ガロ (雑誌)
テンプレート:Amboxテンプレート:DMC テンプレート:独自研究 テンプレート:Sidebar with collapsible lists 『月刊漫画ガロ』は、1964年から2002年頃まで青林堂が刊行していた漫画雑誌。大学生など比較的高い年齢層の読者に支持され、漫画界の異才をあまた輩出した。初代社長兼編集長は、青林堂創業者の長井勝一(ながい かついち)。
目次
概要
『ガロ』は1964年、それまで貸本漫画の出版などで知られていた編集者、長井勝一により創刊された。その誌名は白土三平の漫画「やませ」に登場する忍者「大摩のガロ」から取っている他、我々の路という「我路」という意味合いもあり、またアメリカのマフィアの名前(ジョーイ・ギャロ)も念頭にあったという[1]。誌名の複数の候補からガロを選んだのは長井の甥だった[1]。その題材・内容とスケールから連載する場所が無かった白土の漫画『カムイ伝』の連載の場とすることが創刊の最大の目的であった。同時に、活躍の場を失いつつあった貸本漫画家への媒体提供と、新人発掘のためという側面もあった。
当初は白土三平の赤目プロの援助を受けて創刊され、手塚治虫の虫プロ商事による後発の『COM』と共に全共闘時代の大学生に強く支持されていった。商業性よりも作品を重視、オリジナリティを何より第一としたため、編集者の干渉が比較的少なく、作家側にすれば自由に作品を発表出来たため、新人発掘の場として独創的な作品を積極的に掲載した。このことは、それまで漫画という表現を選択することのなかったアーティストたちにも門戸を開放する結果となり、ユニークな新人が続々と輩出されるようになった。
発刊3年後の1967年には、主に『カムイ伝』を目当てにした小学館による買収および、当時の同社の中学生以上の男性向け雑誌「ボーイズライフ」との統合話が持ち上がったが、破談に終わる[2]。
長い不遇の時代
しかし1970年代に入り、1971年に『カムイ伝』が終了すると『ガロ』の売上は徐々に下降線をたどるようになる。当時編集部に在籍していた編集者であった南伸坊や渡辺和博らが一時編集長となり、面白ければ漫画という表現に囚われぬという誌面作りを提唱(=「面白主義」)。その結果何とかサブカルチャーの総本山的な立場として一目置かれつつも、単行本の売上で糊口をしのぐという状態が続いた。この時期大手出版社から買収の話も持ち上がるが、長井はこれを拒否したという。
1980年代に入ると部数は実売3000部台にまで落ち込み、社員ですらまともに生活ができないほど経営が苦しくなった。原稿料は長井による「儲かったら支払う」という「公約」のもと、すでに支払を停止せざるを得なくなっていた[3]。ただ、本当に生活できない漫画家には1ページに500円ほど支払うこともあった[4]。 それでも長井社長を支持する歴代の作家陣などの精神的・経済的支援と強い継続の声により、細々ながら刊行は続く。そして読者は一部のマニア、知識者層、サブカルチャーファンなどへと限られていった。その一方で「『ガロ』でのデビュー=入選」に憧れる投稿者は依然多く、部数低迷期にあってもその中から数々の有望新人を発掘していった。この時期は完全に単行本の売上によって雑誌の赤字を埋めるといういびつな体制になっており、社員編集者たちは『ガロ』以外の媒体からいかに単行本を刊行させてくれる作家を見つけるか、また実際に編集の合間に営業や倉庫の在庫出しや返品整理をするなどして、『ガロ』を支え続けた。
新世代の『ガロ』
1980年代後半に、長井が高齢と経営悪化を理由に、『ガロ』や青林堂の売却を周辺に漏らすようになる。長井周辺では、関わった作家や編集者などが、できるだけ長井と当時の編集者たちによる体制を維持できる譲渡先を探ることに奔走することになる。その中で、PCソフト開発会社のツァイトを経営する山中潤が浮上(仲介をしたのは松沢呉一)。長井らと数回の会談の結果、彼が青林堂の経営を引き継ぐこととなる。山中は1990年9月、青林堂代表取締役社長に就任(長井は会長に)。長井勝一と『ガロ』、青林堂は三位一体であると改めて確認し、そのかたちを維持させながら、慎重に会社としての経営、財務と営業、また出版社としての編集体制などを建て直すことに着手する。
