アンドリー・シェフチェンコ
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アンドリー・ムィコラーヨヴィチ・シェフチェンコまたはアンドレイ・ニコラーエヴィチ・シェフチェンコ[1](テンプレート:Lang-uk 発音例, ラテン文字表記:Andriy Mykolaiovych Shevchenko, テンプレート:Lang-ru, 1976年9月29日 -)は、ウクライナ・キエフ州・ドヴィルキウシュチナ村出身の元サッカー選手である。
目次
略歴
ディナモ・キエフ時代
6歳でウクライナの名門、ディナモ・キエフのサッカースクールに入団。10歳児頃、チェルノブイリ原子力発電所事故で罹災し一家で避難、幼年期を育った土地を離れて移住[2]。1992年にディナモ・キエフユースに昇格、1994年にトップチームでデビューを果たす。最初のクラブであるディナモ・キエフではチームを5年連続リーグタイトルに導き、自身は116試合で60得点した。
シェフチェンコが国際的な注目を集めたきっかけは1997-98シーズンのUEFAチャンピオンズリーグにおける大活躍である。特にFCバルセロナとアウェーのカンプ・ノウで対戦した試合では、バルセロナの圧倒的優位という下馬評の中、シェフチェンコのハットトリックを含む0-4でディナモ・キエフが圧勝という番狂わせの立役者となった。シェフチェンコは次シーズンのチャンピオンズリーグでも大活躍し、10得点を挙げて1998-99シーズンのCL得点王を獲得。ディナモ・キエフをCLベスト4に押し上げる原動力となった。
ACミラン時代
1999-00シーズンからは推定移籍金2600万ユーロでACミランに移籍を果たす。移籍初年度から高い順応性を見せた彼は、鋭い突破力と高い決定力で32試合で24得点を挙げていきなりセリエA得点王を獲得。2002-03シーズンは開幕前に負傷したこともあってか期待された活躍は見られなかったものの、ACミラン在籍時に「不振」と言われるような成績を残したのは僅かこのシーズンのみである。2003-04シーズンには再び24得点を挙げて得点王に輝き完全復活を果たし、ACミランのスクデット獲得に大きく貢献。この年、ポルトガルのデコとブラジルのロナウジーニョを抑えてヨーロッパ年間最優秀選手を受賞した。ウクライナ人でこの名誉を授かったのは、オレグ・ブロヒン(1975年)、イーゴル・ベラノフ(1986年)に次いで3人目である。
チェルシー移籍
2005-06シーズン終了後、ACミランからの退団とFAプレミアリーグへの移籍を表明。5月31日、4500万ユーロ(約63億円)の移籍金、年俸900万ユーロ(約13億円)の4年契約でチェルシーFCへ移籍したものの、プレミアリーグのサッカーやチェルシーの戦術に馴染めなかったためか、本来の実力を発揮したとは言えないパフォーマンスであった。
ミランへのレンタル
その後もなかなかチームに馴染めず出場機会が限られていたため何度も古巣ミラン復帰の噂がされていたが、2008年夏、得点力不足や前線のメンバーの負傷が相次ぐなど前線に問題をかかえていたミランがレンタル移籍のかたちで獲得を希望する。交渉は難航するが8月23日、レンタル移籍で両クラブ間の合意に達し、2シーズン振りの復帰となった。また、背番号は、すでにパトが背番号7を背負っていたため、自身が1976年生まれであること、且つ彼の好む「7」という数字が入っていることから「76」となった。
しかし一旦狂った歯車は中々好転せず、慣れ親しんだミランでも往時の輝きは取り戻せないままレンタル期間は終了。2009-2010シーズンの開幕はチェルシーで迎えることとなった。
ディナモ・キエフ復帰
2009年8月29日、10年ぶりにディナモ・キエフへ復帰することが発表された[3]。2年契約で背番号は7。2009-10シーズンからキャプテンに就任したアルテム・ミレフスキーのサポート役として、シェフチェンコは副キャプテンに就任。11月4日のチャンピオンズリーグ・インテル戦では華麗なボレーシュートを決めてみせた。
引退発表
ウクライナがポーランドと共催するUEFA EURO 2012を最後に現役から引退することを大会前に発表。サッカー界から退いた後は、ゴルファーへ転向を果たす計画であり、ゴルフが112年ぶりに正式競技に復活した2016年のリオデジャネイロ五輪への出場を目指す構えだという。
