ヤニス・クセナキス
テンプレート:Infobox Musician テンプレート:Portal クラシック音楽 テンプレート:出典の明記 ヤニス・クセナキス(ギリシャ語: Ιάννης Ξενάκης、ラテン文字:Iannis Xenakis、英語圏の発音ではゼナキス、日本語の文献ではイアニス・クセナキスとも、 1922年5月29日 - 2001年2月4日)は、ルーマニア生まれのギリシャ系フランス人の現代音楽作曲家。建築家。
目次
略歴
テンプレート:仮リンクで建築と数学を学び、第2次世界大戦中にギリシャ国内で反ナチス・ドイツのレジスタンス運動に加わる。枢軸軍のギリシャ退去後に進駐して来た英軍と戦った際に、銃弾を受け顔の左側に傷を負い左目を失う。大戦後は独裁的新政府に抵抗する運動に加わるが、1947年にレジスタンス活動家に捕縛の危機が迫ったためにギリシャを脱出。アメリカへ亡命しようと立ち寄ったパリに定住した。欠席裁判で死刑が宣告される(1951年に禁固10年に減刑。1974年のパパドプロス独裁政権崩壊によって、やっと刑が赦免されることになる)。以後その生涯の大半をフランス国内で過ごす。眼だけではなく、耳も機銃掃射の音で傷ついた。
1948年より建築家ル・コルビュジエの弟子として学び、ブリュッセル万国博覧会(1958年)でフィリップス館の建設に携わる。このフィリップス館ではエドガー・ヴァレーズの大作電子音楽「ポエム・エレクトロニーク」が演奏され、後に自作の電子音楽を大規模施設で上演する際の参考となった。
建築家としては、その後、インド・チャンディーガルのプロジェクトやラ・トゥーレット修道院などの設計でコルビュジェを助け、独自の才能・アイデアを発揮する。モデュロール(黄金比を参考したコルビュジェ独自の比例配分)理論の発案、窓枠や格子のプロポーショナルな配置などについて、彼の数学的考案に基くところが大きい。コルビュジェの弟子として働く傍ら、パリ音楽院にて作曲方法を学び、作曲に数学の理論を応用した方法を発案して行く。1984年にはパリ・ラ・ヴィレット公園に建設予定のシテ・ド・ラ・ミュジークの建築設計競技に同門のジャン=ルイ・ヴェレと参加している。
晩年は京都賞を得て来日もしたが、既に執筆原稿は高橋悠治の校正なくしては読めるものではなく、健在であることをアピールしたものの手の震えは止まらず、徐々にアルツハイマー型認知症に冒され作曲が困難となった。1997年に書いた作品に「オメガ」(ギリシャ語の最後の文字)と題名をつけ作曲行為に自ら終止符を打ち、2001年にその生涯を終えた。
全作品がサラベール社から出版されたが、彼への委嘱はほとんどが日本を含めた海外の財団及び個人からである。ギリシャ政府は罪人として扱った彼に後日正式に謝罪し、凱旋帰国も実現したが、生涯のほとんどをフランスで過ごした。唯一の公称の弟子にパスカル・デュサパンがいる。生涯を通じて多作であり、2001年に他界するまでに170曲以上を作曲するなど、現代作曲家としては異例の委嘱や演奏に恵まれたが、その過激なスタイルゆえ敵も多かった。
一柳慧は「ジョン・ケージの影響を受けなかった作曲家などいないはずだ、しかし1人だけ例外がいて、それはヤニス・クセナキスであった」と述べた。
妻のフランソワーズ・クセナキスは作家。最近作のRegarde, nos chemins se sont fermés(見よ、我らの道々は閉じられている)は、夫ヤニスの晩年の闘病記を元にした私小説である。
作風
前期
何とかレッスン代を確保し、アルチュール・オネゲルに師事するが、批判と文句ばかりで辟易して一回でやめる。このころの作品は自主撤回するなどした。「オネゲルからの言葉は、もっぱら技術へのクレームに終始した」と本人は語るテンプレート:要出典。
その後パリ音楽院でオリヴィエ・メシアンらに師事する。このときメシアンに「君は数学を知っている。なぜそれを作曲に応用しないのか。伝統的な修練は、あってもなくても同じではないか」[1]と言われ、その慧眼に強い霊感を受けた。そして数学で生み出されるグラフ図形を元に、縦軸を音高、横軸を時間と見做し音響の変化を綴る形で作曲したオーケストラ曲「メタスタシス」を1954年に作曲し、ドナウエッシンゲン音楽祭で鮮烈なデビューを飾る。「メタスタシス」は3部よりなる管弦楽曲「アナステナリア」(1952-54)の第3曲目であるが、あまりに作風が他とかけ離れて先鋭的であるため、これを独自に作品1とした。メシアンがオープンな感性の持ち主であることも手伝い、直ちにオーケストラ作品の委嘱が舞い込むが、これらの委嘱作も死の直前のヘルマン・シェルヘンが激賞。この激賞の経緯は、写真にも収められ閲覧できる。
