映画史
テンプレート:出典の明記 映画史(えいがし)は、映画がどのような経緯をもって誕生し、世界で発展してきたかという歴史である。映画史を研究する学問もあり、映画史の研究者を映画史家(えいがしか)と呼ぶ。
目次
1890年代
映画につながる技術は19世紀後半から、フランスのマレー、アメリカのマイブリッジ、ドイツのアンシュッツなど、多くの人々によって研究されてきた。それらの研究は全て、19世紀前半に完成された写真技術を、現実の運動の記録と再現に応用しようとしたものである。
これらの人々の積み重ねを経て、1893年、アメリカのエジソンが自動映像販売機(映写機)キネトスコープを一般公開。さらに、フランスのリュミエール兄弟がシネマトグラフ・リュミエールという、現在のカメラや映写機と基本的な機構がほぼ同じ複合機(カメラ+映写機+プリンター)を開発し、1895年3月にパリで開催された科学振興会で公開。同年12月28日にパリのグラン・カフェと言う名称のカフェ(現ホテル・スクリーブ・パリ)で有料の試写会を開いた。
他にフランス人のルイ・ル・プランスも同時期に映写装置を開発していた。しかし、透明で柔軟性に富むフィルム材料が手に入らず一時、頓挫していた。
エジソンが開発したのは箱を覗き込むと、その中に動画をみることができるというもの。リュミエール兄弟が開発したのは、その仕組みを箱から、スクリーンへと投射するものへと改良し、一度により多くの人が動画を観賞することができるようにしたもの。現在の映画の形態を考慮すると、リュミエール兄弟の最初の映画の公開をもって映画の起源とする方が有力な説となる。
リュミエール兄弟らが公開した世界最初の映画群は、駅のプラットホームに蒸気機関車がやってくる情景をワンショットで撮したもの(『ラ・シオタ駅への列車の到着』)や、自分が経営する工場から仕事を終えた従業員達が出てくる姿を映したもの(『工場の出口』)など、計12作品。いずれも上映時間数分のショートフィルムだった。初めて映画を見る観客は「列車の到着」を見て、画面内で迫ってくる列車を恐れて観客席から飛び退いたという逸話も残っている。これらの映画の多くは単なる情景描写に過ぎなかったが、やがて筋書きを含む演出の作品が作られるようになった。例えば『水をかけられた散水夫』という作品は、散水夫がホースで水を撒いていると、一人の少年がホースの根元を踏んで水が出なくなり、散水夫がホースを覗き込むとその男は足を離して散水夫がずぶぬれになり、散水夫は少年を追いかけ折檻するという筋書きで、数分の動画の中に筋書きと笑いの要素を含んでおり、コメディ映画の発端のひとつとなった。
ロシアの作家マクシム・ゴーリキーはこのリュミエール兄弟の制作した『水をかけられた散水夫』と『シネマトグラフの入口』という2作品を見た上で、リュミエール兄弟の作品に対しこう評価している。
またこの頃は著作権に関する意識が無く、フランス以外でもイギリスなどで同じような『散水夫』の模倣作品が数通り作られている。
なお、最初の作品はリュミエール兄弟が経営していた工場から従業員が出てくるシーンを捉えた『工場の出口』で、リュミエール兄弟は1894年末頃に撮影したとしているが詳細は不明。また、この作品はグラン・カフェで上映された12本のうちの1本とは別なバージョン(『工場の出口』は4つのバージョンがある)。
初期の映画は、画像のみで音声のないサイレント映画と呼ばれるもので、日本では別名「活動写真」とも呼ばれ、映画館は「活動小屋」とも呼ばれた。日本独自の上映手法として、上映中の場面に合わせて解説を行う「活動弁士」と呼ばれる人が活躍していたといわれる。
日本で最初の“活動写真”製作は、フランス製ゴーモンカメラにより、浅野四郎らが失敗を重ねた末、2年がかりで「浅草仲見世」「芸妓手踊」など実写11本を作り、1899年(明治32年)7月20日から東京歌舞伎座で公開。俳優を使った劇映画は同年関東各地を荒らしたピストル強盗逮捕を横山運平主演で柴田常吉が撮影した「稲妻強盗/清水定吉」で、同年9月に撮影、公開。
1900年代
1902年に、世界で初めて物語構成を持ち、複数のシーンで構成された映画『月世界旅行』がフランスで制作される。監督は元マジシャンで、世界で最初の職業映画作家でもあるジョルジュ・メリエス。この作品は、初のSF映画である。
翌年の1903年にアメリカでも、エドウィン・ポーター監督による物語性のある作品『大列車強盗』が制作・公開される。この作品において、初めてクロスカッティングが用いられた。また、本作品は初の西部劇でもある。
1906年にテンプレート:仮リンク]]監督による『テンプレート:仮リンク』が制作される。実写ではなく絵画表現を用いた世界初のアニメ映画とされる。
