クレタ島
テンプレート:Redirect テンプレート:Infobox クレタ島(テンプレート:Lang-el / Kriti ; テンプレート:Lang-en)は、ギリシャ共和国南方の地中海に浮かぶ同国最大の島。古代ミノア文明が栄えた土地で、クノッソス宮殿をはじめとする多くの遺跡を持つ。また、温暖な気候や自然景観から地中海の代表的な観光地でもある。
クレタ島は島全体で、ギリシャ共和国の広域自治体であるペリフェリア(地方)を構成する。首府はイラクリオ(イラクリオン)。
目次
名称
日本語では「クレタ」で定着しているが、現代ギリシャ語の発音 テンプレート:IPA-el に従えば「クリティ」である。
ホメーロスの『オデュッセイア』に初めて「クレーテー」(テンプレート:Lang-grc / Krētē)の名が登場するが、語源は不明である。ラテン語で「クレタ」(Creta)となった。
アラビア語ではもともと、Κρήτη をもとに「イクリーティシュ」(テンプレート:Lang-ar / Iqrīṭiš)と呼ばれていたが、9世紀にクレタ首長国テンプレート:Enlinkが首都「ラブド・アル・ハンダク」(テンプレート:Lang-ar / Rabḍ al-ḫandaq、現在のイラクリオン)を建設すると、首都と島は「ハンダクス」(Χάνδαξ / Khandhax)や「ハンダクス」(Χάνδακας / Khandhakas)として知られるようになった。この名は、ラテン語およびヴェネツィア語で「カンディア」(Candia)と転記され、ここからさらにフランス語で Candie、英語でCandyやCandiaと表記されるようになった。
オスマン帝国の支配下では、オスマン語で「ギリット」(كريت / Girit)と呼ばれた。
地理
位置・広がり・面積
クレタ島は、ギリシャ本土から約160km南に離れた地中海東部に位置し、エーゲ海の南縁をなす。島の北側(エーゲ海側)の海はクレタ海、南側はリビア海とも呼ばれる。クレタ島の西北側にはペロポネソス半島とそれに付随する島々があり、アンティキティラ海峡を隔ててアンティキティラ島が浮かんでいる。また、クレタ島の東側には、カソス海峡を隔ててドデカネス諸島に属するテンプレート:仮リンクがある。
クレタ島は、東西の長さが260kmであるのに対して、南北の幅は広いところで60km、狭いところ(イエラペトラ付近)で12kmほどという、細長い形状の島である。海岸線の長さは1,046kmに及ぶ。面積は8,336平方キロメートルで、ギリシャ共和国最大の島であるとともに、地中海ではシチリア島、サルデーニャ島、キプロス島、コルシカ島についで5番目に大きな島である。
行政区画としてのクレタ地方(Περιφέρεια Κρήτης)は、南方沖に浮かぶガヴドス島やイラクリオ沖のディーア島など、クレタ島周辺の小島嶼も範囲に含める。クレタ地方に隣接する行政区画は、ペロポネソス半島側がペロポネソス地方、ドデカネス諸島側が南エーゲ地方となる。
地勢
クレタ島の最高峰は、島の中部にそびえるイディ山(プシロリティス、2,456m)である。クレタ島は全体に山がちな地形であり、山々は西部のレフカ・オリ山地(主峰はテンプレート:仮リンク、2,452m)、中部のイディ山地(主峰はイディ山)、東部のディクティ山地(主峰はテンプレート:仮リンク、2,148m)といったいくつかのグループに分けられる。
これら多くの山々はまた、多くの盆地や谷を形成している。イディ山西南側のケドロス山テンプレート:Enlink(1,776m)との間にあるアマリ谷テンプレート:Enlinkや、ディクティ山北側のテンプレート:仮リンクは、山間に開けた肥沃な土地となっている。また、国立公園に指定されている西部のサマリア渓谷や、同じく西部のテンプレート:仮リンクをはじめとして、多くの渓谷・峡谷がある。
気候
テンプレート:Climate chart クレタ島は、地中海と北アフリカの気候区にまたがっている。
島の大部分は地中海性の気候であり、温暖である。海との距離によって空気も湿潤であり、冬も気候は穏やかである。山岳部では11月から5月にかけて降雪がみられ、山頂では一年を通じて雪を戴いているが、低地での降雪はまれであり、降ったとしても積雪することはまずない。2004年2月には大寒波が襲来し、全島にわたって積雪したことがあるが、これは非常にまれな事例である。夏季には、日平均気温が20度台後半から30度台前半で推移するが、最高気温は30度台後半から40度台前半に至ることもある。
島の南側の沿岸部では北アフリカの気候区分に属し、一年を通じて日照時間は長く、高温である。ナツメヤシが実を結び、ツバメもアフリカへの渡りを行わずに一年中留まる。島の東南部のイエラペトラなどでは、冬季に温室で夏の野菜や果物を生産している。
