藤原秀郷

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戦功により朱雀天皇から鎮守府将軍に任ぜられる藤原秀郷(月岡芳年画『大日本名将鑑』より)

藤原 秀郷(ふじわら の ひでさと)は、平安時代中期の貴族武将下野藤原村雄の子。

室町時代に「俵藤太絵巻」が完成し、近江三上山百足退治の伝説で有名。もとは下野掾であったが、平将門追討の功により従四位下に昇り、下野・武蔵二ヶ国の国司鎮守府将軍に叙せられ、勢力を拡大。死後、正二位を追贈された。源氏平氏と並ぶ武家の棟梁として多くの家系を輩出したが、仮冒の家系も多い。

生涯

出自を藤原北家魚名流とするのが通説だが、「実際には下野国史生郷の土豪鳥取氏で、秀郷自身が藤原姓を仮冒した」という説もある[1](あるいは古代から在庁官人を務めた秀郷の母方の姓とする)。

俵藤太(田原藤太、読みは「たわらのとうだ」、「たわらのとうた」、藤太は藤原氏の長、太郎」の意味)という名乗りの初出は『今昔物語集』巻25「平維茂 藤原諸任を罰つ語 第五」であり、秀郷の同時代史料に田原藤太の名乗りは見つかっていない。由来には、相模国淘綾郡田原(秦野市)を名字の地としていたことによるとする説、幼時に山城国近郊の田原に住んでいた伝説に求める説、近江国栗太郡田原郷に出自した伝説に求める説など複数ある。

秀郷は下野国在庁官人として勢力を保持していたが、延喜16年(916年)隣国上野国衙への反対闘争に加担連座し、一族17(もしくは18)名とともに流罪とされた。しかし王臣子孫であり、かつ秀郷の武勇が流罪の執行を不可能としたためか服命した様子は見受けられない[2]。さらにその2年後の延長7年(929年)には、乱行のかどで下野国衙より追討官符を出されている。唐沢山(現在の佐野市)に城を築いた。

天慶2年(939年平将門が兵を挙げて関東8か国を征圧する(天慶の乱)と、甥(姉妹の子)[3]である平貞盛藤原為憲と連合し、翌天慶3年(940年)2月、将門の本拠地である下総国猿島郡を襲い乱を平定。平将門の乱にあっては、藤原秀郷が宇都宮大明神(現・宇都宮二荒山神社)で授かった霊剣をもって将門を討ったと言われている。平将門の乱において藤原秀郷が着用したとの伝承がある兜「三十八間星兜」(国の重要美術品に認定)が現在宇都宮二荒山神社に伝わっている[4][5]

複数の歴史学者は、平定直前に下野掾兼押領使に任ぜられたと推察している[6]。この功により同年3月従四位下に叙され、11月に下野守に任じられた。さらに武蔵守鎮守府将軍も兼任するようになった。

将門を討つという大功を挙げながらも、それ以降は資料にほとんど名前が見られなくなり、没年さえも不詳である。

生没年は不詳だが、将門討伐のときにはかなりの高齢だったといわれている。

百足退治伝説

近江国瀬田の唐橋に大蛇が横たわり、人々は怖れて橋を渡れなくなったが、そこを通りかかった俵藤太は臆することなく大蛇を踏みつけて渡ってしまった。その夜、美しい娘が藤太を訪ねた。娘は琵琶湖に住む龍神一族の者で、昼間藤太が踏みつけた大蛇はこの娘が姿を変えたものであった。娘は龍神一族が三上山の百足に苦しめられていると訴え、藤太を見込んで百足退治を懇願した。

藤太は快諾し、剣と弓矢を携えて三上山に臨むと、山を7巻き半する大百足が現れた。藤太は矢を射たが大百足には通じない。最後の1本の矢に唾をつけ、八幡神に祈念して射るとようやく大百足を退治することができた。藤太は龍神の娘からお礼として、米の尽きることのない俵などの宝物を贈られた。また、龍神の助けで平将門の弱点を見破り、討ち取ることができたという。

秀郷の本拠地である下野国には、日光山赤城山の神戦の中で大百足に姿を変えた男体山(または赤城山)の神を猿丸大夫(または猟師の磐次・磐三郎)が討つという話があり(この折の戦場から「日光戦場ヶ原」の名が残るという伝説)、これが秀郷に結びつけられたものと考えられる。

また類似した説話が下野国宇都宮にもあり、俵藤太が悪鬼百目鬼を討った「百目鬼伝説」であるが、これも現宇都宮市街・田原街道(栃木県道藤原宇都宮線)側傍の「百目鬼通り」の地名になっている。

「三上山を7巻き半と聞けばすごいが、実は8巻き(鉢巻)にちょっと足りない」という洒落がある。これは古典落語矢橋船」などで用いられている。

後裔氏族

秀郷の子孫は中央である京都には進出しなかった結果、関東中央部を支配する武家諸氏の祖となった。



また京都でも武門の名家として重んじられた結果、子孫は以下のような広範囲に分布した。


系譜

秀郷を祀る神社

脚注

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関連項目

外部リンク

  • 豊田武『苗字の歴史』(中公新書1971年)、武光誠『名字と日本人』(文春新書1998年)など。
  • 延長5年(927年)に下野国押領使に任じられたとする意見[1]もあるが2年後に追討官符を出されていることから疑問視する意見[2]もある。
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  • 「宇都宮二荒山神社公式サイト」
  • この兜の実際の制作年代は南北朝時代とみられる(栃木県教育委員会サイトの解説参照)。多数の鉄板を矧ぎ合わせて兜鉢を構成している点、星(兜に打たれた鋲の頭を指す)が小型化している点、頂辺の孔(てっぺんのあな)が小さい点などはこの兜が平安時代の作ではなく時代が下降することを示す。
  • 青木和夫 『古代豪族』 講談社(初版小学館)、2007年、初版1974年、ISBN 4061598112 では、天慶3年正月14日ユリウス暦940年2月24日)に朝廷が将門対策として平公雅ら8人を東国の掾に任命した際に、その一人として叙任されたとする。下向井龍彦 『武士の成長と院政』 講談社2001年、ISBN 4062689073 では天慶3年(940年)、将門が「新皇」を名乗ったことが京都に伝わったときとの説であり、青木説とほぼ同時期となっている。