジオ放送用の音源や東宝名人会での録音を大量に残し、それらをもとに各レコード会社がLPレコードやカセットテープで商品化した。21世紀に入った現在もなお、CDなどの媒体で流通しており、5代目志ん生の落語を聞くことは容易である。
その一方で、残っている映像は少ない。映画では『銀座カンカン娘』に落語家・桜亭新笑役で出演し、短縮版だが「替り目」を7分近く演じている(また、一人で「疝気の虫」を稽古しているシーンもある)。この映像は、現在確認されている限りでは、志ん生が演じる落語の映像としては最も古いものである。NHKでの落語の口演映像としては「風呂敷」「岸柳島」「おかめ団子」「鰍沢」が残されている。「鰍沢」は病後の録画で、短く編集されている。
ラジオ番組では落語の中継や録音の他に、インタビューやラジオドラマに出演。数は少ないがニュース映画やテレビ番組にも出演している。
また1981年にはNHK特集で「びんぼう一代~五代目古今亭志ん生~」と題して現存する映像や当時の著名人に取材したドキュメンタリーが放送された。
映画
- 『銀座カンカン娘』(新東宝、1949年)
- 『ひばりの子守唄』(大映東京、1951年)
- 『息子の花嫁』(東宝、1952年)
- 『クイズ狂時代』(東映東京、1952年)
- 『泣き笑い地獄極楽』(大映、1955年)
- 『大日本スリ集団』(東宝、1969年)
出演番組
落語の中継・録音番組を除く。
- 「光子の窓」(日本テレビ、1958年 - 1960年) ※テレビ黎明期のバラエティー番組。ゲストとして数回出演している。
- 「芸と人」(NHKラジオ) ※東京新聞記者でコラムニストの須田栄が、病後療養中の志ん生の自宅を訪問してインタビューしている。
- 「志ん生復活」(ニッポン放送、1963年) ※安藤鶴夫脚本のラジオドラマ。志ん生が出演し、安藤自身のナレーションで番組を進行。
- 「人に歴史あり」(東京12チャンネル、1968年) ※息子2人を含む弟子一同と出演。柳家金語楼や8代目桂文楽などがゲスト出演した。
- 「初笑いウルトラ寄席」(TBSテレビ、1973年) ※自宅で収録された映像。番組のオープニングで挨拶した。
- 「スター千一夜」(フジテレビ、1973年[49])
著書
- なめくじ艦隊 志ん生半生記(朋文社、1956年、のちちくま文庫)
- びんぼう自慢(毎日新聞社、1964年、のち立風書房→志ん生文庫→ちくま文庫)
- 志ん生長屋ばなし(立風書房、1970年、のち文庫→ちくま文庫)
- 志ん生江戸ばなし(立風書房、1971年)
- 志ん生滑稽ばなし(立風書房、1975年、のち文庫→ちくま文庫)
- 志ん生廓ばなし(立風書房、1970年、のち文庫→ちくま文庫)
- 五代目古今亭志ん生全集 全7巻(川戸貞吉・桃原弘編、弘文出版、1977年 - 1983年)
- 志ん生艶ばなし(立風書房・志ん生文庫、1977年、のちちくま文庫)
- 志ん生人情ばなし(立風書房・志ん生文庫、1977年、のちちくま文庫)
- 古典落語 志ん生集(飯島友治編、1989年9月、ちくま文庫)
- 志ん生芸談(河出書房新社、2006年7月)
5代目志ん生を扱った作品
- ※志ん生の半生を描いた作品で、本人も出演。長男・10代目馬生が自分の生まれた当時の父親役、次男・朝太(後の3代目志ん朝)が同じく父親の青年時代を演じた。このドラマには他にも多数の落語家が出演している。
