山形県立米沢興譲館高等学校
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山形県立米沢興譲館高等学校(やまがたけんりつ よねざわこうじょうかんこうとうがっこう(テンプレート:Lang-en-short)は、山形県米沢市大字笹野に所在する公立の高等学校。
概要
- 歴史
- 1886年(明治19年)創立の「私立米沢中学校」(旧制中学校)を前身とする。1948年(昭和23年)の学制改革により新制高等学校となった。現校名となったのは1956年(昭和31年)。2011年(平成23年)に創立125周年を迎えた。
- なお1776年(安永5年)創立の藩校「興譲館」の流れを継承しているとされ、高校の創立年数とは別に創立年数が設定されており、節目に創立記念式典が行われている。2011年(平成23年)に創立235周年を迎えた。
- 校名の由来
- 「興譲館」という校名は、「大学」の一節「一家仁一国興仁、一家譲一国興譲」から採られた。興譲とは、譲を興す(おこす)と読み、「恭遜(きょうそん)の道を繁昌(はんじょう)さすること也」(細井平洲、建学大意)。
- 設置課程・学科
- 全日制課程 2学科
- 2006年度(平成18年度)から、科ごとの募集を取り止め、一括募集としている。生徒は2年次から普通科・理数科を選択する。ただし推薦入試は科ごとに募集され、2年次から必ずその科に所属しなければならない。上記の変化に合わせ、同じく2006年度入試からは定員が240人から200人に削減、1クラス減となった。
- 校歌
- 現校歌は創立70周年を記念して、現校名に改称した1956年(昭和31年)に制定された。作詞は浜田広介、作曲は細谷一郎による。歌詞は3番まであり、各番に校名の「興譲」が登場する。
- 同窓会
- 「米沢興譲館同窓会」と称している。
沿革
( )内の日付は旧暦を表す。
藩校
- 1697年(元禄10年)
- 綱憲の没後、藩財政の逼迫と共に衰微。
- 1724年(享保9年) - 聖堂の祭祀、孔子を祀る釈奠が中止となる。
- 1771年(明和8年5月2日) - 第9代藩主上杉治憲(鷹山)が「学問所」を再興し、招聘した細井平洲(紀徳民)を馬場御殿の松桜館に迎え学生に講授(以後10ヶ月間)。
- 1776年(安永5年)
- 1785年(天明5年) - 聖堂の扁額を『先聖殿』に改称。
- 1793年(寛政5年11月14日) - 屋代町(現・丸の内)御国産所内に医学堂「好生堂」が設立される。薬草園と共に医学書やオランダ製の外科器械類を整備。
- 1796年(寛政8年)
- (9月6日) - 細井平洲が三たび米沢入り、上杉鷹山が関根の普門院まで出迎える。
- (12月14日) - 通学生のために友于堂を建築。
- 1799年(寛政11年) - 服部正相(豊山)が学科試験を開始。
- 1807年(文化4年)3月 - 好生堂を興譲館構内に移転。上杉治憲は藩医を杉田玄白らの元に派遣し蘭学・医学を学ばせる。
- 1864年(元治元年)
- (4月15日) - 西割出町(現・金池)から出火し、興譲館が類焼。
- (11月6日) - 門東町講武所内に興譲館を再建。
- 1867年(慶応3年12月29日) - 徳川慶喜からの大坂(阪)出陣の要請を受け、上杉斉憲は各頭・諸役員・興譲館諸生から意見を聴取。
- 1869年(明治2年1月) - 兵士の屯所や仮病院に充てられていた学館の修復が完了し、興譲館の授業を再開。
- 1871年(明治4年)
- 1872年(明治5年10月17日) - 文部省布達(「従前の諸学校の儀一旦悉く可相廃止候」)により、県学としての興譲館は廃止される。学館は縮小して継続。
旧制中学校
