野口茂樹
テンプレート:Infobox baseball player 野口 茂樹(のぐち しげき、1974年5月13日 - )は、愛媛県東予市(現:西条市)出身の元プロ野球選手(投手)。
目次
経歴
プロ入り前
テンプレート:節stub 丹原高校から1992年のドラフトで中日ドラゴンズから3位指名を受けて入団。
中日時代
2年目のテンプレート:Byは1A・セントラルバレー・ロッキーズに野球留学し、同年8月25日の対広島戦でプロ初登板。テンプレート:Byには、早々とペナントレースから脱落した中、若手育成の目的もあり、先発として積極起用される。コントロールが悪く四球から自滅することが多かったが、奪三振率は7.90と潜在能力があることを示した。5月4日の対横浜戦では延長11回無失点の力投を見せた。
テンプレート:Byにプロ初完投勝利を含む5勝全てを完投であげる。8月11日の東京ドームでの対巨人戦では四死球を6個与えながらもノーヒットノーランを達成(リードした捕手は矢野輝弘)。8月31日ナゴヤ球場での巨人戦で相手の四番落合博満に死球を与え、骨折させてしまった。
テンプレート:Byにチーム最多タイとなる14勝(9敗)を挙げ、最優秀防御率のタイトルを獲得。テンプレート:Byのシーズンでは19勝7敗の成績を残し、リーグ優勝に貢献。リーグMVPに輝く。10月10日の対ヤクルト戦で、20勝をかけて先発し9回途中まで無失点に抑えるも、打線の援護に恵まれず0-1のサヨナラ負けを喫する。19勝したものの、当時ルーキーの上原浩治が20勝したため最多勝利を獲得できなかった。日本シリーズでは第1戦と第5戦に登板するが、打線の援護や味方の守備に恵まれず、いずれも敗戦投手となる。
テンプレート:Byは初めて開幕投手を務めるもシーズンを通して不調に終わった。しかし、翌テンプレート:Byには2度目の最優秀防御率のタイトルと初の最多奪三振を獲得する。完投数も初めて2桁(11完投)に到達。4試合連続無四球完投勝利(日本タイ記録)を達成。12月に長年バッテリーを組んでいた中村武志が横浜に移籍。(中村武志が中日の正捕手を務めていた頃、ヒーローインタビューでの決まり文句は「中村さんのおかげです」だった。)
テンプレート:Byは故障のためにわずか5試合の登板にとどまる。テンプレート:Byのシーズンはギリギリで規定投球回に達し高い奪三振率を記録したが、防御率は4点台中盤だった。シーズン終了後に10年近く住んでいた選手寮を退寮した。
テンプレート:By8月7日の広島市民球場における対広島戦で初回1死を取っただけで5失点KOされ、その試合中に二軍行きを通告され新幹線で名古屋に強制送還された。それ以降登板機会が減って一軍と二軍を行ったり来たりすることになり、結局シーズンは4勝に終わり、同年の日本シリーズは登板機会がなかった。オフにはトレード要員に挙げられることもあった。テンプレート:Byは3勝に終わり、シーズンオフにFA権を行使するが、前述のようなこともあり中日はほとんど慰留を行なわなかったとされるが、実際の所は当時、全権監督として編成権を持っていた落合監督のFA権に対する考え方もあった。結果的に11月17日2年契約・年俸1億円で巨人に移籍。それに伴う人的補償として小田幸平が中日に移籍することになった。
巨人時代
テンプレート:Byは1試合の登板に終わり、テンプレート:Byは開幕ローテーション入りこそ逃したものの、リリーフとして開幕一軍入りし、5月1日に古巣である対中日戦で移籍後初勝利を挙げる。その後もリリーフの一角として存在感を示していたが、徐々に打ち込まれるようになり8月中旬に一軍登録を抹消された。全てリリーフでの登板で31試合登板、防御率は4.30に終わった。契約更改では年俸1億円から75%減俸の2500万円となった。これは巨人史上当時最大、日本球界全体でも当時3位となる減俸率である(金額は推定)。テンプレート:Byはルーキーイヤー以来の一軍登板無しに終わり、10月1日に球団から戦力外通告を受けた。
巨人退団後
12球団合同トライアウトには参加せず、東北楽天ゴールデンイーグルスの入団テストを受け、鉄平を含む打者5人と対戦。全員を打ち取るも直球のスピードが出ず、合格は至らなかった。その後、12月23日には同じ巨人から自由契約になった門倉健とともにシカゴ・カブスのトライアウトを受けた。
テンプレート:By2月12日にトロント・ブルージェイズとマイナー契約で合意したと報道されたが、契約前のメディカルチェックで左肘に異常が見られたため、契約を破棄された[1]。
巨人退団後は株式会社オーガニッククルーの顧問を務める傍ら、「Future's Baseball Academy」のメインアドバイザーを務めている。
独立リーグ時代
一方で左肘の手術とリハビリを続け、実戦参加の目処が立ったため、2011年5月、四国アイランドリーグplusの三重スリーアローズの練習に参加し、19日に入団が発表された[2]。同月24日に入団会見を行い、背番号を中日時代と同じ「47」とした。同年シーズン終了後、スリーアローズ解散に伴い退団[3]。12球団合同トライアウトを受験した[4]が、打者5人に対し2四球と結果を残すことが出来ず、どこの球団からも誘いが無く、引退を決意した。
