武満徹
テンプレート:Portal クラシック音楽 武満 徹(たけみつ とおる、1930年10月8日 - 1996年2月20日)は、現代音楽の分野において世界的にその名を知られ、日本を代表する作曲家である。エッセイストとしても知られ、小説を手がけたこともある。
目次
経歴
デビューまで
1930年10月8日に東京本郷区で生まれる。父は鹿児島県川内市(現・薩摩川内市)隈之城町出身で帝国海上保険勤務、祖父の武満義雄は政友会の鹿児島県幹事長をつとめ、原敬内閣のとき衆議院議員を連続7期17年間つとめた[1]。
生後1ヶ月で、父の勤務先である満洲の大連に渡る。1937年、小学校入学のために単身帰国し、東京市本郷区の富士前小学校に入学[2]、7年間にわたって叔父の家に寄留する。叔母は生田流箏曲の師匠であり、初期の習作的な作品『二つの小品』(1949年、未完)には箏の奏法の影響が見られる[3][4]。この頃に従兄弟からレコードで聴かされたベートーヴェンやメンデルスゾーンなどのクラシック音楽には興味を示さなかったが[5]、その一方で1942年に行われた「新作曲派協会」第2回作品発表会に足を運び、後に作曲を師事する清瀬保二の『ヴァイオリンソナタ第1番』のような、当時としては新しい音楽に感動していたとされる[6]。
1943年、旧制の私立京華中学校に入学。額から頭にかけての格好が飛行船に似ていたため、当時の渾名は「ツェッペリン」であった[7]。軍事教練では教官の手塚金之助少尉からしごきを受け、野外演習で入浴中に「あの金坊の野郎、ただじゃおかねえからな」と叫んだところ、真ん前に手塚がいたため「この野郎」と殴られたこともある[7]。在学中の1945年に埼玉県の陸軍食糧基地に勤労動員される。軍の宿舎において、同室の下士官が隠れて聞いていた[8]リュシエンヌ・ボワイエが歌うシャンソン『聴かせてよ、愛のことばを』( Parlez-moi d'amour )[9]を耳にして衝撃を受ける。現代音楽の研究者である楢崎洋子は、後年の『鳥は星型の庭に降りる』、『遠い呼び声の彼方へ!』など、いくつかの作品モチーフに、このシャンソンの旋律線との類似点があることを指摘している[10]。戦争中は予科練を受験[7]。戦争末期には「日本は敗けるそうだ」と語った級友を殴り飛ばした軍国少年であった[11]。
終戦後に進駐軍のラジオ放送を通して、フランクやドビュッシーなど、近代フランスの作曲家の作品に親しむ一方で、横浜のアメリカ軍キャンプで働きジャズに接した。やがて音楽家になる決意を固め、清瀬保二に作曲を師事するが、ほとんど独学であった。京華高等学校卒業後、1949年に東京音楽学校(この年の5月から東京芸術大学)作曲科を受験。科目演奏には最も簡単なショパンのプレリュードを選び、妹の下駄を突っかけて試験会場に出向いたが、控室で網走から来た熊田という天才少年(後に自殺)と意気投合し、「作曲をするのに学校だの教育だの無関係だろう」との結論に達し[12]、二日目の試験を欠席し、上野の松坂シネマで『二重生活』を観て過ごした[13]。この時期の作品としては清瀬保二に献呈された『ロマンス』(1949年、作曲者死後の1998年に初演)のほか、遺品から発見された『二つのメロディ』(1948年、第1曲のみ完成)などのピアノ曲が存在する[14]。
デビュー以前はピアノを買う金がなく、本郷から日暮里にかけて街を歩いていてピアノの音が聞こえると、そこへ出向いてピアノを弾かせてもらっていたという[15]。武満は「1軒もことわられなかったから、よほど運がよかったのだ」と言っているが、ときどき同行した友人の福島和夫によると、最初は確かに貸してくれたが、何度も続くと必ず「もう来ないで下さい」と断られたという[15]。のち、芥川也寸志を介してそれを知った黛敏郎は武満と面識はなかったにもかかわらず妻のピアノをプレゼントした[15]。
デビュー、前衛作曲家への道
