ミホノブルボン

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テンプレート:出典の明記 テンプレート:Infobox ミホノブルボンは日本の元競走馬、元種牡馬1992年の第52回皐月賞第59回東京優駿(日本ダービー)を無敗で制した中央競馬二冠馬1991年JRA賞最優秀3歳牡馬、1992年JRA賞年度代表馬および最優秀4歳牡馬。JRAによるヒーロー列伝のキャッチコピーは「スパルタの風。」

当時最新の施設であった坂路での調教によって鍛え上げられた分厚いトモ(腰から臀部にかけての筋肉)を持ち、機械のように正確なペースで逃げを打つことから、「坂路の申し子」「サイボーグ」「栗毛の超特急」など数々の異名で呼ばれた。

(以下、デビュー前および競走馬時代の馬齢は旧表記(数え年)とする)

出自

ミホノブルボンは1989年4月25日カツミエコーの初仔として北海道門別町の原口牧場で誕生した。ミホノブルボンの父マグニテュードは、それまで桜花賞エルプスを輩出していたものの、生産界ではミルジョージ代替種牡馬というポジションであった。また、母父シャレーも、1970年代後半から1980年代前半にかけて人気種牡馬であったダンディルート(産駒にビゼンニシキなど)の代替種牡馬であった。さらに、母カツミエコーが地方競馬南関東公営)の下級条件(1勝)馬で、さらに初仔ということもあり、生まれた当初のミホノブルボンの評価は非常に低く、わずか700万円(資料によっては750万円とするものもある)という低額で取引された。

取引された時点では低評価であり、後年はハードトレーニングをこなした馬としてクローズアップされてはいるが、父マグニテュードは血統だけは超一流と言って良い馬であり[1]、母系も曾祖母が名牝スターロツチの妹と、ある程度は強調できる水準の血統背景も持ち合わせていた。

戦績

3歳時代

1991年6月6日栗東トレーニングセンター戸山為夫厩舎に入厩し調教を積み始めた。そして9月7日、ミホノブルボンは中京競馬場新馬戦(芝1000m)でデビュー、坂路調教で古馬顔負けのタイムを連発した(当時、古馬でも坂路500mを31秒台で走ればいいタイムと言われていたが、ミホノブルボンはデビュー前にして29秒9という驚異的なタイムを記録していた)こともあり圧倒的な1番人気(単勝1.4倍、2番人気ダイタクガイアは6.3倍)に支持された。レースではスタートで1000mという距離では致命的ともいえる出遅れをしながらも、最後方から直線一気の末脚(上がり3ハロン33.1)で差しきり、58.1秒の3歳コースレコード(当時)で優勝した。なおデビューから引退まで調教師戸山為夫の弟子である小島貞博が手綱をとった。2ヶ月後11月23日東京競馬場の500万下条件戦(芝1600m)は2番手から抜け出し2着に6馬身をつけて勝利する。

同年12月8日、この年から3歳牡馬チャンピオン決定戦としてリニューアルされた第43回朝日杯3歳ステークスに出走。鞍上がやや抑え、2番手から早めに先頭に立ち、直線強襲してきたヤマニンミラクルをハナ差抑えて優勝し、単勝1.5倍の1番人気に応え、騎手の小島貞博とともにGl初勝利を飾った。ミホノブルボンは3戦3勝の成績で3歳を終え、同年のJRA賞最優秀3歳牡馬に選出された。