- 1874年(明治7年)- 興譲館を旧・米沢藩士協立の「私立米沢中学校」と改称。上杉家寄贈資金の利子と授業料で経営。洋学科を外国語学校と改称。
- 1881年(明治14年)12月 - 屋代町上ノ丁(現・門東町)の元置賜県庁舎に移転。ともに外国語学校も屋代町に移転し統合。
- 修業年限を4年とする。以後徴兵猶予の恩典と上級学校進学の資格が得られない状況が1893年(明治26年)まで続く。
- 1886年(明治19年)9月19日 - 中学校令(勅令15号)の施行により、変則中学校から正則中学校となる。この日を創立記念日とする。(創立年)
- 1893年(明治26年)5月25日 - 県費補助を受けるため、山形県知事に移管の上、「米沢尋常中学校」に改称。県立同等の資格に認定される。
- 1895年(明治28年)5月2日 - 「米沢尋常中学校興譲館」と改称。
- 1900年(明治33年)4月1日 - 山形県に移管され、「山形県米沢中学校」と改称。 校友会(生徒会)として「興譲会」が発足。
- 1901年(明治34年)
- 4月1日 - 「山形県立米沢中学校」と改称。
- 9月19日 - 校舎を関東町(現・西大通)に新築移転。
- 1904年(明治37年)9月 - 戦時(日露戦争)記念林創設。舘山に植林事業を開始。
- 1909年(明治42年)
- 1925年(大正14年)4月24日 - 軍事教練のため軍事教官(将校)が配属される。
- 1926年(大正15年)5月1日 - 私立米沢中学校夜学校を併設。
- 1927年(昭和2年)6月14日 - 校歌を制定。作詞は五十嵐力、作曲は弘田龍太郎による。
- 1928年(昭和3年)- 後援会が発足。
- 1929年(昭和4年)1月29日 -「山形県立米沢興譲館中学校」と改称。
- 1936年(昭和11年)
- 1938年(昭和13年)6月9日 - 勤労奉仕活動が開始。翌1939年度以降、全生徒が近郊農村や報国農場(鬼面川河畔)への勤労奉仕に出動。
- 1940年(昭和15年)4月1日 - 併設の夜学校が山形県に移管され、山形県立米沢夜間中学校となる。
- 1943年(昭和18年)4月1日 - 中等学校令の施行により、この時の入学生から修業年限が4年となる。併設の夜間中学校を統合し、夜間課程とする。
- 1944年(昭和19年)9月 - 学徒動員で4・5年生が群馬県太田町の中島飛行機製作所へ出動。
- 1945年(昭和20年)
- 3月 - 教育ニ関スル戦時非常措置方策の修業年限4年施行前倒しにより、5年生と4年生の合同卒業式を挙行。
- 本来、中等学校令の施行された1943年(昭和18年)に入学した生徒が4年を修了する1947年(昭和22年)3月に修業年限4年が施行される予定であったが、戦況の悪化により、中等学校令の施行される前(1941年(昭和16年)・1942年(昭和17年))に入学した生徒にも修業年限4年が適用されることとなった。この時、1940年(昭和15年)入学の5年生と1941年(昭和16年)入学の4年生の合同卒業式が行われた。
- 4月 - 学校での授業を停止。ただし勤労動員は継続。
- 8月 - 終戦。
- 9月 - 授業を再開。
- 3月 - 教育ニ関スル戦時非常措置方策の修業年限4年施行前倒しにより、5年生と4年生の合同卒業式を挙行。
- 1946年(昭和21年)4月1日 - 修業年限が5年に戻る(ただし4年修了時点で卒業することもできた)。
- 1947年(昭和22年)4月1日 - 学制改革(六・三制の実施)が行われる。
- 旧制中学校の募集を停止。
- 新制中学校を併設し(以下・併設中学校)、旧制中学校1・2年修了者を新制中学校2・3年生として収容。
- 併設中学校は経過措置としてあくまで暫定的に設置されたため、新たに生徒募集は行われず、在校生が2・3年生のみの中学校であった。