1950年に、作曲の師である清瀬保二らが開催した「新作曲派協会」第7回作品発表会において、ピアノ曲『2つのレント』を発表して作曲家デビューするが、当時の音楽評論家の山根銀二に「音楽以前である」と新聞紙上で酷評された[16]。傷ついた武満は映画館の暗闇の中で泣いていたという。[17]。この頃、詩人の瀧口修造と知り合い、『2つのレント』の次作となるヴァイオリンとピアノのための作品『妖精の距離』(1951年)のタイトルを彼の同名の詩からとった。同年、瀧口の下に多方面の芸術家が参集して結成された芸術集団「実験工房」の結成メンバーとして、作曲家の湯浅譲二らとともに参加、バレエ『生きる悦び』で音楽(鈴木博義と共作)と指揮を担当したほか、ピアノ曲『遮られない休息I』(1952年)などの作品を発表した。この最初期の作風はメシアンとベルクに強い影響を受けている。「実験工房」内での同人活動として、上述の湯浅譲二や鈴木博義、佐藤慶次郎、福島和夫、ピアニストの園田高弘らと共に、メシアンの研究と電子音楽(広義の意。主にテープ音楽)を手がけた。また武満はテープ音楽(ミュジーク・コンクレート)として、『ヴォーカリズムA.I』(1956年)、『木・空・鳥』(同年)などを製作し、これらを通して音楽を楽音のみならず具体音からなる要素として捉える意識を身につけていった。
「実験工房」に参加した頃より、映画、舞台、ラジオ、テレビなど幅広いジャンルにおいて創作活動を開始。映画『北斎』の音楽(1952年、映画自体が制作中止となる)、日活映画『狂った果実』の音楽(1956年、佐藤勝との共作)、橘バレエ団のためのバレエ音楽『銀河鉄道の旅』(1953年)、劇団文学座のための劇音楽『夏と煙』(1954年)、劇団四季のための『野性の女』(1955年)、森永チョコレートのコマーシャル(1954年)などを手がけた。これらの作品のいくつかには、ミュジーク・コンクレートの手法が生かされているほか、実験的な楽器の組み合わせが試みられている。また作風においても、前衛的な手法から、ポップなもの、後に『うた』としてシリーズ化される『さようなら』(1954年)、『うたうだけ』(1958年)のような分かりやすいものまで幅が広がっている。また、1953年には北海道美幌町に疎開していた音楽評論家の藁科雅美[18]が病状悪化の早坂文雄を介して委嘱した「美幌町町歌」を作曲している。
この間、私生活においては1954年に若山浅香と結婚した。病に苦しんでいた武満夫妻に團伊玖磨は鎌倉市の自宅を提供して横須賀市に移住した。
1957年、早坂文雄(1955年没)に献呈された[19]『弦楽のためのレクイエム』を発表。日本の作曲家はこの作品を黙殺したが、この作品のテープを、1959年に来日していたストラヴィンスキーが偶然NHKで聴き、絶賛し、後の世界的評価の契機となる[20]。
1958年に行われた「20世紀音楽研究所」(吉田秀和所長、柴田南雄、入野義朗、諸井誠らのグループ)の作曲コンクールにおいて8つの弦楽器のための『ソン・カリグラフィI』(1958年)が入賞したことがきっかけとなり、1959年に同研究所に参加。2本のフルートのための『マスク』(1959年)、オーケストラのための『リング』(1961年)などを発表する。大阪御堂会館で行われた『リング』の初演で指揮を務めた小澤征爾とは、以後生涯にわたって親しく付き合うことになる[21]。この時期の作品では、ほかに日本フィルハーモニー交響楽団からの委嘱作品『樹の曲』(1961年、「日フィルシリーズ」第6回委嘱作品)、NHK交響楽団からの委嘱作品『テクスチュアズ』(1964年、東京オリンピック芸術展示公演)などがある。このテクスチュアズで日本人作曲家として初めてユネスコ国際作曲家会議でグランプリを受賞。名声は一気に跳ね上がった。
世界のタケミツ
