火垂るの墓

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テンプレート:基礎情報 書籍火垂るの墓』(ほたるのはか)は、野坂昭如短編小説。野坂自身の戦争原体験を題材した作品である。兵庫県神戸市西宮市近郊を舞台に、戦火の下、親を亡くした14歳の兄と4歳の妹が終戦前後の混乱の中を必死で生き抜こうとするが、その思いも叶わずに栄養失調で悲劇的な死を迎えていく姿を描いた物語。愛情と無情が交錯する中、のように儚く消えた二つの命の悲しみと鎮魂を、独特の文体と世界観で表現している。

『火垂るの墓』を原作とした同名タイトルの映画(アニメーション、実写)、漫画、テレビドラマ、合唱組曲などの翻案作品も作られており、特にアニメーション映画は一般的にも人気の高い作品となっている。なお、イギリスでも実写映画化される予定となっており、撮影は2014年から行われる[1]

発表経過

1967年(昭和42年)、雑誌『オール讀物』10月号に掲載され、同時期発表の『アメリカひじき』と共に翌春に第58回(昭和42年度下半期)直木賞を受賞した。単行本は両作併せて1968年(昭和43年)3月25日に文藝春秋より刊行された。文庫版は新潮文庫より刊行されている。翻訳版はAlycia Davidson訳(英題:Grave of the Fireflies)をはじめ、各国で行われている。

作品構成・文体

文体は、関西弁の長所を生かした「饒舌体」の文体ながらも、無駄のない独特のものとなっている[2][3]

物語の構成は、冒頭にまず物語の結末部分が描かれ、駅構内で死んだいった主人公の少年の腹巻の中から発見されたドロップ缶を駅員が放り投げると、その拍子に蓋が開いて缶の中から小さい骨のかけらが転げ出し、が点滅して飛び交う。そして、その骨が少年の妹の遺骨であることの説明から、カットバックで時間が神戸大空襲へ戻っていき、そこから駅構内の少年の死までの時間経過をたどる効果的な構成となっており、印象的で自然な流れとなっている[2]

作品背景

ファイル:Kobe after the 1945 air raid.JPG
神戸大空襲後の神戸市街

『火垂るの墓』のベースとなった戦時下での妹との死別という主題は、野坂昭如の実体験や情念が色濃く反映された半ば自伝的な要素を含んでおり、1945年(昭和20年)6月5日神戸大空襲により自宅を失い、家族が大火傷で亡くなったことや、焼け跡から食料を掘り出して西宮まで運んだこと、美しいの思い出、1941年(昭和16年)12月8日の開戦の朝に学校の鉄棒で46回の前回り記録を作ったことなど、少年時代の野坂の経験に基づくものである。

また野坂は戦中から戦後にかけて二人の妹(野坂自身も妹も養子であったため、血の繋がりはない)を相次いで亡くしており、死んだ妹を自ら荼毘に付したことがあるのも事実である。しかしながら西宮の親戚の家に滞在していた当時の野坂は、その家の2歳年上の美しい娘(三女・京子)に夢中であり、幼い妹・恵子(物語とは異なりまだ1歳6ヶ月で、8月22日に疎開先の福井県で亡くなった)のことなどあまり気にかけることなく、中学生らしい淡い初恋に心をときめかせていたという。また食糧事情は悪かったものの、小説のようなひどい扱いは実際には受けておらず、家を出て防空壕で生活したという事実はない[4]

