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テンプレート:Mboxテンプレート:Infobox 株式会社ハドソンテンプレート:Lang-en-short)はかつて存在した北海道を発祥とするゲームソフト開発・販売会社。2012年3月1日をもって親会社であるコナミデジタルエンタテインメントに吸収され、2013年度まで同社のブランドとなっていた。

概要

1973年5月、工藤裕司により札幌市豊平区アマチュア無線ショップとして創業。1970年代後半にパソコンソフトウェアの制作で頭角を現し、1980年代初頭には高い技術力でパソコンソフトメーカーの大手となる。シャープのパソコンX68000のOSであるHuman68kや当時先進的であったグラフィカルなUIを提供するウインドウシステムであるSX-WindowHu-BASICと呼ばれるBASICインタープリタなどを開発していた。

ゲームメーカー任天堂ファミリーコンピュータを発表した際、まだブームになっていない時点で接近を図り、任天堂初のサードパーティとなり、以降家庭用ゲーム機向けソフト開発がメインとなる。自由な社風の元、独自の企画を行っていた。特に「ハドソン全国キャラバン」や「高橋名人」は人気児童誌で積極的にタイアップされたことから、当時の子供世代にとっては抜群の知名度を誇る。

また、自社でのハード開発にも乗り出した。日本電気ホームエレクトロニクス株式会社と組み、1987年にはPCエンジン、翌1988年には世界初のCD-ROMのゲーム機CD-ROM2を発表。PCエンジン、PC-FXには、ハドソンが設計開発したCPU、サウンドチップ、画像処理チップなどが搭載されており高い技術力の片鱗を見せた。。1994年、PC-FXが次世代機戦争で敗北し、ハード開発から撤退した。

1990年代末、メインバンクの破綻以降、経営が悪化。2001年にコナミが筆頭株主になり、2005年には子会社化。この時期には「自由な社風」は既になくなっていた。2011年にコナミの完全子会社になり、翌2012年にはコナミデジタルエンタテインメントに吸収合併され、法人としてのハドソンは解散した。

歴史

創業

札幌市豊平区アマチュア無線ショップCQハドソンとして創業。創業者の工藤裕司は北海道札幌市出身であり、日本大学理工学部卒業後、名古屋でサラリーマンをしていた。しかし在学中から行っていた、自ら撮影した蒸気機関車の写真を販売するサイドビジネス「グループハドソンプロダクション」で、資金管理に関して無知だったために信頼していた人間に金を持ち逃げされるなどトラブルを多く抱え、本業も退社し、失意の内に帰郷していた。当初は喫茶店を開業するつもりだったが、同一建物内で別の借り主が喫茶店を開業したため、急遽無線ショップに変更したとも言われている。

なお、上記のトラブルを踏まえ、信用できる人間を使うという意味で、当時大学生だった実弟の工藤浩を中退させ、経営サイドに引き込んでいる。ただし、アマチュア無線販売時代のハドソンはほぼ毎月赤字だった。

パソコンのソフトメーカー時代

1970年代末、工藤裕司がアメリカでのホビーパソコンのブームを伝える雑誌記事を目にし、米国への視察旅行を行い、そこで高額なパソコンを購入し持ち帰った。その後パソコンの販売はもとより、アメリカ視察で購入したパソコンで組んだソフトウェアの制作・販売を手掛けるようになる。当時は、同じ電子機器を扱っているからという理由で多くのアマチュア無線ショップがパソコン販売会社に鞍替えしていた。

ソフトウェアに関しては、当初はパソコンを購入した客が自力でプログラムを開発できない場合のおまけとしての存在だった。この時点のハドソンにはまだ開発用の機材がほとんど無く、顧客に販売するコンピュータを納品の前日にこっそり開梱しプログラムを打ち込み、当日朝には再度梱包して納品するという、ある種の自転車操業を行っていたこともある[1]。なお、ソフトは店頭販売も行っていたが、ローカル都市の1ショップであり広告宣伝もさほど行っていなかったため、知る人ぞ知るという状況だった。一方で、ショップは次第に、北海道大学の学生などを主とした札幌市内のパソコンマニアの溜まり場となった。中本伸一など一部の学生はアルバイトとして自らソフトを開発し、それらのソフトも店頭で販売するようになった。

