李承ヨプ (野球)
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テンプレート:MedalTop テンプレート:MedalSport テンプレート:MedalGold テンプレート:MedalBronze テンプレート:MedalBottom 李 承燁(イ・スンヨプ、1976年8月18日 - )は、大韓民国の大邱広域市出身のプロ野球選手(内野手、外野手)。左投げ左打ち。韓国プロ野球の三星ライオンズに所属している。日本の球団にも所属していた。
日本での愛称は「スンちゃん」など。
目次
概説
韓国球界を代表する国民的打者であり、韓国メディアからは「野球に関しては神の域に到達した」などとすら言われることがある[1]。韓国プロ野球において在籍9年間で通算324本塁打を記録し(韓国プロ野球で通算300本塁打以上は梁埈赫、張鍾勲、沈正洙を含む4人)、MVP5回・本塁打王5回・打点王4回を獲得。2004年から2011年まで、三星ライオンズ時代につけていた背番号36は同球団の永久欠番扱いだった。国際大会では約10年間に渡り、韓国代表の主軸打者として活躍した。韓国野球を世界屈指の強豪に押し上げた立役者とされ、その土壇場での一振りで試合を決める威力と勝負強さから、韓国マスコミからは「解決者」と表現されている[2]。2012年から三星に復帰し、2013年、韓国プロ野球新記録となる通算352本塁打を達成した。
愛称は韓国では「アジアの大砲」「国民的打者」「球帝」「ライオン・キング(人物の項参照)」「56発男」、日本プロ野球移籍以降は「スンちゃん」「スン様(ペ・ヨンジュンになぞらえて)」。
「ヨプ」の文字が表記出来ない環境があるため、ネット上の記事などでは「李承ヨプ(ヨプは火へんに華〈火華〉」などと記載されることが多い。また、NHKでの中継では漢字表記でなく「イ・スンヨプ」とカタカナで表記されている。
経歴
三星ライオンズ時代
韓国・大邱広域市出身、1995年に慶北高等学校卒業後、三星ライオンズに投手として入団したが、高校時代に傷めた左肘が完治せず、白仁天の勧めで打者に転向し、王貞治を真似た一本足打法にフォームを改造。
テンプレート:Byに初の本塁打王、テンプレート:Byにシーズン54本塁打の韓国記録をマークし、日韓プロ野球スーパーゲームにも出場。また、シドニーオリンピック予選を兼ねたアジア野球選手権にも出場し、日本戦で本塁打を放った。この年から「ライオンキング」や「国民的打者」の愛称が定着し始めた。
テンプレート:Byにはシドニーオリンピック野球韓国代表として出場。3位決定戦の対日本戦で松坂大輔から決勝タイムリーを放ち、五輪での韓国代表初のメダル獲得に貢献した。予選リーグの日本戦では松坂から本塁打を記録している[3]。
テンプレート:By、6月22日の対SKワイバーンズ(大邱市民運動場野球場)戦において、8回裏に金圓衡から通算300号本塁打を放つ。26歳10か月での到達は日本プロ野球の王貞治(27歳3カ月)やメジャーリーグのアレックス・ロドリゲス(27歳8カ月)を抜く世界最年少記録とされる、なおこの試合では同点で迎えた9回裏二死満塁の場面に打席が回り、自身初となるサヨナラ満塁本塁打を放っている[4]。序盤から本塁打を量産し、56本塁打を放った。56本目の本塁打は「2億ウォンの価値がある」とされた[5]ほか、「(ファンが55号を虫取り網で取ったことから)本拠地の大邱市民運動場野球場では虫取り網が飛ぶように売れる」「李が敬遠されるとグラウンドにゴミが投げ入れられる」など熱狂が拡がった[6]。しかし、55号を放ってから最終戦になるまで本塁打が出ず、李も「(56本は)難しいかもしれない」と弱音を吐いていたが、最終戦に56号本塁打を放った。このボールは満員のスタンドに入らず、当時設置されていたラッキーゾーンに落ち、そこで記念イベントの準備をしていた関係者に拾われて球団に寄贈された[7]。アテネオリンピック野球予選を兼ねたアジア選手権大会では来日して日本戦で4打数1安打を記録している。なお、このとき韓国代表は台湾に敗れて予選敗退に終わっている[8]。
メジャー移籍断念と来日