1960年代には小林正樹監督の『切腹』(1962年、第17回毎日映画コンクール音楽賞受賞)、羽仁進監督の『不良少年』(1961年、第16回毎日映画コンクール音楽賞受賞)、勅使河原宏監督の『砂の女』(1964年、第19回毎日映画コンクール音楽賞受賞)、『他人の顔』(1966年、第21回毎日映画コンクール音楽賞受賞)などの映画音楽を手がけ、いずれも高い評価を得ている。武満自身は、若い頃から映画を深く愛し、年間に数百本の映画を新たに見ることもあった。スペインの映画監督ヴィクトル・エリセの映画エル・スールを父親の視点から絶賛しているほか、ロシア(ソ連)の映画監督アンドレイ・タルコフスキーに深く傾倒し、タルコフスキーが1987年に他界すると、その死を悼んで弦楽合奏曲『ノスタルジア』を作曲している。
1962年にNHK教育テレビ『日本の文様』のために作曲した音楽は、ミュジーク・コンクレートの手法で変調された筑前琵琶と箏の音を使用しており、武満にとっては伝統的な邦楽器を使用した初の作品となった。その後、前述の映画『切腹』では筑前琵琶と薩摩琵琶が西洋の弦楽器とともに使用され、1964年の映画『暗殺』(監督:篠田正浩)、『怪談』(監督:小林正樹)では琵琶と尺八が、1965年の映画『四谷怪談』(監督:豊田四郎)では竜笛、同年のテレビドラマ『源氏物語』(毎日放送)では十七弦箏とともに鉦鼓、鞨鼓など、雅楽の楽器も使用された[22]。1966年のNHK大河ドラマ『源義経』の音楽においては邦楽器はオーケストラと組み合わされている。これらの映画や映像のための音楽での試行実験を踏まえ、純音楽においても邦楽器による作品を手がけるようになった。その最初の作品である『エクリプス』(1966年)は琵琶と尺八という、伝統的な邦楽ではありえない楽器の組み合わせによる二重奏曲である。この『エクリプス』はアメリカで活動中の小澤征爾を通じてニューヨーク・フィル音楽監督レナード・バーンスタインに伝えられ、このことから、同団の125周年記念の作品が委嘱されることとなった。こうしてできあがった曲が、琵琶と尺八とオーケストラによる『ノヴェンバー・ステップス』(1967年)である。この作品を契機として武満作品はアメリカ・カナダを中心に海外で多く取り上げられるようになった[23]。
1970年には、日本万国博覧会で鉄鋼館の音楽監督を務め、このための作品として『クロッシング』、『四季』(初の打楽器アンサンブルのための作品)、テープ音楽"Years of Ear"を作曲、翌1971年には札幌オリンピックのためにIOCからの委嘱によってオーケストラ曲『冬』を作曲した。1973年からは「今日の音楽」のプロデュースを手がけ、海外の演奏家を招いて新しい音楽を積極的に紹介した。1975年にエフエム東京の委嘱によって作曲された『カトレーン』は同年に文化庁芸術祭大賞、翌年に第24回尾高賞を受賞するなど、国内で高い評価を得た[24]。また、『ノヴェンバー・ステップス』以後には海外からの注目も高まり、1968年と69年には「キャンベラ・スプリング・フェスティバル」のテーマ作曲家、1975年にはイェール大学客員教授、1976年と77年にトロントで開催された「ニューミュージック・コンサーツ」ではゲスト作曲家として招かれた。
癌との闘い
1980年に作曲されたヴァイオリンとオーケストラのための『遠い呼び声の彼方へ!』は、前衛的な音響が影をひそめ、和声的な響きと「歌」を志向する晩年の作風への転換を印象続ける作品となった[25]。この時期にショット社へ移籍し、作品の演奏の機会は以前よりも急激に増えることになる。以前、自身の作曲が日本で正当に評価されていなかったことを嘆き、「今日の音楽・作曲賞」では武満たった一人が審査をつとめ、彼自身の手で国際作曲賞を授与することに決めた。この作曲賞から多くの日本の若手や海外の若手が巣立った。