その後も数学の論理を用い、コンピュータを使った確率論的手法(「ピソプラクタ」より採用)で多くの斬新な作品を生み出した。日本の作曲家・ピアニスト高橋悠治の協力を得て、室内楽や独奏でも「エオンタ」や「ヘルマ」など初期から優れた作品を発表したが、特に管弦楽曲や電子音楽など多くの音群を自在に扱うことのできる分野でもっとも手腕を発揮した。中期の2つの傑作、会場内に奏者がランダムに配置される管弦楽曲「ノモス・ガムマ」と、照明演出を伴う電子音楽「ポリトープ」(クリュニー、モントリオールなどいくつかの版がある)で、彼の作風は一つのピークを迎える。日本の大阪万博では、「ヒビキ・ハナ・マ」(響き、花、間)(1969年)という日本語の題を持つ多チャンネル360度の再生装置を伴う電子音楽を発表した。
その後、「メタスタシス」以前の習作に見られるギリシャの民謡に基づくアイデアを混合させた作品を手がけるようにもなる。この分野の代表作では音楽劇「オレステイア」(1965年)、「アカンソス」、「夜」等がある。1970年代の作品では方眼紙を用いた直感的なグラフ作法と天性のバルカン半島的な韻律に基づいた作品が多い。1977年には、電子音楽の作曲用コンピュータとして、ペンとタブレットで描いた線形が音響として反映されるUPICの開発を完了した。[2]
後期
ブラウン運動からヒントを得た「非合理時価を互い違いにかける」アイデアは、メシアンが実現させたアイデアだったが、メシアンが単なる付随効果として使用したのとは対照的に、クセナキスはオーケストラの全声部に適用させて数十段でやるという技法を手にし、これらのアイデアで1980年代の作品は、音楽的密度も潤うことになった。音色が単一である場合は複雑性が知覚の限界を超えてしまうために解りづらいが、オーケストラ作品では複数の楽器に明け渡されるために、可聴域の限界を超えた音色が展開される。このため録音が非常に困難であり、オーケストラ作品の音源定期リリースは、最新のテクノロジーを備えたスタジオが確保される没後まで行われなかった。挑戦性も顕著で、四声部で書かれた「ミスツ」をピアニストのロジャー・ウッドワードにクリアされてしまうと、ピアノ協奏曲「ケクロプス」では六声部を要求し、彼の手でもクリアしたかどうかわからない手に余る結果となった。
中期以降は聴覚的に平易な瞬間が増えるにもかかわらず、演奏が容易ではないために、批判者を生み出すことになった[3]が、出来る限りクセナキスの意思に忠実なコンピュータリアライズで、正確に全ての音符を打ち込んだCDもリリースされている。
最晩年までグラフを用いた硬派の作曲法は手放さなかったが、ランダム出現がなされる音の時間については16分音符のグリッドをあらかじめ書いておいてから、そのなかに音符を目分量で入れる、といった技法も多くの作品で使われている。近年Timpani社からのリリースによって全貌が明らかになったのが、晩年の管弦楽曲の創作軌跡である。「キアニア」では、「ホロス」や「アケア」等の自作が引用されている。1990年代に入ってからはリズムの単純化がいっそう顕著になり、また作品の時間が徐々に短くなり始めた。
主な作品
管弦楽
室内楽
- ST/4(弦楽四重奏)
- エオンタ(ピアノ、2トランペット、3トロンボーン)
- ペルセファッサ(6人の打楽器奏者)
- プレイアデス(6人の打楽器奏者)
- テトラス(弦楽四重奏)
- ヴィンドゥンゲン(12人のチェロ奏者)
独奏曲
声楽曲
- ポラ・タ・ディナ(児童合唱、管楽器、打楽器)
- オレステイア(混声合唱、児童合唱、12奏者)
- 夜(12人の混声合唱)
- サンドレ(混声合唱、管弦楽)
- アカントス(ソプラノ、器楽アンサンブル)
- モーリスのために(バリトン、ピアノ)
テープ音楽
- 東洋―西洋
- 響き―花―間
- ペルセポリス
- エルの伝説
電子音楽作品
- ミケーネ・アルファ
- クリュニーのポリトープ
著書
- 『音楽と建築』(高橋悠治訳/全音楽譜出版社/1975)
関連項目
脚注
- ↑ 『メシアン 創造のクレド』(原題『Contributions to the Spiritual World of Olivier Messiaen』:アルムート・レスラー著、1984年・1986年:吉田幸弘訳、2008年、p29)では「君は数学者で哲学者で建築家だ――ここから出て行き、そういうもので音楽を作りなさい」
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ Peter Hillは「正確に演奏できない作品」と「エヴリアリ」や「ヘルマ」を批判した論文を仕上げた。