パソコンに鞍替えしてからも「いつ潰れてもおかしくない資金繰り」だった。しかし1979年、ハドソンが扱っていたパソコンの販売元シャープの勧めで、「月刊マイコン」(電波新聞社)昭和54年7月号にオリジナルソフトウェアの通信販売広告を掲載すると一転、郵便局員が毎日のように現金書留の詰まった白い袋を担いで来る状況になり、莫大な利益を得ることになった。当時のハドソン社内では郵便局員を「サンタクロース」と呼んでいた[2]

以降、パソコンソフト開発で高い技術力を発揮し精力的に作品を発表し、一躍ハドソンは日本を代表するパソコンソフトメーカーとしての認知を得る。ただし、当初は主にシャープMZシリーズ、X1シリーズ用のBASIC(Hu-BASIC)などを手掛けており、日本で圧倒的な人気があったNECPC-8000シリーズ用のソフトを開発していなかった[3]。そのため、ハドソンの名前は当時のパソコンのライトユーザーには浸透していなかった。

1981年には孫正義率いるパソコンソフトの流通会社である日本ソフトバンクと独占契約を結び、上新電機を始めとする全国の主なパソコン販売店の店頭でソフトウェアが販売される体制を確立した。なおソフトバンクの歴史でハドソンの存在は必要不可欠と言われており、現在も孫は工藤兄弟を「恩人」と呼び、事ある毎に礼を欠かしていない[4]。なお、日本ソフトバンクのソフトウェア流通部門はその後紆余曲折を経て、2013年現在はソフトバンク・テクノロジーの一部となっている。

ゲームソフトの開発

1983年に任天堂家庭用ゲーム機ファミリーコンピュータを発売。ハドソンはこの時期にファミコン向けBASIC言語ファミリーベーシック」を共同開発した。これを契機にファミリーコンピュータ用ゲームソフト開発に乗り出す。主にパソコンソフトの開発者をそのままファミコンソフトの開発に当たらせたため、ハドソンのパソコン事業は徐々に衰退していくことになった。

この方針転換は、当時専務だった工藤浩が、当時はハドソン支店も置かれていたデパートである丸井今井札幌店にてファミコンのドンキーコングを遊んでいる子供たちを見て、このゲーム機はいずれパソコンでのゲームを追い抜くと判断したことによる。創業者の工藤裕司もその判断を支持した。

事実上任天堂初のサードパーティーとなったことで、初期参入会社と同様に、任天堂からソフトの年間発売制限数の緩和やロイヤリティのなど優遇措置を受けることになった[5]

以降、ハドソンはファミコン黎明期にヒット作を連発。ファミコンのソフトメーカーとして一躍名を馳せる。他会社と決定的に違ったのは、社内に自由な空気があり、積極的に独自の企画を生み出したことである。全国各地を巡業するゲーム大会「ハドソン全国キャラバン」や、16連打でスイカを割る「高橋名人」は児童誌でも大々的に取り上げられ、ファミコン人気を決定的なものにした。

ゲームハードの開発と撤退

ハドソンは本来、技術者の集団ということもあり、任天堂のサードパーティーとして、ファミコンブームの立役者としての立場に甘んじる事無く、独自のハード作りにも乗り出した。

1987年に日本電気ホームエレクトロニクスと共同開発したPCエンジンは、実質ハドソンの開発である。1994年にPC-FXが次世代ゲーム機戦争で敗北しハード開発から撤退することになるものの、長年PCエンジン系列のファーストパーティー的な存在であり続けた。

その一方、任天堂との関係を壊さないようにも尽力し、2011年まで任天堂ハード向けソフトの供給を続けた。その他、様々なプラットフォームにゲームソフトを供給した。

コナミの子会社化、そしてハドソンブランドの終焉

1990年代末、メインバンクだった北海道拓殖銀行の破綻により資金繰りが悪化。携帯電話向けの事業に乗り出すが、経営状態は好転せず、2000年代に入りコナミの資本が入るようになり、2004年には創業者が経営から完全に手を引き、2005年にはコナミの子会社となる。

