鈴々舎馬風

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鈴々舎 馬風(れいれいしゃ ばふう)は、落語家名跡

先代は9代目と称していたが、馬風を名乗った人物は現在の所5人しか確認されておらず、当代の一門公式ホームページでも5代目と記されているため[1]、本項では当代を10代目ではなく5代目とする。

初代

初代五明楼玉輔1803年 - 1868年5月30日)が初代金原亭馬生の門下にいた時に名乗った。

2代目

江戸時代後期(逝去は1858年か?)に活躍。最初は初代林屋正蔵門下で正太郎、その後初代三遊亭三生の門下で三好(正太郎と三好は順序逆とも)。初代金原亭馬生の門下で馬童。天保末に2代目馬風を襲名。1849年頃に東屋清三郎と改名し、後に馬風に複名した。1858年5月の番付では、すでにコレラで番付中に見える。

3代目

幕末から明治時代初期に活躍。5代目三升家小勝が一時期門下におり、風鏡の名を貰っていたということ以外の詳細は一切分かっていない。

4代目(自称9代目)

テンプレート:落語家 4代目(自称9代目)鈴々舎 馬風1904年8月30日 - 1963年12月15日)は、東京府(現:東京都)出身の落語家。本名は色川 清太郎(いろかわ せいたろう)。出囃子は『さつまさ』。

実家は東京の仕出し屋。少年時代は柔道に明け暮れていたという、手のつけられない不良で、警察の世話に度々なったこともある。ある日留置所に放り込まれたが、その時に出された弁当が不味いと文句を言ったら「お前の店のだ」と逆に叱られ、家に帰って「俺が警察に捕まったらもっといい弁当を持って来い」と竹刀を振りまわして暴れたという。

1921年6月に6代目金原亭馬生(後の4代目古今亭志ん生)に入門し「金原亭 馬治」と名乗る。その後、3代目古今亭今輔一門に移り「今之助」と名乗った。1924年3月の師匠・今輔死去に伴い、前の師匠である馬生一門に復帰して「武生」と改名する。1926年に4代目志ん生が死去したため、4代目蝶花楼馬楽(後の4代目柳家小さん)門下に移籍。1927年9月、真打に昇進して「馬風」を襲名。

弟弟子・5代目柳家小さんがその前名・小三治時代に日本芸術協会移籍の話が持ち上がった。落語協会はそれを阻止するため、小さんの香盤を上げた。そのとき香盤を抜かれた2名のうち一人が同門の先輩である馬風だった。怒った馬風は一時期廃業し、タニマチに資金を出してもらってとんかつ屋を開店。しかし上手くいかなかったため、数年後に落語界に復帰している。

厳つい風貌から取った異名が「鬼の馬風」。元祖毒舌芸人として知られていて、新聞記事から拾ってきた出来事をベースとした新作落語(いわゆる「時事落語」)で一世を風靡している。例えば、「山でアベックが遭難したんだよ。数日後二人は無事山小屋で救出されたのはいいけどね、その時の男の言ったことが腹が立つじゃあねえか。『僕たち二人は純潔でした』って言いやがる。…何言ってやんでえ。山小屋に若いアベックが二人きりで純潔なこたァあるかい。馬風なら子供数人作っちまうよ」というかなりきわどい内容や、「なんでえ東大が! 東大からって威張るんじゃねえ! どうせこんなとこへ落語聞きに来ないから、悪口なんざ言っても構うもんけェ」と、従来の権威を徹底的に皮肉ったりした。また、最新の風俗や流行歌も過激にこき下ろした。大阪の都家文雄人生幸朗などが行った「ぼやき漫才」に似ている。ただし、現存するテープでは、ラジオ放送を意識してかなりソフトな内容である。

「エーッ、よく来たなァ」という前口上は多くの落語家に物真似され、とりわけ次代(5代目)は生き写しと評されるほどだという。その後に「どこから来るのか知らねえけど、よくあすんで(遊んで)られるなあ。よっぽど家にいられない事情があるんだろうなあ。お帰りよ!」と言ってから「嘘だよ! ひでえこと言っちゃったねえ、どうも」と頭を下げる様子に何とも言えぬ愛敬があった。また、「友よ、サラバ」というフレーズをよく使っていたが戦前は女学生が使って問題となるという逸話がある。