2003年にFA権を取得。メジャーリーグ志向を明らかにしていたため、韓国マスコミではメジャーに移籍すること自体は前提となっており、どこに入団するかが語られていたほどで[9]、本人も「希望はDHのあるア・リーグ」「松井秀喜を2年以内にあらゆる面で越えてみせる」とインタビューで語り[10]、さらにシーズン後の松井稼頭央とのテレビ対談などでも「私はすでにメジャー級」と自信のほどを語っていた。しかし、40人ロースターを確約することとなるメジャー契約を希望する球団が現れず、わずかにロサンゼルス・ドジャースがマイナー契約を提示したに過ぎなかった[11]。これは韓国球界そのものへの評価の低さ[12]や、李の所属していた三星の本拠地である大邱市民運動場野球場は、韓国でも指折りの狭さの上に、前述の56号本塁打を放った2006年までラッキーゾーンが存在していたことなどからの個人記録に対する認識、メジャーリーグが外部に求める人材(一塁しか守れないため、起用法が限定される選手をリスクを犯してまで獲得しない)も影響していると見られている。
李は「最悪の場合は日本で1年間プレーすることを考えている」とメジャー球団から好条件のオファーがない場合でもメジャーを目指すため、韓国を離れて日本移籍も示唆。結局、アメリカ移籍を断念し、日本の千葉ロッテマリーンズと契約した。背番号は36。李はロッテの入団会見で日本球界を選んだことについて「2年間在籍すれば無条件でメジャーリーグ行きをバックアップするという条件に心がひかれた」と語った。韓国では活躍への期待が大きかったものの、日本の評論家は多くが「パワーはあるものの、それ以上でもそれ以下でもない打者」と評するなど冷ややかな見方が多かった。
ロッテ時代
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- 復帰間もないボビー・バレンタインのもと、開幕を4番で迎える。開幕戦である対西武ライオンズ戦(西武ドーム)で、松坂大輔から初打席初安打初打点を放つなど好調だったものの、縦の変化球に対応できない弱点が露呈。インコース高めで身体を起こされ、外への変化球で空振りするというパターンが確立され、日本野球への適応に苦戦。開幕からわずか1か月で韓国では経験したことのない降格となり、調整を余儀なくされた。9月21日の西武戦(西武ドーム)ではベニー・アグバヤニ、マット・フランコと共に張誌家から史上初となる外国人3者連続本塁打を放った。結局、シーズンは来日前に目標としていた「打率.290、30本塁打、100打点」[13]には遠く届かず、規定打席も満たせずに打率.240・本塁打14・打点50という期待外れの成績に終わった。
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- オープン戦において打率.050の大不振のまま開幕2軍スタート。しかし、昇格と同時にロッテの下位打線に定着し、このシーズンは打率.260・本塁打30・打点82とプレーオフ進出に貢献。プレーオフは7試合で16打数3安打と鳴りを潜めたが、日本シリーズ(対阪神タイガース戦)では井川慶から本塁打を放った。第3戦ではスタメンを外れたものの、第4戦は先制本塁打を放つなどシリーズ計3本塁打を放って日本一に貢献し、優秀選手賞を受賞した(MVPは今江敏晃)。続くアジアシリーズでは古巣・サムスンとの対決となり、第1戦では5番、決勝戦では3番と主軸を任されたものの、2戦で無安打に終わった。「シーズンを通じて調子の波が大きい」「左投手に弱い」との理由で、相手先発が左投手のときはスタメンを外されるなど、ロッテ時代は最後まで固定レギュラーを任せられなかった。守備位置も、李は本来一塁手だが、ロッテの一塁には福浦和也がおり、DHや左翼手でも出場するなど守備機会は安定しなかった。ロッテに残留との合意報道も出ていたが、ロッテでの起用法に不満があったため、自由契約となる。
巨人時代