そうして臨んだEURO 2012ではグループリーグ初戦のスウェーデン戦で2得点を挙げ、ウクライナのEURO初勝利に貢献した。しかし、フランス、イングランドには敗れ、グループリーグ敗退に終わった。
エピソード
- 愛称のシェバはヘブライ語で数字の7を意味するため、本人も背番号は7番(もしくは7の入る数字)にこだわりがある。
- 2004年3月にペレが選ぶ偉大なサッカー選手100人に選出され、同年度のバロンドールを受賞するなど、ウクライナの英雄的存在。実際に2004年にはウクライナのレオニード・クチマ前大統領から「ウクライナの英雄」として表彰されている。
- 同じく2004年にアメリカ人モデルのクリステン・パツィクと結婚。長男はアメリカの元バスケットボール選手マイケル・ジョーダンにちなんでジョーダンと名付けられた。同時期にイングランドへ移籍した理由は、家族のために英語圏で生活するためとも言われている。
- 2005年6月2日にウクライナ大統領のユシチェンコの非常勤顧問に就任した(2004年大統領選挙では、彼は対立候補であったヤヌコーヴィチの応援CMに出演している)。
- 2005-2006シーズン末に長年契約していたロットとの用具契約を終了し、日本のミズノと用具契約をしたが、シーズン終了後、チェルシーに移籍し、同チームがユニフォーム以外のシャツを着てのスパイク等の広告を禁止した為、クラブのスポンサーであるアディダスの子会社リーボックがミズノに金銭を支払うという形で契約を買い取り、同社のスパイクを使用していた。その後はナイキのスパイクを使用していた。
- 幼少時代、キエフ郊外のクレシュチェチュクに住んでおりチェルノブイリ原発事故に遭遇している。事故後は黒海に面した港町に疎開している[4]。
経歴・タイトル
クラブ
- ディナモキエフ
- ウクライナ・プレミア・ディビジョン:1995, 1996, 1997, 1998, 1999
- ウクライナカップ:1996, 1998, 1999
- CISカップ:1996, 1997, 1998
- ACミラン
- UEFAチャンピオンズリーグ:2002-2003
- コッパ・イタリア:2002-2003
- セリエA:2003-2004
- チェルシー
- FAカップ: 2007
- フットボールリーグカップ: 2007
代表
ワールドカップ戦績
個人
- ウクライナ・プレミア・ディビジョン得点王:1999
- CISカップ得点王: 1997
- セリエA得点王:2000, 2004
- UEFAチャンピオンズリーグ得点王:1999, 2006
- バロンドール: 2004
- ウクライナ最優秀選手: 1997, 1999, 2000, 2001, 2004, 2005
- セリエA最優秀外国人選手: 2000
- UEFAチャンピオンズリーグ最優秀FW:1999
- ゴールデンフット賞: 2005
- FIFA 100
- 20世紀の偉大なサッカー選手100人 60位(ワールドサッカー誌選出 1999)
- ウクライナ代表歴代最多得点記録
所属クラブ
- 1994-99 テンプレート:Flagicon ディナモ・キエフ
- 1999-06 テンプレート:Flagicon ACミラン
- 2006-09 テンプレート:Flagicon チェルシーFC
- → 2008-09 テンプレート:Flagicon ACミラン(レンタル移籍)
- 2009-12 テンプレート:Flagicon ディナモ・キエフ
個人成績
- 2010年9月26日現在
クラブ | シーズン | リーグ | カップ1 | 国際大会2 | 合計 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
Apps | Goals | Apps | Goals | Apps | Goals | Apps | Goals | ||
ディナモ・キエフ | 1994/95 | 17 | 1 | 4 | 1 | 2 | 1 | 23 | 3 |
1995/96 | 31 | 16 | 5 | 1 | 2 | 2 | 38 | 19 | |
1996/97 | 20 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 20 | 6 | |
1997/98 | 23 | 19 | 8 | 8 | 10 | 6 | 41 | 33 | |
