四天王寺
四天王寺(してんのうじ)は、大阪市天王寺区四天王寺にある寺院。聖徳太子建立七大寺の一つとされている。山号は荒陵山(あらはかさん)、本尊は救世観音菩薩(くせかんのんぼさつ)である。「金光明四天王大護国寺」(こんこうみょうしてんのうだいごこくのてら)ともいう。
『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されたという。当寺周辺の区名、駅名などに使われている「天王寺」は四天王寺の略称である。また、荒陵寺(あらはかでら)・難波大寺(なにわだいじ)・御津寺(みとでら)・堀江寺(ほりえでら)などの別称が伝えられている[1]。
宗派は天台宗に属していた時期もあったが、元来は特定宗派に偏しない八宗兼学の寺であった[2]。日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、1946年に和宗総本山として独立している。
目次
歴史
『日本書紀』に見る創建の経緯
四天王寺は蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)と並び日本における本格的な仏教寺院としては最古のものである。[3]
四天王寺の草創については『日本書紀』に次のように記されている。
用明天皇2年(587年)、かねてより対立していた崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の間に武力闘争が発生した。蘇我軍は物部氏の本拠地であった河内国渋河(大阪府東大阪市布施)へ攻め込んだが、敵の物部守屋は稲城(いなき、稲を積んだ砦)を築き、自らは朴(えのき)の上から矢を放って防戦するので、蘇我軍は三たび退却した。聖徳太子こと厩戸皇子(当時14歳)は蘇我氏の軍の後方にいたが、この戦況を見て、白膠木(ぬるで)という木を伐って、四天王の形を作り、「もしこの戦に勝利したなら、必ずや四天王を安置する寺塔(てら)を建てる」という誓願をした。その甲斐あって、味方の矢が敵の物部守屋に命中し、彼は「えのき」の木から落ち、戦いは崇仏派の蘇我氏の勝利に終わった。その6年後、推古天皇元年(593年)、聖徳太子は摂津難波の荒陵(あらはか)で四天王寺の建立に取りかかった。寺の基盤を支えるためには、物部氏から没収した奴婢と土地が用いられたという(なお、蘇我馬子の法興寺は上記の戦いの翌年から造営が始まっており、四天王寺の造営開始はそれから数年後であった)。
以上が『書紀』の記載のあらましである。聖徳太子の草創を伝える寺は近畿地方一円に多数あるが、実際に太子が創建に関わったと考えられるのは四天王寺と法隆寺のみで、その他は「太子ゆかりの寺」とするのが妥当である。
四天王寺の伽藍配置は中門、塔、金堂、講堂を南から北へ一直線に配置する「四天王寺式伽藍配置」であり、法隆寺西院伽藍(7世紀の焼失後、8世紀初め頃の再建とするのが定説)の前身である「若草伽藍」の伽藍配置もまた四天王寺式であったことはよく知られる。
創建に関わる異説
当初の四天王寺は現在地ではなく、摂津の玉造(大阪城公園の東南角、JR森ノ宮駅前)の岸辺にあり、593年から現在地で本格的な伽藍造立が始まったという解釈もある(森之宮神社の社伝では、隣接する森之宮公園の位置に「元四天王寺」があったとしている)。 また建立の動機も、丁未の乱で敗死した物部守屋とその一族の霊を鎮めるため、とりあえず守屋の最後の拠点の玉造の難波邸宅跡(元大阪樟蔭女子大教授今井啓一は鵲杜宮が難波の守屋の宅跡と推測する[4] )に御堂を営んだ六年後、荒陵の地に本格的な伽藍建築が造営されたのだとされる。また、現四天王寺には守屋祠(聖徳太子の月命日22日に公開。物部守屋、弓削小連、中臣勝海を祀る)があり、寺の伝説には守屋が四天王寺をキツツキになって荒らしまわり、それを聖徳太子が白鷹となって退治したとの縁起がのこっており[5] 守屋らの社を見下ろす伽藍の欄干に太子の鷹の止まり木が設置されているなどから、御陵社の意味合いを推察する向きもある。
なお、山号の「荒陵山」から、かつてこの近くに大規模な古墳があり、四天王寺を造営する際それを壊したのではないかという説もある。四天王寺の庭園の石橋には古墳の石棺が利用されていることはその傍証とされている。例えば、大阪にある帝塚山古墳は、「大帝塚山」「小帝塚山」地元で称されているものがあり、現在一般的に帝塚山古墳と呼ばれているのは「大帝塚山」である。その大帝塚山は、別名荒陵とも呼ばれていた。なお、小帝塚山は、住吉中学の敷地内にあったと言われている。また、東高津宮は、仁徳天皇の皇居であるとする明治31年(1898年)の大阪府の調査報告などがあることから、歴代天皇のいずれかの皇居であったのではないかという説もある。
