笑福亭松之助

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五枚笹は、笑福亭一門の定紋である。

笑福亭 松之助(しょうふくてい まつのすけ)は落語名跡。当代は2代目。

  • 初代笑福亭松之助 - 後の6代目笑福亭松鶴。本名:竹内日出男。
  • 2代目笑福亭松之助 - 本項にて詳述。

2代目笑福亭 松之助(しょうふくてい まつのすけ、1925年8月6日 - )は、上方噺家上方落語家)、喜劇俳優作家、タレント。所属事務所吉本興業兵庫県神戸市出身。本名は明石 徳三(あかし とくぞう)。血液型AB型。楠高小学校 → 神戸三菱電機青年学校卒業。愛称は「松ちゃん」。5代目笑福亭松鶴の弟子であり、6代目笑福亭松鶴の弟弟子にあたる。

来歴・人物

上方落語界でも芸に厳しい噺家とされるが、一般的には「明石家さんまの師匠」として知られている。さんま以外の弟子に五所の家小禄(廃業)、実子の笑福亭梅之助(現・明石家のんき)と笑福亭亀之助(後にパーポ明石として活躍したが、ダンサーになる)がいる。明石家さんまによれば、弟子には主に実家の生業をもとにした、変わった芸名を付けており、さんまのほかにも兄弟弟子として実家が理髪店の明石家パーマ、実家が自転車屋の明石家サドル、実家が下着店の明石家パンツなどが過去に存在していたとされる。

吉本興業所属でありながらあまり吉本の主要劇場には上がっていない。なんば花月うめだ花月もあまり縁がなく出演する機会が少なかった。[1]

上方落語界の最年長であるが(同学年の3代目桂米朝より生まれが3か月早い、東西落語界通しての最年長は4代目桂米丸となるが、これは同学年の米丸の方が松之助よりも生まれが4か月早いため)、いわゆる四天王(6代目笑福亭松鶴・3代目桂米朝・5代目桂文枝3代目桂春団治)よりも遅れて入門したこと、落語家として一門を形成していないこと、喜劇役者として活躍し落語界から離れた時期があること、上方落語協会を離脱したことや、主に新作落語を演じることなどから、同年代の落語家よりも一段低い評価を受ける傾向がある(本人はそれを逆手にとって師匠5代目松鶴の戒名から取った「楽悟家」と自称している)。立川談志は松之助は大阪の落語家から総スカンをくらっているが、芸力は6代目松鶴と同じだ、と評価している。

その一方古典落語の笑福亭系の持ち噺も多い。「らくだ」「堀川」「くっしゃみ講釈」「高津の富」「ぞろぞろ」「大箋」「三十石」「百年目」「立ち切れ線香」「佐々木裁き」「お文さん」「野崎詣り」「質屋蔵」「花筏軽業」「片袖」「三人兄弟」「へっつい幽霊」「兵庫船」「軒付け」「首提灯」「桜ノ宮」「善哉公社」「昆陽池」「三枚起請」「後家殺し」「土橋物語」(「土橋万歳」のサゲを変えたもの)など。

80歳代に入っても40分を超える長ネタを演じるなど、テレビ出演などでも若手に混じってなおエネルギッシュに振る舞い、他方自らブログを持ち積極的にメッセージを発信、若手に混じってS-1バトルに挑戦するなど新しい事への柔軟さ、芸に対する真摯さを失わない。

一方で、明石光司のペンネームで喜劇台本や新作落語の原作を書き下ろす作家でもある。趣味の水泳では、日本マスターズ水泳協会の大会で金メダルを取ったことがあり、2010年に第11回ベストスイマー賞を受賞している。このほか映画やテレビドラマの出演多数。ニュース番組のコメンテーターを務めていたこともある。

生き物が大の苦手。役者時代、巡業中に松之助が一人で部屋に入ったところ、同行していたミヤコ蝶々が猫を部屋に放り込み、外から戸を閉めて大騒ぎさせる悪戯をされた。[2]

入門前には三菱電機神戸製作所にて製図工として働いていた。このときに覚えた製図の技術を活かし、入門後に見台など上方落語の道具や戎橋松竹図面を起こした。また、会社が厚生年金(当時は労働年金)に加入していたため、芸人ながら厚生年金を受給している。