1998/99 | 26 | 18 | 4 | 5 | 14 | 10 | 44 | 33 | |
Total | 117 | 60 | 21 | 15 | 28 | 19 | 166 | 94 | |
ACミラン | 1999/00 | 32 | 24 | 5a | 4 | 6 | 1 | 43 | 29 |
2000/01 | 34 | 24 | 3 | 1 | 14 | 9 | 51 | 34 | |
2001/02 | 29 | 14 | 3 | 0 | 6 | 3 | 38 | 17 | |
2002/03 | 24 | 5 | 4 | 1 | 11 | 4 | 39 | 10 | |
2003/04 | 32 | 24 | 2a | 0 | 11b | 5b | 45 | 29 | |
2004/05 | 29 | 17 | 1c | 3c | 10 | 6 | 40 | 26 | |
2005/06 | 28 | 19 | 0 | 0 | 12 | 9 | 40 | 28 | |
Total | 208 | 127 | 18 | 9 | 70 | 37 | 296 | 173 | |
チェルシーFC | 2006/07 | 30 | 4 | 11d | 7d | 10 | 3 | 51 | 14 |
2007/08 | 17 | 5 | 3e | 2e | 4 | 1 | 24 | 8 | |
Total | 47 | 9 | 14 | 9 | 14 | 4 | 75 | 22 | |
ACミラン | 2008/09 | 18 | 0 | 1 | 1 | 7 | 1 | 23 | 2 |
Total | 18 | 0 | 1 | 1 | 7 | 1 | 23 | 2 | |
ディナモ・キエフ | 2009/10 | 21 | 7 | 2 | 0 | 6 | 1 | 29 | 8 |
2010/11 | |||||||||
Total | 21 | 7 | 2 | 0 | 6 | 1 | 29 | 8 | |
Career Totals | 398 | 203 | 56 | 34 | 125 | 62 | 589 | 299 |
1 リーグカップ、スーパーカップ
2 UEFAチャンピオンズリーグ、UEFAカップ、UEFAスーパーカップ
トヨタカップ、FIFAクラブワールドカップ
背番号
- 10(1995年 - 1999年)
- 7(1999年 - 2008年8月、2009年9月 - 2012年)
- 76(2008年9月 - 2009年8月)
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註釈
外部リンク
- シェフチェンコ応援ページ
- Andriy Shevchenko tribute site (English and Spanish)
テンプレート:Navboxes テンプレート:2006 FIFAワールドカップウクライナ代表
テンプレート:UEFA EURO 2012ウクライナ代表- ↑ ウクライナ語名の日本語表記はアンドリー・ムィコラーヨヴィチ・シェウチェンコ、ロシア語名の日本語表記はアンドレイ・ニコラーエヴィチ・シェフチェンコ。ウクライナの独立以後はウクライナ語のみが同国の公用語となっており、人名についてもウクライナ語名が公式。日本のメディアではロシア語名に準じた「アンドレイ・シェフチェンコ」が用いられることが多かった。最近では、ウクライナ語名のロシア語訛りに準じた表記「アンドリー・シェフチェンコ」が用いされることも多くなってきている。ウクライナ語の標準語に準じた表記では「アンドリー・シェウチェンコ」(アンドリイ、アンドリーイ、シェヴチェンコ、シェウチェーンコ、シェヴチェーンコなどのバリエーションあり)となる。「アンドリーイ・シェウチェーンコ」などとなるのは、発音上のアクセントを長音で表すという慣例に従った表記である。また、父称はスポーツ関係では無視されて書かれないことが多い。
- ↑ Andrei Shevchenko: The making of Sheva
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite book
- ↑ アンドリー・シェフチェンコがReebokと契約 Rbkが素顔のシェフチェンコの素顔を紹介 , リーボック、 2006年9月5日のリリース