日本神話
テンプレート:ウィキポータルリンク テンプレート:Sidebar with heading backgrounds 日本神話(にほんしんわ)とは日本に伝わる神話のことである。
目次
概要
日本神話と呼ばれる伝承はほとんどが、『古事記』、『日本書紀』および各『風土記』の記述による[1][2]。そのため高天原の神々が中心となっているが[2]、出典となる文献は限られる。
本来、日本各地には出雲を始めとして何らかの信仰や伝承があったと思われ、ヤマト王権の支配が広がるにつれていずれもが国津神(くにつかみ)または「奉ろわぬ神」と形を変えられて「高天原神話」に統合されたとされる[3]。また、後世まで中央権力の支配されなかったアイヌや琉球には独自色の強い神話が存在する。
本記事においては『古事記』『日本書紀』などで語られている「高天原神話」(記紀神話)を解説する。
神仏習合と中世神話
日本に仏教が定着すると、日本の神々も人間と同じく苦しみから逃れる事を願い、仏の救済を求め解脱を欲すると認識されるようになった[4]。奈良時代初頭から神社において神宮寺が建立され始め、715年(霊亀元年)には越前国気比大神が、また満願禅師らによる鹿島神宮が、ほか賀茂神社、伊勢神宮などで神宮寺が併設された[4]。また、宇佐八幡神のように神体が菩薩形をとる神(僧形八幡神)も現れた[4]。奈良時代後半には、伊勢桑名郡の現地豪族の氏神である多度大神が、神の身を捨てて仏道の修行をしたいと託宣するなど、神宮寺建立は地方にまで広がり、若狭国若狭彦大神や近江国奥津島大神など、他国の神も8世紀後半から9世紀前半にかけて、仏道に帰依する意思を示した[4]。こうして苦悩する神を救済するため、神社の傍らに神宮寺が建てられ、神前で読経がなされた。
平安時代になり、日本の神は護法善神とする神仏習合思想が生まれ、寺院の中で仏の仮の姿である神(権現)を祀る神社が営まれるようになった。
また、『太平記』などの軍記物、歌学書やその注釈、寺社縁起などで『日本書紀』によりながら内容が大きく異なる中世神話(中世日本紀)が発達した。中世神話では本地垂迹説により記紀の神々が仏教の尊格と同一視されたり、あるいは対等に扱われる。記紀にはない神格やアイテムが登場したり、地方神話、民間伝承や芸能の要素の混入もみられる。記紀神話のように内容を統一する文献は編纂されなかったため、バリエーションは豊富である。中世神話は現在では国文学方面で研究されており、神話学などではあまり扱われない。
近世
近世になると、本居宣長が古事記の本格的解明を目指し『古事記伝』を著し、日本神話といえば『日本書紀』の内容が主に伝わっていたのが一変し、『古事記』の内容が主で伝えられるようになった。
また、少数ではあるが、キリシタンや幕末の新興宗教の教説にも独自の神話がみられる。
神代神話の概略構成
この記事では日本神話のあらすじを述べるにとどめ、各神話の詳細は別記事に譲る。
記紀などにおいて神代(神の時代、神話時代)として記された神話は、以下の通りである。神代は、神武天皇の在位する以前までの時代のことである。 テンプレート:See
天地開闢
テンプレート:Main 世界の最初に高天原で、別天津神・神世七代という神々が誕生。これらの神々の最後に生まれてきたのが伊弉諾尊(伊邪那岐命・いざなぎ)・伊弉冉尊(伊邪那美・いざなみ)である[5][6]。
国産みと神産み
テンプレート:Main イザナギ・イザナミの両神は自らがつくったオノゴロ島に降り、結婚して大八洲と呼ばれる日本列島を形成する島々を次々と生み出していった。さらに、さまざまな神々を生み出していった。[5]一部内容ではイザナギは黄泉の国へ向かい、その後、黄泉のケガレを祓う為禊をし、この時もさまざまな神々が生まれた。[7][8]。
アマテラスとスサノオの誓約・天岩戸
テンプレート:Main 素戔嗚尊(須佐之男命・すさのを)は根の国へ行途中高天原へと向かう。天照大神(天照大御神・あまてらす)はスサノヲが高天原を奪いに来たのかと勘違いし、弓矢を携えてスサノヲを迎えた。スサノヲはアマテラスの疑いを解くために誓約で身の潔白を証明した。[9]
しかし、スサノヲが高天原で乱暴を働いたためアマテラスは天岩戸に隠れた[10]。そこで、神々は計略でアマテラスを天岩戸から出した。スサノヲは下界に追放された[11][12]。
出雲神話
