エリック・サティ
テンプレート:Infobox Musician テンプレート:Portal クラシック音楽 エリック・アルフレッド・レスリ・サティ(Erik Alfred Leslie Satie、1866年5月17日 - 1925年7月1日)は、フランスの作曲家である。
概説
サティは「音楽界の異端児」「音楽界の変わり者」と称され、西洋音楽に大きな影響を与えたと見なされており、ドビュッシー、ラヴェルも「その多くの作曲技法はサティによって決定づけられたものだ」と公言している。そして、印象主義の作曲家たちにも影響を与えたとされる。
パリ音楽院在学中にピアノ小品『オジーヴ』『ジムノペディ』『グノシエンヌ』などを発表。カフェ・コンセール『黒猫』に集う芸術家の1人となり、コクトーやピカソと交流。[1]バレエ・リュスのために『パラード』を作曲。またカフェ・コンセールのためのいくつかの声楽曲を書く。今日よく知られている『ジュ・トゥ・ヴー』はこの時の曲。薔薇十字教団と関係し、いくつかの小品を書く。同一音形を繰り返す手法を用いた『ヴェクサシオン』『家具の音楽』なども書いた。
なお『家具の音楽』というのは彼が自分の作品全体の傾向を称してもそう呼んだとされ、主として酒場で演奏活動をしていた彼にとって客の邪魔にならない演奏、家具のように存在している音楽というのは重要な要素であった。そのことから彼は現在のイージーリスニングのルーツのような存在であるともいえる。
また『官僚的なソナチネ』『犬のためのぶよぶよとした前奏曲』『冷たい小品』『梨の形をした3つの小品』『胎児の干物』『裸の子供たち』のように、作品に奇妙な題名をつけたことでも知られている。
フランス社会党及びフランス共産党にも党籍を置いていた(当初は社会党に入党していたが、共産党結党と同時に移籍)。
ドビュッシーとの交友関係もよく知られている。
作風
それまでの調性音楽のあり方が膨張していた時代に、彼は様々な西洋音楽の伝統に問題意識を持って作曲し続け、革新的な技法を盛り込んでいった。たとえば、若い頃に教会に入り浸っていた影響もあり、教会旋法を自作品に採り込んだのは、彼の偉大な業績の一つである。そこでは調性は放棄され、和声進行の伝統も無視され、そして、並行音程・並行和音などの対位法における違反進行もが書かれた。
後にドビュッシーやラヴェルも、旋法を扱うことによって、既存の音楽にはなかった新しい雰囲気を醸し出すことに成功しているが、この大きな潮流は、サティに発するものである。
生涯サティへの敬意について公言し続けてきたラヴェルは、ドビュッシーこそが並行和音を多く用いた作曲家だと世間が見なしたことに不満を呈しており、その処女作「グロテスクなセレナード」において既にドビュッシーよりも自分が先に並行和音を駆使したと述べ、それがサティから影響を受けた技法であることにも触れている。
また、彼の音楽は厳密な調性からはずれた自由な作風のため、調号の表記も後に捨てられた。したがって、臨時記号は1音符ごとに有効なものとして振られることとなった。拍子についても自由に書き、拍子記号や小節線、縦線、終止線も後に廃止された(これらの拍子記号、調性記号、小節線の廃止に関する言説は広く流布されしばしば言及されてもいるが、十分注意して接するべきである。なぜなら、最晩年にはサティは再び拍子記号も調性記号、小節線も復活させているからである。たとえば、「ノクターン」や「家具の音楽」がいい例である)。調号を書かずとも、もしそこの音の中に調性があればそれが現実であり、拍子記号や小節線などを書かずとも、もしそこの音の中に拍子感があればそれが現実であるとみなしていたため、実際には、それらが書かれていないからといって、調性や拍子が必ずしも完全に存在しないわけではなかった。散文的に、拍節が気紛れに変動するような作品も数多く存在し、調性とはほど遠い楽句や作品も数多く生み出されている。
拍子のあり方についての新しい形は、特にストラヴィンスキーがそれを受け継ぎ、大きく発展させ、後のメシアンへと続くことになった革新の発端と見なされている。また、記譜法についての問題提起は、後の現代音楽における多くの試みの発端とされ、図形楽譜などにまでつながる潮流の源流となっている。
調性崩壊のひとつの現象として、トリスタン和音が西洋音楽史上の記念碑と見なされているが、それが依然として3度集積による和声であったのに対し、サティは3度集積でない和音を導入した。これは、解決されないアッチャカトゥーラや3度集積によらない和音を書いたドメニコ・スカルラッティ以降はじめての和声的な大革新とされている。この影響によって、印象主義からの音楽においては、自由な和声法による広い表現力が探求されることとなった。
