ヴィリニュス
ヴィリニュス(テンプレート:Lang-lt)はリトアニア共和国の首都で、同国最大の都市である。人口は 558,165 人(2009年現在)。かつてポーランド領だったこともある。
バルト三国で唯一海に面していない首都で、バルト海に面したリトアニア主要港のクライペダからは 312 km 離れている。
ヴィリニュスは、テンプレート:仮リンク・テンプレート:仮リンク沿いに位置し、リトアニアの南東と地理的に偏ったところにある。これは過去数世紀の間に国境の形が変わっていったことと関係している。かつてリトアニア大公国の時代にヴィリニュスは国土の中央にあった。
1994年に旧市街はユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。また、2009年には欧州文化首都に選ばれたこともある。
目次
都市名の表記
日本語ではヴィリニュスのほか、原語の発音に最も近いヴィルニュスとも表記される。新聞などではビリニュスやビルニュスとも表記される。
スラヴ語の名はヴィリナ(Вильна)、ヴィリノ(Вільнo)・ヴィリニャ(Вільня)。
歴史
中世
リトアニア大公国の王ミンダウカスの居城の一つとして、この地に城が作られたのは13世紀であった。ゲディミナス朝の中興の祖・ゲディミナスによって公国の領土は、ベラルーシ、ウクライナ、そしてドニエストル川全域、さらにはポーランドやロシアの一部にまで拡大したが、テンプレート:仮リンクとテンプレート:仮リンクという二つの航行可能な河川が流れ、森林と湿地に守られたヴィリニュスは公国の統治・防衛に好都合で、首都として機能するようになる(1323年、ゲディミナスがローマ教皇ヨハネス22世に宛てた書簡に都として名前が登場する)。
ゲディミナスの子アルギルダスの死後、大公の座をめぐって紛争が起こるとヴィリニュスは戦禍に見舞われる。勝者となったヨガイラは、ポーランド女王ヤドヴィガと結婚し、ポーランド・リトアニア合同が誕生した。ヨガイラによってヴィリニュスはマクデブルク法の自治を獲得する。ヴィリニュスは順調な発展を続け、16世紀に入ると城壁も整備され、ジグムント2世の宮廷もここに移された。ヴィリニュスは公国領の各地から集った多様な民族で殷賑を極めた国際都市へと発展した。1579年にはヴィリニュス大学が創立される。
17世紀を迎えると、ポーランド・リトアニア共和国は、衰退が始まる。大洪水時代である。ロシア・ポーランド戦争では、ヴィリニュスはロシア帝国およびザクセン公国軍に占領され放火・略奪・大虐殺の甚大な被害を受ける。1710年には、ペストの大流行で1700人を超える市民を失い、さらに度重なる大火で、市は18世紀を通して衰退を極めた。さらに、ポーランド・リトアニア共和国は、プロイセン王国、ロシア帝国、オーストリア大公国の三列強により3度にわたって分割される。特に、1795年の第3次分割で、ヴィリニュスはロシア帝国に編入され、ヴィリニュスにはヴィルナ・グベールニヤの庁舎が置かれた。ロシア帝政下で、ヴィリニュスの城壁は破壊された。
1812年ロシア戦役では、モスクワ攻略に向かうナポレオン・ボナパルトによって、ヴィリニュスは再び破壊されたが、しかし、ナポレオンの大陸軍は、当初、市民には歓迎された。1831年、第1回反ロシア蜂起(11月蜂起)が起こるとヴィリニュス大学は閉鎖され、ヴィリニュスは圧政下に置かれた。1863年に始まる第2回反ロシア蜂起(1月蜂起)は、激しい市街戦となり、鎮圧したロシアは、リトアニア語とポーランド語を禁じるロシア化政策を強行、リトアニア人がヴィリニュスをそしてリトアニアを離れることになった。
20世紀
20世紀初頭にはヴィリニュスでリトアニア語を母語とする市民はごく少数しか残っていない惨状に至った。第一次世界大戦中、ヴィリニュスはドイツ帝国の占領下に置かれた。ドイツ占領下で、リトアニアは独立を宣言。ドイツ軍撤退後、ヴィリニュスはポーランド民兵部隊の支配下に置かれた。ポーランド・ソビエト戦争が起こると、ヴィリニュスは、赤軍とポーランド軍の度々の戦場となる。リトアニアは、ソ連とポーランドの双方を相手に戦いながら(en:Lithuanian–Soviet War、en:Polish–Lithuanian War)、1920年リトアニア共和国を宣言。しかし、その首都としてヴィリニュスを認めたくないポーランドは、7月にソ連とリトアニア間で締結された条約(en:Soviet–Lithuanian Peace Treaty)を無視して、ヴィリニュスへ軍事侵攻。10月7日にテンプレート:仮リンク締結後、en:Żeligowski's Mutinyがヴィリニュスを占領すると、10月12日に傀儡国家の中部リトアニア共和国が作られ、その数年後ポーランドに編入された。ポーランドによる侵攻以後、リトアニア共和国は首都機能をカウナスに移転し、その後22年間カウナスが「臨時首都」とされたが、憲法上はあくまでもヴィリニュスを首都として規定していた。ポーランド領となったヴィリニュスではポーランド語やイディッシュ語が話されるようになった。