1980年代はすでに前衛は流行らなくなっており、武満本人も今日の音楽では積極的に海外の潮流を紹介したが、本人の興味はそれとはもうかかわりが薄くなっていた。作品はますます調性的になり、オーケストラとの相性がよいのでひっきりなしにオーケストラ曲の委嘱に応えていた。全編が調性音楽である「系図」には、かつての不協和音は完全に影を潜めた。この時期になると海外からの反応も、よいものばかりではなくなりはじめた。ショット社はドイツにあるにもかかわらず、ドイツの新聞で「シェーンベルク以前の音楽」「バスタブの中の河」(リヴァーランのドイツ初演評)などと酷評を受けるようになる。
晩年、それまで手をつけていなかったオペラに取り組もうと意欲を見せるが、作品は完成の日の目を見ることはなかった。タイトルは『マドルガーダ』(邦題は『夜明け前』)となる予定であった[26]。1995年、膀胱、および首のリンパ腺にがんが発見され、また、間質性肺炎を患っていた彼は数ヶ月に亘る長期の入院生活を送ることになる[27]。小康を得ての一時退院中、完成された最後の作品となる『森のなかで』『エア』を作曲[28]。1996年2月20日、虎の門病院にて死去。享年65[29][30]。墓所は、東京都文京区小日向にある曹洞宗日輪寺の境内墓地。
備考
政治にも関心が深く、1960年代の安保闘争の折には「若い日本の会」や草月で開かれた「民主主義を守る音楽家の集い」などに加わり自身もデモ活動に参加していた(ただし体調が悪くなっていたのですぐ帰っていたらしい[31])。1970年代には、スト権ストを支持したことがある。また、湾岸戦争(1991年)の際には、報道番組における音楽の使われ方に対して警鐘を鳴らし、報道番組は、音楽を使うべきではないと論じた。一方で音楽による政治参画については否定的だったようで、1970年代、自身も参加した音楽グループ「トランソニック」の季刊誌上で見解を示した。[32]
なお娘の武満真樹は洋画字幕の翻訳家だったが、2005年からクラシック音楽専門チャンネルのクラシカ・ジャパンの副社長を務めている。
作風
この項目は楢崎洋子氏の文章と内容が相当重複しますが、可能な限り著作権上の問題を回避し、引用される譜例は極力他のものを使用しています。ご了承ください。
1960年代前期は、特に管弦楽曲においてクライマックスを目指すヒートアップの方向性が明確に表れる。「アーク」(「テクスチュアズ」含む)「アステリズム」などがこれにあたる。この時期には西欧前衛の動向を手中に収め独自の語法として操る術を獲得しているが、特にヴィトルド・ルトスワフスキのアド・リビトゥム書法からの影響が直接的に現れている。もっともこれは結果としてルトスワフスキとの類似となったもので、直接には1960年代初頭に一柳慧によって日本にその思想が持ち込まれたジョン・ケージの偶然性の音楽の影響が見られる。武満はピアニストのためのコロナなどにおいて、直接的には図形楽譜による記譜の研究、内面的には偶然性がもたらす東洋思想との関連などを探った。そして帰結したのが時間軸の多層化という考え方である。
1960年代後期には、それまで映画音楽でのいくつかの試行実験を踏まえ、純音楽においても邦楽器による作品を手がけるようになった。この頃から徐々に、上で述べた(1960年代前期までの)西洋音楽的な一次元的時間軸上の集中的指向性を薄め、東洋音楽的な多層的時間軸上の汎的指向性へと変化していく。
中期を過ぎた頃には、前衛語法の使用から次第に調的な作風へと変化していった。具体的には「グリーン(当初の題は「ノヴェンバー・ステップス第2番」)」を発端とし、いくつかの中規模な作品を経て「カトレーン」「鳥は星型の庭に降りる」など1970年代終盤において明確に調性を意識するようになる。「アーク」の書き直しを行うごとに、協和音やオクターブなどの響きやすい音程関係へ傾斜した。モートン・フェルドマンのいう「オーケストラにペダルをつける」アイデアをここまで自家薬籠中の物とした作曲家、それを細川俊夫は「日本で唯一官能的な響きをオーケストラから引き出した」と述べた。