1910年代
メジャーになりつつあった映画制作会社からの制約や支配を嫌い、またニッケルオデオンで消費されるだけのショートフィルムに飽きたらずに新しい表現を求めた若い映画人達が西海岸に移住し、映画都市・ハリウッドが形成され始める。
アメリカの映画監督であるD・W・グリフィスが、『國民の創生』(1915年)、『イントレランス』(1916年)、『散り行く花』(1919年)等により、クローズアップ等の様々な映画技法(映画文法とも呼ばれる)を発明し、今日的な意味における映画の原型を完成させる。このことによりグリフィスは後に「映画の父」と呼ばれるようになる。
政治権力は映画の持つ影響力に目を付け、プロパガンダの手段として使うようにもなった。第一次世界大戦においてはアメリカやドイツでプロパガンダ作品が制作された。ヴァイマル共和政下のドイツは複数の映画会社が合併して国策撮影所であるウーファー(UFA)が設営された。
1910年代-1920年代、アメリカやヨーロッパでは『ファントマ』シリーズや『吸血ギャング団』シリーズ(いずれもフランス)などの連続活劇が流行している。
1920年代
1920年、ソ連において世界初の国立映画学校が創設され、クレショフがその教授として招聘された。クレショフは同校においてクレショフ映画実験工房(一般的にはクレショフ工房と略称で呼ばれる)なるワークショップを運営し、モンタージュ理論を打ち立てると共に、その実験を行った。
1921年、ドイツでハンス・リヒターにより、ダダイスムの一表現として幾何学模様の変容を映した『絶対映画』というアニメーション映画が作られる。遅れて1927年、マルセル・デュシャンによってフランスでも幾何学模様の変容(デュシャン作品は円盤の回転)による『純粋映画』が試みられた。ダダイスムのグループは実写による筋書き(ただし一貫性のある物語ではない)を持つ映画『幕間』も作っており、こちらはデュシャン本人をはじめエリック・サティなどが出演している。上映用の付随音楽はサティによって作曲され、これがサティの遺作となった。
1925年、クレショフ工房の生徒であったセルゲイ・エイゼンシュテインはモンタージュ理論に基づき『戦艦ポチョムキン』を制作。エイゼンシュテインと共にクレショフ工房の出身者であったフセヴォロド・プドフキンやボリス・バルネット、ジガ・ヴェルトフなどはモンタージュ理論を元にした作品を製作し、ロシア・アヴァンギャルドにおける代表的映画監督となる。
1927年、アメリカで世界初のトーキー『ジャズ・シンガー』(テンプレート:仮リンク監督)公開。トーキーは世界的に受け入れられ、急速に普及した。もっともアメリカのチャールズ・チャップリン、ロシアのエイゼンシュタインといった映画製作者、映画伴奏の楽士や日本特有の映画職業であった活動弁士を生業とする人々など、熟成の期にあったサイレント映画に固執した人々も多く、本格的にトーキー映画の芸術性が認められたのは30年代に入ってよりの事である。
1929年、アメリカでアカデミー賞が始まる。初年度作品賞はウィリアム・A・ウェルマンの『つばさ』。なお、初年度についてのみ作品賞は二作品が選ばれており、もう一つの作品であるF・W・ムルナウの『サンライズ』には芸術作品賞という名目で賞が与えられている。
1920年代から1930年代にかけて、ジャック・フェデー、ルネ・クレール、ジュリアン・デュヴィヴィエ、マルセル・カルネらのフランスの作家が登場して商業的な成功を収め、フランス映画の黄金時代を形成する。後にこれらの作家・作品は「詩的リアリズム」と呼ばれる。
ドイツにおいてもほぼ同時期にフリッツ・ラングやロベルト・ヴィーネ、ムルナウ等が活躍し、こちらは「ドイツ表現主義」と称されるようになる。
1930年代
- 1932年、イタリアでヴェネツィア国際映画祭が始まる。
- 1935年、世界初のカラー映画ルーベン・マムーリアンの『虚栄の市』が公開。テクニカラーによる。
- 1934年公開のフランク・キャプラの『或る夜の出来事』を皮切りに、アメリカでスクリューボール・コメディが流行。
1930年代の末から1940年代にかけて、イタリアでジャン・ルノワール『トニ』(1935年)の影響を受けネオレアリズモ運動が起こる。中心的な作家は、ルノワールの助監督を勤めていたルキノ・ヴィスコンティやロベルト・ロッセリーニ等。
世界的な不況の中、トーキーの時代が本格的に到来し、音楽や効果音が生かせることからミュージカル映画やギャング映画が映画の主流となる。アメリカでは宗教保守派などから、映画や漫画が若年者や犯罪者に与える影響を憂慮する声が高まり、1934年にはヘイズ・コードと呼ばれる暴力やセックス、社会に対する描写を制約する映画製作倫理規定が作られた。過激な暴力シーンや性的シーンは以後影を潜め、1960年代後半に撤廃されるまでハリウッド映画を縛ることになる。