刑務所の慰問に行った際は、受刑者を前に、開口一番「満場の悪漢どもよ」「悪漢どもよ、よく来たなあ」と毒舌を吐き、「手前らいい所に住んでやがるなあ。三食ついているしテレビもある。俺なんか見てみろイ。テレビなんか家にあるもんか。いつも電気屋ン前に立って見てるンだ」と続けた[2]。この時昼食に出されたカレーがあまりにも不味いので、同行した8代目桂文楽らが辟易していると、馬風は一口食べて「うまい!」と叫んで全部平らげた。「粋なもんだねえ。なかなかできませんよ」と文楽は感心した。

イメージは「伝法」の一語に尽きる。いつも、よれよれの紋付き袴姿で現れ、楽屋で覚醒剤を打ったり賭博をすることは日常茶飯事であった。ある時なぞ、当時全生と名乗っていた前座時代の5代目三遊亭圓楽に「我がドクロ団に参加せよ」と強要した。「どんな団なのですか」と聞かれた馬風は、不敵な笑いをうかべて「上にいる奴の足を引っ張って、下から上がってくる奴を蹴落とすのさ」と答えた。また、扇子をよく忘れて若手から借りていたが、使い方が悪いためによく壊し顰蹙を買っていた。我慢できなくなった10代目柳家小三治が「師匠、返してください」と詰め寄ったところ、「冗談云っちゃいけねェ。こらァ、俺ンのだ。見ろィ!」と扇子を見せた。小三治が扇子を見ると、そこにはゴム印で「馬風」と押されていたという。このような乱暴なエピソードには事欠かなかった。

反面、上記の通り良家の出で、さらに当時の芸人では珍しく旧制の中学校を卒業しており、かなりの知性があった。落語界入り後、馬風を可愛がった5代目三升家小勝から「落語家は現代のことを知らないといけない」と教えられ、その日の朝刊には必ず目を通し、気になったニュースを選んで高座にかける精進を続けていた。しかし、以上のことを客にまったく感じさせない洗練さも持ち合わせていた。

馬風は物真似が得意で、5代目小勝や6代目春風亭柳橋2代目桂小文治の真似をして客席を沸かせた。持ちネタは、古典落語では『権兵衛狸』『夜店風景』。また、『蔵前駕籠』の改作『蔵前トラック』、『鰻屋』の改作『大蛇屋』、『幇間腹』の改作『拳闘幇間』などの奇妙な改作落語もあった。

ディズニーのアニメ映画『わんわん物語』(日本公開:1956年)の日本語吹き替え版声優のオーディションに出た際は、犬の物真似をして外人を仰天させ、出演を果たした。

晩年の1960年9月、愛用したヒロポンが原因で、中風で倒れる。病気になって気が弱くなった時、愛人がいることを妻に告げると、以後、妻は冷たくなり看病してくれなくなった。そのため睡眠薬を飲んで自殺を図ったが、女房が看護婦上がりだったので、薬を吐かされる。その後、弟子には「コレ(小指)がいることを女房にしゃべっちゃだめだぞ」と言い残したという。

右半身不随となるも高座への執着心を見せ、リハビリの末、1963年5月に高座復帰。カムバックの高座では万雷の拍手に迎えられ、「馬風さん! がんばれ!」との女性ファンの声援も飛んだ。その時の演目が『病院日誌』。入院中の体験をもとに医療体制の風刺をまぶした傑作であった。しかも「俺は思ったね。なんで馬風がこんな苦しい目に遭わなきゃいけねえんだい。なぜなんだいって…。しかし天は見放さなかったねえ。俺を! 志ん生がひっくり返ったと聞いたときのあの嬉しさ!」と発言して客席を爆笑させた。同じ頃演じた『よいよい談義』では「馬風も出るたンびによくなる。エエ、うれしいじゃねえか。お客様は災難だけどね。もうすぐよくなるから待ってろよ。本当に、じきに治ってやるからな」と完全復帰へのアピールをし、「踊り踊るなら〜東京音頭〜よいよい! ってんだ!」と自身の病状をギャグにする壮絶な芸人根性を見せた。

こうして呂律は怪しいながらも活動を進める馬風だったが、1963年12月15日、浅草北松山町の自宅で重い荷物を持ち上げようとしたところ、失敗して倒れ、59歳で逝去。死去日が力道山の没日と重なっていたため、スポーツ紙の一面はみな力道山の死で埋め尽くされていて、馬風の訃報は一段のベタ記事であった。しかし、それを枕でネタにした落語家はいなかったという。

