チェルシーFC
テンプレート:サッカークラブ チェルシー・フットボール・クラブ(テンプレート:Lang-en-short, イギリス英語発音:テンプレート:IPA-en チェルシ・フトゥボール・クラブ)は、イングランドの首都ロンドン西部チェルシー地域に本拠地を置くプロサッカークラブ。愛称は「ブルーズ」(The Blues, ユニフォームカラーより)。ホームスタジアムはスタンフォード・ブリッジ。
目次
歴史
1900年代
1905年3月10日に設立され、100年以上の歴史を持つ伝統あるクラブである。設立のきっかけはスタンフォード・ブリッジを購入したガス・ミアーズとジョゼフ・ミアーズの兄弟がフラムFCにスタンフォード・ブリッジを本拠地として使用することを打診するも、これを拒絶されたことにある。ミアーズ兄弟は、スタンフォード・ブリッジを本拠地として使用するクラブが必要となり「チェルシーFC」が設立されたのである。 設立当初は、サウザンプレミアフットボールリーグに加入する予定だった。しかし、フラムやトッテナム・ホットスパーFCなどに反対されたためフットボールリーグ2部に所属した。
1915年のFAカップで決勝まで進んだ。決勝ではシェフィールドに敗れたものの、これがクラブの初めて経験した大舞台だった。 更に、第一次世界大戦による中断後の1919-20シーズンのフットボールリーグで3位になる。以降は2部降格など低迷していった。
チェルシーが再び脚光を浴びる様になるのは1950年代に入ってからだった。 1952年にアーセナルで選手として活躍したテッド・ドレイクが監督に就任するとチーム改革に着手。 それにより1954-55シーズンにクラブ史上初のリーグタイトルを獲得する。
このリーグ優勝により、1955年に始まったUEFAチャンピオンズカップのイングランド代表としての出場権を手にしたが、FAやフットボールリーグからの反対に遭ったために、出場を辞退させられた。
その後は再び低迷期に入り、1961年にはクラブの英雄的な存在だったジミー・グリーブスをACミランに引き抜かれるなどして、1961-62シーズンには2部降格の憂き目に遭う。 クラブを立て直すために33歳のトミー・ドハーティに監督を依頼する。これが功を奏し、わずか1シーズンで1部に復帰する。その後は安定して上位を維持する様になり、1964-65シーズンにはフットボールリーグカップで初優勝を果たした。 1965-66シーズンにはインターシティーズ・フェアーズカップ(旧UEFAカップ、現UEFAヨーロッパリーグの前身)でローマ、1860ミュンヘン、ミランなどを破りベスト4まで勝ち進んだ。準決勝では優勝したFCバルセロナに敗れたものの初めて欧州カップ戦で好成績を残した。
1967年にチェルシーのコーチだったデーブ・セクストンが監督に就任すると、1970年には悲願のFAカップ初優勝を果たす。 1970-71シーズンにはFAカップ王者としてUEFAカップウィナーズカップに初出場し、決勝まで勝ち進んだ。レアル・マドリードとの決勝戦はギリシャのスタディオ・ヨルギオス・カライスカキスで行われた。試合は、延長戦までもつれ込むも1 – 1と決着が付かず引き分け再試合(当時はPK戦がなかった)に。二日後の再試合ではピーター・オスグッドとジョン・デンプシーの得点でレアル・マドリードを2 - 1で破り、初めて欧州タイトルを獲得した。 これによりチェルシーは、イングランド国内だけでなくヨーロッパでも一目を置かれるクラブとして確固たる地位を築いた。
しかし、1970年代中盤になると成績が低迷し、2部に降格、その上1970年代後半には財政難が表面化する。 また、この頃のチェルシーにはイングランドでも有数の凶暴なフーリガン集団を抱えると言う問題にも苦しみ、1980年代前半まで長らく低迷を味わった。
そして、多額の負債により、実に76年間も運営してきたミアーズ一族もクラブを売却せざるを得なくなる。1982年にクラブの経営権を実業家のケン・ベイツがわずか1ポンドで買収して会長に就任した。 また、この時スタンフォード・ブリッジの土地の権利をミアーズ家が不動産開発業者のマーラー・エステーツに売却してしまい、ケン・ベイツはその所有権を取り戻すため長い法廷闘争を繰り広げることになる。(現在はその裁判に勝ち、このような事が二度と起こらない様に土地の所有権はチェルシー・ピッチ・オーナーズが保有している。)
ケン・ベイツが会長に就任して以降は、なかなか安定した成績を残せないでいたが、1989年に2部で優勝し、1部に昇格すると以降は、現在に至るまでトップリーグに居続ける。
1990年代に入るとクラブは躍進を始めた。 1993年に元イングランド代表のグレン・ホドルを選手兼任監督として迎え、1994年にFAカップで準優勝し、1995年には、UEFAカップウィナーズカップでベスト4まで進出。 また、1994年にはケン・ベイツが投資の呼びかけを行い、チェルシーの熱狂的なファンだった実業家のマシュー・ハーディングがクラブの経営に加わった事で資金面に余裕が出来た。そのため、イタリアから後に選手兼任監督を務めることになるオランダ人のルート・フリットやダン・ペトレスク、マーク・ヒューズら大物スター選手を獲得した。