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- 1月19日に読売ジャイアンツへの入団が発表された。単年契約を結び、背番号は33。第1回WBC韓国代表に選出され、一次リーグの日本戦では石井弘寿から逆転2点本塁打、二次リーグのメキシコ戦、アメリカ戦でも先制本塁打を放つなど、4試合連発を含む大会最多の5本塁打・10打点を記録する大活躍で韓国代表を4強に導き、記者投票による優秀選手(ベストナイン)に一塁手として選出された。レギュラーシーズンではWBCでの活躍や、高橋由伸・小久保裕紀などの主軸が毎年のように故障していたこともあり、原辰徳は李を開幕から4番打者として起用。その開幕戦(横浜ベイスターズ戦)で加藤武治から巨人移籍後初ホームランを放った。6月11日のロッテ戦(千葉マリン)では渡辺俊介から勝ち越し2点本塁打を放ったが、走者の小関竜也が三塁を空過したため、この打席の記録は単打として記録された。8月1日には日韓通算400本塁打を達成、故障者続出の中でフル出場を続け、打率.323・本塁打41・打点108と来日以降最高の成績をマークした。前年まで苦しんでいた左投手に対してもこの年は打率.338をマークするなど、完全克服を印象付ける。シーズン終了後に再びメジャー移籍を目指すと思われたが終盤に膝を痛め、オフシーズンに内視鏡手術を受け、オフをリハビリに費やした。巨人の熱心な説得もあり、2007年から4年総額30億円(推定年俸6億5千万円)と朝鮮日報が報じたが[14]、ロイターは年俸2億2千万円と報じた。[15]
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- この年から背番号を25に変える。前年に手術した左膝のほかに左肩や左手親指にも炎症を起こすなど故障が多く、2軍降格や7番打者での出場も経験するなど苦しいシーズンとなった。7月には日本通算100本塁打を達成したことを記念して、起亜自動車からニューオピラスが贈呈された[16]。終盤に4番に復帰したものの成績は打率.274・本塁打30・打点74に終わる。クライマックスシリーズ第2ステージでは、3試合で3安打を放つも0打点だった。
- この年、メジャーからの誘いが依然として無いことと、成績不振、左手親指付け根の手術を理由に翌年のメジャー挑戦を諦めることを決意したとされている[17]。また、この手術(10月に実施)を理由に北京オリンピック野球アジア地区予選韓国代表入りを辞退した。
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- 手術明けであったが、宮崎春季キャンプを2月半ばで早々に切り上げ、3月からの北京オリンピック野球世界最終予選に韓国代表として出場し、打率.478・本塁打2・打点12という成績で韓国代表を2大会ぶりの本戦出場に導いた[18]。しかし、その余波でオープン戦には2試合しか出場できず、調整の遅れが生じて開幕から14試合で打率.135・本塁打0・打点2と低迷し、4月14日には早々に降格した。北京オリンピック派遣直前の7月25日に再昇格したものの成績は振るわず、打率.141のまま北京オリンピックに参加した。北京オリンピック野球韓国代表として出場したが、シーズンの不調を引きずった形で打率1割台となり、予選最終戦ではスタメンを外されるほどの不振に陥った。しかし、準決勝の日本戦では勝ち越し本塁打[15]、決勝のキューバ戦でも先制本塁打を放ち、韓国野球初の金メダル獲得に貢献した。チームに復帰後は8月28日に昇格したが、エイドリアン・バーンサイドの登板予定があるほか、外国人枠(ほか3人はアレックス・ラミレス、マーク・クルーン、セス・グライシンガー)の関係で9月4日に再降格。9月14日に再昇格してからは復調して最終戦まで5番で起用された。
- 阪神との最大13ゲーム差を逆転してのリーグ連覇(メークレジェンド)に貢献し、クライマックスシリーズでは16打数・4安打・2本塁打・4打点の活躍を見せた。しかし、日本シリーズでは18打数・2安打・12三振の大不振に陥り、チームも日本一を逃した。12三振はジャック・ハウエルが1992年に記録した16三振に次ぐ記録で、巨人選手としてはチーム新記録であった。その後、来日以来最低の成績に終わった今季を「野球人生で最悪の1年だった」と振り返り、翌年に集中するとして2009 ワールド・ベースボール・クラシック韓国代表を辞退することを表明した[19]。