なお、20世紀末から「日本仏教興隆の祖としての『聖徳太子』は虚構であった」とする言説が盛んになり、『書紀』の記述に疑問を呈する向きもある。[6] また、上記の『書紀』批判の記述とは別に、四天王寺は渡来系氏族の難波吉士(なにわのきし)氏の氏寺ではないかとの説もある[7]。
四天王寺七宮
四天王寺七宮(してんのうじしちみや)は、聖徳太子が四天王寺を創建した際に、その守護として近辺に造営された神社群である。 小儀神社(四天王寺東門前)土塔神社(同南門前)河堀稲生神社(天王寺区大道)久保神社(同勝山)大江神社(同夕陽丘町)堀越神社(同茶臼山町)上之宮神社(同上之宮町) 今宮戎神社(浪速区恵美須西)
四箇院
伝承によれば、聖徳太子は四天王寺に「四箇院」(しかいん)を設置したという。四箇院とは、敬田院、施薬院、療病院、悲田院の4つである。敬田院は寺院そのものであり、施薬院と療病院は現代の薬草園及び薬局・病院に近く、悲田院は病者や身寄りのない老人などのための今日でいう社会福祉施設である。施薬院、療病院、悲田院は少なくとも鎌倉時代には実際に寺内に存在していたことが知られる。 施薬院は、後に聖徳太子が勝鬘経を講じた地だとする伝承があり、勝鬘院(愛染堂)が故地と伝えられている。
平安時代以降
法隆寺が飛鳥・奈良時代にさかのぼる建築や美術工芸品を多数残すのに対し、四天王寺はたび重なる災害のため、古い建物はことごとく失われている。早くも平安時代の承和2年(836年)には落雷で、天徳4年(960年)には火災で主要伽藍が失われている。
聖徳太子は日本仏教の祖として、宗派や時代を問わず広く信仰されてきた。太子の創建にかかる四天王寺は、平安時代以降、太子信仰のメッカとなった。また、四天王寺の西門が西方極楽浄土の東門(入口)であるという信仰から、浄土信仰の寺としての性格も加えていった。太陽の沈む「西」は死者のおもむく先、すなわち極楽浄土のある方角と信じられ、四天王寺の西門は西方の海に沈む夕陽を拝する聖地として、多くの信者を集めた。現在も寺に伝わり国宝に指定されている「四天王寺縁起」は、こうした信仰を広めるのに大いに力があった。「四天王寺縁起」は伝承では聖徳太子の自筆とされ、寛弘4年(1007年)、金堂内で発見されたとするが、実際には後世の仮託で、発見時からさほど隔たらない平安時代中期の書写とするのが通説である。既述の「四箇院」のこともこの「縁起」に見えるものである。
院政期の上皇や法皇は四天王寺にしばしば参詣した。後醍醐天皇は上述の「四天王寺縁起」を自筆で筆写し、巻末に手印を捺している(これは「後醍醐天皇宸翰(しんかん)本縁起」として現存し、国宝に指定されている)。平安~鎌倉時代の新仏教の開祖である天台宗の最澄、真言宗の空海、融通念仏の良忍、浄土真宗の親鸞、時宗の一遍などが四天王寺に参篭したことも知られている。
四天王寺は近世以降もたびたび災害に見舞われた。天正4年(1576年)には石山本願寺攻めの兵火で焼失。豊臣秀吉によって再建されるが、やがて慶長19年(1614年)大坂冬の陣で焼失。この時は江戸幕府の援助で再建される。しかし、幕末の享和元年(1801年)の落雷でまたも焼失。文化9年(1812年)に再建される。
文化9年に再建された伽藍は、当時のまま近代まで残っていたが、昭和9年(1934年)の室戸台風で五重塔と中門が倒壊、金堂も大被害を受けた。五重塔は昭和14年(1939年)に再建されるが、昭和20年(1945年)の大阪大空襲で国宝の東大門他伽藍とともに焼失。現存の中心伽藍は昭和32年(1957年)から再建にかかり昭和38年(1963年)に完成したもので、鉄筋コンクリート造であるが、飛鳥建築の様式を再現したもの。
伽藍
境内中央南寄りに回廊に囲まれた中心伽藍があり、その北に六時堂(六時礼讃堂)、東に聖徳太子を祀る聖霊院(しょうりょういん)がある。境内西部の一画は四天王寺中学校・高等学校の校地となっている。境内の北側は、東方が庭園のある本坊、西方が墓地となっている。境内南端と東端の入口にはそれぞれ南大門、東大門が建つが、西の入口には門ではなく石鳥居が建ち、西大門はその鳥居をくぐった先(東)に建つ。南大門が本来の正門であるが、「極楽浄土の入口に通じる」と信じられた石鳥居からの参拝者も多い。
中心伽藍