第二次世界大戦が勃発すると、1939年、ヴィリニュスは、ソヴィエト連邦(ソ連)とリトアニアによってポーランド支配から奪還される。ソ連軍はすぐにヴィリニュスから撤退、リトアニアが自治を回復したかに見えた。しかし、翌1940年にリトアニアはリトアニア・ソビエト社会主義共和国となり、事実上ソ連に併合されて内務人民委員部(NKVD)によって市民4万人以上が逮捕・殺害され、極東シベリアのグラグに連行された。さらに市内の工場にある機械は全て外部に持ち出された。ナチス・ドイツがバルバロッサ作戦を開始するやヴィリニュスはナチスに占領され、大きなユダヤ人社会のあったヴィリニュスには二つのゲットー(ヴィリニュス・ゲットー)が作られユダヤ人が隔離された。最終的に多くのユダヤ人の命が奪われた(詳細は、en:Ponary massacre及びリトアニアにおけるホロコーストを参照。)。1944年には再び、ヴィリニュスはソ連の支配するところとなり、多くのアールミヤ・クラヨーヴァ(テンプレート:Lang-pl-short、略称: AK)が処刑された。また今度はインテリ階級が逮捕・強制連行され、シベリアのグラグ送りとなった。1949年、なおもソ連から独立闘争を続けるリトアニアは、人民の敵とソビエト連邦共産党から認定され、一般市民まで数十万人がシベリア・中央アジアに強制連行された。
1990年、ヴィリニュスの共和国最高会議議長に就任した非共産党員ランズベルギスは、ソヴィエト連邦を構成する共和国で真っ先に独立を宣言、リトアニア共和国が復活した。1991年1月にゴルバチョフ政権は、テレビ塔や放送局を急襲、14人を殺害、独立阻止を企てた(血の日曜日事件)。8月、ソ連8月クーデターでリトアニア共和国の独立が認められた。リトアニア共和国憲法は第17条で、リトアニアの首都はヴィリニュス市であると規定している。
民族構成
ヴィリニュスはテンプレート:仮リンクの非常に少ない街で、全住民におけるリトアニア人の割合はロシア統治下の1897年では2.1%[1]、ドイツ統治下の1916年では2.6%[2]であった。1931年におけるヴィリニュスの民族構成は以下の通りである[3]。
- ポーランド人 – 65.9%
- ユダヤ人(ポーランド語とイディッシュ語の両方を話す) – 28.0%
- ロシア人 – 3.8%
- ベラルーシ人 – 0.9%
- テンプレート:仮リンク – 0.8%
- ウクライナ人 – 0.1%
- その他 – 0.2%
特に、現在世界遺産となっているヴィリニュス歴史地区(旧市街)の住民のほぼ 100 % はポーランド人であった[4][5]。しかし第二次世界大戦でヴィリニュスがソヴィエト連邦領となりリトアニア・ソヴィエト社会主義共和国に併合されると、戦後この街のポーランド人の多くがポーランドへと追放され、住民はリトアニア人とロシア人に取って代わられた。
2001年の統計では、ヴィリニュス市内の住民542,287人の構成は以下のようになっている。
地形
国土の南東部に位置し、ネリス川とヴィルナ川の合流地点にある。ヴィリニュスという名は、このヴィルナ川に由来する。ヨーロッパの地形上の中心に位置している。バルト海に面するクライペダへは312kmの内陸部である。カウナスへ102km、シャウレイへ214km、パネヴェジースへ135kmである。
気候
ケッペンの気候区分では亜寒帯湿潤気候(Dfb)に属する。年間平均気温は6.1℃、1月の平均気温は-4.9℃、7月は17.0℃である。年間降水量は平均で661 mm。夏は30℃を越えることも珍しくない。冬は氷点下が普通で、湖は氷結し、氷上の穴釣り(ice fishing)が人気のある娯楽である。 テンプレート:-テンプレート:Infobox Weather
経済
ヴィリニュスはリトアニアの人口の15%であるが、GDPの25%、国家予算の37%を占めている。バルト三国でも主要な金融都市に成長している。FlyLalの本社などがある。
交通
- ヴィリニュス・バス・ターミナル
- ヴィリニュス駅
- 旧市街の南にある。隣がヴィリニュス・バス・ターミナルである。ワルシャワ方面の国際列車は運休中で、モスクワ(ベラルースキー駅)やサンクトペテルブルク(ヴィチェプスク駅)などロシアへの国際列車が毎日運行されている。モスクワへの列車はベラルーシを経由する。夏季には、シンフェロポリなどウクライナ方面への国際列車もリガからヴィリニュス経由で運行される。国内ではカウナスなどへの路線がある。
- 市の南5kmにある。市のバス(1番または2番)で、ヴィリニュス駅や中心部に出られる。リトアニア航空がハブ空港としてきたが、経営難から運行が停止された。ラトビアのエア・バルティックがセカンドハブとして、この空港を利用しているが、ヴィリニュスの国際路線は年々急速に減少している。空港ターミナルは1950年代の典型的な旧ソ連建築であったが、シェンゲン協定の規定に準拠した新しいターミナルが完成した。
市の公共交通としては、60を超えるバス路線と20を超えるトロリーバス路線がある。トロリーバスのネットワークはヨーロッパでも最大規模である。トラム建設の計画はかねてからあるが、未だ実現していない。また地下鉄建設の計画もある。
ヴィリニュス旧市街