1992年には長井が編集長を辞し、山中は編集長に就任。『ねこぢるうどん』や『南くんの恋人』のヒットや映画のタイアップ企画などで単行本が好調となり、また本誌の売り上げも「名作劇場」や「特集」の導入、サブカルチャー情報を大量に掲載するなどして向上させた。1993年には月刊「ガロ」創刊30周年記念作として、障害者プロレスのドキュメンタリー映画『無敵のハンディ・キャップ』を製作。また、経営母体となるツァイトでも『ガロ』の漫画をPCゲーム化、1994年には青林堂とツァイトとの共同であがた森魚監督による映画『オートバイ少女』を製作するなど、メディアミックスを積極的に展開し、原稿料も幾らかは支払われるようになった。この時期の『ガロ』はページ数もさることながら、全体に対する文章の占める割合がかなり増え、サブカルチャー情報誌としての性格が強くなっていった。
なお、当時の「事件」として、1993年、当時雑誌『SPA!』に『ゴーマニズム宣言』を連載していた小林よしのりが、「ご成婚パレードでオープンカーに乗った皇太子妃雅子が“天皇制反対ーっ”と叫びながら、オープンカーから周囲に大量の爆弾を投げつける」という漫画を描き、『SPA!』に掲載拒否されて、『ガロ』に持ち込み掲載される、という出来事があった。
内部の軋轢、そして休刊へ
順風満帆に見えた『ガロ』であったが、親会社のツァイトがPCソフトのプラットフォームがMS-DOSからWindowsへと変わる時代の変化に乗り遅れ、経営が徐々に悪化する。また1996年には創業者であり、長年『ガロ』の名物編集長で青林堂の顔でもあった長井が死去する。その後、来るべきインターネット時代を先取りし、1997年当時としては画期的であったインターネットとコミックの融合雑誌『デジタルガロ』(編集長・白取千夏雄)刊行に着手する。だが編集部内では、インターネットを『ガロ』にはそぐわないものとする守旧派と白取ら推進派が対立し、その結果白取は『ガロ』副編集長のままツァイトへ移籍して『デジタルガロ』の編集にあたるという、変則的な事態を迎えることとなった。
この先見的な試みは、山中社長が強引に搬入部数を10万部まで増やしたため結果的に失敗(最終的な実売は15000~18000部)に終わり、大赤字を出すこととなった。しばらくして山中が体調を崩したため、山中と旧知の仲であるコンピュータ業界の先輩・福井源が社長代行となったが、元々山中体制に不満を抱えていた手塚能理子(当時青林堂取締役)以下の社員が申し合わせ、事前連絡も無いまま保管してあった作家の原稿を持ち去り、FAXにてツァイト宛に7月7日付けで、副編の手塚を筆頭に青林堂編集部員全員の辞表が送られ、全社員が退社するという事件が発生する[5]。同時に彼らはマスコミや取引先を通じ各方面へ「青林堂は乗っ取られた、版元として終わった」との声明を広く流布した。マスコミはその内容を詳細に検証する事なく報道を行なったため、青林堂と経営母体であるツァイトには大きな風評被害が及んだ。
事件以後の『ガロ』
それがきっかけとなりツァイトは倒産し、『ガロ』は休刊に追い込まれた。その後、幾度か経営者や編集者を変えつつ復刊・休刊を繰り返し、大和堂体制となりオンデマンド版(いわゆるネット上での通販)として販売形態を変更したが2002年12月発売の1号が刊行されただけに終わり、以降は事実上の廃刊状態となっている。
また1997年に退社した手塚ら元社員達は、新会社「青林工藝舎」を設立。執筆陣は旧ガロの漫画家や新人などによる『ガロ』の事実上後継雑誌『アックス』(隔月刊)を発行している。手塚らの退社当時の違法性とも疑われる行為は、結局青林堂とツァイトの混乱の中、それ以上追及されることなくうやむやとなった。
2010年9月30日、青林堂(大和堂)はiPad用の電子書籍アプリとして『ガロ Ver2.0』の販売を開始したが、内容は同人誌系を中心とする近年の若者向けだった。
『ガロ』はその先見性と独自性で一時代を画した、単なる漫画雑誌ではない足跡を出版界に遺した。また、独自の作家性の強い漫画家たちの作風は「ガロ系」と呼ばれ、『ガロ』出身でもない作家でも「あの作家はガロ系」などと表現されることが多い。また、彼等の作風は、海外のオルタナティヴ・コミックの作家たちとも親和性が高い。
略歴
- 1964年(昭和39年)7月24日 - 『月刊漫画ガロ』創刊。部数は8000部。白土三平が4号目より『カムイ伝』の連載開始。
- 1966年 - 『カムイ伝』が人気を呼び、発行部数が延びる(80000部)。
- 1967年 - (ライバル誌『COM』創刊)
- 1971年 - 『カムイ伝』連載終了。
- 1980年 - 次第に『ガロ』の人気が低迷するが、一方で有力新人を次々と発掘して行く。
- 1990年 - 青林堂からツァイトに経営譲渡。ツァイト社長の山中潤が青林堂社長に就任。