- 『山藤章二のラクゴニメ』(ポニーキャニオン)
- ※志ん生の口演の音声は残っているが映像がほとんどないため、1990年代に当時のデジタル技術を駆使して、残されている収録音声と山藤章二の手によるイラストアニメを組み合わせ、高座姿のイメージを再現しようと企画された映像作品。当初はビデオ、後にDVDで販売されている。
- 「NHK特集 びんぼう一代 ~五代目古今亭志ん生~」(NHK総合テレビジョン、1981年)
- ※立川談志 、池波志乃 、3代目志ん朝、10代目馬生、林家木久蔵 、海野かつを 、橋達也 、団しん也 、金原亭駒平 、小沢昭一、小島貞二、林家彦六、坊野寿山、森繁久彌。池波志乃はこのミニドラマで、上述のドラマ「おりんさん」より以前にりん夫人を演じたことになる。また、小沢昭一は「高座で寝ていても、それが面白い」と称えられた、その高座を目撃したことを披露、森繁は、満州での志ん生とのエピソードを語っている。
得意演目
持ちネタの多さでも有名で、この点では5代目志ん生と6代目圓生が戦後東京落語の双璧とされる。限られた噺を徹底的に磨き抜くため演目の少なかった8代目文楽とは対照的である。
- あくび指南
- 井戸の茶碗
- 居残り佐平次
- 大津絵
- おかめ団子
- お直し
- 火焔太鼓
- 替り目
- 紀州
- 首ったけ
- 強情灸
- 黄金餅
- 権兵衛狸
- 三枚起請
- 鈴振り
- 品川心中
- 狸賽
- 茶金
- 付き馬
- 唐茄子屋政談
- 二階ぞめき
- 錦の袈裟
- 猫の皿
- 風呂敷
- 文七元結
- 牡丹灯籠
- 妾馬(別名:八五郎出世)
- もう半分
- らくだ
など多数 テンプレート:Refend
弟子
- 2代目古今亭甚語楼
- 金原亭馬子(女流)
- 10代目金原亭馬生
- 古今亭志ん治(師匠・志ん生が満州慰問していたため、5代目古今亭今輔門下で桃源亭花輔を経て鶯春亭梅橋)
- 初代金原亭馬の助
- 2代目古今亭志ん朝(後に廃業)
- 古今亭志ん好
- 3代目古今亭志ん朝
- 8代目古今亭志ん馬
- 2代目古今亭圓菊
- 3代目吉原朝馬
- 古今亭志ん駒(師匠志ん生没後は馬生一門に移籍し、後に落語協会分裂騒動の煽りを受けて志ん朝一門に移籍)
- 古今亭志ん五(師匠志ん生没後は志ん朝一門に移籍)
脚注
- ↑ 古今亭志ん生 『びんぼう自慢』288頁、矢野誠一 『志ん生のいる風景』 42-44頁。資料によっては父親の名を「戌行」と記しているが、「戌」は訓読みで「いぬ」と読む。「まもる」という意味の「戍」とは全く別の漢字であり、誤記である。
- ↑ 矢野誠一 『志ん生のいる風景』 42-44頁。5代目志ん生当人によれば生家は美濃部家の分家で旗本時代の禄高は八百石であり、美濃部本家は禄高三千石であったとの事だが、結城昌治の旗本武鑑を根拠とする調査結果では美濃部本家が禄高五百石、同族に七百石や八百石の家があるが祖父の名では該当者なし。しかし親類に禄高三千石余りの大身旗本があり、祖父が旗本だった事も間違いない、と推定している。ただし、同時に結城昌治は旗本武鑑そのものの信頼性に対する疑義も指摘している。
- ↑ 矢野誠一 『志ん生のいる風景』 43頁。支給金で本郷の切通しに土地を購入して家を建てたが、連帯保証の負債を清算するために程なく手放して神田亀住町の長屋に転居した。
- ↑ なお、この頃、「ステテコの圓遊」こと初代三遊亭圓遊と親密だったという。
