野村弘樹
テンプレート:Infobox baseball player 野村 弘樹(のむら ひろき[1]、1969年6月30日 - )は、広島県広島市出身の元プロ野球選手(投手)、野球指導者、野球評論家。
1990年代の大洋・横浜で主力投手として活躍。1998年の横浜の日本一の際もエースとして活躍した。
目次
来歴・人物
プロ入り前
リトルリーグ・広島中央リトルで野球を始める[2]。1つ上の学年に元阪神の金本知憲、2つ上の学年に元お笑いタレントの山本圭一がいた[3]。野村は同チームのエースで四番だったが[3]、一年でボーイズリーグの広島ジャガーズに移籍[2][4]。広島ジャガーズは、古葉竹織の実弟・古葉福生が長年監督を務めている[5][6]。
高校はPL学園に入学しテンプレート:By、桑田泉(桑田真澄の実弟)、立浪和義、片岡篤史、橋本清、宮本慎也(宮本のみ1学年下)らを揃えた強力チームのエースとして史上4校目の甲子園春夏連覇を達成した(野村は10試合に登板し6勝0敗を記録)。東洋大学への進学も検討したが[7]、同年秋のドラフト3位指名を受け、横浜大洋ホエールズに入団。
現役時代
テンプレート:By10月2日の対広島戦で、プロ初登板で無四球完封勝利を挙げる(高卒ルーキーとしては史上5人目の初登板初完封勝利)。翌テンプレート:Byは開幕からチャンスを貰って33試合に登板し、先発のマウンドにも12回立ったがスタミナ不足から中盤に捕まることが多く、成績は3勝11敗で防御率5.89と期待を裏切った。
テンプレート:By、プロ入り初の2桁勝利を挙げる活躍を見せ、オールスターゲームにも初出場。この年は対巨人戦で5勝をあげている。翌テンプレート:Byは2年連続二桁となる15勝を挙げると、テンプレート:Byには17勝を挙げ最多勝に輝く。テンプレート:Byはシーズン通して腰痛に悩まされ不振に終わるものの、翌テンプレート:Byは3年ぶりの二桁勝利を記録。
テンプレート:By7月1日の対中日戦では5回までパーフェクトピッチングを見せる。6回1死から鳥越裕介に初ヒットを打たれたが、続く門倉健を併殺打に打ち取って無失点に抑えると、その後も好投を続けて8回を1安打無四球という完璧なピッチングを見せた。9回は佐々木主浩が3人で片付けて、野村-佐々木で打者27人の準完全試合を達成した。
テンプレート:Byは3年連続二けた勝利となる13勝を挙げチーム38年ぶりリーグ優勝、日本一に貢献。同年の日本シリーズは開幕投手に抜擢される。西武打線を5回まで無失点に抑えて期待に応えると、この大舞台でも4回裏に3連打のきっかけになる二塁打、5回裏には駄目押しのきっかけとなる二塁打を放つなど西武を圧倒した。結局、6、7回と2点ずつを失い、7回途中でマウンドを降りるも、チームとして38年ぶりの日本シリーズ勝利投手に輝いた。
テンプレート:Byは左肘手術によりシーズンを棒に振る。テンプレート:By8月の対巨人戦で1失点完投勝利し、生え抜き投手では斉藤明夫以来の14年ぶりの通算100勝達成。1998年シーズン終了時に94勝を挙げていたが、左肘故障の影響で記録達成に時間がかかってしまった。これについて野村は「到達しても嬉しくないほど、かかってしまった」と答えている。テンプレート:Byに左肘の故障が再発(実際は完治していなかった)し、現役を引退。
現役引退後
テンプレート:By、湘南シーレックスの投手コーチに就任。テンプレート:Byにベイスターズの投手コーチに昇格。テンプレート:Byオフ、阿波野秀幸の投手コーチ招聘に伴い、横浜投手コーチを退任。
テンプレート:Byはニッポン放送・テレビ神奈川・JSPORTS野球解説者、サンケイスポーツ野球評論家を務める。
テンプレート:By、横浜ベイスターズの投手コーチ(2009年までブルペン担当、2010年はベンチ担当)に復帰。真田裕貴、高崎健太郎が中継ぎとして独り立ちするなどの実績はあったものの、テンプレート:By、テンプレート:Byは2年連続してセ・リーグ唯一のチーム防御率4点台を、テンプレート:Byは12球団ワーストの防御率を記録するなど投手陣の成績は低迷し、同年限りでの退団となった[8]。
2011年からは再びニッポン放送、tvk、JSPORTSの解説者、及びフジテレビ『すぽると!』のレギュラー野球解説者を務め、2012年よりフジテレビ系列の野球中継である『enjoy! Baseball』や『SWALLOWS BASEBALL L!VE』にも出演するようになり、フジテレビでの活動が多くなっている。
プレースタイル
テンプレート:スポーツ選手の出典明記 元々右利きだったが、巨人の星の星飛雄馬に憧れて左投げに変えたという(現役時代、右投げでも遠投50mだった)[1]。
