ベニー・アグバヤニ
テンプレート:Infobox baseball player ベンジャミン・ピーター・“ベニー”・アグバヤニ(Benjamin Peter "Benny" Agbayani , 1971年12月28日 - )は、アメリカ合衆国ハワイ州ホノルル出身の元プロ野球選手(外野手)。
千葉ロッテマリーンズでの登録名はベニー。
来歴
テンプレート:ByのMLBドラフト30巡目でニューヨーク・メッツに指名され契約。
テンプレート:By8月からテンプレート:By4月にかけてMLB史上最長のストライキが実施された影響で、1995年のスプリングトレーニングにはオーナー側の命令で代替選手として参加。そのため、スト破りを行った報復措置としてメジャー昇格後も選手会への加入を認められなかった。
テンプレート:By、メジャー初昇格。
テンプレート:Byに東京ドームで行われたシカゴ・カブスとの試合では代打満塁本塁打を記録している。
テンプレート:By、千葉ロッテマリーンズに入団。開幕前の注目は韓国の主砲・李承燁に集まっていたが、3割を上回る好調な打撃を見せ、5月には不調の李から4番の座を奪う。日替わり打線の中でベニーだけはシーズン終了まで不動の4番として定着し、最終的にチーム三冠となる打率.315、35本塁打、100打点の成績を残した[1]。また守備・走塁の面でも外国人としては期待以上の動きを見せ、8月からは中堅手のレギュラーとして活躍し、チームトップの8盗塁を記録した。右投手にはあまり強くないという前評判があったが、この年は左右関係なく打ち、三振が少なく勝負強い面も見せた。
テンプレート:Byは満塁本塁打2本など活躍するが、故障が目立ち夏場に離脱。ベニーと同じく外国人で外野を守れる選手がマット・フランコ、ヴァル・パスクチ、李承燁と3人もいたこともあり、シーズン終盤はレギュラーを再獲得するまでには至らなかった。しかし、プレーオフ、日本シリーズ、アジアシリーズではほとんどの試合に6番でスタメン出場し、アジアシリーズでは9打点と活躍しMVPを獲得した。
テンプレート:Byは7月まで4番の座を守ったが、またこの年も夏場に離脱。里崎智也に4番を譲る形となった。足の故障から半分以上が指名打者としての出場だった。
テンプレート:By以降は怪我の影響もあってか、打撃成績は振るわず、また、足や守備の面でも衰えが見られるようになったが、2007年交流戦では首位打者を獲得している。
テンプレート:By9月27日の対オリックス・バファローズ戦で、2回裏に勝ち越しのソロ本塁打を打った直後の3回、早川大輔と交代。場内アナウンスで、「ベニー選手、ただ今の打席がマリーンズでの最終打席となりました」と、唐突に退団が明かされた[2]。10月7日、チェイス・ランビンとゲイリー・バーナム・ジュニアとともに退団が発表された。
現在は、故郷のオアフ島で高校の教育アシスタントをしている[3]。
プレースタイル・人物
- 2004年にはリーグ最多四球を記録。また、同年には8盗塁を記録し、西岡剛と並んでチーム最多盗塁を記録した。
- 2006年以降は左翼手か指名打者での起用がほとんどであった。
- 性格は温厚で、頭部付近に危険球が来ても何事もなかったかのようにやり過ごしていた。
- 出身地にちなみ、「ハワイアン・パンチ」の愛称で親しまれていた。ロッテでの応援歌はハワイ民謡の『アロハ・オエ』が原曲。
- メッツ時代、当時チームメイトだった新庄剛志と共に「チームの注目選手」として抜擢され、球団テレビCMで共演している。
詳細情報
年度別打撃成績
テンプレート:By2 | NYM | 11 | 16 | 15 | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 5 | 1 | .133 | .188 | .133 | .321 |
テンプレート:By2 | 101 | 314 | 276 | 42 | 79 | 18 | 3 | 14 | 145 | 42 | 6 | 4 | 0 | 3 | 32 | 4 | 3 | 60 | 8 | .286 | .363 | .525 | .888 | |
テンプレート:By2 | 119 | 414 | 350 | 59 | 101 | 20 | 1 | 15 | 168 | 60 | 5 | 5 | 0 | 3 | 54 | 2 | 7 | 68 | 6 | .289 | .391 | .480 | .871 | |
テンプレート:By2 | 91 | 339 | 296 | 28 | 82 | 14 | 2 | 6 | 118 | 27 | 4 | 5 | 1 | 1 | 36 | 0 | 5 | 73 | 11 | .277 | .364 | .399 | .763 | |