引退後
2012年より、愛知県常滑市に拠点を置くNPO法人の社会人野球チーム「ルーキーズ」のコーチに就任。[5]。さらに東海ラジオ放送の野球解説者も務める。
将来は妻の両親が経営する焼き鳥店を継ぐ予定であるとされている。[6]
人物
テンプレート:スポーツ選手の出典明記 天然ボケな性格で知られる。また、かなりマイペースである。
審判からボールを貰う際、マウンド上で必ず帽子を脱いで礼を表す。
中村武志とバッテリーを組んで勝利した際、ヒーローインタビューで「中村さんのおかげです」、「中村さんのミットめがけて投げました」としばしばコメントしていた。
野口本人の希望もあって中日入団後は長年にわたって合宿所生活を送り続けてきた。車の免許を持っているものの愛車を持たずにタクシーで移動していた。しかし、10年近く住み続けたこともあって球団の勧告で退寮し、その後はホテルでの生活となった。巨人に移籍してからはマンション住まいになったが、愛車を持たないなど基本的な生活スタイルは変わらなかった。
中日時代、沖縄春季キャンプの際、昼食を本来選手専用の食堂があったのにもかかわらず、通称・「竜ちゃん食堂」(地元北谷町の飲食店が運営する報道専用食堂)で食べていた。
2003年オフ、中日に落合博満監督が就任することに伴いユニフォームが一新されることになった。その披露会見のモニターとなっている。
中日の生え抜き選手として初めてFA移籍した選手である。(それ以前にFA移籍した落合博満、前田幸長は他球団(いずれもロッテ)から移籍してきた選手である。)その後中田賢一が福岡ソフトバンクホークスにFA移籍するまで、ただ1人生え抜きでFAで国内他球団へ移籍した選手だった。(福留孝介、川上憲伸がFA移籍したがいずれもMLB球団である。)
巨人移籍直後には選手の大部分が自動車通勤の中、ペーパードライバーのため電車通勤をして話題になった。
テンプレート:By5月17日に保育士の女性と入籍。9月13日に東京都内のホテルで結婚式を挙げている。
出演番組
- 東海ラジオ ガッツナイター ゲスト解説
詳細情報
年度別投手成績
テンプレート:By2 | 中日 | 8 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 45 | 10.2 | 5 | 1 | 10 | 0 | 0 | 11 | 0 | 0 | 3 | 3 | 2.53 | 1.41 |
テンプレート:By2 | 30 | 19 | 1 | 0 | 0 | 3 | 10 | 2 | -- | .231 | 564 | 125.2 | 114 | 21 | 83 | 2 | 2 | 110 | 3 | 0 | 72 | 67 | 4.80 | 1.57 | |
テンプレート:By2 | 21 | 18 | 5 | 2 | 0 | 5 | 5 | 0 | -- | .500 | 487 | 114.1 | 104 | 15 | 52 | 2 | 2 | 88 | 4 | 0 | 47 | 41 | 3.23 | 1.36 | |
テンプレート:By2 | 11 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | .000 | 179 | 37.0 | 46 | 2 | 21 | 0 | 3 | 14 | 2 | 0 | 29 | 27 | 6.57 | 1.81 | |
テンプレート:By2 | 27 | 27 | 6 | 1 | 0 | 14 | 9 | 0 | -- | .609 | 802 | 192.0 | 174 | 10 | 63 | 4 | 5 | 134 | 8 | 0 | 59 | 50 | 2.34 | 1.23 | |
テンプレート:By2 | 29 | 29 | 7 | 4 | 0 | 19 | 7 | 0 | -- | .731 | 870 | 203.2 | 202 | 13 | 67 | 3 | 5 | 145 | 6 | 0 | 68 | 60 | 2.65 | 1.32 | |
テンプレート:By2 | 33 | 27 | 4 | 1 | 0 | 9 | 11 | 0 | -- | .450 | 764 | 173.0 | 200 | 20 | 58 | 3 | 2 | 128 | 9 | 0 | 99 | 89 | 4.63 | 1.49 | |
テンプレート:By2 | 26 | 26 | 11 | 5 | 5 | 12 | 9 | 0 | -- | .571 | 765 | 193.2 | 167 | 7 | 28 | 1 | 2 | 187 | 1 | 0 | 62 | 53 | 2.46 | 1.01 | |
テンプレート:By2 | 5 | 5 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0 | -- | .667 | 118 | 27.0 | 24 | 6 | 13 | 1 | 1 | 12 | 1 | 0 | 15 | 15 | 5.00 | 1.37 | |