球速は全盛期でも145km/h弱で、特に優れた変化球を持っていたわけでもないにもかかわらず、通算で998奪三振記録をあげている。野村の武器は制球力と投球術であり、ストレート、スライダー、スローカーブ、シュート、スクリューボール、フォークボール、SFFなどの多彩な球種を左右に投げ分けることで打者を抑えていた。また、投球テンポが早く、まさに「ちぎっては投げ、ちぎっては投げ」という投球スタイルであった。これは打者に考える時間を与えないようにする意図もあったという[2]。
横浜優勝時の権藤博監督から絶大の信頼を受け、1998年の日本シリーズでは「野村-斎藤隆-三浦-野村-斎藤隆-川村-野村」という、野村に3回巡るローテーションの先発予告をしている。
強豪のPL学園高校で5番打者を打っていただけあって、投手でありながら現役時代には通算6本の本塁打を放つなど、野手顔負けの打棒の持ち主でもあった。シーズン中盤まで3割近くをキープしていたシーズンもあり、1996年4月23日の対阪神戦では2失点完投、打っては3ラン本塁打(結果3-2)と一人舞台の試合もあった。優勝した1998年も打率.250、2本塁打、8打点という野手並の成績を残している。
詳細情報
年度別投手成績
テンプレート:By2 | 大洋 横浜 |
2 | 2 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | 0 | -- | .500 | 55 | 15.0 | 14 | 1 | 3 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0.60 | 1.13 |
テンプレート:By2 | 33 | 13 | 1 | 0 | 1 | 3 | 11 | 0 | -- | .214 | 411 | 94.2 | 111 | 14 | 35 | 2 | 1 | 62 | 1 | 1 | 65 | 62 | 5.89 | 1.54 | |
テンプレート:By2 | 24 | 22 | 8 | 0 | 3 | 11 | 6 | 0 | -- | .647 | 650 | 162.0 | 140 | 23 | 35 | 1 | 1 | 114 | 6 | 0 | 67 | 63 | 3.50 | 1.08 | |
テンプレート:By2 | 26 | 26 | 6 | 2 | 2 | 15 | 8 | 0 | -- | .652 | 743 | 182.1 | 163 | 25 | 43 | 0 | 3 | 113 | 6 | 0 | 72 | 64 | 3.16 | 1.13 | |
テンプレート:By2 | 21 | 15 | 1 | 1 | 0 | 5 | 4 | 0 | -- | .556 | 408 | 93.2 | 118 | 15 | 23 | 0 | 1 | 75 | 1 | 0 | 57 | 57 | 5.48 | 1.51 | |
テンプレート:By2 | 28 | 25 | 9 | 3 | 0 | 17 | 6 | 0 | -- | .739 | 712 | 179.1 | 148 | 16 | 41 | 1 | 2 | 137 | 2 | 0 | 59 | 50 | 2.51 | 1.05 | |
テンプレート:By2 | 14 | 12 | 1 | 0 | 0 | 5 | 5 | 0 | -- | .500 | 332 | 70.2 | 100 | 16 | 28 | 2 | 0 | 61 | 1 | 0 | 53 | 50 | 6.37 | 1.81 | |
テンプレート:By2 | 22 | 6 | 1 | 0 | 1 | 4 | 7 | 0 | -- | .364 | 242 | 56.2 | 58 | 8 | 18 | 1 | 2 | 48 | 2 | 0 | 30 | 28 | 4.45 | 1.34 | |
テンプレート:By2 | 25 | 25 | 4 | 0 | 1 | 10 | 8 | 0 | -- | .556 | 626 | 146.1 | 172 | 25 | 36 | 4 | 0 | 85 | 2 | 0 | 76 | 67 | 4.12 | 1.42 | |
テンプレート:By2 | 25 | 25 | 1 | 1 | 0 | 10 | 8 | 0 | -- | .556 | 620 | 143.1 | 153 | 20 | 43 | 6 | 4 | 94 | 0 | 3 | 71 | 62 | 3.89 | 1.37 | |
テンプレート:By2 | 28 | 27 | 3 | 0 | 1 | 13 | 8 | 0 | -- | .619 | 728 | 177.2 | 183 | 20 | 29 | 0 | 2 | 100 | 2 | 2 | 70 | 66 | 3.34 | 1.19 | |
テンプレート:By2 | 7 | 7 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | -- | .500 | 144 | 31.1 | 49 | 4 | 8 | 0 | 1 | 13 | 1 | 1 | 25 | 19 | 5.46 | 1.82 | |