野坂は、まだ生活に余裕があった時期に病気で亡くなった上の妹には、兄としてそれなりの愛情を注いでいたものの、家や家族を失い、自分が面倒を見なくてはならなくなった下の妹のことはどちらかといえば疎ましく感じていたことを認めており、泣き止ませるために頭を叩いて脳震盪を起こさせたこともあったという[5]。西宮から福井に移り、さらに食糧事情が厳しくなってからはろくに食べ物も与えず、その結果として、やせ衰えて骨と皮だけになった妹は誰にも看取られることなく餓死している[6]。こうした事情から、かつては自分もそうであった妹思いのよき兄を主人公に設定し、平和だった時代の上の妹との思い出を交えながら、下の妹・恵子へのせめてもの贖罪鎮魂の思いを込めて、野坂は『火垂るの墓』を書いた。なお、「節子」という名は野坂の亡くなった養母の実名であり、小学校1年生の時に一目ぼれした初恋の同級生の女の子の名前でもあった[7]。また「恵子」という名前を、『エロ事師たち』の主人公の義娘の名前に付けたのも、妹への思いがあったからだという[7]

野坂は妹・恵子について次のように述べている。 テンプレート:Quotation

あらすじ

1945年(昭和20年)9月21日、清太は省線三ノ宮駅構内で衰弱死した。清太の所持品は錆びたドロップ缶。その中には妹・節子の小さな骨片が入っていた。駅員がドロップ缶を見つけ、無造作に草むらへ放り投げる。地面に落ちた缶からこぼれ落ちた遺骨のまわりにがひとしきり飛び交い、やがて静まる。

太平洋戦争末期、兵庫県武庫郡御影町(現在の神戸市東灘区[注釈 1])に住んでいた4歳の節子とその兄である14歳の清太は6月5日神戸大空襲で母も家も失い、父の従兄弟の嫁で今は未亡人である兵庫県西宮市の親戚の家に身を寄せることになる。

最初のうちは順調だった共同生活も戦争が進むにつれて、二人を邪魔扱いする説教くさい叔母との諍いが絶えなくなっていった。居心地が悪くなった清太は節子を連れて家を出ることを決心し、近くの満池谷町の貯水池のほとりにある防空壕の中で暮らし始めるが[注釈 2]配給は途切れがちになり、情報や近所付き合いもないために思うように食料が得られず、節子は徐々に栄養失調で弱っていった。清太は畑から野菜を盗んだり、空襲で無人となった人家から火事場泥棒し、時には見つかり殴られながらも飢えをしのいだ。

ある日、川辺で倒れている節子を発見した清太は、病院に連れていくも医者に「滋養を付けるしかない」と言われたため、銀行から貯金を下ろして食料の調達に走る最中に日本が降伏して戦争は終わったことを知る。清太は日本が敗戦し、父の所属する連合艦隊も壊滅したと聞かされショックを受ける。節子に食べ物を食べさせるものの既に手遅れで、幼い妹は終戦7日後の8月22日に短い生涯を閉じた。節子を荼毘に付した後、清太は防空壕を去る。彼もまた栄養失調に侵されており、身寄りも無いため、三ノ宮駅に寝起きする戦災孤児の一人として野垂れ死んだ。清太は他の2、30体の死体と共に荼毘に付され、無縁仏として納骨堂へおさめられた。

直木賞の選評

アメリカひじき』と一緒に受賞し、審査員の評価は総じて高いもので、反対派はいなかった。

海音寺潮五郎は、「大坂ことばの長所を利用しての冗舌は、縦横無尽のようでいながら、無駄なおしゃべりは少しもない。十分な計算がある。見事というほかはない」と評し[3]、「後者(火垂るの墓)の結末は明治調すぎて、古めかしすぎて乗って行けなかったが、自伝的なものがありそうだから、こうせざるを得なかったのであろう」と述べている[3]

水上勉は、「出来がよく、野坂氏の怨念も夢もふんだんに詰めこまれて、しかも好短篇の結構を踏み、完全である。感動させられた」と述べ[3]松本清張は、「私の好みとしては『アメリカひじき』よりも『火垂るの墓』をとりたい。だが、野坂氏独特の粘こい、しかも無駄のない饒舌体の文章は現在を捉えるときに最も特徴を発揮するように思う」と評している[3]