主要な都市
人口1万人以上の都市には以下がある。
- イラクリオ (イラクリオ県イラクリオ市) - 130,914人
- ハニア (ハニア県ハニア市) - 53,373人
- レティムノ (レティムノ県レティムノ市) - 27,868人
- イエラペトラ (ラシティ県イエラペトラ市) - 11,678人
- ネア・アリカルナソス (イラクリオ県イラクリオ市) - 11,551人
- アイオス・ニコラオス (ラシティ県アイオス・ニコラオス市) - 10,080人
クレタ島最大の都市は、首府である中部のイラクリオである。この町は歴史上カンディアとも呼ばれた。西部のハニアがこれに続く。このほか、人口1万人以上の都市には、中西部のレティムノ、東部のアイオス・ニコラオスやイエラペトラなどがある。主要都市は北岸(クレタ海側)に集まっており、南岸(リビア海側)に位置するのはイエラペトラのみである。イエラペトラは「ギリシャ最南端の町」であるとともに、「ヨーロッパ最南端の町」ともされる。
歴史
ミノア文明
クレタ島はヨーロッパにおける最初の文明のひとつであるミノア文明が栄えた。当時の社会については、伝えられるべき文字が遺されなかったため、遺構から類推するよりほかないが、平和で開放的であったと考えられている。ミノア期の遺跡には、壮麗な石の建築物や複数階の宮殿があり、排水設備や、女王のための浴場、水洗式のトイレがあった。水力を動力とする仕組みに関する技術者の知識はとても高度なものであった。エジプトなどとの交易によってもたらされた遺物から、ミノア文明は、紀元前3000年頃からクノッソスが衰退した紀元前1400年頃ごろまで栄えたと考えられている。
その当時クレタ島で使われていた言語はミノア語であると考えられている。ミノア語はアルファベットとは異なる象形文字を持ち、これを線文字Aと呼ぶ。線文字Aはいまだ解読されていないが、後世に書体が簡略化された線文字Bは1952年、マイケル・ヴェントリスによって、ギリシャ語である事が判明した。 またミノア語からはクレタ語と呼ばれる言語が派生したと考えられているが、現在は死語であり、資料も地中海沿岸で発見されたものがわずかにあるだけで、これについて分かっていることは非常に少ない。
ポリス時代
ギリシャ各地にポリスが出現していた時代のものとして、クレタ島ドレロス (Dreros、現在のドリロス、アイオス・ニコラオスとプラカ (Plaka) の中間)からは現存する最古(紀元前7世紀)の成文法が発掘されている。コスモスと呼ばれる高位役職者の連続した就任を禁じ、再任の場合には10年を経る事を定めたものであり、特定の者に権力が集中する事を防ぐことを狙ったものとみられる。
クレタ島のポリス時代には、他のギリシャ各地とは異なる点が多々ある。
- クレタでは葬制および宗教的慣行について、他のギリシャ各地とは異なり、暗黒時代から前古典期までの連続性がみられる。
- 祭祀が行われた場所は洞穴や山頂など野外であり、神殿のような建造物が少なかった。この事は神殿をアクロポリスに建設し、これを中心に人々が集まってポリスを形成していった他のギリシャ各地と異なっている。前8世紀末から前7世紀にドレロス、ゴルテュン (Gortyn、プリアニスでも神殿が建てられていくが、他の地域の神殿とは構造上の違いがある。)
- 中央部ギリシャで考古学上の痕跡としてみられる、前8世紀に起きた社会の再編成が、クレタ島にはそのような現象が起きていない。
クレタ島史の研究に際しては、前6世紀を通じて考古史料が激減しており、前6世紀初頭の解明が重要な課題とされている。 南クレタの都市国家ゴルテュンでは都市の法律が誰もが目にする公共広場アゴラのわきにある壁の一面に刻まれていた。このゴルテュン法典はクレタその他の南の島々で使われたドーリア方言で書かれた。壁の碑文は、人が立って読むのにちょうどよい高さ1.5メートルくらいの位置に横幅9メートルにわたって刻まれた。全部で600行からなり、商業や契約に関する法も記されていたが、大半は私法的規定である。
古代ローマ帝国から中世へ
紀元前27年、現リビアのキレナイカ地方とあわせて、ローマ帝国がキレナイカ属州を設置。ローマ帝国の東西分裂後は東ローマ帝国 が領有を継承した。
5世紀ごろ、キリスト教の布教が始まる。7世紀末 - 8世紀、クリトのアンドレイが主教を務めた。
824年、イベリアのイスラム教徒が侵入。カンディア (Candia、現在のイラクリオン) を建設、テンプレート:仮リンク(824年 - 961年)の首都とする。以降東ローマ帝国による奪還まで、東地中海で略奪を働く海賊の拠点となった。961年、東ローマ帝国が奪回した。