4歳時代

翌1992年、ミホノブルボンはシンザン記念から始動する予定であったが1月8日、坂路調教中に左腰を捻挫したためこれを回避。4ヶ月の休養を挟んで3月29日第41回スプリングステークスに出走した。ここでは朝日杯での辛勝ぶりと血統[2]から距離限界説が持ち上がり、戸山調教師からも「納得のいかないレースをするようなら皐月賞をきっぱりあきらめ短距離路線を進む」との発言もあった。スプリングステークスでは、ノーザンテースト産駒の大物と言われた武豊騎乗のノーザンコンダクトが1番人気となった。ミホノブルボンは生涯唯一の2番人気となったが、レースではミホノブルボンは重馬場の中を単騎先頭に立ち、2着に7馬身差をつけて優勝した。なお、この競走では長距離で活躍することとなるライスシャワーが4着、短距離で活躍することとなるサクラバクシンオーが12着と、それぞれ異なる距離で活躍する馬が3頭出揃った唯一のレースとなった。

同年4月19日第52回皐月賞もハナを切り、良馬場発表とはいえ午後から降り始めた雨のせいで決して馬場状態の良くない中を前半1000mを59.8というペースを刻み、終始セーフティリードをキープ、直線に入るとさらに末脚を伸ばし後続を突き放した。ナリタタイセイが直線追い上げたものの最後は鞍上が追うことをやめ、2着に2馬身1/2差をつけて逃げ切り、ミホノブルボンは5戦全勝のままクラシックを制覇した。また鞍上の小島貞博にとってデビュー22年目40歳にしてこれがクラシック初制覇となった。

同年5月31日第59回東京優駿(日本ダービー)では、ミホノブルボンの父マグニテュードの産駒の多くが短距離馬であったことから距離限界説もささやかれ、15番という外枠からの発走であったが、前日の雨で稍重ということもあり1番人気に支持された。レースではスタートから先頭に立ち、他馬に影をも踏ませることなく2着のライスシャワーに4馬身差をつけて圧勝し、前年のトウカイテイオーに続きデビューから6戦6勝の無敗で牡馬クラシック二冠を制した。このレースの場内実況を担当したラジオたんぱ白川次郎アナウンサーは「これは強い!!とてつもない強さ!!」と実況した。 テンプレート:Main2

同年6月11日北海道早来町の吉田牧場に放牧に出され夏を越し、9月9日に栗東に帰厩。そして10月18日菊花賞トライアルの第40回京都新聞杯に出走し、2分12秒0の日本レコード(当時)で逃げ切り勝利、重賞5勝目を飾った。

同年11月8日、本番の第53回菊花賞では、日本ダービーよりも600m長い3000mという距離に距離限界説が再燃したがその一方で、シンボリルドルフ以来となる無敗の三冠馬誕生も期待され、ここでも圧倒的1番人気(単勝1.5倍、2番人気ライスシャワーは7.3倍)に支持されていた。レースでは事前に逃げ宣言をしていたキョウエイボーガンが先頭に立ち、ミホノブルボンは2番手を追走する形となった。ミホノブルボンは最終第4コーナーで先頭に立つが、残り100mで、スプリングステークスから負かし続けてきたライスシャワーにかわされ、さらに内から伸びてきたマチカネタンホイザにもかわされかけた。ミホノブルボンはマチカネタンホイザは差し返したが、結局1馬身1/2差でライスシャワーの2着に敗れた。しかしながらミホノブルボンの走破タイム、3分05秒2は従来のレコードタイムを更新するものであった。 3歳G1を勝ってからの無敗の三冠馬はまだ誕生していない為、もし菊花賞を勝っていれば史上初の快挙となっていた。(その後ナリタブライアンが3歳G1を勝ってから三冠馬になったが、その前に函館3歳ステークスで負けている)。

