南大東島

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断崖で囲まれた南大東島海岸

南大東島(みなみだいとうじま)は、沖縄本島の約400km東方(宮崎県の真南)に位置する大東諸島で、沖縄県内では6番目に面積が大きい。

近年、航空機の大型化などで観光客が容易に訪れることが可能になり、豊かな自然を生かした観光地としても注目されている。

開拓以来、八丈島系住民が沖縄県住民を使役する状態が続いたが、戦後解消されている。

地理

テンプレート:Climate chart

面積30.57km²[1]、周囲21.2km[2]、標高75m[3]の島で、気候亜熱帯の海洋性気候に属している。

サンゴ礁が隆起して出来た隆起環礁の島である。周囲は断崖絶壁で、島の北端から北に10kmの位置にある北大東島のほか沖大東島を除いては、周囲400kmに渡って陸地のない絶海の孤島である。また、島の周りの海は非常に深く、沖へ2kmほど出れば水深は1,000mに達する。

島の中央が窪んでいるため、海岸付近の標高が最も高く内陸に進むほど低くなる皿状の形態である。これは典型的な隆起環礁として世界の地形学の教科書では説明モデルにもなっている。また、2007年には大東隆起環礁として日本の地質百選に選定された。現在でも年7cmほど北に移動をしており、島の北部の「バリバリ岩」などで裂け目を見ることができる。

20世紀になるまでたまに漂着民が着く程度の未開拓の地であったこともあって、独自の生態系をもっている。

気象観測での重要な拠点であり、特に気象衛星が運用される以前の日本の台風観測で、欠かせない役割を果たしていた。

湖沼

島内には、大小無数の湖沼が存在し、淡水の湖沼の水は農業用に利用されている。また、地下にも湖が存在する。なお、海水と淡水の湖沼が入り組んでいるが、地下の構造メカニズムは不明。

カヌーによる池の遊覧ツアーも行われている。

  • 大池
    • 南西諸島で最大の天然の湖沼。淡水の池だが、海から切り離されたマングローブが自生している。これは植物学では極めて貴重な生態系とされ、「大池のオヒルギ群落」として国の天然記念物に指定されている。また池の中に複数の島が存在する。近くに鍾乳洞である星野洞がある。
  • 権蔵池
    • 1900年(明治33年)、開拓団が入った際に最初に見つけた池で、開拓団の一人であった沖山権蔵が発見した事から名付けられた(現在の大東神社付近から見つけられたらしい)。この池の発見が南大東島の開拓に大いなる勇気を与えた。なお、大池は水深はそれほど深くはないが、この権蔵池をはじめ島内の多くの池はドリーネに水が溜まってできた池であるため水深があり、池の淵からも急に深くなっている。

歴史

テンプレート:出典の明記

南大東村#歴史も参照
  • 1630年頃 オランダ人の手による欧製地図にて大東諸島が「Amsterdam」という名にて登場(ただしかなりの昔から沖縄の人達の間では、ずっと東のほうにある島という意味で「大東島(ウフアガリジマ)」と呼ばれていた)。
  • 1820年 ロシア人、ポナフィディンが大東諸島を発見、「ボロジノ諸島」と名付けられる(この頃から欧米地図では「ボロジノ諸島」とされる)。
  • 1885年 日本領土として編入される。
  • 1900年 玉置半右衛門を中心とした八丈島からの開拓団により、大東諸島の開拓が開始される。
    戦前は、南大東島で製糖業を営む企業である玉置商会〜東洋製糖〜大日本製糖が島全体を所有していた。特例として町村制は施行されず、それらの各企業に島の自治が全面的に委ねられていたため、日本の行政機関による地方行政がおよばず、公的届出なども事実上不可能な「社有島」であった。島民は、一部の管理的役職の者を除けば全て製糖会社にサトウキビを納める小作農であり、島への渡航手段から商店・学校・郵便局などにいたるまで全て社有であった。また、島民は重労働を強いられた上に収穫されたサトウキビは安く買い叩かれたほか、無許可の離島が禁じられるなど厳しい監視下に置かれていた。一方で、戦前この島を支配していた大日本製糖は「この島こそが植民地経営の最も貴重な参考資料である」と自画自賛していた[4]
  • 1914年 八丈島系住民と沖縄系住民の対立激化。
  • 1919年 大東寺建立。この頃、島内の人口が4,000人を超える。
  • 1942年 日本軍駐屯開始。
  • 1944年 戦況悪化のため、島民は八丈島や九州、沖縄本島へ強制疎開を命じられる。
  • 1945年 2月から6月にかけてアメリカ軍の激しい空爆に晒される。4月1日、大東寺焼失。
  • 1946年 沖縄のアメリカ軍政開始により、製糖会社による島の支配から脱する。村制が施行され、南大東村に。人口1,458人。
    村制施行により大日本製糖の販売店の建物に村庁舎が設置される[5]
  • 1950年 トタン葺ぶき木造の村庁舎建設[5]
  • 1960年 鉄筋コンクリート2階建ての村庁舎建設[5]
  • 1972年 沖縄返還に伴い日本領に復帰。
  • 1979年 電話がダイヤル自動化され、即時通話可能に(通信衛星による。市外局番は09802、市内局番は2)。
  • 1989年 南大東漁港・山羊鼻地区の整備事業が始まる[6]
  • 1997年 新南大東空港の供用開始[7]
  • 2001年 鉄筋コンクリート2階建ての新・村庁舎が完成[5]
  • 2012年 トノサマバッタが島全体で大量発生しサトウキビに被害[8]

行政

全域が沖縄県島尻郡南大東村に属する。

1946年琉球列島米国民政府の統治下に置かれるまでは日本領でありながら特定の自治体に属さず、1900年玉置半右衛門による入植以降、玉置商会〜東洋製糖〜大日本製糖が島を「所有」し、現在に至るまで島の中核産業である製糖工場に付属する私設の学校病院郵便局まで設置される極めて特殊な自治体制が敷かれていた。

脚注

  1. 国土交通省 沖縄の島面積
  2. 南大東島のデータ(沖縄県企画部地域・離島課)
  3. 沖縄県市町村別最高点一覧
  4. 会社統治領(無人島開拓編)
  5. 5.0 5.1 5.2 5.3 テンプレート:Cite news
  6. テンプレート:Cite news
  7. テンプレート:Cite news
  8. テンプレート:Cite news
テンプレート:脚注ヘルプ

参考文献

  • 南大東村誌(改訂).1990年.南大東村役場編

関連項目

外部リンク

テンプレート:大東諸島