ヴェネツィア共和国の統治
1204年、十字軍に参加していたヴェネツィア共和国により征服される。これによりルネサンス文化が伝えられ、エル・グレコ、テンプレート:仮リンク(哲学者)、テンプレート:仮リンク(詩人)などの活躍につながる (テンプレート:仮リンク)。
1348年、ペストが大流行する。以降、1398, 1419, 1456, 1523, 1580, 1592, 1678, 1689, 1703, 1816の各年にも大流行が見られた。これにより人口が流出することもあり、人口が2/3となったこともあった。島外へ逃れたものの中には、テンプレート:仮リンクのように大陸で大成功を収めたものもあった。
1492年、スペインのレコンキスタから逃れてきたユダヤ人がクレタ島に流入。1627年にはカンディアのユダヤ人の住民は800人、島の人口の7%を占める。
1574年、ジャコモ・フォスカリーニ (Giacomo Foscarini) による非カトリック住民への圧政が始まる。ギリシャ人やユダヤ人には高税が課せられる。この圧政はオスマン帝国による征服まで続く。
オスマン帝国の統治
1644年から1669年にかけて、キョプリュリュ・アフメト・パシャが大宰相として率いるオスマン帝国が、クレタ島の領有権をめぐって争い (テンプレート:仮リンク、テンプレート:仮リンク)、結果的にオスマン帝国領となる。これにより宗教の違いによる弾圧的な扱いは撤廃され、どの住民も経済的にほぼ等しい権利を持つとして扱われた。現地のギリシャ人がムスリムに転向する例が増える (その後の1900年では、島内のムスリム人口は11%。これらの人々は1923年の住民交換でトルコに強制移住)。オスマン帝国の支配下では、キリスト教徒による反乱が散発した。
近代
テンプレート:Main テンプレート:節stub 直接の当事者であるオスマン帝国/トルコとギリシャの争いに加えて、欧州列強の介入により国際政治の上では翻弄され続けた歴史を持つ。
- 1830年のロンドン議定書により、オスマン帝国からエジプト (オスマン帝国の属州だったが、ムハンマド・アリー朝としてほとんど独立状態であった) に移される。これ以降、クレタ州成立までキリスト教徒による反乱が散発する。
- 1840年にオスマン帝国に戻される (第二次エジプト・トルコ戦争でエジプトの戦力に脅威を覚えた欧州列強の介入による)。
- 1866年、en:Cretan Revolt (1866–1869)。
- 1888年、クレタ議会選挙で急進派が多数を占めたことから、オスマン帝国がクレタ島に派兵。議会はそれ以降、ギリシャへの併合を目指す。
- 1896年、在アテネの民族協会とギリシャ海軍がクレタに派兵(el:Κρητική Επανάσταση (1895-1898))。欧州列強がクレタ島を封鎖し、これを阻止。
- 1898年、列強の圧力により、オスマン帝国の宗主権の元で自治権を持ったクレタ州 (Cretan State) が発足。司法顧問にヴェニゼロスが着任。ゲオルギオス1世の次男ゲオルギオス王子が1898年から1906年までクレタ総督の地位にあった。
- 1905年、en:Theriso revolt。
- 1913年、第一次バルカン戦争の結果、オスマン帝国が領有権を放棄し、ギリシャ領となる。
- 1922年、希土戦争の結果ローザンヌ条約が締結され、これにより翌1923年からテンプレート:仮リンクが開始された。イスラム系住人の多くはアナトリア半島沿岸部、シリア、レバノン、エジプトに移住させられたが、その一部は現在から見るとギリシャ人であったとされている。同時にスミルナをはじめとする小アジアからはギリシャ人が移住してきたが、彼らは習慣、方言、食生活等、以前からクレタ島にいた住人とは大きな相違があった。結果的に、クレタ島の民族構成は非常に大きく変わった。
- 1936年、ギリシャ本土のクーデター(八月四日体制)に反抗し、暴動が発生。戒厳令が敷かれる。
- 1941年、第二次世界大戦中にイギリス軍が進駐。本土がドイツ軍に占拠されたため国王、首相がクレタに避難。その後ドイツ軍はクレタにも進軍し、5月に激しい戦闘の舞台となった (クレタ島の戦い)。落下傘部隊を中心とするドイツ軍がクレタ島に侵攻し、駐留していたイギリス軍を追い出した。国王と首相はカイロに逃れ、ドイツ軍の駐留は第二次大戦終了まで続き、この間島の西側の2/3はドイツが、東側 1/3 はイタリアが占領する状態が続いた。ドイツ降伏後はギリシャに支配権が戻った。