川口松太郎は、「直木賞作家の本命とはいい難く、君の技量は逆手だ。文章のアヤの面白さに興味があって事件人物の描写説得は二の次になっている」とし[3]、「野坂君が独特の文体の上に、豊かな内容をもり込む作家になってくれたらそれこそ鬼に金棒だ」と助言をしている[3]

大佛次郎は、「この装飾の多い文体で、裸の現実を襞深くつつんで、むごたらしさや、いやらしいものから決して目を背向けていない」とし[3]、「作りごとでない力が、底に横たわって手強い」と評している[3]柴田錬三郎は、「さまざまの話題をマスコミにまきちらし乍ら、とにもかくにも、文壇へふみ込んで来たその雑草的な強さは、敬服にあたいする。私は、『火垂るの墓』に感動した。劇作者的文章が、悲惨な少年少女の最後を描いて、効果をあげたことは、われわれ実作者に深く考えさせるところがあった」と高い評価をしている[3]

エピソード

後年、野坂は執筆していた当時のことを、他にも小説やコラムなどの仕事を何本も抱え込み、ひたひたと忍び寄る締め切りと何人もの担当者とのやり取りで受けるプレッシャーに晒され、まさに地獄のような日々の中でなんとか原稿を仕上げていた大変な時期だったと振り返り、娘の学校での宿題の、「火垂るの墓の作者は、どういう気持ちでこの物語を書いたでしょうか」という問いに対し、「締め切りに追われ、ヒィヒィ言いながら書いた」と答えたと、テレビ番組で発言している。

アニメ映画

テンプレート:Infobox Film テンプレート:ウィキポータルリンク

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火垂るの墓の碑
石屋川にて

同名のアニメ映画『火垂るの墓』(英題:Grave of the Fireflies)が、新潮社の製作で1988年(昭和63年)4月16日から東宝系で公開された。制作はスタジオジブリ、監督・脚本は高畑勲。挿入歌としてアメリータ・ガリ=クルチの「埴生の宿(原題:Home, Sweet Home)」が使われた。

現在進行形のストーリーではなく、幽霊になった清太によるナレーションで過去のことを思い出しているものである。原作をほぼ忠実になぞっているが、後半部分の演出、特に節子の死のシーンの描写などはアニメオリジナルである(原作では、清太が池で泳いでいる間に死んでいる)。清太の死は冒頭で描かれ、ラストで山を降りた後が冒頭のシーンに繋がるといういわゆるループである。

作中で画面が赤くなる時は、清太と節子の幽霊が登場し近くで見ており、記憶を何度も繰り返し見つめていることを意味し、阿修羅のように赤く演出されている[8][注釈 3][注釈 4]。ただしアニメ絵本ではこの部分は大幅に省略され、ラストで現代社会のビルを見ている二人が赤い状態の幽霊であることを示唆する場面があるのみである。なお、アニメ絵本は概ね映画本編を忠実になぞっているが、唐突に出て来た台詞、行動、場面等の説明がなされている。

キャスト

公開当時、清太の声を担当した辰巳努は16歳1ヶ月、節子の声を担当した白石綾乃は5歳11ヶ月で、共に作品舞台と同じ関西地区の出身者である。また清太、節子の母の声を担当した志乃原良子も大阪出身である。他にも、同じ関西が舞台である高畑勲の作品『じゃりン子チエ』に出演経験のある山口や表淳夫も含めた関西出身の俳優が多数出演しており、本職のアニメ声優はほとんど起用されていない。

