内藤氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

内藤氏(ないとうし、ないとううじ)は、日本の氏族。中世から近代まで栄えた豪族・大名の一族。

藤原北家秀郷流内藤氏

以下の内藤氏が著名である。鎌倉時代源頼朝に仕えた内藤盛家がこれらの内藤氏の共通の先祖にあたるとされる。

  1. 丹波国の守護代。細川氏に仕えた。藤原氏秀郷流を称する。
  2. 長門国の守護代。大内氏に仕えた。藤原氏秀郷流を称する。
  3. 松平氏に仕えた三河国の豪族。1、2の内藤氏と同族と称する。
  4. 甲斐国の一族。1、2の内藤氏と同祖とされる。武田氏に仕えた。内藤昌豊が有名。

内藤氏(丹波系)

藤原氏秀郷流の一族とされるが前歴は不明である。しかし、細川内衆とされていることから、細川氏の直属の家臣であったと思われる。1431年に丹波守護代である香西元資が罷免されると、細川京兆家の被官である内藤信承が守護代に就任、入国した内藤氏は船井郡八木に根拠を構えたことから内藤氏の丹波支配が始まる。但し、細川氏は領国支配政策として分郡守護代制を布いていることから、内藤氏が丹波一国を支配していたかどうかは不明である。応仁の乱の際、但馬より出撃した山名方の将・太田垣氏と丹波諸豪を従え夜久野で交戦している。

しかし、1479年内藤元貞が細川被官の一宮氏と何らかのトラブルを起こしたため1482年守護代を罷免される。代わって守護代に就いたのは上原元秀で、彼は丹波物部の豪族である。細川政元の信任厚かったものの驕慢の振る舞いが多かったため丹波諸豪族の怒りを買い1489年11月に位田の乱が起こった。1493年、上原元秀が死亡すると元秀の父の上原賢家が守護代となったが1495年に失脚し、内藤元貞が守護代に復任した。この元貞の弟に内藤久清がおり、久清の子内藤次忠の代から小西を称した。この次忠が小西行正であり、小西隆佐の父、小西行長の祖父にあたる。 その後、細川氏が細川高国派と細川晴元派に分裂、内藤氏ら丹波諸豪は高国に属して度々晴元の攻撃を受ける。特に内藤氏は丹波の入り口に位置していたために細川氏らの攻撃を直接受けた。再三の守護代罷免・復任劇は内藤氏が如何に細川氏内紛に関わっていたかを物語るとする見解がある。

しかし、1515年八上城を築いて根拠とした波多野氏が次第に勢力を増大させていくにしたがって内藤氏の勢いは衰える。1533年に波多野氏が内藤国貞を破って丹波を手中にすると1538年には三好氏と結んだ波多野秀忠によって八木城を陥落させられた。その後、国貞も三好長慶と組み八木城によって抵抗するものの1553年9月内藤国貞の戦死で戦国大名としての内藤氏は滅んだ。 1553年三好長慶が八木城を奪回し、松永長頼を内藤氏の婚姻者とし八木城主として丹波経略を開始するが、彼は三好政権の傀儡に過ぎず、長慶死後の1565年8月に赤井直正の猛攻にあって戦死している。

その後、内藤国貞の遺児・貞勝1573年足利義昭織田信長の決戦の際、京都に出陣し信長と戦っている。その後も明智光秀の丹波経略に内藤氏も名を留めており、貞勝とする見解がある。この貞勝がキリスト教を信仰した内藤如安となる(なお、如安は内藤宗勝の子ともいわれる)。彼は豊臣秀吉に仕え、朝鮮出兵にも参戦、同族で一世代上に当たる小西行長とともに講和交渉に活躍している。のち、加賀藩に仕えるもキリスト教禁教令が発布された1614年マニラに追放され、1626年同地で死去した。

内藤氏(周防長門系)

藤原氏秀郷流の一族。周防国に土着した。盛貞の代に大内氏に仕え、室町時代中期以降は鷲頭氏に代わって長門国の守護代を務めた。大内政弘に仕えた弘矩大内義興大内義隆に仕えた興盛が著名である。大内氏の滅亡と同時に興盛の孫の隆世が自刃し、嫡流は断絶したが、興盛の五男の隆春毛利氏に仕えている。毛利輝元の母が内藤氏の出身であったため重用されたが、その養子元盛大坂の役大坂城に入城したため子の元珍らもともに切腹し没落した。以後は子孫が小禄の長州藩士として存続した。

内藤氏(三河系)

三河松平氏徳川氏)の家臣で江戸時代大名となった内藤氏は上述の丹波・周防の内藤氏と同祖とされるが、この間、戦国期までの事蹟は明らかではなく、仮冒の可能性も強い。戦国時代から安土桃山時代にかけて、内藤清長内藤正成内藤家長内藤信成らが徳川家康に仕え活躍し、その功績により江戸幕府の成立後は数家に分かれ、信濃高遠藩陸奥湯長谷藩三河挙母藩日向延岡藩信濃岩村田藩越後村上藩などの地で譜代大名として隆盛した。明治維新時には大名内藤家は全部で6家あり、維新後すべて子爵に列した。特に清政の系統は、高遠藩江戸屋敷のあった内藤新宿(現在の新宿区内藤町)の地にその名を残している。

内藤氏(甲斐系)

内藤氏には甲斐に土着した一派も存在する。代々武田氏に仕えたとされるが内藤虎資が守護武田信虎に粛清され、一時断絶した。

戦国期には平安時代後期に甲斐へ土着した工藤氏の系譜を引く内藤氏の活動がみられ、「工藤下総守」は郡内領主小山田氏とともに武田宗家の内訌に関係し守護武田信虎に対抗し、「工藤殿」は伊勢宗瑞(北条早雲)を頼ったという。

工藤下総守の子と考えられている内藤昌豊(昌秀、工藤祐長)は晴信(信玄)期の譜代家老衆・側近として活動が見られ、信濃侵攻川中島の戦いに従軍している。昌秀は西上野国衆との取次を務めており、浅利信種の後任として箕輪城城代となり、内藤姓への改姓はこの時点である可能性が考えられている。昌秀は天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて討死する。

昌秀には実子がなく信濃国衆保科氏からの養子(内藤昌月)を迎え、武田氏滅亡後は会津保科氏(のちの会津松平氏)に仕えた。

系譜

太字は各家当主、実線は実子、点線は養子、数字は歴代藩主。

その他の内藤氏

相模国にも内藤姓を名乗った一族が存在し(相模内藤氏)、この内藤氏も秀郷流を称するが定かではない。また、織田信長に仕えた内藤勝介なる人物もおり、こちらの出自は不明である。若狭武田氏の被官にも内藤氏の一族が存在する。安芸の厳島神社領の地頭に補任された内藤氏もいる。

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflistテンプレート:Japanese-history-stub