南から北へ中門(仁王門)、五重塔、金堂、講堂を一直線に配置し、中門の左右から出た回廊が講堂の左右に達する「四天王寺式伽藍配置」を踏襲している。これらは第二次世界大戦後に再建され、1963年(昭和38年)に落慶法要が営まれた鉄筋コンクリート造建築だが、日本の飛鳥時代、高句麗、六朝などの建築様式を加味して創建当時(6世紀末)の様式に近付けようとしたものである。設計は建築史家藤島亥治郎。
- 中門 - 門の正面左右に松久朋琳・宗琳作の金剛力士(仁王)像を安置することから「仁王門」とも呼ぶ。入母屋造単層で、屋根は段差を付けて瓦を葺く「錣葺」(しころぶき)とし、棟上に鴟尾(しび)を乗せる。
- 五重塔 - 現在の塔は1959年(昭和34年)建立の八代目。
- 金堂 - 入母屋造で屋根は上下二重とする。中門、講堂と同様、錣葺とし、鴟尾を乗せる。外観は法隆寺金堂に似るが、裳階(もこし)を付さない点が異なっている。内部には中央に本尊救世観音菩薩(ぐぜかんのんぼさつ)像、向かって左に舎利塔、右に六重塔を安置し、仏壇周囲に四天王像が立つ。周囲の壁面には中村岳陵筆の「仏伝図」の壁画がある。
- 講堂 - 入母屋造単層。堂内西側を「夏堂」(げどう)、東側を「冬堂」(とうどう)と称し、それぞれ阿弥陀如来坐像(松久朋琳・宗琳作)、十一面観音立像(佐川定慶作)を本尊とする。
その他の堂宇
- 聖霊院 - 中心伽藍の東に位置する一画で、「太子殿」とも言い、聖徳太子を祀る。中心伽藍は鉄筋コンクリート造だが、この一画は木造建築である。主要な建物は前殿と奥殿である。前殿は1954年の建立で、入母屋造妻入。聖徳太子孝養像(十六歳像、秘仏)を祀る。奥殿は1979年の完成で、聖徳太子摂政像(松久朋琳・宗琳作、秘仏)を祀る。一見法隆寺夢殿に似ているが、夢殿の平面が八角形であるのに対し、この建物の平面は完全な円形である。奥殿のさらに北にある絵堂(1983年完成)には杉本健吉筆の聖徳太子絵伝壁画がある。
- 六時堂(重要文化財) - 中心伽藍の背後に位置する。入母屋造、瓦葺き。元和9年(1623年)建立。椎寺薬師堂(境内北西、大江小学校付近にあった)を移建したもの。堂内には薬師如来坐像と四天王像を安置する。堂の手前の「亀の池」の中央にある石舞台は「日本三舞台」の一つとされ国の重要文化財である(他2つは、住吉大社の石舞台、厳島神社の平舞台)。この舞台では毎年4月22日の聖霊会(聖徳太子の命日法要)の日に雅楽が終日披露される。四天王寺の雅楽は、宮中(京都)、南都(奈良)と共に三方楽所とされた「天王寺楽所」によって伝えられ、雅楽の最古の様式を持ち、現在は「雅亮会」が伝統の様式を継承している。
- 五智光院(重要文化財) - 入母屋造、瓦葺き。元和9年(1623年)、徳川秀忠による再建。元は西大門付近にあったものを明治34年(1901年)、本坊内の現位置に移築。大日如来を中心とする五智如来像を安置する。
- 本坊方丈(重要文化財) - 「湯屋方丈」とも証する。元和9年(1623年)、徳川秀忠による再建。
- 本坊庭園 - 「極楽浄土の庭」と称される。解説は別項「四天王寺本坊庭園を参照。
- 元三大師堂(重要文化財) - 寄棟造、瓦葺き。元和4年(1618年)建立。境内西北の墓域に位置する。
- 石鳥居(重要文化財) - 中心伽藍の西側、西門のさらに外に立つ。永仁2年(1294年)、それまでの木造鳥居を忍性上人が勅を奉じて石鳥居にあらためたもので、神仏習合時代の名残である。鳥居上部に掲げられた扁額には「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」と浮彫風に鋳出してあり、釈迦如来が仏法を説いている場所で、ここが極楽の入口であるとの意である。ここは西の海に沈む夕陽を拝して極楽往生を念じる聖地であった。
- 守屋祠 物部守屋大連、弓削小連、中臣勝海連を祀る。
この他、境内には重要文化財の本坊西通用門をはじめ、大黒堂、英霊堂、南・北鐘堂など多くの堂宇が点在する。
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金堂
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五重塔
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講堂
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中門(仁王門)
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西大門(極楽門)
