ビシュケク

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ビシュケクキルギス語ロシア語БишкекBishkek)は、キルギス共和国首都。キルギスの北中央、アラ・トー山地の麓、チュイ川の流れるチュイ峡谷に位置し、カザフスタンに近い。

1991年までの旧名はフルンゼFrunzeロシア語キルギス語Фрунзе )。ビシュケクという都市名は、キルギスの国民酒である馬乳酒 (Кумыс) を作る時の攪拌器の名前に由来する。

歴史

天山山脈を通るキャラバンの停泊地としてソグド人に造営されたと考えられている。

15世紀から19世紀初めにかけて、キルギス人がこの地に進出してきた。1825年ウズベク系のコーカンド・ハン国が土を固めた要塞を建設。

1845年からロシア帝国の侵攻が始った。1860年、ロシア軍は一時この地を占領したが、部隊撤退後、コーカンド・ハン国が奪還した。1862年、ロシア軍は再び占領し、翌年、ロシアに編入され、ピシュペク(Pishpek、ロシア語:Пишпек)と呼ばれるようになる。肥沃なチェルノーゼムのためロシア各地から農民の入植が推進される。一方、キルギス人はパミール高原アフガニスタンに脱出する。

1878年、ピシュペクは、郡都に昇格し、の地位を得た。

1926年ソ連内の自治共和国・キルギス自治ソビエト社会主義共和国が誕生。ロシア革命時の赤軍司令官でピシュペク生まれのミハイル・フルンゼの死後、フルンゼキリル文字: Фрунзе, ラテン文字: Frunze)と改名され自治共和国の首都となる。 1936年キルギス・ソビエト社会主義共和国が発足する。

1990年代に入ると政情不安が広がり、非常事態宣言が出される。1991年2月、ビシュケクに改名される。同年8月、キルギスタン共和国1993年5月、キルギス共和国に改称)として独立を果たす。

独立前、ビシュケクは典型的なロシアの1都市であった。Khrushchyovkaと言われるソ連式の画一的な建物が碁盤状の大通りに整然と立ち並んでいた。ビシュケクの住民の多くがロシア人であった。しかし、独立後の2002年には、ビシュケクのロシア人の割合は20%を下回るようになった。

2007年8月16日上海協力機構首脳会議を開催。

民族

ソ連時代はロシア人が多数を占めていたが、独立以降に急減し、現在ではキルギス人が大半以上を占め、ロシア人は10%以下となっている。その他、高麗人やウイグル人、タタール人、ドンガン人ウクライナ人やカフカス系の民族も在住するなど多民族都市となっている。

気候

ケッペンの気候区分では地中海性気候(Csa)に属する。1年のうち晴天の日が平均で322日を数える。1月の平均気温は-2.6℃、7月の平均気温は25.9度、年平均気温は11.3度、年間総降水量は452mmである。夏季は晴天が続き、日中はかなり暑くなるが朝晩は涼しい。冬季は寒冷でしばしば積雪をもたらし大雪となることもある。過去には最高気温が42.8℃、最低気温は−34.0℃を記録している。

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アラ・トゥー広場
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キルギスタン国立歴史博物館

交通

市内交通は、バス、トロリーバスマルシュルートカが中心。地下鉄はないが、ライトレールの建設を計画中。

姉妹都市

脚注

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