作品は1980年代は武満トーンでどの声部も豊麗に鳴り響いていたものの、1990年代からは健康管理が難しくなったことも含めて、歌われる旋律線が一本に収斂される時間が優勢になっていった。線が例え二本であっても、一本を持続にした上でもう一本を歌わせることで、情報量の制限を試みている。この手法はクラブサンのための「夢見る雨」で効果的に使われていたが、いかなる作品に対しても適用し始めたのは1990年代からになる。この手腕に対してルチアーノ・ベリオは「タケミツは西洋楽器のみを使ったほうが、よりいっそう日本を感じるんだよね」と答えている。佐野光司は「武満は、最晩年も進化し、『第四期』といってもよかった」とこの時代を締めくくる。
武満自身は晩年に「実は数的秩序をハーモニーに導入している」などとも語り、いまだ創作軌跡の全貌は、明らかにされていない点も多い。ヴィトルト・ルトスワフスキから「トオルよ。メロディーについて考えているか」と尋ねられ「はい。考えています」と返答し、「これからの作曲家もメロディーを忘れてはいけない」という呼びかけに、最も早く反応した日本の作曲家であることが、戦後日本音楽史の中で際立っている。
映画、テレビ、演劇などの音楽
武満は多くの映画音楽を手がけているが、それらの仕事の中で普段は使い慣れない楽器や音響技術などを実験・試行する場としている。武満自身、無類の映画好きであることもよく知られ、映画に限らず演劇、テレビ番組の音楽も手がけた。
琵琶と尺八の組み合わせで彼は純音楽として代表作『ノヴェンバー・ステップス』をはじめ『エクリプス(蝕)』、『秋』、三面の琵琶のための『旅』などを書いているが、最初に琵琶を用いたのは映画『切腹』およびテレビ(NHK大河ドラマ)『源義経』であり、尺八は映画『暗殺』でプリペアド・ピアノやテープの変調技術とともに用いた。さらに映画『怪談』(監督:小林正樹)では、琵琶、尺八のほかに胡弓(日本のもの)、三味線、プリペアド・ピアノも、それぞれテープ変調と共に用いている。この『怪談』の音楽は、ヤニス・クセナキスがテープ音楽として絶賛した。これらの作品の録音において、琵琶の鶴田錦史、尺八の横山勝也との共同作業を繰り返した経験が、後の『ノヴェンバー・ステップス』その他に繋がった。
2台のハープを微分音で調律してそのずれを活かすという書法は、純音楽としては『ブライス』などに見られ、またハープ独奏としては『スタンザII』が挙げられるが、このための実験としては、映画『沈黙』『美しさと哀しみと』『はなれ瞽女おりん』(すべて監督:篠田正浩)などが挙げられる。『はなれ瞽女おりん』は後に演奏会用組曲『2つのシネ・パストラル』としてもまとめている。
他にテレビの音楽としては『未来への遺産』においてオンド・マルトノを用いていることも特筆される。純音楽ではこの楽器は用いなかった。
黒澤明とは、『どですかでん』で初めてその音楽を担当して以来の関係であったが、1985年の映画『乱』で黒澤明と対立し、「これ以後あなたの作品に関わるつもりはない」と言い放っている。武満は黒澤にマーラー風の音楽を求められたことに不満を述べている[33]。
短編ドキュメンタリー映画『ホゼー・トレス』でのジャズの語法をはじめ、1960-70年代当時の日本の歌謡曲の語法など、武満自らが趣味として多く接した娯楽音楽の分野へのアプローチを試みたのも、これら映画音楽やテレビの音楽である。
その他の娯楽音楽として、晩年、それまでに作曲した合唱曲、映画音楽の主題や挿入歌などをポピュラー音楽として再編し石川セリが歌ったポピュラーソングのCDアルバムを発表した。これについては武満の死後、彼の葬儀の席上で黛敏郎が思い出として披露した、未発表の短い映画音楽用の旋律[34]をもとに、もう一枚のリメイク・ヴァージョンのアルバムが出ている。森山良子、小室等、沢知恵らもこれらの歌をレパートリーとしている。
影響
晩年監修を務め、彼の死後完成した東京オペラシティのコンサートホールはタケミツ・メモリアルの名が冠せられた。東京オペラシティのオープニング・コンサートの中で、作曲家でピアニストの高橋悠治は武満のために「閉じた眼II」を弾いた[35]。また、「武満徹作曲賞」の演奏会も毎度、このホールにて行われている。