清太
声 - 辰巳努
主人公。14歳(中学3年〔旧制〕)。劇中で、通っていた神戸市立中〔旧制〕は空襲で全焼したことが清太により言及。家も焼け出され、母も死去し、幼い妹・節子と共に西宮の親戚の家に行くが、叔母と折り合いが悪くなり自由を求めて妹と共にその家を出る。衰弱する妹に食べ物を与えるため必死になるが、栄養失調で妹を失い、自身も三宮駅構内で衰弱死する。同時に節子の遺骨が入ったドロップの缶は駅員に放り投げ出された。アニメ映画では死の直前、意識が朦朧としても節子のことを考えていた[注釈 5]。盗みを始めた理由についてアニメ絵本では節子が病気になりかかっているので「なんとかしなければならないと思ったため」という記述がある。
節子
声 - 白石綾乃
4歳。清太の妹。母の言葉や着物のことを覚えている[注釈 6]。清太から母が亡くなったことは聞かされず、病院に入院していると誤魔化されていたが、中盤で、実は叔母から母が既に亡くなったことを聞き、知っていたことが判明する。栄養失調のため体に汗疹疥癬ができ、髪にはがついていた。その影響で徐々に目も虚ろになり焦点もあっておらず、死の直前は清太の言葉もほとんど通じていなかった。この際、おはじきをドロップと思って舐めたり、石を御飯だと勘違いするほど思考力が落ちていた。スイカを食べた後、目を覚ます事はなく遺体は清太によって大事にしていた人形、財布等と共に荼毘にふされ、遺骨はドロップの缶に納められた。
ドロップが好きで全てなめ終わり、衰弱し何を食べたいかを聞かれ最後に「またドロップ舐めたい」と語っていたが叶うことはなかった。アニメ絵本で清太は節子を荼毘に付す直前、「もう一度ドロップ舐めさせてあげたかった」と述壊している。
他のジブリ作品と異なり主人公である清太が劇中で女性と関わりを持たないためヒロインに該当し、『風立ちぬ』にてヒロインの里見菜穂子が作中で死亡する演出がされるまで、スタジオジブリ作品の歴代ヒロインの中で死亡した唯一の例であった。なお、1984年の『風の谷のナウシカ』のヒロイン・ナウシカも最後に死亡しているが直後に生き返っており死亡にはカウントされていない。
清太・節子の母
声 - 志乃原良子
兄妹の母親。心臓が悪い(原作においては節子を出産した後に心臓病を患ったと説明されている)。気立ての良い、上品な美人。二人より先に防空壕に行こうとしていた際に空襲に被災、全身に大火傷を負い重篤となる。包帯も取れない状態で、腕の一部が焼け蛆虫がついており、清太が駆けつける直前に昏睡状態に陥り、そのまま死亡。清太は節子に真実を話すことができず、「西宮の回生病院に入院している」ことにしている。なお、アニメ映画では、清太は母の遺骨を納めた箱を叔母の家についた直後に庭に隠した。原作では棚の上の戸袋に隠し、中盤で母の死が節子に知れてからは、母の遺骨は布引町近くの春日野墓地に埋葬されていると節子に告げ、まだ防空壕の中にあるにもかかわらず清太はそういう希望を語っている。清太が持っていた7,000円の貯金は「母がもしもの時のために銀行に預けてくれていたものである」と劇中では言及。
なお、清太が泥棒で捕まり、殴られた際に節子が清太にかけた言葉は、原作では「母の口調」とあり、アニメ絵本では「母が昔、節子が泣く度に言った台詞」と書かれている。母親の登場シーンは事実上、冒頭のみで後は回想シーンなどで登場する。清太が回想した母と節子と海に行った場面は劇中では特に説明がないが、アニメ絵本や原作の記述によると1年前の出来事とされている。