1995年12月にボスマン判決が下された事で、現在に至るまでの外国人のスター選手を大量に獲得するクラブの経営手法がチェルシーで確立された。これにより、プレミアリーグの国際化に先立って「多国籍軍団」と称されるようになった。
また、この頃からスタンフォード・ブリッジの大規模な改修工事が行われ、スタジアムにホテルとメガストアと呼ばれるショッピングモールを併設した「チェルシービレッジ」の建設が始まった。
1996年に監督のグレン・ホドルが手腕を買われてイングランド代表監督に就任する事になり、ルート・フリットがプレイングマネージャーに就任する。そしてフリットは、長らくセリエAで活躍していたので、そこで築いたイタリアコネクションとボスマン判決を最大限に利用してジャンフランコ・ゾラ、ジャンルカ・ヴィアッリ、ロベルト・ディ・マッテオ等、大物外国人選手を多数獲得した。
しかし、1996年10月にはそれまでクラブに金銭面で多額の支援をしていたマシュー・ハーディングがチェルシーのアウェーゲームのボルトン戦の観戦後にヘリコプターで帰る途中に墜落事故に巻き込まれ亡くなってしまう。(スタンフォード・ブリッジの北側スタンドは、その事故以降、彼の死を悼みマシュー・ハーディングスタンドと呼ばれている)そのため、その後は財政面で十分な支援を得られず大きな負債を抱えた。
1996-97シーズンは、外国人選手達の活躍もあり二度目のFAカップ優勝を達成する。またジャンフランコ・ゾラがFWA年間最優秀選手賞をチェルシー選手として初めて獲得した。 1997-98シーズンは、グスタボ・ポジェ、トーレ・アンドレ・フロー、エト・デ・フーイ等を獲得して戦力を強化した。プレミアリーグでは一時2位につけ、カップ戦も順調に勝ち進んでいたが、シーズン途中でフリット監督を解任。その後は、ジャンルカ・ヴィアッリがプレイングマネージャーとして指揮を執ることになった。
そして最終的に1997-98シーズンは、チェルシーにとって二度目のUEFAカップウィナーズカップとコカ・コーラ・カップを制覇した。カップウィナーズカップ決勝では、後半途中出場のジャンフランコ・ゾラが入って1分にも満たない時間で決勝ゴールを決めてシュトゥットガルトを1 - 0で下して優勝を決めた。 また、カップウィナーズカップで優勝した事でUEFAスーパーカップの出場権を得たため、UEFAチャンピオンズリーグ王者のレアル・マドリードとモナコで対戦した。試合は、グスタボ・ポジェの得点でレアル・マドリードを1 - 0で破り、UEFAスーパーカップのタイトルも勝ち取った。1998年は、1900年代のチェルシーの中では最も成功した年だった。
1998-99シーズンは、ピエルルイジ・カジラギ、マルセル・デサイー、ブライアン・ラウドルップ、アルベルト・フェレール等を獲得した。しかし、カジラギはシーズン途中で大怪我をしてしまった上に、ブライアン・ラウドルップはシーズン序盤でホームシックにかかりデンマークに帰国してしまうなど色々と問題が発生した。 そのため、プレイングマネージャーのジャンルカ・ヴィアッリは監督業に専念するという理由でシーズン途中で選手としての現役を終えた。 このシーズンは、連覇を期待されたUEFAカップウィナーズカップではマジョルカに敗れ、ベスト4に終わり、結果としてタイトルは獲得できなかったが、プレミアリーグでは一時首位に立つなど終盤までマンチェスター・ユナイテッドやアーセナルと優勝争いを繰り広げ3位に入り、UEFAチャンピオンズリーグ出場権を初めて勝ち取った。 また、このシーズン頃からキャプテンのデニス・ワイズ以外が全員外国人でワイズも出場出来ないと、ピッチ上の11人全員が外国人になるという事も当たり前になっていた。
1999-2000シーズンはディディエ・デシャンやクリス・サットンらを獲得するもどちらも目立った活躍を見せられず1年で退団した。 また、FAカップで優勝して三度目のタイトル獲得を達成した。このFAカップでは旧ウェンブリー・スタジアムを使用した最後のFAカップ王者となった。(2006-07シーズンには現行のウェンブリー・スタジアム最初の優勝も果たしている) また、このシーズンはチャンピオンズカップ第1回大会を出場辞退して以来、実に44年ぶりにUEFAチャンピオンズリーグに出場した。チャンピオンズリーグでは、1次グループリーグでミラン、ヘルタ・ベルリン、ガラタサライと対戦して1位で通過した。2次グループリーグではラツィオ、マルセイユ、フェイエノールトと対戦して、ラツィオに次ぐ2位で決勝トーナメントに進んだ。決勝トーナメントでは準々決勝でバルセロナと対戦し、ホームでは3-1で快勝したものの、アウェーでは1-5(90分では1-3だったため延長戦が行われた)で敗退した。
2000年代
2000-01シーズンは、ジミー・フロイド・ハッセルバインク、イェスパー・グレンケア、エイドゥル・グジョンセンらを獲得した。しかし、シーズン序盤にジャンルカ・ヴィアッリが監督を解任され、同じイタリア人のクラウディオ・ラニエリを招聘するもののプレミアリーグでは、ハッセルバインクがリーグ得点王を獲得するが、チームは中位に沈んでしまう。また、UEFAカップに出場するも1回戦敗退に終わる。
