長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校

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長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校(ながのけん すわせいりょうこうとうがっこう・ふぞくちゅうがっこう)は、長野県諏訪市清水一丁目にある公立高等学校中学校

概要

1895年(明治28年)に創立された諏訪郡立実科中学校(旧制)を前身とする。校名の「清陵」は、地名である「清水が丘」に由来する。

大正デモクラシーの時期に、学友会(一般で言う生徒会)が幟に記した孟子「公孫丑」の言葉「自反而縮雖千萬人吾往矣」(みづからかへりみてなをくんば せんまんにんといへどもわれゆかむ:自分の行いを振り返ってみてそれが正しい事ならば、たとえ敵が一千万人いようとも私は自分の道を進んで行こう、という意味)が校是となっている。その他に、「自治」「質実剛健」「勤勉努力」を校風の基調とする。

制服や校則は存在せず、生徒による自治を基本にする。そのため、文化祭(清陵祭)や行事、部活は学友会の元に運営され、教師による干渉はほとんどない。

かつては出身中学校ごとに「地方会」という組織をつくり、そのなかで校歌指導や新入生歓迎会などの行事が行われていたが、現状にそぐわないという意見が浮上、2013年3月をもって廃止された[1]

個人個人が日頃考えていることを大勢の前で壇上で自由に主張できる「談論会」というものが随時行われている。第一回「談論会」は1898年(明治31年)開催。

「端艇大会」と呼ばれる全国的にも珍しいボートのクラスマッチが諏訪湖で行われている。第一回「端艇大会」は1901年(明治34年)開催。

大学のように授業ごとに教室を移動する。連絡事項は各々生徒が掲示板を見て確認する。また校内には時計が無い。

釣りバカ日誌」のスーさん(鈴木一之助)と、みち子の父親(小林修三)は、旧制諏訪中学出身という設定(スーさんは43回生、小林は38回生、ともに端艇部所属)。NHK朝の連続テレビ小説かりん」のモデルや、波多野勤子の往復書簡集「少年期」の舞台となった学校。

学業はもちろん、多くの生徒は部活動や芸術など多方面でも活躍するなど、文武両道を目指している。

校章

校章諏訪大社の神紋に由来する「梶の葉」である。

校歌・応援歌

諏訪清陵高校の校歌は、8番からなる第一校歌(作詞: 伊藤長七)と10番からなる第二校歌があり、併せて18番にもなるため、フルコーラスに10分以上も要する。また、校歌の曲には長い間正式な楽譜や伴奏がなく、斉唱の際は太鼓、手拍子、足踏みに合わせて歌われてきた[2][3]

沿革

中高一貫校

長野県教育委員会は2009年6月に発表した「第1期長野県高等学校再編計画」の中で、東北信と中南信の2地域に1校ずつ併設型中高一貫校を設置することを盛り込んだが、諏訪清陵高校はこれを受けて同年9月に「中高一貫教育研究委員会」を設けて中高一貫教育についての研究を進め、2010年10月7日には県教育委員会に一貫教育導入計画を具申した。翌2011年1月27日の教育委員会定例会で、中南信における中高一貫校設置計画に諏訪清陵高校が選定され、県内では屋代高校・附属中学校に次ぐ2番目の公立中高一貫校となるに至った[4]

併設される中学校の仮称は「長野県諏訪清陵高等学校附属中学校」で、1学年あたりの規模は2学級80人、自宅からの通学が原則とされるが県内全域から生徒を募集するという。また、附属中学校卒業者は高校1年次より外部からの入学者と混合して学校生活を送る他、高校課程も習熟度に基づくカリキュラムに改編される予定である[5]

著名な学校関係者

以下の学校関係者は五十音順に並ぶ。

出身者

教職員経験者

最寄駅

脚注

  1. 諏訪清陵の校風「地方会」 100年の伝統に幕 信濃毎日新聞(信毎web)2013年6月12日閲覧。
  2. 学校生活 of 長野県諏訪清陵高等学校(諏訪清陵高等学校校歌歌詞)
  3. ふるさと“地”慢 第2部 「日本一」を訪ねる (8)長~い校歌 延々20番…長野・県立諏訪清陵高 (2007年3月8日 読売新聞
  4. 中高一貫 of 長野県諏訪清陵高等学校
  5. 長野県諏訪清陵高等学校附属中学校(仮称)の全体構想について(PDF)2012年8月5日閲覧。

関連項目

外部リンク