テンプレート:By2 | 29 | 14 | 0 | 0 | 0 | 2 | 8 | 0 | -- | .200 | 426 | 100.2 | 116 | 15 | 20 | 2 | 2 | 57 | 1 | 0 | 51 | 49 | 4.38 | 1.35 | |
テンプレート:By2 | 14 | 14 | 2 | 1 | 0 | 4 | 5 | 0 | -- | .444 | 318 | 75.0 | 86 | 8 | 15 | 0 | 4 | 32 | 0 | 0 | 37 | 37 | 4.44 | 1.35 | |
テンプレート:By2 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | -- | .000 | 31 | 5.1 | 12 | 1 | 3 | 1 | 1 | 3 | 0 | 0 | 8 | 8 | 13.50 | 2.81 | |
通算:15年 | 301 | 233 | 38 | 9 | 10 | 101 | 88 | 0 | -- | .534 | 6446 | 1534.0 | 1623 | 211 | 380 | 20 | 24 | 998 | 25 | 7 | 743 | 683 | 4.01 | 1.31 |
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- 各年度の太字はリーグ最高
- 大洋(横浜大洋ホエールズ)は、1993年に横浜(横浜ベイスターズ)に球団名を変更
通算打撃成績
打率.196 92安打 6本塁打 47打点 1盗塁
タイトル
- 最多勝:1回 (1993年)
表彰
- 優秀JCB・MEP賞:1回 (1991年)
記録
- オールスターゲーム出場:3回 (1990年、1991年、1993年)
- 投手記録(初記録)
- 節目の記録
- 1000投球回数:1996年10月6日、対広島東洋カープ26回戦(横浜スタジアム)、3回表1死目に達成 ※史上270人目
- 100勝:2001年8月5日、対読売ジャイアンツ21回戦(横浜スタジアム)、9回1失点完投勝利 ※史上117人目
- 1500投球回数:2001年8月25日、対ヤクルトスワローズ21回戦(横浜スタジアム)、5回表3死目に藤井秀悟を三振で達成 ※史上148人目
- 打撃記録(初記録)
- 初安打:1988年10月16日、対中日ドラゴンズ26回戦(横浜スタジアム)、3回裏に山本昌から
- 初打点:1989年7月15日、対中日ドラゴンズ15回戦(ナゴヤ球場)、2回表に鈴木孝政から
- 初本塁打:1990年9月26日、対読売ジャイアンツ25回戦(東京ドーム)、2回表に槙原寛己からソロ
背番号
- 21 (1988年 - 2002年)
- 79 (2003年)
- 71 (2004年 - 2005年)
- 75 (2007年 - 2010年)
登録名
- 野村 弘(のむら ひろし) (1988年 - 1989年)
- 野村 弘樹(のむら ひろき)(1990年 - )
関連情報
出演番組
- ニッポン放送ショウアップナイター
- tvkプロ野球中継 横浜DeNAベイスターズ熱烈LIVE
- J SPORTS STADIUM(広島、及び中日主催試合を担当。)
- すぽると!(2011年- 。2012年は毎週日曜レギュラー、その他平日に出演。)
- enjoy! Baseball(2012年- )[9]
- L!VE MAJOR LEAGUE BASEBALL(同上)
- SWALLOWS BASEBALL L!VE(2013年- )
書籍
- 『PL学園OBはなぜプロ野球で成功するのか?』(橋本清(著)、ぴあ、2009/3、橋本清が第9章で野村を取材、ISBN 978-4835617282)
- 『立浪&野村が教える! 野球少年が親子でうまくなるプロ思考』(共著:立浪和義 集英社、2012/9 ISBN 978-4087806595)
脚注
関連項目
外部リンク
テンプレート:横浜大洋ホエールズ1987年ドラフト指名選手- ↑ プロ入り当初は本名の野村 弘(のむら ひろし)を登録名としていたが、入団3年目以後、登録名を「弘樹」と変更。
- ↑ 2.0 2.1 ライツネットワークメンバー 野村弘樹 プロフィール
- ↑ 3.0 3.1 スポーツニッポン、2013年4月16日
- ↑ 【プロ野球】立浪和義×野村弘樹が語る - web Sportiva - 集英社
- ↑ 広島ジャガーズ
- ↑ 広島ジャガーズボーイズ 投打がかみ合い、本県勢では初のベスト 4
- ↑ プロ野球ここだけの話第28回「PL学園33期生同窓会 第2弾」
- ↑ http://mainichi.jp/enta/sports/news/20101014k0000m050011000c.html
- ↑ 2012年、2013年と2年連続でオールスターゲーム第3戦の解説を務めた。