これ以降もリーグでは上位に顔を出すものの、2001年以降は補強額に見合った結果が出すことが出来ず無冠のシーズンが続いたために思う様な収入が得られない事と、チェルシービレッジの建設費や選手の移籍金や給料などの支払いで多額の負債を抱えるようになる。こうした事情からクラブは2003年7月、ロシアの大富豪 ロマン・アブラモヴィッチによる買収提案を受諾。これによってチェルシーは財政危機を克服すると同時に世界有数の財力を持つクラブへと変貌した。
2003-04シーズン、イタリア人監督のクラウディオ・ラニエリは既存の選手と新加入選手を融合させ、無冠には終わったものの、プレミアリーグで2位、チャンピオンズリーグでもベスト4という好成績を収めた。特にチャンピオンズリーグの決勝トーナメント準々決勝で、当時プレミアリーグを無敗で優勝するという快挙を成し遂げたアーセナルを破り、クラブ史上初めてベスト4に進出したことは特筆すべき出来事であった。
2004年夏、前FCポルト監督のジョゼ・モウリーニョが監督に就任。2004-05シーズンは勝ち点95、得失点差57という驚異的な成績でプレミアリーグを独走。1954-55シーズン以来、50年ぶりにトップリーグでの優勝を果たし、カーリングカップも制して2冠でクラブ創立100周年を祝った。チャンピオンズリーグでは2年連続でベスト4に進出したものの、大会の優勝チームのリヴァプールに敗れ、クラブ史上初の決勝進出は成らなかった。
2005-06シーズンは、プレミアリーグ創設後、マンチェスター・ユナイテッドに次いで2クラブ目のリーグ連覇を達成。モウリーニョの就任後、ホームスタジアムであるスタンフォード・ブリッジでは正に無敵の状態で、特にこのシーズンのプレミアリーグでは19戦18勝1分けという圧倒的な強さであった。チャンピオンズリーグでは決勝トーナメント1回戦で2年連続でバルセロナと対戦し、敗れてベスト16に終わっている。
2006年夏の移籍市場ではミヒャエル・バラック、アンドリー・シェフチェンコ、アシュリー・コールら大物選手を獲得し、一方でダミアン・ダフ、エイドゥル・グジョンセン、ウィリアム・ギャラスといったこれまでの主力選手を放出してチーム編成を一新した。2006-07シーズンはカーリングカップとFAカップの2冠を達成し、モウリーニョの監督就任以来3年連続でタイトルを獲得するも、リーグではマンチェスター・ユナイテッドの後塵を拝して2位に終わり、3連覇を逃す。またチャンピオンズリーグでも2年前と同様、決勝トーナメント準決勝でリヴァプールに敗れベスト4の壁を越えることは出来なかった。このシーズンの結果については、高額な給料を受け取りながら期待された活躍が出来ずに終わった新加入選手と、その獲得を推進したとされるクラブの経営陣に対する批判的な論調が起こっていた。こうした状況は2007-08シーズンも続き、シーズン序盤の9月20日、就任以来強いカリスマ性を発揮して選手やファンから支持されてきたモウリーニョが辞任する事態に至ると、その衝撃はチーム内外に渡り、動揺を露にする選手の声、経営陣の責任を問うファンの声などが頻繁に聞かれた。
その後、フットボールディレクターであったアヴラム・グラントが新監督に昇格。混乱の残るチームを引き継いだグラントはチーム内で燻る不満の沈静化に着手し、コーチとして新たに招聘されたヘンク・テン・カテと共に新体制を始動させた。選手の求心力を失い、優勝を競う力は残されていないかに思われていたが、新体制の下でチームは徐々に息を吹き返し、リーグでは前年同様マンチェスター・ユナイテッドに優勝を譲ったものの、最終節までもつれる猛追を見せた。またクラブ史上初めてチャンピオンズリーグの決勝進出を果たし、ここで再びマンチェスター・ユナイテッドと対戦。雨の降るモスクワ、ルジニキ・スタジアムで行われたチャンピオンズリーグ決勝(2008年5月21日)は、同点のまま延長戦を含む120分で決着が付かずPK戦にもつれ込む。だが、チェルシーはまたしてもマンチェスター・ユナイテッドの前に敗れ、悲願のチャンピオンズリーグ制覇を目前で逃すこととなった。この結果、4シーズンぶりに無冠に終わった責任を取る形でグラントは解任された。
その後、ポルトガル代表監督を退任したルイス・フェリペ・スコラーリが監督に就任し、2008年夏の移籍市場ではスコラーリの教え子であるデコなどを獲得した。2008-09シーズンは、開幕当初こそ期待されたテクニカルなパフォーマンスを見せたものの、優勝を争う上位陣との直接対決で勝負弱さを露呈し、徐々に優勝争いから脱落していった。また2004年2月21日から続いたホーム連続無敗記録(86試合)が2008年10月27日のリバプール戦で打ち破られるなど、ホームでの戦績も低迷した。こうした結果、2009年2月11日にスコラーリは解任され、後任としてロシア代表監督であったフース・ヒディンクが、シーズン終了まで暫定的にロシア代表と兼任するという形で就任した。ヒディンクは短期間でチームを建て直し、プレミアリーグ3位、チャンピオンズリーグベスト4という成績を残した。また、シーズン最後の試合となったFAカップ決勝で、エヴァートンを破りクラブにタイトルをもたらして2008-09シーズンの有終を飾った。モウリーニョの退任後、2シーズンで4人の監督が入れ替わったクラブは、長期政権を築くべく、ACミランの監督として2度のチャンピオンズリーグ制覇を含む8シーズンを指揮したカルロ・アンチェロッティを新たな指揮官として迎えた。