- 旧制中学校3・4年修了者はそのまま在籍し、4・5年生となった(ただし4年修了時点で卒業することもできた)。
新制高等学校
- 1948年(昭和23年)
- 4月1日 - 学制改革(六・三・三制の実施)により旧制中学校が廃止され、新制高等学校「山形県立米沢第一高等学校」(男子校)が発足。
- 通常制普通課程(修業年限3年)と定時制普通課程(修業年限4年)を設置。
- 旧制中学校卒業者(5年修了者)を新制高校3年生、旧制中学校4年修了者を新制高校2年生、併設中学校卒業者(3年修了者)を新制高校1年生として収容。
- 併設中学校を継承(名称:山形県立米沢第一高等学校併設中学校)し、在校生が1946年(昭和21年)に旧制中学校へ最後に入学した3年生のみとなる。
- 後援会が改組され、教育振興会が設立される。
- 5月 - 興譲会を「自治会」に改称。
- 4月1日 - 学制改革(六・三・三制の実施)により旧制中学校が廃止され、新制高等学校「山形県立米沢第一高等学校」(男子校)が発足。
- 1949年(昭和24年)
- 2月 - 自治会歌を制定。作詞は星篤志、作曲は滝沢美恵子による。
- 3月31日 - 併設中学校を廃止。
- この年 - 米沢興譲館同窓会が復活。
- 1950年(昭和25年)
- 1952年(昭和27年)
- 3月31日 - 定時制三沢東部分校を廃止。
- 4月1日 - 統合が解消され、西校舎は「山形県立米沢西高等学校」となる。 東校舎は山形県立米沢東高等学校として分離独立。
- 1956年(昭和31年)
- 3月15日 - 雑誌『興譲』第1号を発行。
- 4月1日 - 「山形県立米沢興譲館高等学校」(現校名)と改称。
- 9月19日 - 創立70周年を記念して新たに校旗と校歌を制定。校歌の作詞は浜田広介、作曲は細谷一郎による。
- 1957年(昭和32年)9月19日 - 体育後援会が発足。
- 1961年(昭和36年)3月31日 - 定時制広井郷分校を廃止。
- 1963年(昭和38年)
- 3月31日 - 定時制窪田分校を廃止。
- 4月1日 - 通常制普通課程を全日制課程普通科、定時制普通課程を定時制課程普通科に改称。
- 1964年(昭和39年)6月16日 - 新潟地震が発生。
- 1966年(昭和41年)
- 1967年(昭和42年)
- 8月29日 - 羽越水害が発生。
- 10月 - 全校生徒で羽越水害の被災地小松地区の稲刈り勤労奉仕に出動。
- 1968年(昭和43年)4月1日 - 全日制課程に理数科(1学級)を設置。
- 1981年(昭和56年)3月31日 - 定時制課程を廃止。
- 1986年(昭和61年)
- 1987年(昭和62年)
- 1988年(昭和63年)
- 1989年(平成元年)
- 1991年(平成3年)4月 - 体育後援会を「体育文化後援会」と改称
- 1996年(平成8年)1月15日 - 北通り-新大橋線(学園ロード)が開通。
- 1997年(平成9年)9月10日 - 思索の森を造成。
- 2008年(平成19年)8月 - 新部室棟が完成。
- 2000年(平成12年)
- 3月 - 東屋(あずまや)の建設と樹木45本の植栽により思索の森の整備が完了。
- 7月 - 上杉鷹山生誕250年を契機に宮崎県立高鍋高等学校を親善訪問。以後、隔年で相互訪問交流。
- 9月 - 藩学創設300年記念講堂が完成。
- 2002年(平成14年)4月 - 文部科学省「スーパーサイエンスハイスクール」研究指定校。(2004年度(平成16年度)末まで)。
- 研究開発課題:「生涯にわたって科学的に思考し、創意工夫する力を育むための教育課程及び教育方法の研究開発」
- 2008年(平成20年)4月1日 - 普通科と理数科のくくり募集を開始。
- 2011年(平成23年)