その後はこの年から国際Glに格付けされた第12回ジャパンカップを目指し調整されていたが、11月24日、脚部不安を発症しジャパンカップ出走を断念。12月3日には有馬記念を回避することを正式に決定した。菊花賞後は一度もレースに出走していないが活躍が認められ、1992年JRA賞年度代表馬およびJRA賞最優秀4歳牡馬(旧称。現在のJRA賞最優秀3歳牡馬)に選ばれた。翌年も復帰を目指したが1月27日に右後脚脛骨骨膜炎を発症していることが明らかになり更なる長期休養を余儀なくされる。2月4日に早来の吉田牧場に放牧に出され療養していたが、4月7日、右後脚第3中足骨を骨折してしまった。5月29日管理していた戸山調教師の死去に伴い鶴留厩舎に転厩、さらに9月21日に松元茂樹厩舎に転厩した。10月13日には福島県いわき市競走馬総合研究所常磐支所に移動し懸命に復帰を目指したが結局かなわず、1994年1月19日に現役引退を正式に発表、同年2月6日に東京競馬場で小島貞博騎手を背にダービー優勝時のゼッケン「15」をつけて引退式を行い競走生活にピリオドを打った。

競走成績

年/月/日 競馬場 レース名 距離 騎手 重量
人気/
頭数
タイム
1着馬(2着馬)
1991/テンプレート:09/テンプレート:07 中京 3歳新馬 芝1000 小島貞博 53 テンプレート:Color 1/13 R58.1 (ホウエイセイコー)
11/23 東京 3歳500万下 芝1600 小島貞博 54 テンプレート:Color 1/11 1:35.1 (クリトライ)
12/テンプレート:08 中山 朝日杯3歳S テンプレート:Color 芝1600 小島貞博 54 テンプレート:Color 1/ 8 1:34.5 (ヤマニンミラクル)
1992/テンプレート:03/29 中山 スプリングS テンプレート:Color 芝1800 小島貞博 56 テンプレート:Color 2/14 1:50.1 (マーメイドタバン)
テンプレート:04/19 中山 皐月賞 テンプレート:Color 芝2000 小島貞博 57 テンプレート:Color 1/17 2:01.4 (ナリタタイセイ)
テンプレート:05/31 東京 東京優駿 テンプレート:Color 芝2400 小島貞博 57 テンプレート:Color 1/18 2:27.8 ライスシャワー
10/18 京都 京都新聞杯 テンプレート:Color 芝2200 小島貞博 57 テンプレート:Color 1/10 R2:12.0 (ライスシャワー)
11/テンプレート:08 京都 菊花賞 テンプレート:Color 芝3000 小島貞博 57 2 1/18 3:05.2 ライスシャワー

種牡馬時代以降

1994年、日高軽種馬農業協同組合種牡馬生活に入った。地方競馬では重賞勝ち馬を出したが、JRAの重賞勝ち馬は出ていない。日高軽種馬農業協同組合を退厩後は、生まれ故郷である日高町のファニーフレンズファーム(旧:原口圭二牧場)で繋養された。同牧場代表で生産者である原口圭二がインタビューにおいて「今でも、現役の種牡馬ですよ。その方が馬も幸せでしょう。毎年、4・5頭は配合しているよ。自分でも配合しているし」というコメントをしており[3]、同牧場において種付けを行っていた。2012年11月1日付で用途変更となり種牡馬を引退。その後は原口の義理の息子が経営するスマイルファームで余生を送っている。

1996年にはJRAのコマーシャルに出演し、その背中に女優の鶴田真由が跨った。2000年日本中央競馬会が実施した「20世紀の名馬大投票」で7474票を集め第17位となった。2004年6月13日にはJRA50周年記念キャンペーン(JRAゴールデンジュビリーキャンペーン)の一環として中京競馬場で「ミホノブルボンメモリアル」という名称の競走が行われた(勝ち馬はエリモハリアー)。2007年7月8日放送の『ドリーム競馬』内の特集でお笑い芸人間寛平がミホノブルボンに跨る一幕があった。2010年8月8日函館競馬場でお披露目され、パドックを周回した。

主な産駒

  • ミヤシロブルボン(南部駒賞・東北サラブレッド3歳チャンピオン)
  • ナムラライジン(福島3歳ステークス)
  • メモリーフォーラム(北関東ダービー・北関東皐月賞)
  • メモリーブロンコ(北関東ダービー・北関東菊花賞・スプリンターズカップ・スプリンターズ賞・エメラルドカップ)
  • トップコーリング(牛若丸ジャンプステークス)
  • シュイベモア(種牡馬)