また、音楽美学的見地においても彼は非常に多くのあり方を導入したとされ、鑑賞するだけの芸術作品ではない音楽のあり方をも示した。「家具の音楽」に縮約されているように、ただそこにあるだけの音楽という新しいあり方は、イーノやケージたちによる環境音楽に影響を与え、また、「ヴェクサシオン」における840回の繰り返し・「古い金貨と古い鎧」第3曲結尾部における267回の繰り返し・「スポーツと気晴らし」第16曲「タンゴ」や映画「幕間」のための音楽における永遠の繰り返しは、スティーヴ・ライヒたちによるミニマル・ミュージックの先駆けとされている。
サティがやり始めた数多くの革新は、過去の音楽や、他の民族音楽などの中に全くないものではなかったものの、そのほとんどが純粋に彼独自の自発的で突発的なアイデアに基づいたものであるため、現代音楽の祖として評価は高く、数多くの作曲家がサティによる開眼を公言している。
最後の作品となったバレエ「本日休演」では、幕間に上映された映画「幕間」のための音楽も担当した。またその映画の中でフランシス・ピカビアと共にカメオ出演もしており、サティの最晩年の姿を見ることができる。
生涯
- 1866年 - 5月17日オンフルールにて誕生。聖公会で洗礼をうける。
- 1870年 - 父アルフレッド・サティが海運業をやめ、パリに移住。
- 1872年 - スコットランド人の母ジェイン死亡。オンフルールに住む父方の祖父母に預けられ、カトリックとして再度洗礼。教会のパイプオルガンに魅せられ入り浸る。
- 1874年 - 祖父ジュール・サティがエリックにヴィーノのもとで音楽を学ばせる。
- 1878年 - 祖母ユラーリがオンフルールの浜辺で溺死体で発見される。サティは父のいるパリへ再度移住。
- 1879年 - パリ音楽院に入学。父アルフレッドがピアノ教師であったユージェニ・バルネシュと再婚。
- 1886年 - 音楽院が退屈すぎ退学する。
- 1887年 - シャンソン酒場のピアノ弾きになる。
- 1889年 - パリ万博で、日本の歌謡にふれる。
- 1890年 - 薔薇十字教団創始者ジョセファン・ペラダンと出会う。
- 1891年 - 聖杯の薔薇十字教団聖歌隊長に任命される。
- 1893年 - シュザンヌ・ヴァラドンと交際を始め、彼女に300通を超える手紙を書く。6ヵ月後ヴァラドンと絶交。
- 1904年 - スコラ・カントルム入学。
- 1905年 - シュヴィヤール演奏会の会場で雨傘で決闘し、警察に留置される。
- 1908年 - スコラ・カントルム卒業。パリ郊外アルクイユの急進社会主義委員会に入党。
- 1914年 - 詩人ジャン・コクトーと知り合う。
- 1919年 - パリのダダの芸術家たちと交流し、自身もメンバーとなる。
- 1925年 - 7月1日聖ジョセフ病院にて肝硬変のため歿。アルクイユの公共墓地に埋葬。
作品
舞台作品
- あやつり人形劇『ブラバンのジュヴィエーヴ』 - 1899年
- 喜歌劇『思春期』(別名「愛の芽生え」「いとしい奴」とも)
- 喜歌劇『メドゥーサの罠』 - 1913年
- グノーの歌劇「にわか医師」のためのレチタティ-ヴォ - 1923年
- バレエ音楽『ユスピュ』 - 1892年
- パントマイム『びっくり箱』 - 1929年(編曲)
- バレエ音楽『パラード』 - 1917年
- バレエ音楽『メルキュール』 - 1924年
- バレエ音楽『本日休演(ルラーシュ)』 - 1924年
- バレエ幕間に上映された「映画『幕間』のための音楽」を含む
- 劇付随音楽『ソクラテス』 - 1920年
- 劇付随音楽『星の王子』(原曲は消失) - 1891年
- 「救いの旗」のための頌歌
- ナザレ人
- 天国の英雄的な門への前奏曲
- 夢見る魚
- サーカス劇『5つのしかめっ面』 - 1914年
ピアノ曲(作曲年代順)
- アレグロ
- ワルツ=バレエ - 1885年
- 幻想ワルツ - 1885年
- 4つのオジーヴ(尖弓形) - 1886年
- 3つのサラバンド - 1887年
- 3つのジムノペディ - 1888年
- グノシエンヌ(6曲) - 1890年
- 薔薇十字教団の最初の思想 - 1891年
- 「星たちの息子」への3つの前奏曲 - 1891年
- バラ十字教団のファンファーレ - 1892年
- ナザレ人の前奏曲Ⅰ、Ⅱ - 1892年
- エジナールの前奏曲 - 1892年(?)