- 2012年(平成24年)4月 - 文部科学省「スーパーサイエンスハイスクール」研究指定校。(2016年度(平成28年度)末まで)。
- 研究開発課題:「科学好きの裾野を広げ、科学技術系人材を育て、わが国の将来を担うサイエンス イノベーターの育成を目指す教育プログラムの研究開発」
特色
- いわゆる生徒会にあたる、自治会という組織が活動を行っている。オープンスクールなど様々な行事が生徒主導で進められている。
- テンプレート:要出典範囲2008年度の国公立大学の合格人数は卒業生232人中141人であった。
- テンプレート:要出典範囲
- 漢文音読という国語科の自主教材がある。
- テンプレート:要出典範囲
授業
- 興譲館の授業は月曜日から金曜日まで、50分×7コマである。以前は55分×6コマであったが、コマ数の確保と総時間数の拡大(330分→350分)を目的に、変更された。
- 予習を重視しており、授業のたびに予習プリントの点検を行う職員も多い。授業はあくまで確認のためのものという位置づけである。
- 2年次からは朝学習がスタートする。これは興譲館の登校時刻である8時25分から、曜日ごとに決められた科目(主に古典や数学が中心)のプリントを解くというものである。朝学習が始まると、8時25分までに教室にいなければならない(8時25分の時点で校舎に入ったというだけではアウト)。
- 3年生になると放課後講習が始まり、実質8コマ授業になる。
- 体育の授業を重視している。本校は『学力のためにはまず体力を養うことが大切』というスタンスをとっている。また、成績評価の際には、運動能力ではなく「安全にスポーツができるか」や「適切な健康管理ができるか」に鑑みる。本校の体育の授業では選択授業を1年の内かなりの割合で実施するが、その際、班ごとに日誌を作らせ、自主的なスポーツ活動の運営を図らせている。
- 欠点(赤点)は35点以下である。学年末の成績が35点に満たない者は単位の追認試験を受けなければならない。
学校施設
- グラウンドは比較的広く、サッカー部・ホッケー部・野球部・陸上部の活動が同時にできる。
- 思索の森という原っぱがあり、腰掛けもあるが、あまり利用されていない。
- セミナーハウスと呼ばれる宿泊施設があり、部活の合宿などに利用されている。
- 体育館は広いとは言えず、部活動の際にはバスケットボール・バレーボール・バドミントン・卓球・フェンシングなどの部がシェアしている。
- 2000年に藩学創設300年を記念した講堂が建てられた。合唱祭やコンサート、講演会の際に使用される。
- 校舎は3階建てで、職員室は2階にある。2年・3年生の教室は3階、1年生の教室は2階にある。3年生の教室にのみ、エアコンが設置された。
学校行事
- 4月
- 宿泊研修(1年)
- 入学して間もない1年生が興譲館での学習スタイルを身につけたり、クラス内での交流を図ろうとするためのものである。興譲館敷地内のセミナーハウスや自然の家など、年により様々なところで行われている。
- 6月
- 登山(1年)
- ここ2、3年は吾妻山に登ることが多い。
- 体育祭
- クラスごとに、カラフルでユニークなTシャツが作られる。以前はこれとは別に「クラスマッチ」が行われていたが、この体育祭に統合された。
- 7月
- 甲子園予選応援
- ほぼ全校の生徒が試合会場に出向き応援をする。
- 9月
- 興譲祭
- マラソン大会
- 男子は10.9km、女子は6.7kmを走る。全員参加が原則で、参加できない場合も競技役員として配置される。もちろん個人戦であるが、クラスマッチとしての要素もある。南原に移転してからは男子は16kmだったが、数年前生徒が蜂に襲われたことをきっかけに距離が短くなった。
- 11月
- 大学・施設見学会(2年)