- ↑ 5.0 5.1 5.2 5.3 5.4 5.5 5.6 5.7 古今亭志ん生 『びんぼう自慢』 321-341頁、年譜(小島貞二編)
- ↑ 矢野誠一 『志ん生のいる風景』47-83頁
- ↑ 「五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵)年譜」 『総特集古今亭志ん生』204頁
- ↑ 結城昌治 「美濃部孝蔵(五代目古今亭志ん生)年譜」 『志ん生一代 下巻』 321-326頁
- ↑ 橘左近 『東都噺家系圖』 81頁
- ↑ 小島貞二 『私の中の志ん生』
- ↑ 結城昌治 「美濃部孝蔵(五代目古今亭志ん生)年譜」 『志ん生一代 下巻』321-326頁
- ↑ 10代目金原亭馬生 「父・志ん生の人と芸」 『志ん生讃江』 46-51頁
- ↑ 川戸貞吉編 「五代目古今亭志ん生2 柳家小さん 川戸貞吉」 『対談 落語芸談4』 176-177頁。
- ↑ 金原亭馬生・小島貞二 「はだかの志ん生」 『総特集古今亭志ん生』 158-175頁
- ↑ 川戸貞吉編 「五代目古今亭志ん生2 柳家小さん 川戸貞吉」 『対談 落語芸談4』 179-180頁
- ↑ 16.0 16.1 6代目三遊亭圓生 『新版寄席育ち』 254-256頁。 後年、5代目志ん生は「物資不足で満足酒が飲めなくなったから満州に渡った」と語っていたが、実態は第三者からの依頼によるもの。6代目圓生は、母親の逝去で旅に出られなくなった5代目古今亭今輔の代わりに満州に渡った。
- ↑ 美濃部美津子 『三人噺』 50-54頁。空襲の度に恐怖でパニックを起こす5代目志ん生を長女である著者が見かねて、向こうは空襲がないからと話が来た時に満州行きをすすめた。
- ↑ 6代目三遊亭圓生 『寄席楽屋帳』231-232頁
- ↑ 通常の寄席興行を行わない月末の31日のこと。独演会などの特別興行を行うことが多い。
- ↑ 古今亭志ん生 『なめくじ艦隊』 294頁
- ↑ 6代目三遊亭圓生 『寄席楽屋帳』 234-240頁
- ↑ 美濃部美津子 『三人噺』 71-72頁。後に離婚したので姻戚関係は解消された。
- ↑ 矢野誠一 『志ん生のいる風景』 209-211頁
- ↑ 美濃部美津子 『三人噺』 68-69頁
- ↑ 結城昌治 「美濃部孝蔵(五代目古今亭志ん生)年譜」 『志ん生一代 下巻』321-326頁、橘左近 『東都噺家系圖』81頁を基に作成。
- ↑ 古今亭志ん生 『びんぼう自慢』297頁。5代目志ん生当人によれば6月5日生まれとの事だが、戸籍上は6月28日である。
- ↑ 小林信彦 『名人 志ん生、そして志ん朝』 〈朝日選書〉720、朝日新聞社、133頁
- ↑ 古今亭志ん朝 「名人と芸 ―おやじ志ん生と文楽」 『CDブック 完全版 八代目桂文楽落語全集』 37頁
- ↑ 京須偕充 「六代目三遊亭圓生 ―芸の非常と有情」 『みんな芸の虫』 12-13頁。6代目圓生は5代目志ん生の芸について「きちんと型があるうえで崩しているのであって、決して型無しではない」と評している。
- ↑ 三遊亭円生 「志ん生八方破れ一代記」 『総特集古今亭志ん生』 60-64頁
- ↑ 興津要『落語の風土』134頁。
- ↑ 宇野信夫 『私の出会った落語家たち 昭和名人奇人伝』 118頁
- ↑ 古今亭志ん生 『なめくじ艦隊』 232-236頁
- ↑ 矢野誠一 『志ん生のいる風景』 214-218頁
- ↑ 矢野誠一 『志ん生のいる風景』 240頁