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- WBC出場を辞退。体調を整え、オープン戦では打率.302・本塁打8本・17打点と好調を維持したが、開幕と同時に絶不調となり、エドガルド・アルフォンゾとの併用で右投手登板時を中心に出場となった。16本塁打を記録するもチャンスに結果が残せず、打率.300を超える時期があったものの無安打が続き、打率を大幅に落としたほか、一塁守備もミスが目立ったため、昇格と降格を繰り返す、さらに腰痛も発症して抹消され、そのままシーズンを終えた。しかし、日本シリーズでは好調で適時打や本塁打を放つなどして巨人の優勝に貢献し、更に日韓クラブチャンピオンシップでも活躍して巨人の日韓クラブチャンピオンシップ制覇に貢献した。一軍成績は出場77試合、打率.229・本塁打16本・打点36点。前年と同様、不振の続いたシーズンとなった。
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- 開幕一軍入りを果たしたがスタメン起用は少なく打撃はたまに1発が出る程度の寂しいもので一軍成績は出場56試合、打率.163・本塁打5本・打点11点と自己最低の成績に終わった。これについて「渡邉恒雄が巨額の複数年契約に見合う成績を李が残さなかったことを遠まわしに批判したような内容のコメントを発した」という一部報道もあった[20]。
- 11月16日、巨人は翌年の契約を結ばないと通告。李本人は「このままでは地元に帰れない。日本のチームで現役を続けたい」と公言し、オリックスと契約した。天地日報とのインタビューで「私を捨てた読売は後悔するだろう」とコメントした[21]。
オリックス時代
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- 2010年12月2日、1年推定年俸1億5000万円プラス出来高払いの契約でオリックス・バファローズに移籍。背番号は3に決まった。2005年まで在籍していたロッテ以来、6年ぶりのパシフィック・リーグ復帰となった。中軸として期待され、開幕第2戦では移籍後初本塁打となる3ランを京セラドーム大阪の上段席に運ぶ活躍を見せたが、春先から三振が目立つなどの極度の不振に喘ぎ、5月8日に一旦登録抹消。5月22日に再登録され、その日の古巣・巨人戦で4番スタメンで先発出場。7月9日の西武戦では、日本通算150本塁打を記録した。9月16日のロッテ戦(QVCマリンフィールド)では前夜にユニフォームの入った荷物を提出し忘れて試合までにユニフォームが届かなかったため、鴨志田貴司のユニフォームを着て試合出場する珍事があった[22]。この年は主に6番でスタメン起用されたが、打率は伸び悩み、打撃成績は122試合で打率.201、15本塁打、51打点にとどまった。得点圏打率は.265を記録し、8月14日の西武戦では10回裏に牧田和久から自身5年ぶりのサヨナラ2ラン本塁打を放つ等、随所では勝負強さも披露したが、この年限りで退団したい旨を球団に申し出て受理された[23]。
韓国プロ野球復帰
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- 2011年12月5日、古巣の三星ライオンズと契約期間1年、契約金3億ウォン、年俸8億ウォンで契約した。背番号は永久欠番だった「36」に決定。シーズン56本塁打を記録した2003年以来、9年ぶりの韓国プロ野球、三星復帰となった。
- 4月7日、本拠地・大邱での開幕戦に3番指名打者で先発出場。4月15日のネクセン戦で、三星復帰後の初本塁打を記録した。5月8日のロッテ戦で日韓通算2000本安打を、更に7月29日のネクセン戦で日韓通算500本塁打を達成した。同年は3割21本塁打を記録し、韓国シリーズMVP(最優秀選手)に選ばれ優勝に貢献した。また、キャリア2番目の多さとなる7盗塁を記録している。