一見乱暴だがどことなくおかしさの漂うキャラで、ファンはもとより、先輩の5代目小勝や8代目桂文楽5代目古今亭志ん生3代目三遊亭金馬らに可愛がられたが、本格的な古典を演じる6代目三遊亭圓生には徹底的に嫌われた。「何でげす。ありゃ落語じゃござんせん」と公言する圓生に、「何言ってやんでえ。『どうもこの、落語ってえのはこの』って言って目ヤニ取りやがって」と馬風は応じ、互いに悪口の応酬をしていた。圓生は「このエロ狸め、馬風見てえだ」(『お若伊之助』)とくすぐりに使うこともあった。この関係については、落語協会の騒動の種として懸念していた者も少なくなく、圓生が落語協会の会長に就任した時には、「馬風師匠が亡くなられてすぐに圓生師匠が落語協会会長に成られたのだから、馬風師匠にはかえってよかったかもしれない」と関係者は胸をなで下ろしたという。

目立った直弟子はいなかったようである。唯一と思われる弟子に馬次(のちに桂右女助(のちの6代目三升家小勝)門下に移籍して、桂右喜松)がいたが自殺。兄弟子に2代目柳家小満ん8代目金原亭馬生林家彦六(圓生の天敵)が、弟弟子に初代昔々亭桃太郎5代目柳家小さんなどがいる。

5代目(当代)

テンプレート:ActorActress 5代目鈴々舎 馬風1939年12月19日 - )は、千葉県野田市出身の落語家5代目柳家小さん門下。落語協会最高顧問。出囃子は「本調子のっと」。本名は、寺田 輝雄(てらだ てる)。

妻は浪曲出身の岡田美鈴二葉百合子の門下で元二葉百合江、馬風が司会を行った際知り合う)従兄に俳優波多伸二がいる。

子供の頃から落語を聴き落語家に志すようになるも、野田一中卒業後、父に落語家になることを相談するも反対され、父の床屋を継ぐために国際文化理容学校に入学。その後諦めきれず知人の太神楽鏡味一鉄の紹介で5代目小さんの内弟子になる。自称「小さんに一番愛された弟子」(嫌われたのは7代目立川談志10代目柳家小三治と続ける)。

異様に元気な、はきはきした喋りが特徴。セックス関係のブラックジョークを好む。豪放磊落な芸風、物真似上手なところなど、師弟関係は無いが「よく来たなァ」の先代馬風を彷彿とさせる。

柳家かゑる時代、日本テレビ笑点」の大喜利のレギュラーを一時期(1969年4月~11月)務め(当時の司会は兄弟子談志、同じく大喜利メンバーとして弟弟子柳家さん吉と共に出演していた)、他にもキックボクシングのリングアナウンサーや、歌手の公演の司会業も暫く行っていた。

馬風襲名後もテレビ東京の「爆笑!おもしろ寄席」の企画「ハリセン大喜利」で、ハリセン大魔王として活躍。悪い答えを出す大喜利メンバーを悉くハリセンで殴りまくり、この番組の司会者であったみのもんたをも、とちると容赦なく叩きつけていた(なお、当初はデーモン小暮閣下風、後に雷神や節分の鬼風のコスプレで登場した。特に後者は漫画家のみうらじゅんに絶賛された)。 更に日本テレビの特別番組「とんねるずの仁義なき花の芸能界全部乗っ取らせていただきます」や花王名人劇場「とんねるずの人生歌の通り生きてみました」では石橋貴明との遺恨が再燃し(もちろん演出)、銭湯で石橋の襲撃を受けた馬風は逃げる石橋を裸で追った(この他にも、ドッキリ企画で相模湖に落とされたことがある)。石橋の名を叫びながら追う姿は伝説となっている。このように昭和末期にはテレビのバラエティ番組でもその存在が一躍アピールされた。

十八番はその名も「会長への道」という「将来は落語協会の会長になることが目標」という野望を語る内容の新作落語(しかもブラックネタ)であった。だが、ネタを作った当時は健在であった落語家の中にも師匠小さん、3代目古今亭志ん朝を初めとして少なからず本当に鬼籍に入ってしまった者がいる上、そもそもこのネタを作った時点では談志圓楽志ん朝ら自分より明らかに格上の落語家が落語協会に所属しており、「絶対に馬風が会長になれるはずがない」と自他共に思っていたからこそなしえたネタである。しかし、落語協会分裂騒動により圓楽が協会から離脱、後に談志も協会から離脱、志ん朝も2001年に逝去して「ライバル」たちが次々に姿を消してしまうなど「幸運」に恵まれ、ついに2006年に本当に会長に就任してしまう。よって、さすがに現在ではこのネタが披露される事は無い。その上、今度は後輩の落語家たちが「会長への道」を利用して、「馬風もあと2、3年がヤマ」などとマクラやジョークに用いている。もっとも、当然ではあるがこの他にも新作落語を中心にいくつものネタを持つ、現在でもトップクラスの「笑わせる」技術を持った落語家である。