2009-10シーズンは、コミュニティーシールドでマンチェスター・ユナイテッドをPK戦の末に破り、4年ぶりに同タイトルを獲得した。またこの試合、PK戦での勝利は、1998年のジャンルカ・ヴィアッリ監督時代のリーグカップ準々決勝戦以来の11年ぶりの勝利となった。 チャンピオンズリーグでは、ラウンド16でモウリーニョ率いるインテル・ミラノと対戦した。結果は2戦2敗で、チェルシーはベスト16に終わった。 しかし、プレミアリーグでは、マンチェスター・ユナイテッドとの最終節までもつれた優勝争いを制し、4シーズンぶり4度目の優勝を果たした。特に当時ビッグフォーと呼ばれていたマンチェスター・ユナイテッド、アーセナル、リバプールとの直接対決において、6戦全勝を達成したことが優勝の原動力となった。 このシーズンはアンチェロッティ監督の下、攻撃に磨きがかかり、シーズン通算103得点を記録した。これは、1999-2000シーズンのマンチェスター・ユナイテッドの97得点を抜き、プレミアリーグ記録となった。また得失点差71も07-08シーズンのマンチェスター・ユナイテッドが記録した58を抜き、プレミアリーグ記録である。その後のFAカップ決勝ではポーツマスとのプレミアリーグ優勝・最下位対決を1-0で制しFAカップ2連覇を達成。クラブ初のリーグとFAカップ2冠を達成した。また、ユースチームもFAユースカップで1960年・61年の連覇以来、3度目の優勝を飾った。
2010年代
2010-11シーズン
プレミアリーグでは序盤は好調だったが主力の離脱や不調が重なり中盤以降失速、終盤は盛り返し首位のマンチェスター・ユナイテッドに迫ったが、最終盤の直接対決で敗れて引導を渡され2位に終わった。チャンピオンズリーグでもユナイテッドに準々決勝で敗れベスト8に終わった。その他のカップ戦でも敗退したため、3シーズンぶりの無冠に終わった。この結果、アンチェロッティは監督を解任され、新監督にはFCポルトでモウリーニョ以来の三冠を達成したアンドレ・ビラス・ボアスが就任した。
2011-12シーズン
アンドレ・ビラス・ボアス新監督の下で再生を期したが、シーズン半ばから徐々に不調に陥り、プレミアリーグでは低迷した。UEFAチャンピオンズリーグでも決勝トーナメント敗退の危機に陥ったため、WBAに敗れた翌日の2012年3月4日にアンドレ・ビラス・ボアスは解任。後任にはアシスタントコーチであるロベルト・ディ・マッテオが暫定で就任した。すると、チームは調子を上げ、FAカップ決勝でリバプールを破りFAカップを制覇した。UEFAチャンピオンズリーグ決勝ではバイエルン・ミュンヘンと対戦し120分間では決着がつかずPK戦までもつれるが、5本全てのコースを読み、うち2本をセーブしたチェフが活躍を見せ、5人目のキッカーであったディディエ・ドログバがネットを揺らし悲願の初タイトルを獲得した。この結果、ロベルト・ディ・マッテオは暫定監督にも関わらずFAカップとUEFAチャンピオンズリーグの2冠を達成することとなった。
2012-13シーズン
暫定監督であったロベルト・ディ・マッテオが正式な監督に就任。開幕からチームの指揮を執っていたが、11月に成績不振により途中解任。後続にラファエル・ベニテスが就任した。その後立て直しを図ろうとしたものの、UEFAチャンピオンズリーグはグループリーグ敗退。グループ3位であったためUEFAヨーロッパリーグに回ることとなった。なお前年度王者がチャンピオンズリーグでグループリーグ敗退となるのは史上初となった。FIFAクラブワールドカップ2012にも出場したが決勝で南米王者コリンチャンスに惜敗し準優勝に終わった。それでも、UEFAヨーロッパリーグでは決勝でベンフィカを破り、前年度UEFAチャンピオンズリーグ優勝に続き、UEFAヨーロッパリーグを制覇した。これによりUEFAチャンピオンズリーグとUEFAヨーロッパリーグのトロフィーを同時に保持する初めてのクラブとなった(EL決勝はCL決勝よりも早く開催されるため)。
2013-14シーズン
2013年6月3日、ジョゼ・モウリーニョの監督復帰が発表された。フルハムからマーク・シュウォーツァー、レバークーゼンからアンドレ・シュールレ、モウリーニョにとってはインテル時代の教え子であるサミュエル・エトオ等を獲得した。プレミアリーグでは2014年2月4日にそれまで11戦全勝だったエティハド・スタジアムでシティを、4月27日にそのシティとのプレミア頂上決戦を制したリバプールを破るなど、上位チーム相手には勝負強さを見せつけたが、2014年4月20日のサンダーランドにホームで敗れた他、中盤から終盤にかけてアストン・ヴィラやWBAといった下位相手に勝ち点3を取れず、3位に終わった。2シーズンぶりの覇権奪回を目指したチャンピオンズリーグではアトレティコに2戦合計1-3で敗れ、FAカップでは5回戦でシティに(ベスト16)、キャピタル・ワンカップは準々決勝でサンダーランドに敗れた。
2014-2015シーズン
2014年8月、アトレティコ・マドリードからジエゴ・コスタ、ティボ・クルトゥワ、フィリペ・ルイス(ティボ・クルトゥワはアトレティコ・マドリードへのレンタル移籍からの復帰)、FCバルセロナからフランセスク・ファブレガスの獲得、ガラタサライSKからディディエ・ドログバの復帰が決まった。