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- 第3回WBC韓国代表に選ばれ、北京オリンピック大会以来およそ4年半ぶりに代表復帰した。1戦目では代打だったが、2戦目と3戦目では3番でスタメン出場して3試合で計10打数4安打と活躍したが、チームは初戦の対オランダ戦の大敗が響いて第1ラウンドで敗退した。6月15日、NCダイノス戦で梁埈赫の保持する韓国プロ野球通算本塁打数記録に並ぶ351本目の本塁打、6月20日、文鶴野球場でのSKワイバーンズ戦で新記録となる352本目の本塁打を尹喜相から打った。
プレースタイル
大きな弧を描く本塁打を放つ技術を持つ他[24]、ライト方向、レフト方向へと広角に打てる技術を持ち味とする。一方で、選球眼とコンタクトツール、打席内でのバッティングアプローチに難があり、中軸打者としては四球が少なく三振が多い。敬遠も少なく、巨人時代は小笠原やラミレスら前打者を敬遠され、李との勝負を選ばれることもあった。チャンス時に犠牲フライや内野ゴロで打点を稼ぐ器用さに欠ける。だが、韓国では本塁打王を何回も取ったことがあり、韓国・日本プロ野球の通算では現在504本の本塁打を放っている。
2005年まで左投手を苦手としていたが、2006年に対左打率.338を記録して以降は対右打率.280に対して対左打率.285と左右の違いを苦にしなくなった。コース別では外角を得意とするが[25]、内角と落ちる球に弱く[26][27]、不調の時にはストライク判定される球すら腰を引いて逃げてしまうことも多い。
一塁到達まで4.51秒と走塁能力は高くはないが[28]、併殺打は少なく、不振時にはセーフティバントも試みる。
一塁守備ではセ・リーグの一塁手での連続無失策記録1225を保持しているなど失策は少ないが、悪送球を止めようとしないという悪癖や、ボールに触れない後逸(そのためエラーは記録されない)などの怠惰ともいえる面もある。反面、守備範囲内に飛ぶ速いライナー性の当たりへの反応はよく、たまに巨体を飛ばしてのダイビングキャッチも試み、ショートバウンドの捕球も上手い。巨人時代の同僚の阿部慎之助は、守備、特にショートバウンドの捕球は「メジャーも含めて世界一じゃないかな?」と答えている。[29] 韓国時代から外野守備の経験はなかった(学生時代は投手、プロ入り後はファースト)が、ロッテ時代には左翼も守った。
飄々としており、感情をあまり表に出さない選手であり、また、ベンチで手を組み祈る姿勢を度々見せることもあった。
人物
韓国プロ野球在籍時代のニックネームは当時の所属チームが三星ライオンズのため、映画『ライオン・キング』にちなんで「ライオンキング」。韓国のスポーツ紙の一つである「スポーツソウル」は、勝手に「スナイパー」という別名をつけて、それを推そうと事あるたびに「スナイパー」を強調したが、他紙ではあまり使用されなかった。
カツ丼が好物で、来日当初はよく食べていた。肉類が好きなため、韓国では「肉王」という渾名で呼ばれたこともあった。
非常に日本語に堪能で、流暢に話す事ができ、リスニングもほぼ完璧である。北京五輪の日本戦での勝利インタビューでも、日本のメディアに対しては日本語で答えていた。試合中はベンチで他の選手と談笑している事も多く、ズームイン!!サタデー(ズムサタ)のコーナー「プロ野球熱ケツ情報」やビールかけでのインタビューの際にも披露しているが、メディアやヒーローインタビュー等の正式な場を設けたインタビューの際は韓国語のみを使う。公の場で韓国語のみを使用する理由は「外国人選手は通訳を介してコメントする事」という球団の方針も関わっていると思われる。また、来日する以前から日本のコンピュータゲームを好んでおり、好きなタイトルにD.C. 〜ダ・カーポ〜シリーズやランブルローズ等を挙げている。
巨人に移籍後、打席に入る際のBGMは2008年まではジョーン・ジェット&ザ・ブラックハーツの『I Love Rock n'Roll』を使用していたが、2009年はユン・ドヒョンの『ママの歌』になっている。オリックスではDrunken Tigerの『Monster』を使用していた。
エピソード
