ヨハン・バイエル
ヨハン・バイエル[1](Johann Bayer, 1572年 - 1625年3月7日)はドイツの法律家。名はヨーハン[2][3]とも、姓はバイアー[4]ともバイヤー[5]とも表記することがある。
生涯
バイエルは、1572年にバイエルン地方のラインという町に生まれた。1592年よりインゴルシュタットで学び、後にアウクスブルクに移り住み、生涯のほとんどをそこで過ごした。アウクスブルクでは、1625年に亡くなるまで市議会付の法律顧問を務めた。1603年、31歳のときに全天星図『ウラノメトリア』Uranometria を発刊した。
バイエルの職業は、しばしば天文学者として紹介されている。しかしながら、そもそも天文学者とはティコ・ブラーエやガリレオ・ガリレイのように天体観測を行うか、ニコラウス・コペルニクスやヨハネス・ケプラーのように天体理論を構築する人物のことであるが、バイエルは星図書1編を著したのみで、それ以外の天体観測記録や天体理論は何一つ知られていない。
『ウラノメトリア』の発刊
テンプレート:Main 非専門家のバイエルが天文学界においてその名を知られるようになったのは、先述の『ウラノメトリア』によるものである。この星図書にはいくつかの特徴があり、後代の天文学や星座の記述に多大な影響を及ぼした。
バイエル星座
『ウラノメトリア』がそれ以前の星図と異なっていたのは、北半球の中緯度地方で見ることのできない天の南極付近の星々からなる星座を収録したことである。それらはバイエル星座と呼ばれる。バイエル星座は次のとおり:(五十音順)
なお、「しいら座」は日本では「かじき座」と呼ばれており、「みつばち座」は後に「はえ座」に改名された。
バイエル符号
テンプレート:Main 『ウラノメトリア』ではまた、図版上で各星にギリシア文字やローマ文字を添えた。これは後の天文学者によって恒星の表示法として転用されバイエル符号と呼ばれる。バイエル符号を用いた恒星の命名法は、現在でも公式に使われている。
バイエル - シラー同一人物説
『ウラノメトリア』よりほぼ四半世紀後の1627年に、同じアウクスブルクで 『キリスト教星図』と呼ばれる星図書が刊行された。この星図の編著者のユリウス・シラーが、バイエルと同一人物ではないかと考えられたことがあった[6][7][8][9]。シラーがバイエルと同じアウクスブルクで活躍した同郷の士であり、シラーもまたバイエルと同じ法曹であり、ともに星図書を刊行するなどの共通点が見られたからである。しかしながら、『キリスト教星図』がカトリック教会の教義に則って作成されているのに対して、バイエルは「プロテスタントの口」(Os Protestantium) とアダ名されるほど熱心なプロテスタント信徒であったことから、互いに対抗勢力の側にあった両者が同一人物であったとは考えにくく、この説は現在では否定されている[10][11]。
関連項目
関連事項
関連人物
脚注
参考文献
- 原恵 (1975)『星座の神話 - 星座史と星名の意味』〈天文ライブラリー4〉恒星社厚生閣
- 原恵 (1991)「J. シラーの『キリスト教星図』」『星の手帖』vol.53, 星の手帖社
- 原恵 (1997)『星座の神話 - 星座史と星名の意味』(新装改訂版・2刷)恒星社厚生閣
- ↑ 人名としての独立した項目はないものの、文部省 (1994)『学術用語集 天文学編』(増訂版)、丸善、3, 162ページ(「バイエル星座」として)や国立天文台編『理科年表』、丸善(年表において)、天文年鑑編集委員会編『天文年鑑』2009年版、誠文堂新光社(星座の設定者として)、293, 295ページでは「バイエル」と表記しているので、本項でもこれに従う。
- ↑ 原恵 (1975) 26-27, 60ページ。
- ↑ 原 (1991) 19ページ。
- ↑ 原 (1975) 26-31, 60-63ページ、et passim. 原は、Kepler → ケプラー、Schiller → シラーなど、同書の 「他の人名の読み方と同じ方式に従」ったとしている。
- ↑ 原 (1991) 19-20ページ。千葉市立郷土博物館の刊行物で採用している表記でもある。
- ↑ 原 (1975) 29-31ページ。
- ↑ 野尻抱影 (1957)「歴史的にみた古星図」野尻抱影編『星座』〈新天文学講座1〉、恒星社厚生閣、96ページ。
- ↑ 鈴木敬信 (1986)『天文学辞典』地人書館、528ページ。
- ↑ アイザック・アシモフ (1971)『科学技術人名事典』皆川義雄訳、共立出版、テンプレート:Factページ。
- ↑ 原 (1991) 19-20ページ。
- ↑ 原 (1997) 30-31ページ。