1940年代
- 1946年、フランスでカンヌ国際映画祭が始まる。
第二次世界大戦の影響を受け、フリッツ・ラング(ドイツ)やジャン・ルノワール(フランス)等の多くの映画人がアメリカに亡命する。亡命ではなく招聘されてあるいは自ら望んでアメリカに行ったマックス・オフュルスやエルンスト・ルビッチ(ドイツ)、ルネ・クレール(フランス)などの作家も含めると、1930年代から1940年代にかけてのアメリカには著名な多くの映画作家が世界中から集まっていた。映画製作本数も年間400本を超え、質量共にアメリカは世界の映画界の頂点にあった。このことにより、1930年代~1940年代は「ハリウッド全盛期」、「アメリカ映画の黄金時代」と呼ばれている。
1950年代
- 1951年ドイツでベルリン国際映画祭が始まる。
1951年ヴェネツィア映画祭で黒澤明の『羅生門』がグランプリを受賞。アジア映画の作品レベルを世界に示した。
赤狩り(レッドパージ)の影響により多くのアメリカの映画人が追放の憂き目に遭う。実際に共産主義活動に関与したことがあるジョゼフ・ロージーやニコラス・レイ、ダルトン・トランボ等は米国議会の公聴会における証言を拒否して亡命や映画界からの排除を余儀なくされた。しかし中にはエリア・カザンのように移民の係累であるが故に証言を拒否することができず、やむなく証言し結果的にかつての仲間達を売らざるを得ない者もいた。70年代以降に彼らの多くは名誉回復し映画界への復帰を果たしたが、ロージーはかつての盟友であるエリア・カザンの再三に渡る帰国の呼びかけにも応じることなく、亡命先のイギリスで客死した。
テレビの普及による観客動員数の減少に頭を悩ませたアメリカ映画界は、テレビでは実現できないことを目指し画面サイズの拡大や大作主義に手を伸ばし始める。特に大作主義は一時のハリウッドを席巻したが、そのことは映画監督を始めとする製作陣に精神的・肉体的な疲弊を呼び起こすと共に、制作本数の減少による新人監督のデビューの機会を奪い取ることになってしまった。
また、1930年代から反トラスト法(独占禁止法)に問われていた、メジャー映画制作会社の配給、興行の統括による劇場の系列化に関して最高裁判所で違法の判決が下され、メジャー各社は制作と興行との分離を強いられることになった。
赤狩りにより才能ある作家達の多くを一時的に失い、大作主義により残った作家達を疲弊させ新しい作家の登場の機会を阻み、さらには独禁法により安定的な興行システム(経営基盤)を奪われたハリウッドは、結果的に黄金時代の終焉を迎えることとなってしまった。
1960年代
1950年代末期から1960年代初頭にかけて、フランスでヌーヴェルヴァーグと呼ばれる映画運動が起こる。それは端的に言えば、結末のない物語や、その場の偶然を生かした即興演出などで、従来の映画の定石を打ち破ろうとする試みであった。
アメリカでは、テレビに対抗意識を燃やしたハリウッド企業の巨大資本化、超大作志向が続く一方で、ヌーヴェルヴァーグに触発されたインデペンデント系の映画が急速に芽を出し始める。1960年代前半にジョナス・メカス等によるニュー・アメリカン・シネマと呼ばれる実験映画の運動が起こり、60年後半にはアメリカン・ニューシネマが流行する。なお、ニュー・アメリカン・シネマとアメリカン・ニューシネマとは名称の類似性はあるが性格を異にする全く別のもの。
1961年に日本において芸術系映画の配給を目的として日本アート・シアター・ギルド(ATG)が設立される。イェジー・カヴァレロヴィチの『尼僧ヨアンナ』を皮切りに当初は海外作品の配給が主体だったが、1960年代後半には独立系の制作会社の作品に対する出資を行うようになった。松竹を退社した大島渚等松竹ヌーヴェルヴァーグの面々を始めとする数多くの作家達がATGの出資により作品を手がけ、数多くの名作・傑作・話題作・問題作を世に送り出した。
1970年代
1960年代の末から登場したドイツの作家達が、ニュー・ジャーマン・シネマとしてもて囃される。ストローブ=ユイレ、フォルカー・シュレンドルフ、ヴェルナー・ヘルツォーク、ヴィム・ヴェンダース、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー等がこれに相当するのだが、ヌーヴェルヴァーグのように作風における共通点があったり、共同活動などを行ったものではなく、同時期に登場した同世代の作家達に対して付けられた総称だった。