慶北高校時代、韓国の4大高校野球全国大会の一つである「青龍旗大会」で優勝投手になっている。投打両方で才能を見せたため、その後プロ入りして投手として育てようとする投手コーチと打者として育てようとする打撃コーチの間で口論を呼んだ。しかし、当時監督だった白仁天は彼の打者としての才能が投手としての才能を上回ると見込んで、打者の道を進むことを勧告。その後、打者に専念させられ、ホームラン打者としての才能を開花させた過程は、奇しくも憧れだった王貞治と同じである。国際試合の際に王貞治と撮ってもらったツーショットの写真を自宅に飾っている。
2007年から代表チームでの背番号を25に変更した。三星時代の親しい後輩である裵英洙の背番号で(WBCで25番を付けたのも彼と背番号を交換したため。裵はこの大会で李の背番号だった36をつけていた)、25番は選手として目標としている選手の1人であるバリー・ボンズの番号でもある。韓国時代に36番をつけたのは、打者に定着する時、それまで韓国プロ野球で個人通算および年間最多本塁打を記録していた張鍾勲を超えろという意味で、彼の背番号である35より一つ大きい36を与えられたからである。高校時代の背番号は27であった。
リュ・シウォンと交流があり、これが縁で2007年の東京ドーム開幕戦でリュ・シウォンは始球式を務めた。
詳細情報
年度別打撃成績
テンプレート:By2 | 三星 | 121 | 411 | 365 | 55 | 104 | 29 | 1 | 13 | 174 | 73 | 0 | 3 | 2 | 7 | 33 | 1 | 4 | 54 | 4 | .285 | .345 | .477 | .821 |
テンプレート:By2 | 122 | 504 | 459 | 57 | 139 | 32 | 6 | 9 | 210 | 76 | 4 | 1 | 1 | 5 | 34 | 4 | 5 | 42 | 10 | .303 | .354 | .458 | .811 | |
テンプレート:By2 | 126 | 577 | 517 | 96 | 170 | 37 | 3 | 32 | 309 | 114 | 5 | 2 | 1 | 4 | 49 | 4 | 6 | 79 | 10 | .329 | .391 | .598 | .988 | |
テンプレート:By2 | 126 | 568 | 477 | 100 | 146 | 32 | 2 | 38 | 296 | 102 | 0 | 2 | 1 | 7 | 78 | 10 | 5 | 97 | 4 | .306 | .404 | .621 | 1.024 | |
テンプレート:By2 | 132 | 614 | 486 | テンプレート:Color | 157 | 33 | 2 | 54 | テンプレート:Color | 123 | 10 | 2 | 0 | 4 | 112 | 6 | 12 | 114 | 7 | .323 | .458 | .733 | 1.190 | |
テンプレート:By2 | 125 | 544 | 454 | 108 | 133 | 33 | 0 | 36 | 274 | 95 | 4 | 5 | 0 | 3 | 80 | 7 | 7 | 113 | 5 | .293 | .404 | .604 | 1.008 | |
テンプレート:By2 | 127 | 574 | 463 | 101 | 128 | 31 | 2 | 39 | 280 | 95 | 4 | 2 | 1 | 2 | 96 | 11 | 12 | 130 | 6 | .276 | .412 | .605 | 1.017 | |
テンプレート:By2 | 133 | 617 | 511 | 123 | 165 | 42 | 2 | 47 | 352 | 126 | 1 | 2 | 0 | 2 | 89 | 5 | 15 | 109 | 11 | .323 | .436 | .689 | 1.125 | |
テンプレート:By2 | 131 | 596 | 479 | 115 | 144 | 23 | 0 | テンプレート:Color | 335 | テンプレート:Color | 7 | 0 | 0 | 6 | 101 | 9 | 10 | 89 | 11 | .301 | .428 | .699 | 1.127 | |