テンプレート:By2 | 29 | 26 | 1 | 0 | 0 | 9 | 11 | 0 | -- | .450 | 641 | 146.1 | 154 | 12 | 59 | 0 | 9 | 146 | 3 | 0 | 80 | 74 | 4.55 | 1.46 | |
テンプレート:By2 | 17 | 15 | 1 | 1 | 0 | 4 | 8 | 0 | -- | .333 | 360 | 78.0 | 106 | 13 | 27 | 3 | 1 | 61 | 1 | 0 | 51 | 49 | 5.65 | 1.71 | |
テンプレート:By2 | 13 | 13 | 1 | 1 | 0 | 3 | 6 | 0 | 0 | .333 | 300 | 72.0 | 71 | 8 | 26 | 1 | 4 | 57 | 3 | 0 | 33 | 32 | 4.00 | 1.35 | |
テンプレート:By2 | 巨人 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 16 | 3.0 | 7 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 5 | 3 | 9.00 | 2.67 |
テンプレート:By2 | 31 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 4 | .500 | 144 | 29.1 | 34 | 4 | 20 | 2 | 3 | 28 | 0 | 0 | 15 | 14 | 4.30 | 1.84 | |
通算:14年 | 281 | 214 | 37 | 15 | 5 | 81 | 79 | 2 | 4 | .506 | 6055 | 1405.2 | 1408 | 132 | 528 | 22 | 39 | 1122 | 42 | 0 | 638 | 577 | 3.69 | 1.38 |
---|
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
表彰
- MVP:1回 (1999年)
- ゴールデングラブ賞:1回 (2001年)
- 月間MVP:4回 (1999年7月、1999年9月、2001年4月、2001年5月)
- 最優秀バッテリー賞:1回 (2001年、捕手:中村武志)
- IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞:1回 (2001年)
- 優秀JCB・MEP賞:2回 (1999年、2001年)
- JA全農Go・Go賞:1回 (最多奪三振賞:2001年5月)
記録
- 初記録
- 初登板・初先発:1994年8月25日、対広島東洋カープ20回戦(ナゴヤ球場)、3回3失点
- 初奪三振:同上、1回表に緒方孝市から
- 初勝利:1995年5月17日、対広島東洋カープ6回戦(ナゴヤ球場)、6回1/3を4失点
- 初セーブ:1995年6月15日、対ヤクルトスワローズ9回戦(ナゴヤ球場)、6回表に2番手で救援登板・完了、4回1失点
- 初完投:1995年8月16日、対横浜ベイスターズ20回戦(横浜スタジアム)、8回4失点で敗戦投手
- 初完投勝利:1996年7月12日、対阪神タイガース15回戦(ナゴヤ球場)、9回5失点(自責点1)
- 初完封勝利:1996年8月11日、対読売ジャイアンツ19回戦(東京ドーム) ※史上64人目のノーヒットノーラン
- 初ホールド:2007年4月21日、対阪神タイガース5回戦(阪神甲子園球場)、6回裏に2番手で救援登板、1回1/3を1失点
- 節目の記録
- 1000投球回数:2001年8月12日、対阪神タイガース21回戦(ナゴヤドーム)、8回表2死目に今岡誠を遊撃ゴロで達成 ※史上290人目
- 1000奪三振:2004年5月29日、対阪神タイガース11回戦(ナゴヤドーム)、5回表に杉山直久から ※史上111人目
- その他の記録
- 継投による1イニング4奪三振:1996年8月17日、対阪神タイガース19回戦(ナゴヤ球場)、4回表に野口がケビン・マース・高波文一・山田勝彦(振逃)から、後続の遠藤政隆が和田豊から ※史上初(2012年終了現在でも史上唯一、1イニング4奪三振自体は史上4度目)
- 1試合16奪三振:2001年5月24日、対阪神タイガース10回戦(石川県立野球場) ※セ・リーグ記録
- オールスターゲーム出場:3回 (1998年 - 1999年、2001年)
背番号
- 57 (1993年 - 1994年)
- 47 (1995年 - 2005年、2011年)
- 31 (2006年)
- 46 (2007年 - 2008年)
脚注
関連項目
外部リンク
テンプレート:中日ドラゴンズ1992年ドラフト指名選手- ↑ テンプレート:Cite web
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- ↑ 中日スポーツ2012年2月9日号より