2007年に本社を東京ミッドタウンに移すが、ヒット作がほとんどなく、2008年には社長を退任した遠藤やマリオパーティシリーズのスタッフがエヌディーキューブに移籍。コナミの完全子会社になった2011年は高橋名人が退社、『桃太郎電鉄シリーズ』のさくまあきらも確執を経て決別。事実上、シリーズ打ち切りという事態が起きる。そして翌2012年にコナミデジタルエンタテインメントに吸収合併する形で法人としてのハドソンがおよそ39年の歴史に幕を下ろす事となった。なお、消滅後も当初はハドソンブランドのサービスは継続されていたが[6]バーチャルコンソールゲームアーカイブスで過去作の配信以外に目立った動きはなく、2013年末を以てハドソンブランドも自然消滅した。

沿革

  • 1973年昭和48年)5月 - 工藤裕司が、札幌市豊平区にてアマチュア無線ショップとして創業。
  • 1975年(昭和50年) - パソコン用機器の販売を開始。
  • 1978年(昭和53年) - パソコンソフトの開発・販売を開始。
  • 1982年(昭和57年) - 東京事業所(東京都中央区築地)開設。
  • 1984年(昭和59年) - 株式会社に改組、ファミコン用ソフト・周辺機器の開発・販売を開始。
  • 1985年(昭和60年)
  • 1987年(昭和62年)
  • 1990年平成2年) - ゲームボーイ用ソフトの開発・販売を開始。
  • 1992年(平成4年) - スーパーファミコン用ソフトの開発・販売を開始。
  • 1994年(平成6年)5月 - 創業者の弟・工藤浩が代表取締役社長に就任。
  • 1996年(平成8年) - コンサドーレ札幌のオフィシャルパートナー。
  • 1997年(平成9年) - コンサドーレ札幌のオフィシャルパートナー撤退。
  • 1999年(平成11年) - 東京事業所、新宿区市谷田町からかつてあった築地に再移転。
  • 2000年(平成12年)
  • 2001年(平成13年)
    • 5月 - CQハドソン閉店。
    • 8月 - コナミが筆頭株主となる。
  • 2004年(平成16年)11月 - 遠藤英俊が代表取締役社長に就任。創業者兄弟が経営から退く。
  • 2005年(平成17年)
    • 4月 - 第三者割当増資をコナミが引き受け、コナミの子会社となる。
    • 7月 - 本社を創業の地・札幌市豊平区から東京都中央区に移転する。
  • 2007年(平成19年) - 本社を東京都港区赤坂のミッドタウン・イーストに移転。
  • 2008年(平成20年)6月 - 石塚通弘(元コナミデジタルエンタテインメント経営本部長)が代表取締役社長に就任。
  • 2009年(平成21年)
    • 4月 - 札幌支社を北海道本社に改称。
    • 5月 - 東京本社を赤坂ミッドタウン・タワーに移転。
  • 2011年(平成23年)
    • 4月1日 - コナミとの間で簡易株式交換を実施し、コナミの完全子会社となる。上原和彦が代表取締役社長に就任する。
    • 5月 - 北海道本社を札幌事業所に改称。
    • 7月 - 東京本社、かつてあったミッドタウン・イーストに再移転。
  • 2012年(平成24年)
  • 2014年(平成26年)
    • 1月1日 - ハドソンブランドの公式ホームページが消滅した。

社長の趣味と企業風土

ハドソンの社名は、熱狂的な鉄道ファンでもあった創業者・工藤裕司が、国鉄C62形蒸気機関車のハドソン形という車軸配置から取ったものである。車軸配置4(先輪)-6(動輪)-4(従輪)を意味する。この呼称はニューヨークセントラル鉄道ハドソン川沿いの線で、この車輪配置の機関車を走らせたことに由来する。

工藤は大学在学中からサラリーマン時代にかけて、サイドビジネスとして自ら撮影した蒸気機関車の写真を販売しており、その際に用いていた社名も「グループハドソンプロダクション」だった。