テンプレート:By2 | ロッテ | 100 | 382 | 333 | 50 | 80 | 20 | 4 | 14 | 150 | 50 | 1 | 2 | 1 | 3 | 42 | 0 | 3 | 88 | 6 | .240 | .328 | .450 | .779 |
テンプレート:By2 | 117 | 445 | 408 | 64 | 106 | 25 | 2 | 30 | 225 | 82 | 5 | 4 | 0 | 3 | 33 | 3 | 1 | 79 | 9 | .260 | .315 | .551 | .866 | |
テンプレート:By2 | 巨人 | 143 | 592 | 524 | 101 | 169 | 30 | 0 | 41 | 322 | 108 | 5 | 1 | 0 | 7 | 56 | 3 | 5 | 126 | 5 | .323 | .389 | .615 | 1.003 |
テンプレート:By2 | 137 | 583 | 541 | 84 | 148 | 29 | 2 | 30 | 271 | 74 | 4 | 3 | 2 | 1 | 38 | 0 | 1 | 119 | 8 | .274 | .322 | .501 | .823 | |
テンプレート:By2 | 45 | 170 | 153 | 21 | 38 | 4 | 0 | 8 | 66 | 27 | 1 | 0 | 0 | 0 | 11 | 0 | 6 | 37 | 3 | .248 | .324 | .431 | .755 | |
テンプレート:By2 | 77 | 257 | 223 | 33 | 51 | 9 | 0 | 16 | 108 | 36 | 1 | 2 | 0 | 1 | 28 | 4 | 5 | 65 | 1 | .229 | .327 | .484 | .811 | |
テンプレート:By2 | 56 | 108 | 92 | 13 | 15 | 1 | 0 | 5 | 31 | 11 | 1 | 0 | 1 | 0 | 12 | 0 | 3 | 26 | 0 | .163 | .280 | .337 | .617 | |
テンプレート:By2 | オリックス | 122 | 432 | 394 | 28 | 79 | 20 | 0 | 15 | 144 | 51 | 0 | 0 | 0 | 6 | 32 | 1 | 0 | 121 | 8 | .201 | .257 | .365 | .622 |
テンプレート:By2 | 三星 | 126 | 556 | 488 | 84 | 150 | 28 | 2 | 21 | 245 | 85 | 7 | 0 | 1 | 4 | 59 | 4 | 4 | 101 | 10 | .307 | .384 | .502 | .886 |
テンプレート:By2 | 111 | 483 | 443 | 62 | 112 | 24 | 0 | 13 | 175 | 69 | 3 | 1 | 0 | 8 | 30 | 2 | 2 | 94 | 8 | .253 | .298 | .395 | .693 | |
KBO:11年 | 1380 | 6044 | 5142 | 1029 | 1548 | 344 | 20 | テンプレート:Color | 3006 | 1102 | 44 | 20 | 6 | 54 | 761 | 60 | 82 | 1022 | 86 | .301 | .402 | .585 | .986 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
NPB:8年 | 797 | 2969 | 2668 | 394 | 686 | 138 | 8 | 159 | 1317 | 439 | 18 | 12 | 4 | 21 | 252 | 11 | 24 | 661 | 40 | .257 | .324 | .494 | .818 |
- 2013年度シーズン終了時