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南門
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東大門
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南鐘堂
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北鐘堂
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西大門へ続く石鳥居
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亀の池
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中門の金剛力士
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中門の金剛力士
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東大門の金剛力士
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東大門の金剛力士
文化財
建造物
- 重要文化財(国指定)
- 四天王寺 六時堂
- 四天王寺 本坊西通用門
- 四天王寺 本坊湯屋方丈
- 四天王寺 五智光院
- 四天王寺 元三大師堂
- 四天王寺 石舞台
- 四天王寺鳥居(附 左右玉垣) - 1294年建立、嘉暦元年(1326年)の銘
※他に旧国宝建造物の東大門があったが、第二次大戦時空襲で焼失している。
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六時堂
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石舞台
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元三大師堂
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本坊西通用門
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五智光院
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湯屋方丈
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八角亭
美術工芸品
- 国宝
- 紙本著色扇面法華経冊子5帖(九十八葉) - 扇形の紙で製本した冊子に極彩色の下絵を描き、金銀の切り箔で飾った上に法華経を書写したもの。平安時代の絵画、書跡資料として貴重なもの。詳しい解説は別項「扇面法華経冊子」を参照。
- 懸守(かけまもり)7懸 - 女性が首から掛けたアクセサリーで平安時代の作品。7点現存する。
- 七星剣 - 伝世上古刀の優品。東京国立博物館に寄託。
- 丙子椒林剣 - 七星剣と同じく伝世上古刀の優品。東京国立博物館に寄託。
- 四天王寺縁起(根本本、後醍醐天皇宸翰本) - 説明は本記事の「歴史」の項参照。
- 金銅威奈大村骨蔵器 - 京都国立博物館に寄託。
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扇面法華経冊子
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扇面法華経冊子 巻一
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扇面法華経冊子 巻七
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懸守
- 重要文化財(国指定)
- 絹本著色聖徳太子絵伝 6幅(附 紙本墨書元亨三年旧裏書(6通)1巻)
- 絹本著色両界曼荼羅図
- 板絵著色聖徳太子絵伝 6面 伝狩野山楽筆(旧絵堂壁画)(附 板絵著色同絵伝 11面)
- 金銅観世音菩薩半跏像
- 銀製鍍金光背(舟後光)
- 千手観音及二天箱仏
- 舞楽面 2面(納曾利、陵王)
- 木造阿弥陀如来及両脇侍像
- 木造阿弥陀如来坐像 - 和歌山県有田郡広川町の明王院旧蔵。