チェルシーと移籍マーケット
オーナー就任当初はスター選手の大量補強で話題となったが、ジョゼ・モウリーニョの監督就任後は、彼の意向に沿った堅実路線をとり、調和を重視した成熟されたチーム作りが行われた(勿論、そこにはピーター・ケニオンの力があったことは否めない)。ジョン・テリー、フランク・ランパードといった国内選手をチームの中心に据えるという路線は今後も継続していく方針である。ただ、アブラモヴィッチの豊富な財力を背景にした資金力は欧州随一で、提示する移籍額は相対的にも桁違いである。例え他クラブが移籍交渉を進めていても、チェルシーが介入した時点で資金力の差から獲得を断念するケースもしばしば見受けられる。そのため移籍市場のバランスを崩しているとの批判も多い。一方で、この資金力を目当てに、相場を超えた移籍金をチェルシーに対し要求するクラブも多いと言われている。少なくとも、慢性的な資金不足に悩むクラブにとって、チェルシーに選手を売却することは、クラブの財政には好影響を与えるものであることは間違いなく、世界全体の移籍マーケットを活性化し資金を流動化させている存在であること。また、近年のプレミアリーグにある移籍傾向などからリーグの資産価値そのものを高めた先駆者として一定の評価をする有識者も存在する。
2006-07シーズン開始前の移籍市場では、ACミランからウクライナ代表FWアンドリー・シェフチェンコ、バイエルン・ミュンヘンからドイツ代表MFミヒャエル・バラックを獲得するなどレアル・マドリードに代わり移籍市場の主役となった。こうしたスター選手の獲得に加え、将来を有望視される若手選手の発掘もチェルシーの得意とする(ケニオンに加えて、スポーティング・ディレクターのフランク・アルネセンの功績も大きい)ところであり、将来を見据えてラッサナ・ディアラをル・アーブルから獲得。最近ではノルウェーのリンとマンチェスター・ユナイテッドの共同保有選手であったナイジェリア出身の若手MFジョン・オビ・ミケルを獲得(共同保有のため移籍金は半分に分割して両クラブに支払われる)し、またフェイエノールトからはFWサロモン・カルーを新たに獲得。また近年では若手の育成にも力を入れるなど将来を見据えた基盤改革を行っている。しかし、2010-11シーズンは極度の不振により一時5位まで後退。そこでフロントはリヴァプールからフェルナンド・トーレス、ベンフィカからダヴィド・ルイスを冬の移籍期間最終日に獲得するなど大型補強をした。
2011年夏の移籍期間ではフアン・マタ、ロメル・ルカク、オリオール・ロメウ、ティボ・クルトゥワを獲得し、2012年の夏の移籍期間ではオスカル、エデン・アザールを獲得するなど、世代交代を進めている。2013年夏の移籍期間ではバイエル・レバークーゼンからアンドレ・シュールレ、フィテッセからマルコ・ファン・ヒンケル、アンジ・マハチカラからウィリアン、サミュエル・エトオを獲得している。
ダービーマッチ
同じ西ロンドンに本拠を置くフラムFC、QPRとはライバル関係にあり両クラブの試合はウェスト・ロンドン・ダービーと呼ばれ、マンチェスター・ダービー、ノース・ロンドン・ダービー、タイン・ウェア・ダービーなどと並ぶダービーマッチの一つである。また近年上位を争っているアーセナルとの戦いはビッグ・ロンドン・ダービーと呼ばれている。
特にフラムとの縁は深く、1905年のチェルシー創設以来続いている。前述でも述べてあるようにスタンフォード・ブリッジはフラムの本拠地として使用依頼を受けていたものの、金銭面で折り合いがつかず拒絶されたことにある。その結果宙に浮いたスタジアムの有効利用のためにスタジアムのオーナーは自ら「チェルシーFC」という名の新しいクラブを立ち上げた。そのような事の発端もありウェスト・ロンドン・ダービーは白熱したものになっている。
エピソード
- チームマスコットはスタンフォード・ライオン。
- 古くには熱狂的で凶暴なサポーターが存在する事で知られていたが、プレミアリーグ誕生以降はスタジアム整備に力を入れた事もあり、現在は問題が起こることは殆どなくなっている。
- チェルシーを50年ぶりのリーグ優勝に導いた現監督のジョゼ・モウリーニョはサポーターから絶大な人気を誇っている。
- 代表的な応援歌は「Blue is the colour」で、1972年に作られた。当時の歴代所属選手達が歌っている。ホームでの試合終了後にスタジアムに流れる。FAカップの決勝戦でタイトルを手に入れた試合終了後にウェンブリー・スタジアムでも流れた。
- 2012年2月、世界最大の会計事務所である『デロイト』が公表したデロイト・フットボール・マネー・リーグによると、2010-11シーズンのクラブ収入は2億4980万ユーロ(約275億円)であり、欧州第6位、イングランドではマンチェスター・ユナイテッド、アーセナルに次ぐ第3位である[1]。
- 2012年4月、スイスに拠点を置くF1チーム、ザウバーとのパートナーシップを結ぶことを発表した[2] 。また、2012年12月、日本の企業オリコともパートナーシップを結ぶことを発表した。[3]。