- 各年度の太字はリーグ最高、テンプレート:ColorはKBOにおける歴代最高。
タイトル
- KBO
- 本塁打王:5回 (1997年、1999年、2001-2003年)
- 打点王:4回 (1997年、1999年、2002-2003年)
- 最多安打:1回 (1997年)
表彰
- KBO
- NPB
- WBC
- 第1回WBCベストナイン 一塁手部門(2006年)
記録
- NPB初記録
- 初出場・初先発出場:2004年3月27日、対西武ライオンズ1回戦(西武ドーム)、4番・指名打者として先発出場
- 初打席・初安打・初打点:同上、1回表に松坂大輔から右越先制適時二塁打
- 初本塁打:2004年4月4日、対福岡ダイエーホークス3回戦(千葉マリンスタジアム)、4回裏に新垣渚から右越2ラン
- 初盗塁:2004年5月5日、対オリックス・ブルーウェーブ8回戦(Yahoo!BBスタジアム)、2回表に二盗(投手:川越英隆、捕手:日高剛)
- NPB節目の記録
- 100本塁打:2007年7月1日、対広島東洋カープ9回戦(広島市民球場)、2回表に青木高広から右越2ラン ※史上250人目
- 150本塁打:2011年7月9日、対埼玉西武ライオンズ8回戦(西武ドーム)、6回表に涌井秀章から右越ソロ ※史上155人目
- NPBその他の記録
- オールスターゲーム出場:2回 (2005年、2006年。いずれも監督推薦)
背番号
- 36 (1995年 - 2005年、2012年 -)
- 33 (2006年)
- 25 (2007年 - 2010年)
- 3 (2011年)
脚注
関連項目
- オリンピック野球競技メダリスト一覧
- 韓国の著名人一覧
- 千葉ロッテマリーンズの選手一覧
- 読売ジャイアンツの選手一覧
- オリックス・バファローズの選手一覧
- 読売ジャイアンツ歴代4番打者一覧
- アジア・オセアニア出身の日本プロ野球外国人選手一覧#韓国
外部リンク
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テンプレート:Navboxes- ↑ http://www.chosunonline.com/article/20080301000046
- ↑ [1]テンプレート:リンク切れ
- ↑ 2000년 야구 본선 한국 vs 일본 하이라이트youtube動画
- ↑ ベースボールマガジン2012年1月号84ページ
- ↑ chosunonline.com
- ↑ chosunonline.com
- ↑ chosunonline.com
- ↑ chosunonline.com - 韓国、五輪出場ならず。
- ↑ 李スンヨプにメジャーから身分照会朝鮮日報
- ↑ 李スンヨプ「アリーグでプレーしたい」朝鮮日報
- ↑ メジャー「李スンヨプはベンチ要員」(朝鮮日報)
- ↑ 李スンヨプ、大リーグ移籍へ長期戦(朝鮮日報)
- ↑ イ・スンヨプ「今年の目標は打率2割9分に30本塁打100打点」(朝鮮日報)
- ↑ 朝鮮日報
- ↑ 15.0 15.1 巨人でプレーの李が日本に謝罪
- ↑ chosunonline.com
- ↑ メジャー封印!李スンヨプ来季残留へ
- ↑ 北京五輪野球:イ・スンヨプ「最後だけに参加したい」(朝鮮日報)
- ↑ 巨人イ・スンヨプが帰国「野球人生で最悪の1年」
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ '오릭스 이적' 이승엽 "날 버린 요미우리, 후회할 것"『NAVER NEWS』기사입력 2010-12-10 04:04
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 李スンヨプ選手 退団のお知らせ - オリックス・バファローズ 2011年10月20日
- ↑ テンプレート:Cite book
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- ↑ テンプレート:Cite book
- ↑ テンプレート:Cite book