ジャンフランコ・ゾラ
テンプレート:サッカー選手 ジャンフランコ・ゾラ OBE(Gianfranco Zola、1966年7月5日 - )は、イタリア・サルデーニャ州オリエーナ出身の元サッカー選手。サッカー指導者。選手時代のポジションはMF、FW。愛称は「サルデーニャの魔法使い」「マラゾーラ」「マジック・ボックス」。
来歴
クラブでの成功
1984年、ヌオレーゼでキャリアをスタート。1989年にディエゴ・マラドーナが当時在籍していたセリエAのナポリに移籍、頭角を現す。その後移籍したパルマでは、ファウスティーノ・アスプリージャやディノ・バッジョらと共に中心選手として活躍。在籍期間中にセリエA制覇は成らなかったが、1995年にUEFAカップを獲得した。
1996年、当時のカルロ・アンチェロッティ監督との確執が原因でイングランド・FAプレミアリーグのチェルシーに移籍し、期待通りの活躍でタイトル獲得に大きく貢献する。2003年、当時セリエBに所属していた地元サルデーニャ島のカリアリに移籍してイタリア復帰を果たし、同クラブのセリエA昇格の立役者となった。2004-2005シーズン終了後、現役引退を表明した。引退後、ピエルルイジ・カジラギの下で、U-21イタリア代表コーチを務めていた。
2008年9月、ウェストハムの監督に就任した。2009-2010シーズンをもって解任された。
代表での不運
ナポリ、パルマでの活躍からその実力を認められて、イタリア代表に選出されるようになったが、「イタリアの至宝」と言われたロベルト・バッジョが同じポジションにいたため、脚光を浴びる機会は少なかった。
攻撃的MFの控えとして参加した1994年ワールドカップ・アメリカ大会決勝トーナメント1回戦のナイジェリア代表戦において途中出場で念願のピッチに立った。しかし僅か10分後、レフェリー(主審)の不可解な判定によって退場処分を受ける。ラフプレーや故意犯的な反則が増加した前回大会の反省を踏まえ、FIFAは「危険もしくは確信犯的な反則に対しては厳しく裁定するように、それを守らないレフェリーには即刻帰国してもらう」という異例の通達を出していた。その為、この試合の主審も、「ボールをナイジェリアの選手とゾラが競り合ったが、ゾラがボールを取られ、それをゾラが正当なチャージで取り返した際、ナイジェリアの選手が転んだ」という何でもないプレーをゾラの過剰な報復行為とみなして、ゾラを退場させたのだった。その後は出場機会を失い、結果としてこれが生涯唯一のワールドカップ出場となった。
その後、バッジョが代表から外れた事でUEFA欧州選手権予選では中心選手として予選突破に貢献。1996年の本大会では、決勝トーナメント進出を賭けたドイツとの第三戦で、ペナルティキックを失敗しグループリーグ敗退。またしても脚光を浴びる事は出来なかった。
エピソード
- 優れた実力もさることながら真摯で真面目な人柄で、チェルシーサポーターから現在もなお絶大な支持を受けている。チェルシーFCにて彼の付けていた背番号25番は公式な永久欠番とされてはいないものの、彼の退団後にそれを付けた選手は存在しない。ジョン・テリーは「26」という、主力選手としては大きな背番号を背負い続けているが、これはかつて「25」を背負っていた彼への敬意であり、「もう一歩進めば、偉大なゾラに追いつける」という思いが込められている。
- チェルシーFCからカリアリに移籍直後、チェルシーがロマン・アブラモヴィッチに買収された。サポーターに愛されていたゾラをチェルシーに留めるため、アブラモヴィッチは移籍金の数十倍の小切手をカリアリに送りつけ、ゾラにも高額の年俸を保証するも、ゾラは「クラブ全体を買収されたらチェルシーに戻りますが、そうでない限りカリアリに留まります」と発言し、カリアリでプレーする事を表明した。
- 2007年10月現在、チェルシーの公式サイトはトップページでFLASHとHTMLから選択するようになっているが、FLASH側は「ZOLA STYLE SITE」と銘打たれている。なお、HTML側は「JT STYLE SITE」。
- 「PKよりもフリーキックのほうが簡単」という言葉は、長年ゾラの発言とされ、フリーキックが得意なことを象徴するものとして、よく紹介されていた。しかし、2007年のインタビューで「PKを続けて外した一方でフリーキックを何本か決めていた時期に、『PKを蹴るときもフリーキックの壁が欲しい』とコメントしたのが、本当の内容だ」と語っている。[1]
個人成績
テンプレート:サッカー選手国内成績表 top テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |1984-85||rowspan=2|ヌオレーゼ||||セリエC2||7||1|||||||||||| |- |1985-86||||Int||24||9|||||||||||| |- |1986-87||rowspan=3|トレス||||セリエC2||28||8|||||||||||| |- |1987-88||||rowspan=2|セリエC1||26||2|||||||||||| |- |1988-89||||34||11|||||||||||| |- |1989-90||rowspan=4|ナポリ||||rowspan=7|セリエA||7||2|||||||||||| |- |1990-91||||31||6|||||||||||| |- |1991-92||||30||12|||||||||||| |- |1992-93||||37||12|||||||||||| |- |1993-94||rowspan=3|パルマ||||37||19|||||||||||| |- |1994-95||||30||19|||||||||||| |- |1995-96||10||35||10|||||||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |1996-97||rowspan=7|チェルシー||rowspan=7|25||rowspan=7|プレミアリーグ||35||7|||||||||||| |- |1997-98||36||7|||||||||||| |- |1998-99||34||13|||||||||||| |- |1999-00||35||6|||||||||||| |- |2000-01||34||4|||||||||||| |- |2001-02||33||4|||||||||||| |- |2002-03||22||14|||||||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |2003-04||rowspan=2|カリアリ||rowspan=2|10||セリエB||21||13|||||||||| |- |2004-05||セリエA||23||9|||||||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算始230||89|||||||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行21||13|||||||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行35||9|||||||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行24||9|||||||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行229||55|||||||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算終599||188|||||||||||| |}
代表歴
タイトル
ナポリ
- セリエA:1989-90
パルマ
- UEFAカップ:1996
チェルシー
- FAカップ:1997、2000
- フットボールリーグカップ:1998
個人
- FWA年間最優秀選手賞:1997
- イングランドサッカー殿堂:2006
脚注
テンプレート:FWA年間最優秀選手賞 テンプレート:1994 FIFAワールドカップイタリア代表
テンプレート:UEFA欧州選手権1996イタリア代表- ↑ 『ワールドサッカーマガジン』No.166 2007年10月18日号