- イギリスメディアが2012年に公表した調査によると、チェルシーFCの平均年俸は約679万ドルであり、世界で4番目に平均年俸が高いクラブであることが判明した。これはアメリカのスポーツチームで最も平均年俸が高いロサンゼルス・レイカーズやニューヨーク・ヤンキースよりも高い給与水準である[4]。
獲得タイトル
国内タイトル
- プレミアリーグ : 4回
- 1954-55, 2004-05, 2005-06, 2009-10
- FAカップ : 7回
- 1969-70, 1996-97, 1999-00, 2006-07, 2008-09, 2009-10, 2011-12
- カーリングカップ : 4回
- 1964-65, 1997-98, 2004-05, 2006-07
- コミュニティーシールド : 4回
- 1955, 2000, 2005, 2009
国際タイトル
- UEFAチャンピオンズリーグ : 1回17px
- 2011-12
- UEFAカップウィナーズカップ : 2回17px17px
- 1970-71, 1997-98
- UEFAヨーロッパリーグ : 1回17px
- 2012-13
- UEFAスーパーカップ : 1回
- 1998
過去の成績
略称説明 テンプレート:Col-begin テンプレート:Col-break
- Prem = プレミアリーグ
- Div 1 = フットボールリーグ・ディビジョン1
- Div 2 = フットボールリーグ・ディビジョン2
- 勝 = 勝ち数
- 分 = 引き分け数
- 負 = 負け数
- 得 = 得点数
- 失 = 失点数
- 勝点 = 勝ち点
- FA杯 = FAカップ
- リーグ杯 = フットボールリーグカップ
- CS = コミュニティ・シールド
- CL = UEFAチャンピオンズリーグ (UEFAチャンピオンズカップ時代含む)
- EL = UEFAヨーロッパリーグ(インターシティーズ・フェアーズカップ、UEFAカップ時代含む)
- CW = UEFAカップウィナーズカップ
- SC = UEFAスーパーカップ
- CWC = FIFAクラブワールドカップ(インターコンチネンタルカップ 、トヨタカップ時代含む)
優勝 | 準優勝 | 昇格↑ | 降格↓ |
- 1954–1955シーズン以降の成績
- 1980-1981シーズンまでは勝ち点2点。1981-1982シーズンから勝ち点3点。
シーズン | 所属リーグ | 試合 | 勝 | 分 | 負 | 得 | 失 | 勝点 | 順位 | FA杯 | リーグ杯 | CS | CL | EL | CW | SC | CWC |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1954–1955 | Div 1 | 42 | 20 | 12 | 10 | 81 | 57 | 52 | 優勝 | ベスト16 | - | - | - | - | - | - | |
1955–1956 | Div 1 | 42 | 14 | 11 | 17 | 64 | 77 | 39 | 16位 | ベスト16 | 優勝 | 出場辞退 | |||||
1956–1957 | Div 1 | 42 | 13 | 13 | 16 | 73 | 73 | 39 | 13位 | 4回戦 | |||||||
1957–1958 | Div 1 | 42 | 15 | 12 | 15 | 83 | 79 | 42 | 11位 | 4回戦 | |||||||
1958–1959 | Div 1 | 42 | 18 | 4 | 20 | 77 | 98 | 40 | 14位 | 4回戦 | |||||||
1959–1960 | Div 1 | 42 | 14 | 9 | 19 | 76 | 91 | 37 | 18位 | 4回戦 | |||||||
1960–1961 | Div 1 | 42 | 15 | 7 | 20 | 98 | 100 | 37 | 12位 | 3回戦 | 4回戦 | ||||||
1961–1962 | Div 1 | 42 | 9 | 10 | 23 | 63 | 94 | 28 | 22位↓ | 3回戦 | |||||||
1962–1963 | Div 2 | 42 | 24 | 4 | 14 | 81 | 42 | 52 | 2位↑ | ベスト16 | |||||||
1963–1964 | Div 1 | 42 | 20 | 10 | 12 | 72 | 56 | 50 | 5位 | 4回戦 | 2回戦 | ||||||
1964–1965 | Div 1 | 42 | 24 | 8 | 10 | 89 | 54 | 56 | 3位 | ベスト4 | 優勝 | ||||||
1965–1966 | Div 1 | 42 | 22 | 7 | 13 | 65 | 53 | 51 | 5位 | ベスト4 | ベスト4 | ||||||
1966–1967 | Div 1 | 42 | 15 | 14 | 13 | 67 | 62 | 44 | 9位 | 準優勝 | 3回戦 | ||||||