- ↑ 矢野誠一 『志ん生のいる風景』 101-104頁
- ↑ 京須偕充『落語名人会 夢の勢揃い』74頁。
- ↑ 古今亭八朝・岡本和明編 『内儀さんだけはしくじるな』 216-217頁
- ↑ 京須偕充 『落語名人会 夢の勢揃い』 78-82頁
- ↑ 川戸貞吉編 「五代目古今亭志ん生3 小山観翁 川戸貞吉」 『対談 落語芸談4』 191-229頁
- ↑ 「ピンチよさようなら 師匠の大事と戦う 美濃部りん」『志ん生! 落語ワンダーランド』72頁、読売新聞 1962年(昭和37年)11月18日付
- ↑ 古今亭志ん生 『びんぼう自慢』 240-242頁、274頁、268-271頁。
- ↑ 江國滋 『落語手帖』 135-137頁
- ↑ 色川武大 『寄席放浪記』 56-57頁
- ↑ 川戸貞吉編 「五代目古今亭志ん生2 柳家小さん 川戸貞吉」 『対談 落語芸談4』 183-184頁。
- ↑ 保田武宏 『志ん生の昭和』 37-38頁より作成。
- ↑ 小島貞二『志ん生の忘れもの』173頁。
- ↑ 矢野誠一 『志ん生のいる風景』 129-138頁
- ↑ 川戸貞吉 『現代落語家論 下巻』 155-156頁
参考文献
- 色川武大 『寄席放浪記』(河出文庫、2007年)
- 宇野信夫 『私の出会った落語家たち 昭和名人奇人伝』(河出文庫、2007年)
- 江國滋 『落語手帖』(ちくま文庫、2005年)
- 興津要 『落語の風土』(読売新聞社、1975年)
- 川戸貞吉 『現代落語家論 下巻』(弘文出版、1978年)
- 川戸貞吉編 『対談 落語芸談4』(弘文出版、1993年)
- 古今亭志ん生 『なめくじ艦隊』(ちくま文庫、1999年)
- 古今亭志ん生 『びんぼう自慢』(小島貞二編 、ちくま文庫、2005年) ISBN 4-480-42045-2
- 京須偕充 『落語名人会 夢の勢揃い』(文春新書、2006年)
- 古今亭八朝・岡本和明編 『内儀さんだけはしくじるな』(文藝春秋、2008年)
- 小島貞二 『志ん生の忘れもの』(うなぎ書房、2000年)
- 橘左近 『東都噺家系圖』(筑摩書房、1999年)
- 美濃部美津子 『三人噺』(扶桑社、2002年)
- 保田武宏 『志ん生の昭和』(〈アスキー新書〉121、アスキー・メディアワークス、2009年)
- 矢野誠一編 『志ん生讃江』(河出書房新社、2007年)
- 矢野誠一 『志ん生のいる風景』(青蛙房、1983年)
- 結城昌治 『志ん生一代 下巻』(朝日新聞社、1977年)
- 6代目三遊亭圓生 『寄席楽屋帳』(青蛙房、2000年)
- 6代目三遊亭圓生 『寄席育ち』(青蛙房、1999年)
- 『CDブック 完全版 八代目桂文楽落語全集』(小学館、2000年)
- 『志ん生! 落語ワンダーランド』(読売新聞社、1998年)
- 『総特集古今亭志ん生』(〈KAWADE夢ムック文藝別冊〉、河出書房新社、2006年)
- 『NHK特集 びんぼう一代 ~五代目古今亭志ん生~』(NHKテレビジョン、1981年)
関連項目
- 古今亭志ん生 - 歴代「志ん生」一覧。
- 2代目快楽亭ブラック - 自ら「志ん生を越える」とばかりに改名を繰り返した落語家。計17回改名。
- 橘家文三 - 同じく改名歴が多い落語家。戻りの復名を入れると計16回改名。
- 新宿末廣亭 - 満州からの帰国後と病後、2回ともこの寄席から高座復帰。