- 1992年 - 長井が1月号から編集・発行人を退き会長に就任。山中が編集長となる。
- 1993年 - 宮城県塩竈市で「ガロとマンガとマンガ文化」開催。
- 1994年 - 「月刊ガロ創刊30周年記念パーティー」。
- ゆうばり国際ファンタスティック映画祭に30周年記念製作映画『オートバイ少女』が招待され、新宿シネマアルゴにて一般公開される。
- 1995年 - 長井、日本漫画家協会賞選考委員特別賞受賞。
- 1996年 - 長井死去。享年74。
- 1997年 - 2月、インターネット・マガジン『デジタルガロ』発刊。『ガロ』本誌8月号で一時休刊(7月7日付で全社員が退社したため)。
- 青林堂全社員退社が引金となり親会社の株式会社ツァイトが倒産。
- 1997年 - 福井源が青林堂社長に就任し1998年1月号より復刊するが、1998年9月号で再び休刊。
- 2000年 - 1月号より復刊。
- 2001年 - 6月号まで月刊、8月号より隔月刊化。
- 2002年 - 4月号まで隔月刊、次号の7月号より季刊化。12月発売号よりオンデマンド出版に移行するも1号で終わる。
- 2010年 - 9月30日、iPad用の電子書籍アプリ『ガロ Ver2.0』発刊。10月1日、2.01を発刊。
- 2011年 - 1月、Ver.2.02を発刊。その後DLsite.comやDMMからは2月に2.03が出るがすぐに消滅。iPad用アプリが出る事はなかった。そのまま廃刊となる。
主な執筆陣と代表作
- 安部慎一 - 『やさしい人』『美代子阿佐ヶ谷気分』
- 池上遼一
- 内田春菊 - 『南くんの恋人』
- 蛭子能収
- 勝又進 - 『勝又進作品集』
- 楠勝平 - 『茎』『彩雪に舞う』
- 佐々木マキ
- 白土三平 - 『カムイ伝』
- 杉浦日向子 - 『合葬』『二つ枕』
- 鈴木翁二 - 『オートバイ少女』
- 滝田ゆう - 『寺島町奇譚』
- つげ義春 - 『ねじ式』(『ガロ増刊・つげ義春特集』)
- 永島慎二 - 『フーテン』『漫画家残酷物語』
- 根本敬 - 『天然』『タケオの世界』
- 林静一 - 『赤色エレジー』
- 福満しげゆき - 『4コマガロ』『僕の小規模な失敗』
- 古川益三 - 『紫の伝説』
- ますむらひろし - 『ヨネザアド物語』
- みうらじゅん - 『単になんぎなうし』『アイデン・アンド・ティティ』
- 水木しげる - 『鬼太郎夜話』『星をつかみそこねる男』
- 村野守美 - 『さんささかやの』『だめ鬼』
- 矢口高雄
- やまだ紫 - 『性悪猫』『しんきらり』
その他の執筆陣
五十音順。 テンプレート:Colbegin
- あがた森魚
- 赤瀬川原平
- 秋山亜由子
- 東元
- 安彦麻理絵
- 荒木経惟(写真)
- 安西水丸
- 石ノ森章太郎
- 泉晴紀
- 泉昌之
- 糸井重里
- 岩本久則
- 大越孝太郎
- 奥平イラ(奥平衣良)
- 鴨沢祐仁
- 唐沢商会(唐沢俊一+唐沢なをき)
- 唐沢なをき
- 川崎ゆきお
- 菅野修
- Q.B.B.
- 久住卓也
- 久住昌之
- 古泉智浩
- 小林よしのり
- 近藤ようこ
- 逆柱いみり(望月勝広)
- 桜沢エリカ
- しりあがり寿
- 杉作J太郎(獣太郎)
- 高浜 寛
- 高山雅和
- 田代しんたろう
- 辰巳ヨシヒロ
- たむらしげる
- つげ忠男
- 津野裕子
- つりたくにこ
- 東陽片岡
- とま雅和(とま)
- 友沢ミミヨ
- とり・みき
- 魚喃キリコ
- 成田朱希
- 西岡兄妹
- ねこぢる
- 野間吐史
- 花くまゆうさく
- 花輪和一
- ひさうちみちお
- 日野日出志
- 平口広美
- 古屋兎丸
- 松本充代
- 丸尾末広
- 三橋乙耶(シバ)
- 三本美治
- 本秀康
- 森雅之
- 森本清彦
- 山田花子
- 山野一
- 山本ルンルン
- 湯村輝彦
- 淀川さんぽ
- 四方田犬彦
- 吉田光彦
- 渡辺和博
関連項目
- 権藤晋
- ゲゲゲの女房 - 作中に本誌創刊(ただし誌名は「月刊漫画ゼタ」に、版元は「嵐星社」に、編集長の長井勝一は「深沢洋一」に改変)前後の水木しげるとの関係が描かれている。
- 日本のウェブコミック配信サイト一覧
- 青林堂
- 青林工藝舎 - 青林堂が目指した従来の路線はこちらに引き継がれている。
参考図書
- 長井勝一 ちくま文庫『「ガロ」編集長 』1982年 ISBN 4480021590
- ガロ20年史『木造モルタルの王国』1984年 ISBN 4792601320