1967–1968 | Div 1 | 42 | 18 | 12 | 12 | 62 | 68 | 48 | 6位 | ベスト8 | 2回戦 | ||||||
1968–1969 | Div 1 | 42 | 20 | 10 | 12 | 73 | 53 | 50 | 5位 | ベスト8 | 3回戦 | 2回戦 | |||||
1969–1970 | Div 1 | 42 | 21 | 13 | 8 | 70 | 50 | 55 | 3位 | 優勝 | 4回戦 | ||||||
1970–1971 | Div 1 | 42 | 18 | 15 | 9 | 52 | 42 | 51 | 6位 | 4回戦 | 4回戦 | 準優勝 | 優勝 | ||||
1971–1972 | Div 1 | 42 | 18 | 12 | 12 | 58 | 49 | 48 | 7位 | ベスト16 | 準優勝 | 2回戦 | |||||
1972–1973 | Div 1 | 42 | 13 | 14 | 15 | 49 | 51 | 40 | 12位 | ベスト8 | ベスト4 | ||||||
1973–1974 | Div 1 | 42 | 12 | 13 | 17 | 56 | 60 | 37 | 17位 | 3回戦 | 2回戦 | ||||||
1974–1975 | Div 1 | 42 | 9 | 15 | 18 | 42 | 72 | 33 | 21位↓ | 4回戦 | 3回戦 | ||||||
1975–1976 | Div 2 | 42 | 12 | 16 | 14 | 53 | 54 | 40 | 11位 | ベスト16 | 2回戦 | ||||||
1976–1977 | Div 2 | 42 | 21 | 13 | 8 | 73 | 53 | 55 | 2位↑ | 3回戦 | 4回戦 | ||||||
1977–1978 | Div 1 | 42 | 11 | 14 | 17 | 46 | 69 | 36 | 16位 | ベスト16 | 2回戦 | ||||||
1978–1979 | Div 1 | 42 | 5 | 10 | 27 | 44 | 92 | 20 | 22位↓ | 3回戦 | 2回戦 | ||||||
1979–1980 | Div 2 | 42 | 23 | 7 | 12 | 66 | 52 | 53 | 4位 | 3回戦 | 2回戦 | ||||||
1980–1981 | Div 2 | 42 | 14 | 12 | 16 | 46 | 41 | 40 | 12位 | 3回戦 | 2回戦 | ||||||
1981–1982 | Div 2 | 42 | 15 | 12 | 15 | 60 | 60 | 57 | 12位 | ベスト8 | 3回戦 | ||||||
1982–1983 | Div 2 | 42 | 11 | 14 | 17 | 51 | 61 | 47 | 18位 | 4回戦 | 3回戦 | ||||||
1983–1984 | Div 2 | 42 | 25 | 13 | 4 | 90 | 40 | 88 | 1位↑ | 3回戦 | 3回戦 | ||||||
1984–1985 | Div 1 | 42 | 18 | 12 | 12 | 63 | 48 | 66 | 6位 | 4回戦 | ベスト4 | ||||||
1985-1986 | Div 1 | 42 | 20 | 11 | 11 | 57 | 56 | 71 | 6位 | 4回戦 | ベスト8 | ||||||
1986-1987 | Div 1 | 42 | 13 | 13 | 16 | 53 | 64 | 52 | 14位 | 4回戦 | 3回戦 | ||||||
1987-1988 | Div 1 | 40 | 9 | 15 | 16 | 50 | 68 | 42 | 18位↓ | 4回戦 | 2回戦 | ||||||
1988-1989 | Div 2 | 46 | 29 | 12 | 5 | 96 | 50 | 99 | 1位↑ | 3回戦 | 2回戦 | ||||||
1989-1990 | Div 1 | 38 | 16 | 12 | 10 | 58 | 50 | 60 | 5位 | 4回戦 | 2回戦 | ||||||
1990-1991 | Div 1 | 38 | 13 | 10 | 15 | 58 | 69 | 49 | 11位 | 3回戦 | ベスト4 | ||||||
1991-1992 | Div 1 | 42 | 13 | 14 | 15 | 60 | 53 | 53 | 14位 | ベスト8 | 2回戦 | ||||||
1992-1993 | Prem | 42 | 14 | 14 | 14 | 51 | 54 | 56 | 11位 | 3回戦 | ベスト8 | ||||||
1993-1994 | Prem | 42 | 13 | 12 | 17 | 49 | 53 | 51 | 14位 | 準優勝 | 3回戦 | ||||||
1994-1995 | Prem | 42 | 13 | 15 | 14 | 50 | 55 | 54 | 11位 | 4回戦 | 3回戦 | ベスト4 | |||||