- 本校には修学旅行がなく、その代わりとして(一応)位置づけられているものである。年によってだいぶ違うが、大学や研究所の視察、班別研修やホテルでのプレゼンテーション・ミーティングなどが中心である。
- 1月
- スキー授業(1・2年)
- 市内のスキー場に出向き、丸1日スキーを楽しむ。2 - 3回実施される(ちなみに、スキー授業に三学期分の体育・保健のコマ数の大部分が集められているため、欠席は望ましくないとしている)。
部活動
運動部
- 野球
- ソフトテニス(男・女)
- フェンシング
- 弓道
- 陸上競技
- 柔道
- 剣道
- ホッケー
- バレーボール
- バドミントン
- バスケットボール
- サッカー
- 山岳
- スキー
- 卓球
- 水泳
文化部
- 自然科学
- 調理科学
- 理工
- 美術
- 音楽
- 吹奏楽研究
- 新聞・文芸
- ESS
交通
通学手段
- 本校には置賜地方一円から生徒が集まってくるため、通学手段も様々である。
- 徒歩
- 自転車(市内の生徒に多い)
- 自動車(保護者による送迎。冬期間は雪のため、生徒のほとんどが車通学になる。そのため、校舎前のロータリーは朝・夕方において非常に混雑する)
- 鉄道(南陽市・東置賜郡の生徒などに多い。興譲館の最寄駅はJR米坂線南米沢駅であるが、離れているためそこから徒歩・自転車で興譲館に通学する生徒が多い。また、冬期間など鉄道が運休になった場合でも授業は通常通り行われる。その際は鉄道で通学する生徒は公欠扱いになる。また、これで授業に参加できないことによる不利益を小さくするため、授業をあまり進めずに演習の時間にするなど配慮もなされる)
- バス(冬期間は興譲館行きのバスが増発される)
- 下宿先からの通学(遠距離で自宅からの通学が困難な小国町・飯豊町の生徒に多い)
著名な出身者
卒業生
- 相田岩夫(大蔵省銀行局長、預金部長官、日販社長 / 帝人事件では銀行検査官で訴追)
- 秋山武三郎(電気通信技術の専門家)
- 安部三十郎(現米沢市長)
- 池田成彬(大蔵大臣・日本銀行総裁)
- 遠藤武彦(衆議院議員・第45代農林水産大臣)
- 大熊信行(経済学者)
- 大塚勝夫(経済学者)
- 河上清(社会主義者・在米ジャーナリスト)
- 雲井龍雄(幕末・明治維新の志士)
- 近藤鉄雄(元労働大臣)
- 高橋里美(哲学者)
- 富樫興一(阪神球団初代代表・セ・リーグ顧問・初代甲子園球場長)
- 浜田廣介(童話作家)
- 原田めぐみ(フェンシング選手)
- 堀江守弘 (スキーオリエンテーリング選手)
- 針重敬喜(編集者)
- 平田東助(内務大臣・農商務大臣)
- 堀内素堂(江戸時代の医学者)
- 眞島秀和(俳優)
- ますむらひろし(漫画家)
- 松野良寅(日本英学史学会会長)
- 皆川睦雄(元プロ野球選手)
- ラズウェル細木(漫画家)
- 我妻栄(民法学者・東京帝国大学教授)
- 山下源太郎(海軍大将)
- 黒井悌次郎(海軍大将)
- 南雲忠一(海軍大将)
- 上泉徳弥(海軍中将)
- 千坂智次郎(海軍中将)
- 今村信次郎(海軍中将)
- 片桐英吉(海軍中将)
- 下村正助(海軍中将)
- 小林仁(海軍中将)
- 近野信雄(海軍少将)
- 山田勇助(海軍少将)
- 下村忠助 (海軍中佐)
- 工藤俊作(海軍中佐)
- 金藤晃一(カウンセラー)
- 須藤良(予備校講師)
教職員
参考文献
- 松野良寅編『興譲館世紀』(山形県立米沢興譲館高等学校創立百年記念事業実行委員会、1986年)
- 松野良寅編『興譲館小史 人あまたあと継ぎて』(米沢興譲館出版会、1988年)
- 今泉亨吉『上杉鷹山公小伝』(御堀端史蹟保存会、1982年第7版)
- 米沢児童文化協会 編『郷土に光をかかげた人々』(米沢児童文化協会、1989年改訂2版)