テンプレート:Infobox 旧市街の面積は、3.6平方キロメートルと欧州内でも最大級であり(東欧最大)、歴史的・文化的事物が集積されている。バルト三国のリガやタリンと較べて、旧市街地には城壁など明瞭な境界がなく、また旧市街地が形成される過程で、ドイツ騎士団やハンザ同盟の影響は見られない。旧市街の建築物は約1,500ほどあり、様々なスタイルのものが見られる。バロック様式のものが多いように思われているが、実際にはゴシックやルネッサンス様式もある。旧市街は1994年に世界遺産に登録されている。
主な観光地は以下の通り。
登録基準
この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。テンプレート:世界遺産基準/coreテンプレート:世界遺産基準/core
ギャラリー
スポーツ
バスケットボールが盛んで、リトアニア・バスケットボール・リーグやバルティック・リーグに加盟している強豪・BCリェトゥヴォス・リータスが有名。競技場としては11,000人を収容するシーメンスアリーナがあり、重要なバスケットボールの試合はここで行われる。姉妹都市
- アスタナ(テンプレート:Flagicon カザフスタン)
- アルマトイ(テンプレート:Flagicon カザフスタン)
- ウッチ(テンプレート:Flagicon ポーランド)
- エアフルト(テンプレート:GER)
- エディンバラ(テンプレート:Flagicon イギリス)
- オスロ(テンプレート:Flagicon ノルウェー)
- オールボー(テンプレート:DEN)
- キエフ(テンプレート:Flagicon ウクライナ)
- キシナウ(テンプレート:Flagicon モルドバ)
- グダニスク(テンプレート:Flagicon ポーランド)
- クラクフ(テンプレート:Flagicon ポーランド)
- 広州市(テンプレート:Flagicon 中国)
- ザルツブルク(テンプレート:Flagicon オーストリア)
- サンクトペテルブルク(テンプレート:Flagicon ロシア)
- シカゴ(テンプレート:Flagicon アメリカ合衆国)
- ストックホルム(テンプレート:Flagicon スウェーデン)
- ストラスブール(テンプレート:Flagicon フランス)
- 台北市(テンプレート:TAI)
- タリン(テンプレート:Flagicon エストニア)
- ティラナ(テンプレート:Flagicon アルバニア)
- デュースブルク(テンプレート:GER)
- ドニプロペトロウシク(テンプレート:Flagicon ウクライナ)
- ドネツィク(テンプレート:Flagicon ウクライナ)
- パヴィア(テンプレート:Flagicon イタリア)
- ピレウス(テンプレート:GRE)
- ブダペスト(テンプレート:Flagicon ハンガリー)
- ブリュッセル(テンプレート:Flagicon ベルギー)
- マディソン(テンプレート:Flagicon アメリカ合衆国)
- ミンスク(テンプレート:Flagicon ベラルーシ)
- モスクワ(テンプレート:Flagicon ロシア)
- ヨエンスー(テンプレート:Flagicon フィンランド)
- リガ(テンプレート:LAT)
- レイキャヴィーク(テンプレート:ICE)
- ワルシャワ(テンプレート:Flagicon ポーランド)
脚注
関連項目
1991年(平成3年)- 9月、リトアニア政府のヴィータウタス・ランズベルギス議長は、杉原の功績を讚えるため、通りの一つを「スギハラ通り」と命名している。
外部リンク
テンプレート:Sister テンプレート:欧州連合加盟国の首都 テンプレート:East-europe-stub テンプレート:North-europe-stub テンプレート:リトアニアの世界遺産テンプレート:Link GA
テンプレート:Link GA
- ↑ Demoscope.
- ↑ Michał Eustachy Brensztejn,1919 "Spisy ludności m. Wilna za okupacji niemieckiej od. 1 listopada 1915 r." Biblioteka Delegacji Rad Polskich Litwy i Białej Rusi, Warsaw
- ↑ "Drugi Powszechny Spis Ludności z dnia 9 XII 1931 r." Statystyka Polski, volume D issue 34, year 1939
- ↑ "Drugi Powszechny Spis Ludności z dnia 9 XII 1931 r." Statystyka Polski, volume D issue 34, year 1939
- ↑ Michael MacQueen, The Context of Mass Destruction: Agents and Prerequisites of the Holocaust in Lithuania, Holocaust and Genocide Studies, Volume 12, Number 1, pp. 27-48, 1998