1995-1996 | Prem | 38 | 12 | 14 | 12 | 46 | 44 | 50 | 11位 | ベスト4 | 2回戦 | ||||||
1996-1997 | Prem | 38 | 16 | 11 | 11 | 58 | 55 | 59 | 6位 | 優勝 | 3回戦 | ||||||
1997-1998 | Prem | 38 | 20 | 3 | 15 | 71 | 43 | 63 | 4位 | 3回戦 | 優勝 | 準優勝 | 優勝 | ||||
1998-1999 | Prem | 38 | 20 | 15 | 3 | 57 | 30 | 75 | 3位 | ベスト8 | ベスト8 | ベスト4 | 優勝 | ||||
1999-2000 | Prem | 38 | 18 | 11 | 9 | 53 | 34 | 65 | 5位 | 優勝 | 3回戦 | ベスト8 | - | ||||
2000-2001 | Prem | 38 | 17 | 10 | 11 | 68 | 45 | 61 | 6位 | ベスト16 | 3回戦 | 優勝 | 1回戦 | ||||
2001-2002 | Prem | 38 | 17 | 13 | 8 | 66 | 38 | 64 | 6位 | 準優勝 | ベスト4 | 2回戦 | |||||
2002-2003 | Prem | 38 | 19 | 10 | 9 | 68 | 38 | 67 | 4位 | ベスト8 | ベスト8 | 1回戦 | |||||
2003-2004 | Prem | 38 | 24 | 7 | 7 | 67 | 30 | 79 | 2位 | ベスト16 | ベスト8 | ベスト4 | |||||
2004-2005 | Prem | 38 | 29 | 8 | 1 | 72 | 15 | 95 | 優勝 | ベスト16 | 優勝 | ベスト4 | |||||
2005-2006 | Prem | 38 | 29 | 4 | 5 | 72 | 22 | 91 | 優勝 | ベスト4 | 3回戦 | 優勝 | ベスト16 | ||||
2006-2007 | Prem | 38 | 24 | 11 | 3 | 64 | 24 | 83 | 2位 | 優勝 | 優勝 | 準優勝 | ベスト4 | ||||
2007-2008 | Prem | 38 | 25 | 10 | 3 | 65 | 26 | 85 | 2位 | ベスト8 | 準優勝 | 準優勝 | 準優勝 | ||||
2008-2009 | Prem | 38 | 25 | 8 | 5 | 68 | 24 | 83 | 3位 | 優勝 | 4回戦 | ベスト4 | |||||
2009-2010 | Prem | 38 | 27 | 5 | 6 | 103 | 32 | 86 | 優勝 | 優勝 | ベスト8 | ベスト16 | |||||
2010-2011 | Prem | 38 | 21 | 8 | 9 | 69 | 33 | 71 | 2位 | 4回戦 | 3回戦 | 優勝 | ベスト8 | ||||
2011-2012 | Prem | 38 | 18 | 10 | 10 | 65 | 46 | 64 | 6位 | 優勝 | ベスト8 | 優勝 | |||||
2012-2013 | Prem | 38 | 22 | 9 | 7 | 75 | 39 | 75 | 3位 | ベスト4 | ベスト4 | 準優勝 | グループリーグ敗退 | 優勝 | 準優勝 | 準優勝 | |
2013-2014 | Prem | 38 | 25 | 7 | 6 | 71 | 27 | 82 | 3位 | ベスト16 | ベスト8 | ベスト4 |
現所属メンバー
フォーメーション
2014-15シーズン開幕戦メンバー
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- かつてジャンフランコ・ゾラの付けていた25番は、公式な永久欠番とされてはいないものの、彼の退団後に付けた選手は存在しない。
現在のメンバー
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ローン移籍
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- out
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リザーブ・アカデミー
歴代監督
歴代所属選手
GK
DF
MF
FW
提携クラブ
傘下クラブ
脚注
- ↑ Deloitte Football Money League 20122012年2月9日に国際監査法人『デロイト』が公表した2010-2011シーズンの欧州サッカーのクラブ収入ランキング。
- ↑ ESPNF1 ザウバー、チェルシーとのパートナーシップを発表。
- ↑ [1]
- ↑ 2012年にイギリスメディア『sportingintelligence.com』が調査した、世界のスポーツチームの平均年俸ランキング
外部リンク
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