- 祈り - 1893-1895年(断片)
- ヴェクサシオン(嫌がらせ) - 1893-1895年
- ゴシック舞曲(副題「我が魂の大いなる静けさと堅固な平安のための9日間の祈祷崇拝と聖歌隊的協賛」) - 1893年
- 天国への英雄的な門への前奏曲 - 1894年
- 冷たい小品 - 1897年
- 舞踏への小序曲 - 1900年
- 貧しき者の夢想(Robert Cabyによる校訂) - 1900年
- 世俗的で豪華な唱句 - 1900年
- 愛撫 - 1897年
- ジュ・トゥ・ヴー
- エンパイア劇場のプリマドンナ
- 金の粉
- ピカディリー
- 夢見る魚
- ビックリ箱 - 1899年
- 壁紙的な前奏曲 - 1906年
- パッサカリア - 1906年
- 12の小コラール - 1906年
- 2つの夜の夢 - 1911年
- 新・冷たい小品 - 1906年?
- 〈犬のための〉ぶよぶよした前奏曲 - 1912年
- 〈犬のための〉ぶよぶよした本当の前奏曲 - 1912年
- 自動記述法 - 1913年
- 干からびた胎児 - 1913年
- あらゆる意味にでっちあげられた数章 - 1913年
- でぶっちょ木製人形へのスケッチとからかい - 1913年
- 古い金貨と古い鎧 - 1913年
- 子供の音楽集 - 1913年
- 童話音楽の献立表
- 絵に描いたような子供らしさ
- はた迷惑な微罪
- 新・子供の音楽集 - 1913年
- メドゥーサの罠
- 踊る操り人形
- 5つのしかめっ面
- 世紀的な時間と瞬間的な時間 - 1914年
- 嫌らしい気取り屋の3つの高雅なワルツ - 1914年
- 最後から2番目の思想 - 1915年
- スポーツと気晴らし(全21曲) - 1914年
- ラグ・タイム・パラード
- 官僚的なソナチネ(全3楽章) - 1917年
- 5つの夜想曲(3つの夜想曲 + 第4と第5の夜想曲) - 1919年
- パンダグリュエルの幼年時代の夢 - 1919年
- 最初のメヌエット - 1920年
- シネマ
- 梨の形をした3つの小品(4手連弾) - 1903年
- 不愉快な概要(4手連弾) - 1908~12年
- 馬の装具で(4手連弾) - 1911年
- パラード
- 組み立てられた3つの小品(4手連弾と小管弦楽団)
- 風変わりな女(管弦楽曲、または4手連弾) - 1920年
- ハンガリーの歌(未完)
- 「ヒザンティン帝国の王子」前奏曲(消失)
- クリスマス(消失)
- 詩篇(消失)
- バレエのための物語(消失)
- アリーヌ・ポルカ
- 2つの物
- バスクのメヌエット
- 不思議なコント作家
- ピエロの夕食
- シャツ
- フーガ・ワルツ
- 「思い出」のライトモティーフ
- 野蛮な歌
- 皿の上の夢
- 薔薇の指への夜明け
- 若い令嬢のためにノルマンディの騎士によって催された祝宴
そのほかの器楽曲
- 右や左に見えるもの~眼鏡無しで(3楽章、ヴァイオリンとピアノ) - 1914~15年
- いつも片目を開けて眠るよく肥った猿の王様を目覚めさせる為のファンファーレ(2トランペット) - 1921年
- 2つの弦楽四重奏曲 - (作曲年不詳)
- 再発見された像の娯楽(オルガンとトランペット)
- シテール島への船出(ヴァイオリンとピアノ)
- 家具の音楽 - 1920年
宗教曲
- 貧者のミサ
- 信仰のミサ(オルガン曲)(消失)
歌曲
- 3つの歌曲
- 花
- シャンソン
- やさしく
- こんにちは、ビキ
- エリゼ宮の晩餐会
- 男寡
- 魔女
- ピカドールは死んだ
- 子供の殉教
- 空気の幽霊
- オックスフォード帝国(歌詞散逸)
- 歌詞のない3つの歌曲
- いいともショショット
- 中世の歌
- 3つの恋愛詩
- 4つのささやかなメロディ
- 潜水人形
- 十代の合唱
- 神の赤い信条
- ベストを着た肖像
- おーい! おーい!
- 医者の家で
- 戦いの前日
- ポールとヴィルジニー
- 大きな島の王様
- ロクサーヌ(消失)
- 乗り合いバス
- カリフォルニアの伝説
彼にちなんだ作品
参考文献
- オルネラ・ヴォルタ編「エリック・サティ文集」白水社
- オルネラ・ヴォルタ編著「サティとコクトー 理解の誤解」 大谷千正訳 新評論 ISBN 4794802366
- 秋山邦晴「エリック・サティ覚え書」青土社
- Public domain scores Printable Satie's Scores + Audio
- テンプレート:IMSLP
脚注
テンプレート:Music-bio-stub- ↑ のちにカフェ・コンセール『オーベルジュ・デュ・クル』に移る。