テンプレート:Main スサノヲは出雲の国に降り、八岐大蛇(八俣遠呂智)を退治し、奇稲田姫(櫛名田比売・くしなだひめ)と結婚する[13][14]。スサノヲの子孫である大国主(大己貴命・おほあなむち)はスサノヲの娘と結婚し、少彦名命(すくなひこな)と葦原中国の国づくりを始めた[15]。
出雲神話とはいうものの、これらの説話は『出雲国風土記』には収録されていない。ただし、神名は共通するものが登場する。
葦原中津国平定(国譲り)
テンプレート:Main 高天原にいた神々は、葦原中国を統治するべきなのはアマテラスの子孫だとした。そのため、何人かの神を出雲に使わした[16]。最終的に大国主が自らの宮殿建設と引き換えに、天津神に国を譲ることを約束する。[17][18]。
天孫降臨
アマテラスの孫である瓊々杵尊(邇邇藝命・ににぎ)が葦原中国平定を受けて日向に降臨した[19]。ニニギは木花開耶姫(木花之佐久夜毘売・このはなさくやひめ)と結婚し、木花開耶姫は(主に)火中で御子を出産した。
山幸彦と海幸彦
テンプレート:Main ニニギの子[20]である海幸彦・山幸彦は山幸彦が海幸彦の釣り針をなくした為[21]、海神の宮殿に赴き釣り針を返してもらい、兄に釣り針を返し従えた。山幸彦は海神の娘と結婚し彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(鵜草葺不合命)という子をなした。ウガヤフキアエズの子が神日本磐余彦尊(神倭伊波礼毘古命・かんやまといわれひこ)、後の神武天皇である[21][22]。
歴代天皇についての神話伝承
以降の神話は天皇家の者が主人公であるため、神を主人公とする神話とは異なり、また、歴代天皇のうち、明らかに実在の確認できる記述もあり、神話部分と史実部分の判定については、研究が続いている。 テンプレート:See
神武東征
テンプレート:Main カムヤマトイワレヒコは兄たちと謀って大和を支配しようともくろむ。ヤマトの先住者たちは果敢に抵抗し、カムヤマトイワレヒコも苦戦するが、結局は成敗される。彼は畝傍橿原宮の山麓で即位する。これが初代天皇である神武天皇である[23][24]。
神武天皇の死後、神武天皇が日向にいたときの子である手研耳命(たぎしみみ)が反乱を起こす。神渟名川耳尊(神沼河耳命・かむぬなかわみみ)がそれを破り、皇位を継ぐ[25]。
欠史八代
テンプレート:Main カムヌナカワミミは綏靖天皇となるが[26]、綏靖天皇以下の8代の天皇の事跡は伝わっていない。
倭健命
テンプレート:Main 倭健命(日本武尊)は九州・出雲の豪族を暗殺し、天皇の命令で関東にも出兵する。しかし、帰還の途中で死亡、ハクチョウ(白鳥)となって大和に戻った。
仲哀・神功
その後、皇位は倭健の弟である成務天皇が継いだが、その死後は倭健の息子の仲哀天皇が継いで父と同じように九州へ出兵しようとする。しかし、仲哀天皇は住吉大神に逆らったため死亡する。その妻の神功皇后が住吉大神により新羅・高句麗・百済を従える。 テンプレート:Main
応神以降
以下、古事記では、仲哀天皇の息子である応神天皇より、仁徳天皇、履中天皇、反正天皇、允恭天皇などを経て、推古天皇代までが記載されている。日本書紀では、さらに持統天皇までが記載されている。
研究
テンプレート:Main 江戸時代までは官選の正史として記述された『日本書紀』の方が重要視され、『古事記』はあまり重視されていなかった。江戸中期以降、本居宣長の『古事記伝』など国学の発展によって、『日本書紀』よりも古く、かつ漢文だけでなく日本の言葉も混ぜて書かれた『古事記』の方が重視されるようになり、現在に至っている。
現在は、神話学、比較神話学、民俗学、考古学、人類学、歴史学等の領域で研究などがされている。また、日本神話の原形となったと思われる逸話や、日本神話と類似点を持つ神話はギリシャ神話など世界中に多数存在する。日本における古墳期-奈良期にかけての国の勢力関係をも知る上での参考資料ともなっている。
明治以降は、比較神話学の観点から、高木敏雄(1876-1922)が昭和18年に『日本神話伝説の研究』(平凡社東洋文庫、全二巻)にまとめられた研究をすすめた。高木は柳田國男や折口信夫らとも交流があり、柳田・折口らによる民俗学においても日本神話の研究が展開した。日本の神話学においてはほかに松村武雄、松本信広らの研究がある。
比較神話学における研究事例
