内モンゴル自治区
テンプレート:基礎情報 中華人民共和国の一級行政区画 内モンゴル自治区(うちモンゴルじちく、テンプレート:Lang-zh-short,テンプレート:Lang-en-short)は、中華人民共和国が1947年にモンゴルの南部に設置した省級の自治体。中国領土の北沿に位置する自治区。モンゴル語での名称は日本語に直訳すると「南モンゴル自治区」となる。
目次
地理
東西に長く伸びており、東から順番に黒竜江省・吉林省・遼寧省・河北省・山西省・陝西省・寧夏回族自治区・甘粛省と南に接し、北はモンゴル国・ロシア連邦と接している。面積は、日本の約3倍。
民族
内モンゴル自治区と名のつくものの、中華人民共和国建国以来60年間にわたる漢民族移入によって漢民族が人口の80%以上を占めるにいたっており[1]、その他モンゴル族・ダウール族・エヴェンキ族・オロチョン族・回族・満洲民族・朝鮮族などが居住している。このため自由を求めるモンゴル族は分裂主義者として拘禁されることとなっている[1]。内モンゴル自治区内のモンゴル族は発表統計から400万人を超えているとみられるが、モンゴル国の270万人(2004年)と比べるとあきらかに自治区内のモンゴル族の人口の方が多い。
歴史
モンゴル帝国以前
50万年前から20万年前ごろの原人の化石が見つかっている。紀元前4700年から紀元前2900年にかけては紅山文化が燕山山脈の北方に栄え、紀元前20世紀ごろにはオルドス人が住みつき始め、春秋戦国時代には趙・燕と匈奴との間で抗争が繰り広げられた
モンゴル帝国
1206年に建国した大モンゴル国(後に大モンゴル帝国)のチンギス・ハーンの弟ジョチ・カサルの領地となり、のちにはその子孫が支配する。1368年にモンゴル人が作った元が漢民族の明によって滅び、帰還したモンゴル人が、西部のオイラート・モンゴル(現在のカザフスタンや中央アジア)、ハルハ・モンゴル(現在のモンゴル国)、内モンゴルに大きく三つに分けられ、互いに権力争いを続ける。そうした中、1646年、満州の女真人が内モンゴルと手を結び、明を倒し、清の時代が始まる。
清朝による征服
1688年、モンゴル西部オイラート・モンゴルが作ったジュンガル王国のガルダン・ハーンが対ハルハ戦争を行い、成功したが、ハルハ・モンゴルの貴族が逃げ、1691年に清の支配を認める。ガルダン・ハーンがハルハ戦時中に甥のツェウェーン・ラウダンに王位を奪われ、後ろからの援助が止まる。1694年、事実上、最後の統一したモンゴルの王ガルダンが現在のモンゴルの中心部(現在のウランバートルのあたり)で清、ハルハ・モンゴル、内モンゴル軍の連合軍と死ぬか生きるかの戦いに出たが、圧倒的に強い連合軍に破れ、大敗する。その後、半世紀にわたり、1755年、ハルハ・モンゴルと内モンゴルの手を借りた清がジュンガル王国を倒し1755年モンゴルが独立を失う。
辛亥革命後
1911年、中国では辛亥革命後中華民国が成立するとともに、モンゴルが独立を宣言し、内モンゴルも合併を申し出た。1913年にモンゴル軍が内モンゴル解放戦争をはじめ、ほぼ全域から中華民国軍を追放した。しかし、帝政ロシアの介入で、この解放戦争は失敗に終わる。1915年6月7日、モンゴルの国境にあるキャフタで露・蒙・華三国の間でキャフタ協定が結ばれ、中華民国北京政府は内モンゴルと外モンゴルを自治区とした(ただし外モンゴルは広範な自治権を獲得した)。
その後、内モンゴルでは、中国に進出していた日本の関東軍の援助で、清朝皇帝愛新覚羅溥儀を元首として建国された満州国とチャハル部出身のデムチュクドンロブ(徳王)によって1939年張家口に蒙古聯合自治政府が成立した。1945年8月、ソビエト連邦軍(赤軍)の侵攻に満州国と蒙古連合自治政府は崩壊する。
内モンゴル自治区の成立
中国共産党の影響下で蒙古自治邦政府(1941年蒙古聯合自治政府が改称、戦後解散)に対し抵抗運動を指揮したモンゴル族のウランフ(烏蘭夫)が、1947年に内モンゴル自治区の成立を宣言し、内モンゴル自治区人民政府が成立した。これが現在の内モンゴル自治区の起源で、中華人民共和国の自治区としては最も早い成立である。徳王は内モンゴルを追われ、外モンゴル(モンゴル人民共和国)へ逃亡を図り、逮捕される。外モンゴルは独立の道を歩んだが、内モンゴルは中国共産党の影響があったとはいえ、同じモンゴル族同士の運動と対立の結果自治区となった。
その後ウランフは文化大革命の勃発により失脚し、1966年から内モンゴル人民革命党粛清事件によってモンゴル人数十万人が粛清された[2]。1967年フフホトに革命委員会が成立した。中ソ対立の軍事的緊張下に1969年には内モンゴル生産建設兵団が設置され、1970年には行政区画の大幅な変更が行われた。これによって内モンゴル東部は東北三省に、西部は寧夏、甘粛に分割されたが、1979年旧に復した。
現在ではモンゴル自由連盟党や内モンゴル人民党などが内モンゴル独立運動を行っている[2]。南モンゴル民主連盟(en)代表のハダが拘束されるなどモンゴル民族の運動は徹底的に取り締まられている[3]。
行政区画
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9地級市(地区クラスの市)、3盟を管轄する。下級行政区単位としては21市区、11県級市(県クラスの市)、17県、49旗、3自治旗がある。
経済
農業・畜産業を主要な産業として、鉄鋼業・林業などもある。主要な農作物はソバで、日本に輸出されている。ブドウ栽培とワイン製造を始めた地域もある。豊富な石炭と天然ガスのほか、希土類の生産量は中国一。石炭は年間5億トンの産出を目指す。独立国モンゴルよりも内モンゴル自治区は経済発展を遂げている。 2009年のGDPは1420億ドルで、前年より17%伸びた。この高い経済成長で、他の中国都市と同じように商業施設やマンションの建設ブームとなっている。風が強いため風力発電を始めた地域がいくつかある。 最西部に衛星打ち上げ基地の一つ酒泉衛星発射中心がある。1958年に中国で初めて設立された。内モンゴルは宇宙船の帰還場所でもある。
文化
言語
中国語とモンゴル語が公用語である。ただし、モンゴル国で使用されるモンゴル語と内モンゴル自治区で使用されるモンゴル語には違いがあり、前者はハルハ方言、後者はチャハル方言である。
漢族は地域により様々な方言を話す。東部では官話方言に属する東北方言を話す傾向があるが、黄河盆地一帯の中部では晋語が話されている。フフホトやパオトウではそれぞれ独特の晋語方言が使われており、ハイラル区など、北東地域で話される晋語方言と互いに意思疎通が困難な場合がしばしば見受けられる。
交通
空港
教育
脚注
関連項目
- 内蒙古:外藩蒙古のうち、南方に位置する諸部族。
- 内モンゴル人民党
- ガーダー・メイリン
- ドゴイラン運動
- ゴビ砂漠
- 中華人民共和国の行政区分
- 中華民国の行政区分
- 中国本土(チャイナ・プロパー)
- 蒼国来栄吉 - 自治区出身の大相撲力士
- 長山藍子 - 自治区(現在のフフホト市)生まれの日本の女優。
- 内モンゴル独立運動
外部リンク