ジブリ作品において主人公の肉親が劇中で亡くなる描写が演出されたのは『風の谷のナウシカ』のナウシカの父のジル、『ゲド戦記』のアレンの父の国王がいるが母親としては現時点では彼女だけである。
親戚の叔母さん
声 - 山口朱美
西宮在住。清太と節子を一時的に引き取る。当初はうまくいっていたが、次第に諍いが絶えなくなる[注釈 7]。原作では「未亡人」「小母さん」と表記され、清太の父親の従弟が夫だった。清太と節子を預かることは清太の言及によると約束になっていたようであり、叔母の言動から母も叔母の家に疎開する予定だった模様。原作ではお互い空襲で家が焼けたら身を寄せ合う約束だったと記され、アニメ絵本でも、状況によっては叔母が清太達の家に疎開する可能性も示唆されている。勝手に出て行ったのは清太達で叔母は直接的に追い出す言動は取っていないが、引き止めもせずにせいせいし、原作では、二人を疫病神と呼び、「横穴へ住んどったらええ」と言っている。
清太・節子の父
兄妹の父親。海軍大尉。戦争に出征しているため、劇中では写真と回想シーンでのみ登場する。モデルは野坂の実父とされる。清太は昔、父の観艦式を見たと言及しており、節子が生まれる前から、海軍にいたことが示唆されている。この観艦式は原作では1935年(昭和10年)10月となっている。戦争に出征してからは清太が手紙を出しても連絡が着かなくなっていたが戦争終了後、父の乗った連合艦隊は全滅、死亡していたことが判明する。なお、父が乗り込んだとされる高雄型重巡洋艦摩耶は1944年(昭和19年)10月のレイテ沖海戦フィリピンのパラワン水道において米潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没していることから、清太達が父の帰りを待ち望んでいた1945年(昭和20年)には既に死亡しているものと推測される。
叔母さんの娘
女学生。三つ編みの清楚な風貌の少女。節子に下駄をプレゼントする、母が自分達の食器にだけ米を盛り清太と節子には雑炊しか与えなかった際は居心地の悪そうな素振りを見せる描写がある。
叔母宅の下宿人
学生。眼鏡をかけた、真面目そうな青年。劇中で名前は呼ばれておらず絵コンテ集で確認できる。叔母に愛想を尽かされ庭で煮炊きする清太と節子を見て、気の毒がる素振りをするが、下宿人という立場からか積極的な擁護まではしなかった。叔母の台詞では勤労奉仕に熱心に参加している模様。原作では、家には娘と、商船学校在学中の息子・幸彦と、神戸税関に勤めている下宿人がおり、下宿人は闇の食料ルートに詳しく缶詰などを持ってきて、叔母の娘の気をひこうとしている。
役名表記無し
端田宏三、酒井雅代、野崎佳積、松岡与志雄、金竹雅浩、柳川清、真木一、表淳夫、はりた照久、田中弘史、伝法三千雄、玉生司朗中村正、関田美香、宮本毬子、松本淳、松田春子、上田恵子、竹岡和彦、鰺坂貴代美、上野真紀夫、平松豊和、森脇京子、嶋谷隆司、真田隆次、邦保、加治春雄、安満敏子、小林誠、沢田憲一、隈本晃俊、国分郁男、横山祐介、房本佳長、谷本幸士郎、守屋真人、中山鉄朗、藤田尚樹、城野正富美、伴鉄、木下真喜子、行原千酷、黒川裕子、川口真由美