- 木造毘沙門天立像 - 高知県香美郡香我美町(現香南市)の恵日寺旧蔵。
- 木造薬師如来坐像 - 和歌山県有田郡広川町の明王院旧蔵。
- 四天王寺舞楽 所用具(明細は後出)
- 漆皮箱(附 茜染綾)
- 舎利塔(附 金銅容器)
- 銅鏡 花鳥文様あり
- 鳴鏑矢
- 細字法華経(一部)1巻・塵地蒔絵経箱
- 十七条憲法
- 日本書紀神代上巻断簡(紙背性霊集)2葉
- 摂津四天王寺境内出土瓦(鐙瓦135箇、宇瓦130箇、牡瓦8箇、牝瓦9箇、鬼瓦6箇分、雁振瓦1箇、鳥衾1箇)
- 摂津四天王寺講堂阯出土品(鴟尾1箇、蓮華文鴟尾残欠1箇分、蓮華文鐙瓦2箇、牡瓦・牝瓦各2箇、刻画牡瓦残欠1箇分、金銅風鐸(鉄金具共)1口、和同開珎1枚、二彩陶器残片6箇、附:鬼瓦1箇)
- 重要無形民俗文化財(国指定)
- 聖霊会の舞楽 - 四天王寺聖霊会の舞楽は、天王寺楽所の舞楽の伝統をひき、日本最古の様式を伝えるとされる。天王寺楽所は、宮中楽所(京都)、南都楽所(奈良)と共に三方楽所と呼ばれた。
- 史跡(国指定)
- 四天王寺旧境内
- 四天王寺舞楽 所用具
- 鼉太鼓及び台 2基
- 鉦鼓及び台 1基 慶長四暦、豊臣秀頼の奉納銘がある
- 舞楽装束類
- 蘭陵王 裲襠1領、袴1腰、金帯1条
- 賀殿 兜4頭
- 迦陵頻 羽根4枚、天冠4頭
- 陪臚 袍4領、裲襠4領、袴4腰
- 採桑老 袍1領
- 散手破陣楽 袍1領、裲襠1領、袴1腰、兜1頭
- 太平楽 袍3領、切平緒4条、兜4頭、挂甲4領、帯喰4口、肩喰4口、籠手4双、臑当4双、頸当4枚、石帯4条、魚帯4佩、糸鞋4足、胡籙4腰、餝太刀4口
- 打毬楽 裲襠4領、袴4腰
- 抜頭 裲襠1領、袴1腰、金帯1条
- 納蘇利 袍2領、裲襠2領、袴2腰、銀帯2条
- 胡蝶 羽根4枚
- 貴徳 袍2領
- 狛桙 袍4領、裲襠4領、袴4腰、当帯4条
- 崑崙八仙 袍4領、兜4頭
- 林歌 袍2領、袴2腰、兜4頭
- 地久 兜4頭
- 童舞、納蘇利 裲襠1領、袴1腰、下襲3領、半臂6領
- 童舞、蛮絵 下襲1領
- 蛮絵 袍14領、表袴5腰
- 平舞 袍7領、下襲16領、半臂21領
- 獅子 胴覆2枚、子袴2腰
- 石帯31条、鳥兜11頭、踏掛23枚、幕3枚
- 附:蘇合香 兜4頭
- 附:万秋楽 兜4頭
- 附:胡蝶 天冠4頭
- 附:平舞 前掛8枚、裾8枚
- 附:糸鞋 (大)3足、(小)1足
行事
彼岸香
四天王寺境内亀井水の白石玉手の霊水で練り上げ精製された線香。登録商標。
札所
- 新西国三十三箇所観音霊場第1番
- 西国三十三観音霊場番外札所
- 四国八十八箇所番外札所
- 近畿三十六不動尊霊場第1番(亀井不動)
- 摂津国八十八箇所第25番
- 摂津国三十三ヶ所霊場第33番
- 西国薬師四十九霊場第16番(六時堂)
- 聖徳太子霊跡第1番
- 法然上人二十五霊跡第6番(阿弥陀堂)
- おおさか十三佛霊場第4番
- 大阪七福神霊場(布袋尊)
- 河内飛鳥霊場第1番
- 西山国師十六霊場客番札所
- なにわ七幸めぐり第七の幸
- 大坂三十三所めぐり第20番(六時堂)
- 大坂三十三所めぐり第21番(経堂)
- 大坂三十三所めぐり第22番(金堂)
- 大坂三十三所めぐり第23番(講堂)
- 大坂三十三所めぐり第24番(万燈院)
交通
周辺情報
脚注
参考文献
- 井上靖、佐和隆研監修、宮本輝、出口常順著『古寺巡礼西国3 四天王寺』、淡交社、1981
- 『週刊朝日百科 日本の国宝』33号(住吉大社・四天王寺・大念仏寺)、朝日新聞社、1997
- 『日本歴史地名大系 大阪府の地名』、平凡社
- 『角川日本地名大辞典 大阪府』、角川書店
- 『国史大辞典』、吉川弘文館
- 『小学館ウイークリーブック 週刊古寺を巡る 25 四天王寺』、小学館、2007
関連項目
- 四天王
- 日想観(じっそうかん)
- 金剛組 - 四天王寺の建立を手がけた、現存する世界最古の企業。
- 日本の寺院一覧
- 日本の寺の画像一覧
- 四天王寺七宮
- 愛染まつり
- 長谷川輝雄 - 「四天王寺建築論」(1925年)を著した建築史家。それまで江戸時代の再建、として顧みられなかった四天王寺の実測調査を行い、創建時の伽藍配置を考察した。
- 四天王寺宝塔壁画 (堂本印象) - 日本画家の堂本印象によって五重塔内部に描かれた壁画。1945年に焼失した。
- 四天王寺ワッソ
- 天王寺詣り―春の彼岸の四天王寺をスケッチした上方落語の演目
外部リンク
- 田村圓澄『飛鳥・白鳳仏教史(上)』、吉川弘文館、1994年、pp238 - 246