武満の劇音楽の仕事は多忙を極めたこともあり、アシスタントを雇っていたことが知られているが、これは同時にまだデビュー間もない新人の発掘・育成にも繋がっていった。アシスタント経験者には池辺晋一郎や八村義夫、毛利蔵人などがいる。高橋悠治もデビュー初期に武満の仕事を手伝っており、『おとし穴』(監督:勅使河原宏)などでは演奏にも参加している。また、クラシック出身者以外にもマジカル・パワー・マコや鈴木昭男といった独自の楽器音響を追求する後輩たちとも交流を持ち、劇音楽の仕事を通してコラボレーションを行っている。
武満の著書には彼自身の自筆譜が多く掲載されていることで知られていたが、そのほとんどはフルスコアではなく、コンデンススコアである。コンデンススコアでまず作曲し、思いついた奏法や楽器名をその上に記し、アシスタントがフルスコアに直すことで多くのオーケストラ曲は完成されていた。多忙ではなくなった時期からは、自らフルスコアを書いている。
保守的なことで知られるウィーン・フィルによってもその作品は演奏され、その死は、多くの演奏家から惜しまれた。ショット社の公表では、没後武満の作品の演奏回数は一年で1000回を越えた。(出典:日本の作曲20世紀)映画音楽で有名なジョン・ウィリアムズも、武満を高く評価しており、『ジュラシック・パーク』では尺八を取り入れた。
音楽作品
- 『武満徹全集』(全5巻)、小学館、2002-05年
- 音楽作品の録音全集。管弦楽や室内楽などコンサート作品から、映画音楽やラジオ・テレビ作品のサウンドトラックまで、様々なレコード会社や放送用の音源をまとめ、新録音も含めて全集として発売している。ただし、長木誠司は「監修者不在」を批判している。
楽譜は日本ショット株式会社およびフランスのサラベール(現在はデュランなど他レーベルとともにBMGが版権を所有し発行管理している)により出版されている。かつては一部の楽譜が音楽之友社からも出版されていた。
著作(文章)
武満自身、音楽作品以外に文章でも多数の著書を発表、また新聞や雑誌でも音楽評論を盛んに執筆した。
- さまざまな媒体に発表した文章の大半を、『音、沈黙と測りあえるほどに』などの単著を軸に収録されている。
単著(日本語)
- 『武満徹←1930・・・・・・∞』 武満徹、1964年
- 『音、沈黙と測りあえるほどに』 新潮社、1971年(著作集第1巻)
- 『樹の鏡、草原の鏡』 新潮社、1975年(著作集第1巻)
- 『音楽の余白から』 新潮社、1980年(著作集第2巻)
- 『夢の引用 映画随想』 岩波書店、1984年(著作集第5巻)
- 『音楽を呼びさますもの』 新潮社、1985年(著作集第2巻)
- 『夢と数』 リブロポート、1987年(著作集第5巻)、自らの音楽語法について直接述べた著作
- 『遠い呼び声の彼方へ』 新潮社、1992年(著作集第3巻)
- 『時間の園丁』 新潮社、1996年(著作集第3巻)、点字資料版が1996年に日本点字図書館から刊行
単著(再編本、日本語以外)
- 『サイレント・ガーデン』 新潮社、1999年(闘病日記、病床で描いた絵入り料理レシピ)
- 『私たちの耳は聞こえているか』 日本図書センター、2000年(既刊書籍に収録された回想エッセイを再編集した著作)
- 『武満徹|Visions in Time』 エスクァイアマガジン・ジャパン、2006年
- 『武満徹エッセイ選 言葉の海へ』 小沼純一編、ちくま学芸文庫、2008年
- Confronting Silence: Selected Writings. trans. and ed. by Yoshiko Kakudo and Glenn Glasow. Berkeley, Calif: Fallen Leaf Press, 1995.