鍛えて作り上げた最強馬

当時関係者の間では、ミホノブルボンは本質的に短距離馬であると言われており、調教師の戸山為夫自身も「本来はスピードのみに恵まれた天性のスプリンター」と述べていた。しかし戸山は「鍛えて強い馬を作る」という信念のもと、徹底的に鍛え上げることで距離の限界も克服できると考え[4]、ミホノブルボンに入厩当初から1日4本もの坂路調教を課した[5](一旦は1日5本を課したがさすがのミホノブルボンでも体調を崩したため、4本に戻されたという)。また3歳時に坂路調教を1日4本こなしたのはミホノブルボンが初めてといわれている。

このハードトレーニングによって鍛えられたミホノブルボンは距離限界説を退けて2400mの日本ダービーで優勝、戸山の理論を体現する馬となった。その後戸山はミホノブルボンの故障が回復しない事を気にしながら、1993年5月29日に病没した。くしくもこの日は栄光のダービー制覇から1年、第60回日本ダービーの前日であった。

馬名

馬名のミホノブルボンは、「ミホノ=冠名」に「ブルボン=16世紀末からフランスに栄えたブルボン王朝」をつなげたものである。ただし、外国表記は「Mihono Bourbon」で、外人記者には「ミホノバーボン」と呼ばれて(bourbonはバーボンとも読めるため)「名の由来は毛色がバーボン・ウイスキーの色に似ているからか?」などという声もあった。

血統表

ミホノブルボン血統ミルリーフ系ナスルーラ系) / Nearco 5×5=6.25%)

* マグニテュード
Magnitude
1975 鹿毛
Mill Reef
1968 黒鹿毛
Never Bend Nasrullah
Lalun
Milan Mill Princequillo
Virginia Water
Altesse Royale
1968 栗毛
*セントクレスピン
St. Crespin
Aureole
Neocracy
Bleu Azur Crepello
Blue Prelude

カツミエコー
1983 青毛
* シャレー
Chalet
1976 青鹿毛
Luthier Klairon
Flute Enchantee
Christiana Double Jump
Mount Rosa
ハイフレーム
1968 栗毛
* ユアハイネス
Your Highness
Chamossaire
Lady Grand
カミヤマト *ライジングフレーム
コロナ F-No.11-c
  • 母の半兄トウショウハイネス(父ダンディルート)は中央競馬で5勝したほか高知で二十四万石賞などに勝ち、引退後は種牡馬となった。

脚注

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関連項目

外部リンク

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  1. Mill Reefエプソムダービーキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス凱旋門賞を同一年に制覇し、史上初のヨーロッパ3大競走制覇(欧州三冠)をした名馬中の名馬であり、母Altesse Royale英1000ギニー英オークス愛オークスを制した名牝である。
  2. 父マグニテュードの血統は特に短距離血統ではなかったが、代表産駒が主にマイル以下の距離で活躍したエルプス等だったことから短距離血統のイメージが拭えなかったと須田鷹雄が「20世紀の名勝負100」で語っている。
  3. 馬産地コラム 名馬を訪ねて あの馬は今Vol.23〜皐月賞・ミホノブルボン(競走馬のふるさと案内所、2007年5月2日)
  4. 主戦を務めていた小島貞博も常に周囲で囁かれていた距離不安説に悩み、戸山に相談する事がしばしばあった。しかし戸山は一貫して「スピードにものを言わせてハナを切れ(先頭に立てという意味)。バテたらそれまでの馬だという事」と答えていた。これは戸山が1ハロン(約200メートル)12秒という理想的なラップタイムを、いかなる距離でもミホノブルボンであれば確実に刻めると確信していたためだったという。
  5. 優駿 1992年 3月号 12p