アメリカ・ハリウッドでパニック大作ブームが巻き起こる。1972年の『ポセイドン・アドベンチャー』を皮切りとし、1974年公開の20世紀フォックスとワーナー・ブラザーズとの合作『タワーリング・インフェルノ』を頂点とするこのブームは、その商業的な大成功により凋落していたハリウッドの自信を回復させると共に、この後に続く新たなハリウッド映画の基本を形作るものとなった。
1950年代の大作主義においては飽くまでも物語や人間ドラマに主眼が置かれており、豪華なセットやスター俳優の多用はこれらを効果的に表現するための手段だった。しかし、パニック大作においては派手な特殊効果や特異性を感じさせる映像表現すなわち観客の目を引く要素に主体が移っており、細部の肥大化や物語と画面表現との分離など今日におけるまで続いているハリウッド映画の特徴を形成している。
1977年、ジョージ・ルーカス監督の『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』が大ヒットし、世界的なSF映画ブームとなる。この作品以降、特殊効果(SFX)が映画の重要な要素として扱われるようになる。また同シリーズのキャラクター商品権によるビジネスで成功を納めたルーカスはその資金を映像・音響関係のデジタル化を中心とした技術開発に投資し、映画界に多大な功績を成している。
1978年、アメリカでロバート・レッドフォードがサンダンス映画祭を始める。
1980年代
- 1980年、大長編ドラえもん第1作が公開される。この年より大長編ドラえもんは25年連続で公開された。
- 1983年、日本において長谷川和彦、相米慎二、黒沢清らによりディレクターズ・カンパニーが設立される。1960年代から1970年代におけるATGが果たしたのと同じ役割を担うことを目的としまた大きく期待されもしたが、ATGのように時流に乗ることができず大きな商業的成功を収めるには至らなかった。
- 1984年、『黄色い大地』公開。これの監督を務めたチェン・カイコー、撮影監督を務めた張芸謀を中心として、中国映画の第五世代が台頭。90年代にかけニューウェーブを感じさせる作品を次々と発表する。
- この頃、台湾ニューシネマ運動の展開が開始。90年代にかけニューウェーブを感じさせる作品を次々と発表する。侯孝賢、揚徳昌が主な作家。
- 1985年、日本で「東京国際映画祭」が始まる。
- 1989年、日本で「山形国際ドキュメンタリー映画祭」が始まる。
1990年代
- 1993年、スティーヴン・スピルバーグ監督によるアメリカ映画『ジュラシック・パーク』公開。映画におけるフォト・リアリスティックなコンピュータグラフィックスの使用として革新的で、その後の映画に大きな影響を与えた。また、世界興行収入記録を塗り替える大ヒットであった。
- 1993年、日本で初めてシネマコンプレックスがオープンする。
- 1995年、世界初の長編フルCGアニメーション『トイ・ストーリー』が公開。アメリカのディズニーとピクサーの共同製作による。
- 1995年、デンマークでラース・フォン・トリアーらによるドグマ95と呼ばれる映画運動が始まる。現在でも続いている。
2000年代
HD24Pというデジタル・ビデオカメラの登場に伴いデジタルシネマの動向が活発化し始める。これ以前にもCGの活用による映画のデジタル化は進んでいたが、フィルムとビデオとの基本的な表示方式の違い(フィルムは24コマ/秒・ノン・インターレースで、ビデオは30コマ/秒のインターレース)によりテレシネという加工段階を経なければならずこれが大きな足枷になっていた。しかし、HD24Pはフィルムと同じ形式での記録が可能であるためテレシネ加工が不要で、ダイレクトにデジタル加工が可能という画期的な商品だった。『スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』(2002年)で利用されて実用性が実証された後に採用が相次いでおり、将来的には大半がデジタルビデオカメラによる撮影・制作になるだろうと言う観測すらある。
LCD、DLPといった電子媒体を投影する素子が普及し、さらにレーザー照射による投影装置が実用化されつつある。科学万博で実験的に公開され、さらに改良され、愛知万博で公開されたレーザープロジェクタは従来の電子式投影装置における解像度、色再現領域、ダイナミックレンジの限界を打破するものであった。今後は家庭でもレーザープロジェクタの普及が進むものと見込まれる。
2009年からは、立体映画にも力を入れるようになった。ハリウッドが多くの立体映画を製作し、また既存の作品を立体映画としてリメイクする予定もある。
映画史家
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