略歴

CD・DVD

  • 「楽悟家 笑福亭松之助」:DVD+CDボックス。発売元はYOSHIMOTO WORKSABCラジオ主催の「上方落語をきく会」などの音源からCD18席、「日本の話芸」(NHK)などの録画からDVD27席を収録。プロデュースは日沢伸哉が担当。「よしもとの天然記念物保護の会」での明石家さんまとの対談なども収録。

出演映画

ドラマ

ほか多数

明石家さんまとの師弟関係

  • さんまが弟子入りを希望してきた際、「何でワシのとこなんか来たんや?」と問うたところ、さんまは「TVアラカルト」を聞いて感銘を受け「あんたにはセンスがある」と答えた。さんまに悪意は無いとはいえ不遜な返答だったが、それに対して松之助は「おおきに」とだけ答え、決して怒ることはしなかった(さんまが弟子入りする師匠を探すために一日中落語を見た中で、松之助が一番と判断した)。
  • 付き人として連れ回すより、自宅で勉強させたほうが良いという主義だったが、息子から「兄ちゃん(さんま)は、昼まで寝ている」と、松之助を見送った後で二度寝をしているのを知っていた。そのため、忘れ物をした際など、自宅に入る前にわざと大きな音をたて、一声かけた後、しばらく待って(さんまが起きるのを待って)いた。
    • 「何で師匠が弟子に気を使わんといかんのや」と笑っているように、これは甘やかしているのではなく、普段のさんまは掃除や炊事など、住み込み弟子としてやることはやっていたので、大目に見ていたようだ(さんまは、米を研ぐのは今でも得意なようで、弟子時代に鍛えた、と自慢している)。
  • さんまは若手時代、付き合っていた女性と共に、周囲に黙って上京(いわゆる「さんま駆け落ち事件」)。夢破れて帰阪した際、師匠の松之助は、決してこの事を咎めることなく、快くさんまを一門へ復帰させた。
    • この時、さんまは師匠が帰るまで自宅に入らず(松之助夫人に、何度も入って待つように促されたが断った)玄関前で待っていた。再入門を願い出るのでなく、借りていた本か着物を返すという口実で待っていたが、松之助が何事も無かったように「何してんのや、早う入れ」と言ってくれたことで救われた、とさんまが語っていた。
  • さんまは当初、落語家「笑福亭さんま」として育てられるが、松之助はさんまが落語家よりもテレビタレントの方に向いている、と判断。テレビタレントとして活動しやすいように「笑福亭」の亭号を返上させる代わりに、松之助自身の本名「明石徳三」から「明石家」の屋号を授けた。これには諸説ある。
    • 落語を演じない者に一門の「笑福亭」を与えることは許されないとした一門の方針によるものであるという説がある。松之助は、さんまには落語を1本しか教えなかった。
    • 他には「カケオチ騒動を起こしたさんまに協会から非難の眼が向かないよう、明石家の屋号を与えた」など。
    • 自身は、喜劇役者時代も「笑福亭松之助」の名前で通した。
    • 紋付の着物の定紋は笑福亭に代々伝わる五枚笹ではなく、オリジナルの五枚笹に似せた、5匹のサンマがデザインされた定紋を使用している。
  • さんまの今日までの活躍について好意的である。
    • 修業時代にナンパしながら女の子を笑わせていたことについて、他の師匠であれば眉をひそめるところを「芸人としてむしろ勉強している」と褒めた。
    • 読売テレビ11PM』初出演時、司会の藤本義一に対し、一方的に喋りまくったことについて、絶賛した。
    • さんまが売れ出した頃、高座で必ず開口一番「売れているさんまの師匠の笑福亭松之助です。」と言っていた。
    • 現在も、さんまの出演するテレビ番組をよく見ており、そのたびに「彼は常に全力投球で、絶対に手を抜いていない」と、感心している。
    • 数年に1度の割合で、さんまの冠番組『さんまのまんま』にゲスト出演している。
  • さんまも、松之助の活躍について好意的である。
    • 松之助が(いい歳をして)かぶり物をしてテレビに出ていたことを、さんまに止めるように忠告してくれる人がいたが、さんまは「それができる人だから、師匠に選んだ」という旨の返事をした。
  • 師匠と弟子という間柄であることから、さんまは松之助といる時には、座ることなく必ず立っている。これはさんまが売れっ子になってからも同様であるため、スタッフや関係者に対し松之助の存在の大きさを知らしめる結果となっている。
    • さんまは遅刻魔だが、ドラマ等で松之助と共演する際は遅刻もせず、松之助の楽屋の前で長時間直立不動の姿勢で立ち、食事の際には素早く食べ終わり、師匠を待つという。松之助夫人が足の怪我で入院した際、西宮市の病院まで見舞いに駆け付けた。
    • 2008年に行われた松之助の芸能生活60周年を記念した舞台には、さんまが「何か手伝わせてください」と協力を願い出たが、「君が来たら僕が目立たなくなるがな!」と頑なに拒否した。それでも食い下がるさんまに「えぇ~、来るの…?」と呟き、さんまを苦笑させた。舞台本番では、さんまは弟子時代同様に松之助の落語を長時間直立不動の姿勢で聞き、終了後におしぼりを手渡している。舞台で「弟子はもういりまへん。さんまの看板が大きいので十分」と自慢の弟子を誇らしげに語り、さんまは「僕が53歳(当時)になって、とっくに師匠は死んでると思っていたが……。一緒に舞台共演するなんて思わなかった」と語った[4]
  • 現在でも、さんまとは電話よりも手紙でのやり取りが多く、その絆は強い。ただ2006年に入院した際は、一切連絡せず内緒で通し、孫が誕生した時も一切連絡をしなかった。理由として「君が『それがどないしたん?』って思うと思った」と語り、さんまは苦笑して「口が裂けても言えません!」と語ったことからも、2人の絆の強さがうかがえる。
  • このように絆が強い証拠として、「笑点」正月スペシャルに出演して、こんな冗談も言っている。
    • 「さんまにジャンケンで負けて、弟子になった。」(2006年)
    • 「夢で良いから 見てみたい 弟子のさんまにお年玉」(2009年)
    • 「弟子のさんまが、さあ来るぞ! 今年もお年玉をもらおう。」(2010年)