高齢ゆえに病を抱え会長職も満足に務めることが難しくなった事情から、2010年6月に開かれた理事会を最後に会長職を退き、最高顧問となった。その直前、「笑点」において自らが送り出す最後の真打4名の披露口上を番組司会・桂歌丸率いる落語芸術協会との合同形式で行った際、一応自らの弟子である山田隆夫(高座名:鈴々舎鈴丸)と因縁ある林家たい平から「6月で会長を退き、“組長”となる馬風“組長”よりご挨拶」と紹介された。これに「これからは、極道一筋に精進する。手始めに、小遊三をみっちり鍛え直す」と応じ、場内の笑いを誘った。

「会長への道」は演じなくなったが、現在もマクラで5代目小さん、談志、小三治などを相手にしたブラックジョークを連発するのがお決まりとなっている。

因みに「笑点」メンバー経験者の落語協会会長職就任は前任の3代目三遊亭圓歌に次いで2人目。また、落語協会から分裂した円楽一門会前総帥5代目三遊亭圓楽落語立川流家元談志そして、ライバル団体である落語芸術協会の会長桂歌丸も「笑点」メンバー(談志、圓楽、歌丸は司会経験者)であり、江戸落語の団体のトップが全て「笑点」メンバー経験者となっていた。また、現在の上方落語協会会長6代目桂文枝(前名・桂三枝)も新春「東西対抗大喜利」に出演していることから「笑点」に関わりがあるので、馬風が退任するまで東西落語界トップは皆「笑点」に関係ある人物となっていた。

来歴

得意ネタ

艶歌の花道
得意ギャグ美空ひばりメドレーは有名。「東京キッド」「哀愁波止場」「悲しい酒」「リンゴ追分」「港町十三番地」「川の流れのように」「車屋さん」「人生一路」「愛燦燦」「みだれ髪」「お祭りマンボ」」「」「真赤な太陽」等、ひばりのヒット曲を20曲以上メドレーで延々と熱唱する。
会長への道
噺家達を題材にしたブラックジョークを交え、落語協会会長という頂点を目指す自身の立身出世伝であるが、現実に会長となって以降演じることはなくなった。
峠の唄
上記「会長への道」をさらにブラックにした歌謡ネタ。落語協会幹部連中を滑稽に「今が峠」と歌い上げ、「いよいよ馬風の時代です~」と締めくくる。
男の井戸端会議
自身の体験した落語業界の裏話に時事ネタなどを織り交ぜた、いわば「会長への道」アレンジ版といった内容の漫談。場合によっては美空ひばりメドレーも披露する。近年は高座で古典はあまりやらず、かけるのはほとんどこのネタ。

古典落語では 「親子酒」「禁酒番屋」等の酒の入る噺等を得意とする。藤浦敦の後押しで「名月若松城」の大ネタも演じた。

一門弟子

ファミリー

色物芸人は通常寄席に出演する際は落語家の協会に所属する真打の落語家の内輪になる必要がある。このため以下の芸人は一門に連なってはいるが、落語家と異なり正式な師弟関係ではない。

妻の岡田美鈴はファミリーではないが落語会などにたびたび出演する。

著書

  • 『トルコへ10倍楽しく通う方法』英知出版 1983年5月
  • 『会長への道』小学館 1996年12月(装画は山藤章二

CD

主な出演作品

映画

テレビドラマ

脚注

  1. 5代目鈴々舎馬風プロフィール 鈴々舎馬風一門公式サイト
  2. なお、戦争中に中国戦線に慰問に行き、兵隊たちを前に同じような調子で話したところ、まったく受けず、若手将校が怒って射殺されそうになったことがあるという。木下華声『芸人紙風船』大陸書房より。

外部リンク

出典

  • 諸芸懇話会、大阪芸能懇話会共編『古今東西落語家事典』平凡社、ISBN 458212612X