工藤の鉄道趣味は留まることを知らず、社名のみならずハドソンの社内にも鉄道関連のトリビアが溢れていた。社長室には常時組み立て中の鉄道模型が置かれているという有様であり、工藤がC62の2号機(C62-2)が好きだったことから、本社の入口にもC62の部品が飾られていた。また、会社の代表電話番号の末尾4桁は4622[7]で、更には郵便番号をC62と見た目が似ている「062」にするため、本社をわざわざ北海道札幌市豊平区に置くというこだわりぶりだった。また、かつて札幌芸術の森の隣接地にあった中央研究所の屋上にはライブスチームの線路が敷設され、専属のメカニックが配置されていたほか、研究所の大会議室ではテーブル中央に鉄道模型のジオラマが置かれC62の模型が走っていた。その模様はNHKスペシャル新・電子立国』でも取り上げられた。

1988年1995年までC62ニセコ号を運行していた北海道鉄道文化協議会(通称:鉄文協)ではスポンサーの一社を務めていた。C62運行のスポンサーが集まらず、鉄文協がダメモトで「おたくの社名のハドソンというのは、C62の車軸配置の通称なんですよ。その縁で協力してもらえませんか?」と依頼したところ、そこで初めて工藤もC62好きであることを知り、二つ返事で協力に至ったという。

また、他の趣味として古銭の収集があり、社内に「東洋鋳造貨幣研究所」という古銭専門の研究所を設け、中央研究所の建物内に「方泉處」という古銭博物館を開設していた他、博物館名と同じ「方泉處」という季刊の研究誌(1992年 - 1998年)も発行していた。これは1990年代末に経営難に陥って以降はこれらの活動は順次的に廃止されていった。

1980年代半ばのハドソン関係者が口々に言う「会社の自由な空気」は社員のみならず、社長自身もそれを体現していた。1986年の社員旅行は貸切ジェットでハワイ旅行という普通の会社ならありえないものだった。

社章

ファイル:ハドソン札幌本社1.jpg
かつてハドソン本社のビルの看板に描かれていたハチ助

社章で、「ハチ助」とも呼ばれている。ハドソンのゲームソフトにボーナスキャラ・隠れキャラとして古くから数多く登場している。由来は、北海道のアマチュア無線のエリア番号が「8(はち)」であるため、同音である「蜂」を採用したと言われている。当初は「CQハチ助」と呼ばれていた[8]

ハドソン全国キャラバン

ハドソン全国キャラバン」とは、ハドソンが1985年から行っていたゲーム大会のこと。

最大の特徴は「キャラバン」の名にふさわしく、北海道から沖縄まで全国各地を巡業していた事である。各都道府県政令指定都市にとどまらず、他の都市でも行われた。最大は第2回の40都道府県・65会場である。

  • 1985年 - 1997年のキャラバンでは毎回「公式ソフト」としてハドソン製のゲームソフトが1本製作され、そのゲームを用いた大会が行われた。
  • 1990年 - 1992年の3回は「ワールドカップ」として、会場を日本だけでなく海外にも拡大した。
  • 1998年 - 2000年の3回はコンピュータゲームではなくカードゲームの大会が行われ、2000年をもっていったん「キャラバン」の名を冠したイベントは終了した。
  • 2006年、「ハドソン全国キャラバン'06」で「キャラバン」の名が復活し、このときの公式ソフトにはニンテンドーDSの『Touch!ボンバーマンランド』の他、シュウォッチも使われた。

「公式ソフト」は以下の通り。

事業拠点

ファイル:Tokyo Midtown East.jpg
本社のあったミッドタウン・イースト

2009年4月から2011年4月末まで、2本社体制となっていた(登記上本店は東京本社)[9]。かつては、大阪名古屋福岡等にも事業所を設置していた。市谷田町に札幌時計台を模した東京支社ビルを擁していた時期もある。

  • 本社
東京都港区赤坂9丁目7番2号 ミッドタウン・イースト
  • 札幌事業所
札幌市豊平区平岸3条5丁目4番22号 ハドソンビル
ハドソン創業の地であり、2005年に東京に本社を移転した時は札幌支社となるが、その時点で北海道にも拠点があったことから、2009年4月より北海道本社に改称。2011年5月からは札幌事業所に改称。