共著
- 『ひとつの音に世界を聴く――武満徹対談集』 晶文社、1975年、新装版1996年
- 『武満徹対談集――創造の周辺』 芸術現代社(上下巻)、1976年→新版(全1巻)、1997年
- 『音・ことば・人間』川田順造との往復書簡、岩波書店、1980年→岩波同時代ライブラリー(改訂版)、1992年→(著作集第4巻)
- 『音楽』小澤征爾との対話、新潮社、1981年 → 新潮文庫、1984年
- 『音楽の庭――武満徹対談集』 新潮社、1981年
- 『シネマの快楽』蓮實重彦との対話、リブロポート、1986年 → 河出文庫、2001年
- 『すべての因襲から逃れるために――武満徹対談集』 音楽之友社、1987年
- 『オペラをつくる』大江健三郎との対話、岩波新書、1990年 →(著作集第4巻)
- 『歌の翼、言葉の杖――武満徹対談集』 TBSブリタニカ、1993年 →(著作集第5巻)
- 『シネ・ミュージック講座/映画音楽の100年を聴く』秋山邦晴と、フィルムアート社、1998年
- 『武満徹対談選 仕事の夢・夢の仕事』、小沼純一編、ちくま学芸文庫、2008年
- 『武満徹自らを語る』 聞き手安芸光男、青土社、2010年
自著以外の関連書籍
ロング・インタビュー
- マリオ・A[聞き手・写真]/埴谷雄高、猪熊弦一郎、武満徹[述]『カメラの前のモノローグ』 集英社新書、2000年
- 木之下晃[聞き手・写真] 『木之下晃 武満徹を撮る 武満徹 青春を語る』 小学館、2005年(CD付写真集)
音楽学
エッセイ・解説
- 『カフェ・タケミツ』 岩田隆太郎、海鳴社 1992年 ISBN 978-4-87525-149-1
- 『作曲家武満徹と人間黛敏郎』 岩城宏之、作陽学園出版部 1999年 ISBN 4-8462-0219-4
写真集・回想
「著作案内」の外部リンク
- 武満徹全集・小学館(音楽作品)
- 武満徹著作集・新潮社
主な受賞歴
- 第24回尾高賞(1976年)
- 日本芸術院賞(1980年)
- モービル音楽賞(1981年)
- 朝日賞(1985年)
- 芸術文化勲章(フランスから、1985年)
- モーリス・ラヴェル賞(フランスから、1990年)
- サントリー音楽賞(1991年)
- NHK放送文化賞(NHKから、1994年)
- グレン・グールド賞(カナダから、1996年)
関連項目
脚注
外部リンク
- ショット・ミュージック:武満徹
- Toru Takemitsu: Complete Works
- 東京オペラシティ コンサートホール:タケミツ・メモリアル
- 武満徹作曲賞
- テンプレート:Jmdb name
- テンプレート:Allcinema name
- テンプレート:Kinejun name
- テンプレート:Imdb name
テンプレート:日本アカデミー賞最優秀音楽賞 テンプレート:日本芸術院賞 テンプレート:毎日芸術賞
- ↑ 草柳大蔵『新々実力者の条件』p.214(文藝春秋社、1972年)
- ↑ 武満浅香『作曲家・武満徹との日々を語る』(小学館、2006年)のなかに、編集部が武満の小学生時代の同級生から得た証言として、武満が小学生のときに音楽教師から目をかけられ、放課後にピアノを習っていたというエピソードなどが掲載されている(p244-246)。この経験が後に独学で作曲やピアノに取り組む下地になっていたことが推察される。
- ↑ 楢崎洋子『武満徹』音楽之友社、2005年、12頁
- ↑ ただし、後年の武満は箏をあまり好まなかった(楢崎、2005年、12頁)。
- ↑ 楢崎、2005年、18頁
- ↑ 楢崎、2005年、8頁、21頁
- ↑ 7.0 7.1 7.2 草柳大蔵『新々実力者の条件』p.211(文藝春秋社、1972年)
- ↑ フランスは当時の日本の敵国であったため。
- ↑ 何らかの原因でジョセフィン・ベーカーだと思いこみ、長らくそう記していた。立花隆に指摘されて以来一時期は訂正していたものの、「客観的事実より、自分の記憶の中の事実を大切にしたい」として、ベーカーに戻している(立花隆「音楽創造への旅」『武満徹全集第2巻』小学館、2003年)。
- ↑ 楢崎、2005年、19頁