- 1943年、ギリシャ人民解放軍 (ELAS) がその最盛期には、島内の山間部を支配していた。
- 1944年、イギリスの圧力により ELAS 撤退。
戦後、ギリシャ本土は王党派と共産主義のせめぎ合いで内戦状態であったが、クレタの住民は全体的に、イギリスが支援していた王党派 (中道右派) を好みながらも、本土とは距離を置いていた。本土で1967年に起きた軍事クーデター以降は、本土との交通、通信の発達の寄与もあり、政治的距離は縮まっている。
社会
宗教
なお、ギリシャ共和国の主要宗教はアテネに大主教座を置くギリシャ正教会であるが、クレタ島だけは同じ正教会でもトルコのイスタンブルにあるコンスタンディヌーポリ総主教庁の管轄下にある。
行政区画
テンプレート:Infobox Peri GR 島全体で一つのペリフェリア(地方)である。
県
クレタ地方は、4つの行政区(ペリフェリアキ・エノティタ)から構成されている。なお、下表の4つの行政区は西から順に配列している。人口は2001年現在。
2010年の地方制度改革(カリクラティス改革)以前は、自治体としての県(ノモス)であったが、2011年1月1日にノモスが廃止されて行政区となった。
行政区名 | 綴り | 政庁所在地 | 面積 Km² | 人口 | |
---|---|---|---|---|---|
1 | ハニア | Χανιά Chania |
ハニア | 2,376 | 150,387 |
2 | レティムノ | Ρέθυμνο Rethymno |
レティムノ | 1,496 | 81,936 |
3 | イラクリオ (イラクリオン) |
Ηράκλειο Iraklio |
イラクリオ (イラクリオン) |
2,641 | 292,489 |
4 | ラシティ | Λασίθι Lasithi |
アイオス・ニコラオス | 1,823 | 76,319 |
市
クレタ地方には、基礎自治体である市(ディモス)が24ある。
交通
道路
島の北岸を東西に走る GR-90 が幹線であり、欧州自動車道路にも指定されている。
- E65号線テンプレート:Enlink : 〔… - カラマタ〕 - キサモス - ハニア
- E75号線テンプレート:Enlink : 〔… - アテネ〕 - ハニア - イラクリオン - シティア
- 主要な高速道路・自動車道路
- GR-90号線テンプレート:Enlink : キサモス - レティムノ - イラクリオ - シティア
- GR-97号線テンプレート:Enlink : レティムノ - ゴルティナ - イラクリオ
空港
港湾
- イラクリオ港
- ハニア港
- キサモス港
- スダ港
- レティムノ港
- アイオス・ニコラオス港
- シティア港
- パレオホラ港
- スファキア港
- ガヴドス港
文化・観光
神話
ギリシャ神話には、「クレーテー」(テンプレート:Lang-grc / Krētē)としてしばしば登場する。
赤子のゼウスは、クレタ島のアドラステイアとイーデーによってアイガイオン山に匿われた。また、エウローペーが牛に変じたゼウスにさらわれ、ボスポラス海峡(牛渡りの海峡)を通ってクレタに辿り着き、その子がクレタ王となって文明が生じたとされる。この他にもホメーロスの『イーリアス』など、クレタ島に関する諸話(「テーセウスとミーノータウロス」や「ダイダロスとイーカロス」など)は多い。
観光
観光スポットとしては、クノッソス宮殿やフェストス遺跡、ゴルティス遺跡などの考古学上の遺跡、またヴェネツィア人がハニアに建てた城といった史跡や、サマリア渓谷やアイア・イリニ、アラデネなどにある渓谷など自然景観が有名である。
出身者
- エピメニデス (紀元前600-500年頃、詩人・預言者、関連項目参照)
- ネアルコス (紀元前360年頃-紀元前300年、マケドニアの将軍)
- メソメデス (2世紀頃、音楽家)
- エル・グレコ (1541年-1614年、画家)
- エレフテリオス・ヴェニゼロス(1864年-1936年、政治家)
- ニコス・カザンザキス (1883年-1957年、作家)
- オデッセアス・エリティス (1911年-1996年、詩人、ノーベル文学賞受賞)
- ナナ・ムスクーリ (1934年- 、歌手・政治家)
- ジョセフ・シファキス (1946年- 、計算機科学者、チューリング賞受賞)
参考文献
- 桜井万里子編『世界各国史 17 ギリシア史』山川出版社 ISBN 4-634-41470-8
関連項目
- アルカディ修道院 - 反トルコ蜂起の舞台となった正教会の修道院。
- 自己言及のパラドックス - クレタ人が「クレタ人はすべて嘘つき」と言った…「嘘つきのパラドックス」の代表例。