製品

ハードウェア・デバイス

パソコン用ソフトウェア

家庭用ゲーム機

日本電気ホームエレクトロニクス(NECホームエレクトロニクス)との共同開発。

ゲーム以外のゲーム機向けソフトウェア

ゲーム作品

周辺機器

ゲームコントローラー
  • ハドソンジョイスティックFC用、1985年、定価3,500円、黄色) - スティック型。
  • ジョイカード(FC用、赤) - 色は、任天堂純正コントローラー色と同じ。連射コントローラー。
  • ジョイカードMK.2(FC用、1986年6月、定価1,980円、赤) - 15連射コントローラー。
    • ジョイカードMK.2 ヘクター'87バージョン(1987年、1,980円) 
    • ジョイカードMK.2 サンスイバージョン1(1990年、定価2,980円)
    • ジョイカードMK.2 サンスイバージョン2(定価2,980円)
    • ジョイカード サンスイSSS(定価2,980円、灰色) - イヤホン出力端子もある15連射コントローラー。
    • ジョイカードmkⅡ(透明色、非売品) - Bugってハニーの懸賞品。ゲーム内のパスワードを応募。
  • ジョイカード(MSX用) - 色は、灰色。
  • ジョイカード スーパーX(MSX、X1X68000用)
  • ジョイカード スーパーII(MSX用)
  • スーパージョイカード(SFC用、1991年、定価2,980円)
  • ジョイカード64(N64用)
    • ジョイカード64 J(N64用、緑色) - Jリーグ イレブンビート1997の懸賞品。応募券を送ると抽選で1000名に当選。
    • ジョイカード64 P(N64用、青色) - パワーリーグ64の懸賞品。応募券を送ると抽選で1000名に当選。
  • SBOMジョイカード(SS用)
外部記憶装置
  • 天の声 バンク(PCE用、1991年9月6日、定価3,880円) - HuCARD型の外部記憶カード。
  • 天の声2(PCE用、1989年8月8日、定価2,600円) - PCエンジン本体に接続する外部記憶ユニット。
その他
  • ファミコンシステムラック(FC用、1,500円)
ファミコン本体とディスクシステムを固定するラック。

その他の商品

提供番組

(★は筆頭提供番組、いずれも複数社提供)

ほか

提供番組における補足

  • 『Bugってハニー』などの筆頭提供番組での提供読みは「キミたちのいい脇役になりたいな。HUDSON SOFT」で、クレジットは白バックに「提供」の文字の下にカラーの「ハチ助」が大きく表示され、その下に「キミたちのいい脇役になりたいな。(改行)テンプレート:Smaller(改行)HUDSON SOFT」と表示されていた。
  • 『高橋名人の面白ランド』では映像をバックに黒の縁取りに白文字で「提供(改行、ハチ助、改行)テンプレート:Smaller(改行)HUDSON SOFT」とだけ表示していた。

関連項目

参考文献

  • 赤木哲平『セガVS.任天堂―マルチメディア・ウォーズのゆくえ』(日本能率協会マネジメントセンター、1992年)

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ

  1. 『新・電子立国』第4巻 pp.226 - 233
  2. 『新・電子立国』第4巻 pp.235 - 241
  3. 赤木哲平『セガVS.任天堂―マルチメディア・ウォーズのゆくえ』(日本能率協会マネジメントセンター、1992年)p.126
  4. 恩人が告白!なぜ私は「裸の孫正義」に賭ける気になったのか - PRESIDENT Online・2013年1月11日
  5. テンプレート:Cite web
  6. 6.0 6.1 テンプレート:Cite web
  7. ニコニコ動画内「ゲッチャ」 高橋名人世代、2011年1月5日放送分の2分30秒頃から
  8. ニコニコ動画内「ゲッチャ」 高橋名人世代、2011年1月5日放送分の5分頃から
  9. テンプレート:Cite web

外部リンク

  • ハドソン(リンク切れ、コナミデジタルエンタテインメント公式ページにリダイレクトされている)