テンプレート:By2 | COL | 48 | 128 | 117 | 10 | 24 | 5 | 0 | 4 | 41 | 19 | 0 | 0 | 0 | 1 | 10 | 0 | 0 | 35 | 4 | .205 | .266 | .350 | .616 |
BOS | 13 | 43 | 37 | 5 | 11 | 1 | 0 | 0 | 12 | 8 | 1 | 0 | 0 | 0 | 6 | 1 | 0 | 5 | 1 | .297 | .395 | .324 | .720 | |
'02計 | 61 | 171 | 154 | 15 | 35 | 6 | 0 | 4 | 53 | 27 | 1 | 0 | 0 | 1 | 16 | 1 | 0 | 40 | 5 | .227 | .298 | .344 | .642 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
テンプレート:By2 | ロッテ | 130 | 552 | 457 | 89 | 144 | 31 | 1 | 35 | 282 | 100 | 8 | 1 | 0 | 4 | 86 | 12 | 5 | 77 | 10 | .315 | .426 | .617 | 1.043 |
テンプレート:By2 | 98 | 389 | 351 | 49 | 95 | 22 | 0 | 13 | 156 | 71 | 1 | 1 | 0 | 3 | 34 | 0 | 1 | 51 | 15 | .271 | .334 | .444 | .779 | |
テンプレート:By2 | 118 | 473 | 417 | 59 | 117 | 18 | 1 | 17 | 188 | 65 | 4 | 3 | 0 | 4 | 49 | 0 | 3 | 72 | 17 | .281 | .357 | .451 | .808 | |
テンプレート:By2 | 122 | 454 | 390 | 45 | 106 | 21 | 0 | 13 | 166 | 51 | 7 | 4 | 0 | 3 | 53 | 1 | 8 | 86 | 12 | .272 | .368 | .426 | .793 | |
テンプレート:By2 | 97 | 323 | 279 | 35 | 79 | 12 | 3 | 5 | 112 | 42 | 3 | 1 | 0 | 1 | 42 | 0 | 1 | 51 | 8 | .283 | .378 | .401 | .779 | |
テンプレート:By2 | 95 | 320 | 272 | 23 | 72 | 14 | 1 | 7 | 109 | 31 | 0 | 3 | 0 | 3 | 44 | 1 | 1 | 59 | 8 | .265 | .366 | .401 | .767 | |
MLB:5年 | 383 | 1254 | 1091 | 145 | 299 | 58 | 6 | 39 | 486 | 156 | 16 | 16 | 1 | 8 | 139 | 7 | 15 | 246 | 31 | .274 | .362 | .445 | .807 | |
NPB:6年 | 660 | 2511 | 2166 | 300 | 613 | 118 | 6 | 90 | 1013 | 360 | 23 | 13 | 0 | 18 | 308 | 14 | 19 | 396 | 70 | .283 | .374 | .468 | .842 |
表彰
- NPB
- アジアシリーズMVP:1回 (2005年)
記録
- NPB
- 初出場・初先発出場:2004年3月27日、対西武ライオンズ1回戦(西武ドーム)、5番・左翼手として先発出場
- 初打席・初安打・初打点:同上、1回表に松坂大輔から中前適時打
- 初本塁打:2004年3月30日、対大阪近鉄バファローズ2回戦(大阪ドーム)、9回表にヘクター・カラスコから左越同点ソロ
- 初盗塁:2004年4月6日、対北海道日本ハムファイターズ2回戦(千葉マリンスタジアム)、2回裏に二盗(投手:ライアン・ループ、捕手:高橋信二)
背番号
- 39 (1998年)
- 50 (1999年 - 2009年)[6]
脚注
関連項目
外部リンク
テンプレート:アジアシリーズMVP- ↑ なお、この年放った35本塁打は千葉移転後ではチーム史上最多であった。
- ↑ 関係者によると、ボビー・バレンタインから場内アナウンスの要請があったという。
- ↑ NYDailyNews.com
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 出身地であるハワイがアメリカ合衆国50番目の州になったことに由来する。本人の希望もあり、入団当時背番号が50番だった浅間敬太から譲ってもらう。