吉田敦彦は、1974年に刊行した『ギリシァ神話と日本神話 比較神話学の試み』[27]『日本神話と印欧神話』[28]をはじめ、以降、『日本神話の源流』[29]、『ヤマトタケルと大国主 比較神話学の試み3』[30]、『アマテラスの原像 スキュタイ神話と日本神話』[31]、『日本の神話伝説』[32]などの一連の比較神話学研究において、日本神話を他の国・地域の神話と比較分析している。
琉球神話との比較
日本神話と琉球神話との比較は伊波普猷によってはじめられた。伊波は、明治37年(1904年)に発表し昭和17年(1942年)に改稿した「琉球の神話」の中で、『中山世鑑』の起源神話と『古事記』の淤能碁呂島神話、『宮古島旧記』の神婚説話と三輪山神話などの類似を指摘している[36]。伊波の研究は後述する松本信廣のポリネシア神話との比較研究を経て、大林太良らによって展開された。
大林は、日本神話と奄美や沖縄の島々に伝承されている民間説話について、流れ島、天降る始祖、死体化生、海幸彦に関する伝承神話を比較検討し[37]、南西諸島の神話伝承は、基本モチーフ、構造においては記紀神話と大幅な一致を見せるが、神名等においては一致しないことから、記紀にまとめられる前の共通の神話体系の母胎から分れて、南西諸島において保存された可能性を指摘している。
伊藤幹治は、日本と琉球の神話を比較し、漂える国(島)や天界出自の原祖、ヒルコ、穂落としなどのモチーフが共通して認められるとしながら、風による妊娠、原祖の地中からの出現、原祖の漂着、犬祖などは琉球神話にしか見られず、また穀物神話の死体化生モチーフは日本神話にしか見られないと指摘している[38]。
遠藤庄治は、宮古列島の来間島豊年祭の由来譚が日光感精による処女懐胎であることを説明し、『日本書紀』神代巻冒頭の天地が分かれる以前は鶏子のごとくであったとする条と天日槍伝承に見られる卵生のモチーフが、来間島では豊年祭の由来として現在も語り継がれていると指摘している[39]。
日本開闢神話とポリネシア創世神話
昭和6年(1931年)、松本信廣は『日本神話の研究』の中で、ローランド・ディクソン[40]がポリネシアを分類するために設定した2つの図式「進化型」と「創造型」を用い、日本開闢神話をポリネシア創世神話の「進化型」と「創造型」の複合形であり、イザナギ・イザナミ神話から以降は「創造型」の形式を受け継いでいるものではないかとの説を発表した。
- 進化型は「系図型」ともいわれ、最初独化神が連続し、これが宇宙の進化の各段階を象徴する。後に夫婦神が現れて、最後に生まれた陰陽二神より万物が誕生したという筋の神話の型である。
- 創造型は、最初神々は天上の世界に住み、その下には広々とした大海が横たわっているのみである。そこへある神が石を投げ込むと、それが最後には大地となり、その上に天上の者が下り、ついで人間が現れるという筋の神話の型である。
なお、松本はポリネシアと日本神話を比較する上で琉球の神話も重要視し、琉球の古神話がイザナギ・イザナミ神話の一異体であり、日本神話が琉球を通して遠く南方の創造型神話と関連を持っているとした[41]。松本による日本神話と汎太平洋神話との比較は日本の比較民族学上の定説になっている[42]。
また、岡正雄による日本の宇宙開闢神話の研究は日本神話の系譜に関する歴史民族学的な研究を活発化し、その後大林太良によって具体的に展開された[42]。大林によれば、開闢神話以外のオオゲツヒメ・モチーフや海幸彦・山幸彦モチーフも南西諸島の神話に存している[43]。
その他、以下の事例がこれまでに指摘されている。
- アレキサンダー大王の説話と神武天皇の遠征の類似。
- イザナギとイザナミは兄妹であるが、人類の始祖たる男女が兄妹であったとする神話は南アジアからポリネシアにかけて広くみられる。
- イザナミは「最初の死人」となり「死の国を支配する神」となったが、「最初の死人」が「死の国を支配する神」となる話は古代エジプトのオシリスやインドのヤマなどにみられる。
- イザナギが黄泉の国から帰ってきたときに筑紫の日向にて行った禊のときに左目を洗うとアマテラス(太陽)が、右目を洗うとツクヨミ(月)が誕生したという話の類似例としては、中国神話において創造神たる盤古の死体のうち左目が太陽に、右目が月に化生したとされる話が見られる[44]。
- 因幡の白兎が海を渡るのにワニ(サメ)を騙して利用する話があるが、動物が違えど似た内容の昔話が南方の島にある。
- アポロンのカラスと八咫烏、中国の金烏は、いずれも太陽神の使い、元は白い、星図によっては烏座が3本足のものもあるなど類似。