6代目松鶴との関係

  • 現在の松之助は2代目で、初代は6代目笑福亭松鶴の前座名である。
    • 竹内日出男(6代目松鶴)が正式に父・5代目松鶴に入門した際、ギョロ目の容姿から「目玉の松ちゃん」と親しまれた尾上松之助にあやかって笑福亭松之助とした。これが「松之助」の由来である。
    • 6代目はあくまでも兄弟子であり、松之助を預かってはいない。つまり6代目の一存では改名させられない。このため本来は前座名である「松之助」の名が、大御所となった今も名乗られ続けている。
  • 5代目松鶴の内弟子時代から長く6代目と寝食を共にし、幼少の頃から抱いていた兄の存在への憧れもあって6代目を「兄さん」(芸能の世界における兄弟子への呼称)ではなく「兄貴」「兄ちゃん」と呼び、いまだに心から慕っている。また、6代目も松之助を公私にわたってよく可愛がり、1962年の松鶴襲名に際して「松、俺と一緒(の柄)や。着てくれ。」と揃えで仕立てた縦縞柄の長襦袢を譲っている。
  • 松之助が喜劇役者として松竹芸能に所属し、道頓堀の劇場の軽演劇に出演していた際、丁度角座で6代目襲名披露興行が行われており、松之助も弟弟子として口上に参加した。同じ一門であっても、所属事務所が異なれば口上には参加できないため、松之助はこれを「幸運であった」としている。
  • 6代目のために新作落語を数本書き下ろしている。

弟子

笑福亭松之助を演じた俳優

関連項目

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外部リンク

  • これに関して本人は「ワシは林正之助に嫌われとったんや」と皮肉っている。
  • 笑福亭松之助聞書 いつも青春 ずっと青春、林家染丸、燃焼社、ISBN 4-88978-001-7。
  • 「エンタツ・アチャコ」にあこがれて
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