- ↑ 草柳大蔵『新々実力者の条件』p.212(文藝春秋社、1972年)
- ↑ 草柳大蔵『新々実力者の条件』p.210(文藝春秋社、1972年)
- ↑ 楢崎洋子『武満徹』音楽之友社、2005年、ISBN-4276221943、21頁。ただし、武満はこの時期に多くの病気を抱えており、入学試験の許可が芸大から出たかどうかは異説もある。
- ↑ 楢崎、2005年、8-13頁
- ↑ 15.0 15.1 15.2 草柳大蔵『新々実力者の条件』p.224(文藝春秋社、1972年)
- ↑ 『東京新聞』1950年12月12日付
- ↑ 2つのレントを一言で一蹴した山根ではあったが、必ずしも武満の創作を否定的に見ていなかったようで、例えば初演当初あまり評判が芳しくなかった『弦楽のためのレクイエム』については「外見がまずく評判が悪いかもしれないが自分は理解できる気がする」等と論評を書いている。(武満浅香『作曲家・武満徹との日々を語る』小学館、2006年、p46-47)
- ↑ 毎日放送の音楽ディレクター、訳書『バーンスタイン物語』
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ ストラヴィンスキーは「厳しい、実に厳しい。このような曲をあんな小柄な男が書くとは…」と称賛したといわれる(『最新名曲解説全集7(管弦楽曲IV)』音楽之友社、458頁。秋山邦晴執筆)。
- ↑ 楢崎、2005年、84頁
- ↑ この頃の作品、クーセヴィツキー財団からの委嘱によって作曲された弦楽合奏のための『地平線のドーリア』(1966年)は、邦楽器は一切使用していないものの、雅楽での音の動きが反映されている(楢崎、2005年、84)
- ↑ 楢崎、2005年、101頁
- ↑ 楢崎、2005年、119頁
- ↑ 楢崎、2005年、129頁
- ↑ 台本はすでに完成されており、2005年、野平一郎によって作曲された。経緯については本人サイトの「新創作ノート」1~7に詳しい。
- ↑ この時期の闘病日記が死後に発見された。また、娘のために、さまざまな料理のレシピをイラストつきで記していた。これらは『サイレント・ガーデン――滞院報告・キャロティンの祭典』(新潮社)で見ることができる。
- ↑ 死後、冒頭6小節分オーケストラスコアとして書き始められた、フルート、ハープ、オーケストラのための『ミロの彫刻のように』の未完の譜面が仕事場で見つかる。
- ↑ 直接の死因は間質性肺炎(楢崎洋子『武満徹』音楽之友社、他)。ピーター・バート『武満徹の音楽』(音楽之友社)では、がんとなっている。
- ↑ 死の前日、大雪が降り、夫人は見舞いに訪れることができなかった。武満は訪れる見舞客も無いので、ラジオを聴いたり本を読んだりして一人静かに時間を過ごしていたが、偶然にも、武満が愛してやまなかったバッハの『マタイ受難曲』がNHK-FM放送で放送されて、武満はこの大曲を深い感動とともにしみじみ聴くこととなる。この偶然を夫人は、後に深い感慨を持って回想している。
- ↑ 岩城宏之対談集「行動する作曲家たち」新潮社、1986、p33、岩城との対談における武満の発言より
- ↑ 当時、政治と音楽との関わり方を模索していた高橋悠治が同季刊誌で様々な音楽家からアンケートをとった中で武満は否定的な見解を示した。このことなどが原因となって長年親交のあった武満・高橋との関係が一時的に疎遠になってしまった。このエピソードの顛末については高橋自身が青空文庫で公開した「音楽の反方法論序説」18や谷川俊太郎との対談「谷川俊太郎が聞く 武満徹の素顔」(小学館、2006年)p56-58などに詳しい。
- ↑ 同作品の葬送行進曲がマーラー風なのは「黒澤さんへの皮肉」とも武満は語っている。
- ↑ 谷川俊太郎によって歌詞がつけられ、『MI・YO・TA』というタイトルの作品として発表された。この題名は、武満が長野県御代田町の山荘で作曲活動を行っていたことに由来する。
- ↑ 高橋は武満から「祈りとしての音楽」と「バッハをピアノで弾く」というテーマでコンサートを頼まれていた。演奏が終わって拍手がおこった時、高橋悠治は礼をせず、代わりに「閉じた眼II」の黄色い楽譜を高々と掲げて客席に示した。