脚注
参考文献
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite encyclopedia
- 藤田ミツ『かみさまのおはなし』(数学研究社、1966年、全三巻)(赤橋幼稚園)湊かなえが1番古い読書体験と紹介
- 大林太良『神話学入門』(中公新書、1966年)
- 同『神話の系譜 日本神話の源流をさぐる』(青土社、1986年)(のち講談社学術文庫)
- 高木敏雄『日本神話伝説の研究』(平凡社東洋文庫、全二巻)
- テンプレート:Cite book
- 古川のり子・吉田敦彦共著『日本の神話伝説』青土社 (1996年)
- 松本信廣『日本神話の研究』(平凡社東洋文庫180、昭和46年)
- 吉田敦彦『ギリシァ神話と日本神話 比較神話学の試み』みすず書房 (1974)
- -同 『日本神話と印欧神話』弘文堂 (1974)
- - 同『日本神話の源流』講談社現代新書 (1976)、講談社学術文庫(2007)
- - 同『ヤマトタケルと大国主 比較神話学の試み3』みすず書房 (1979.1)
関連項目
テンプレート:日本神話- ↑ 井上順孝 『神道』 54頁。
- ↑ 2.0 2.1 上田正昭 『世界大百科事典』23巻、411頁。
- ↑ 上田正昭 『世界大百科事典』23巻、411-412頁。
- ↑ 4.0 4.1 4.2 4.3 義江彰夫 『神仏習合』(岩波書店 1996年)
- ↑ 5.0 5.1 井上順孝 『神道』 56頁。
- ↑ 戸部民夫 『日本神話』 12-16頁。
- ↑ 井上順孝 『神道』 60-61頁。
- ↑ 戸部民夫 『日本神話』 16-42頁。
- ↑ 戸部民夫 『日本神話』 44-49頁。
- ↑ 井上順孝 『神道』 62頁。
- ↑ 井上順孝 『神道』 64頁。
- ↑ 戸部民夫 『日本神話』 52-59頁。
- ↑ 井上順孝 『神道』 66頁。
- ↑ 戸部民夫 『日本神話』 64-70頁。
- ↑ 戸部民夫 『日本神話』 71・95頁。
- ↑ 戸部民夫 『日本神話』 110-120頁。
- ↑ 井上順孝 『神道』 72頁。
- ↑ 戸部民夫 『日本神話』 128・131-132頁。
- ↑ 戸部民夫 『日本神話』 138・150頁。
- ↑ 井上順孝 『神道』 77頁。
- ↑ 21.0 21.1 井上順孝 『神道』 76頁。
- ↑ 戸部民夫 『日本神話』 161-189頁。
- ↑ 井上順孝 『神道』 78頁。
- ↑ 戸部民夫 『日本神話』 192-209頁。
- ↑ 戸部民夫 『日本神話』 214-215頁。
- ↑ 戸部民夫 『日本神話』 215頁。
- ↑ みすず書房 (1974)
- ↑ 弘文堂 (1974)
- ↑ 講談社現代新書 (1976)、講談社学術文庫(2007)
- ↑ みすず書房 (1979.1)
- ↑ 朝日出版社 (1980.8、新装1987.6)
- ↑ 青土社 (1996年) - 古川のり子と共著
- ↑ 『ヤマトタケルと大国主 比較神話学の試み3』みすず書房 (1979.1)
- ↑ 『ヤマトタケルと大国主 比較神話学の試み3』みすず書房 (1979.1)
- ↑ 『ヤマトタケルと大国主 比較神話学の試み3』みすず書房 (1979.1)
- ↑ 「琉球の神話」は伊波普猷が明治37年(1904年)に『史学界』に発表した後、明治37年(1904年)に『古琉球』へ所載された。『古琉球』の第4版を出すに当たり昭和17年(1942年)改稿。『伊波普猷全集 第1巻』1974年に所収。
- ↑ 「記紀の神話と南西諸島の伝承 六、結論」より。「記紀の神話と南西諸島の伝承」は『日本神話』1970年に所収。
- ↑ 「日本神話と琉球神話」『日本神話と琉球』1977年。
- ↑ 「琉球の宗教儀礼と日本神話」『日本神話と琉球』1977年。
- ↑ Roland B. Dixon
- ↑ 『日本神話の研究』の「我が国天地開闢神話にたいする一管見」より。『日本神話の研究』1971年
- ↑ 42.0 42.1 伊藤幹治「日本神話と琉球神話」講座日本の神話編集部 『日本神話と琉球』 有精堂〈講座日本の神話〉、1977年所収。
- ↑ 「記紀の神話と南西諸島の伝承 六、結論」より。「記紀の神話と南西諸島の伝承」は『日本神話』1970年に所収。
- ↑ 大林太良「神話学入門」中公新書