スタッフ

キャッチコピー

  • 「4歳と14歳で、生きようと思った」(糸井重里)。
  • 「忘れものを、届けにきました」(となりのトトロとの共通キャッチコピー)

賞歴

  • 日本カトリック映画大賞
  • ブルーリボン特別賞
  • 文化庁優秀映画
  • 国際児童青少年映画センター賞
  • シカゴ国際児童映画祭・最優秀アニメーション映画賞を受賞。同映画祭の子供の権利部門第1位に選出。
  • 第1回モスクワ児童青少年国際映画祭・グランプリを受賞。

製作の経緯

映画『火垂るの墓』は、1988年(昭和63年)の公開時、宮崎駿監督作品『となりのトトロ』と同時上映されているが、先に企画された『となりのトトロ』は、当初、60分程度の中編映画として企画されており、単独での全国公開は難しかった[9]。そこで同時上映作品として高畑勲監督作品『火垂るの墓』の企画が決定したという経緯が伝えられている。

最終的に、両作とも上映時間は90分近くなり、長編2本体制で公開された。アニメ映画界の二大巨頭の代表作、しかも作風も物語も印象も全く相反する内容の作品を一緒に観ることができたが、当時としてみれば地味な素材であった上、東宝宣伝部が消極的だったことや[10]、高畑・宮崎両監督の一般的な知名度も現在ほどではなく、公開日が春休み後の中途半端な時期でもあったため、配給収入は5.9億円と伸び悩んだ。評論家からは好評で『キネマ旬報』誌の日本映画ベストテンでは6位に食い込んでいる。

両映画の制作はスタジオジブリで同時に進行した。東映動画でも長編作品を2本同時進行したことはなかったといい、高畑・宮崎の信頼に耐える主要スタッフ(アニメーター)は限られており、人員のやりくりに制作側は苦慮することになった[11]。特に揉めたのが作画監督の近藤喜文の処遇であった。結果として宮崎側が新しく参入したスタッフを中心に制作したのに対し、高畑側は近藤や美術監督の山本二三など旧知のベテランを集めた。高畑は後年の回想で、近藤を獲得することが(人材面での)「最優先、いや絶対的な課題」であったと述べ、それ以外のメンバーについては自ら勧誘には動かなかったとしている[12]

当初は両作とも60分であったが、高畑の『火垂るの墓』の時間が長くなると、対抗するように宮崎の『となりのトトロ』の時間も延び[13]、結果的に長編2本の同時進行となった。しかし、彩色の作業がどうしても公開までに完了しないことが判明する[12]。高畑は、大幅なカットで破綻させることなく観客の鑑賞に堪える方法を百瀬義行とともに検討し、「『演出意図』としての必然性が感じられれば、見る人に受け入れてもらえるのではないか」という「苦肉の策」で、1988年(昭和63年)4月の公開時点では清太が野菜泥棒をして捕まる場面などを色の付かない白味・線撮りの状態で上映することとなった[12]。これらの箇所は公開後も制作を続け、後に差し替えられている。

わずかながらも未完成のままでの劇場公開という不祥事に、高畑勲はいったんアニメ演出家廃業を決意したが、後に宮崎駿の後押しを受けて1991年(平成3年)に『おもひでぽろぽろ』で監督に復帰することになる(おもひでぽろぽろも本作と同じように過去の思い出しである)[14]

徳間書店社長・徳間康快の要請を受け、野坂の原作小説を文庫として販売している新潮社が『火垂るの墓』の出資・製作となっている。新潮社がメディアミックスで映像製作に携わる初めてのケースとなった。こうした経緯もあって、ビデオやLDは徳間系列ではないパイオニアから発売され、その後リリースされたDVDも、ジブリ作品としては例外的にワーナーの扱いとなっていた(新潮社との契約が満了した2008年(平成20年)8月以降はブエナビスタから再発されている)。2012年(平成24年)4月にはBlu-ray Disc版が発売された。

監督の意図

高畑勲は、本作品について「反戦アニメなどでは全くない、そのようなメッセージは一切含まれていない」と繰り返し述べたが、反戦アニメと受け取られたことについてはやむを得ないだろうとしている。高畑は、兄妹が二人だけの閉じた家庭生活を築くことには成功するものの、周囲の人々との共生を拒絶して社会生活に失敗していく姿は現代を生きる人々にも通じるものであると解説し、特に高校生から20代の若い世代に共感してもらいたいと語っている[15][16]

時代描写

高畑勲のリアリズム志向により、1945年(昭和20年)当時の風景が忠実に再現された[注釈 8]。作画に参加した庵野秀明が、神戸港での観艦式(清太の回想)の場面の軍艦(高雄型重巡洋艦摩耶」)を出来るだけ史実に則って描写する事を求められ、舷窓の数やラッタルの段数まで正確に描いたという逸話が残されている。もっとも完成した映画ではすべて影として塗り潰され、庵野の努力は徒労に終わった[17]

また、登場人物の会話は関西出身の俳優や声優を起用したネイティヴ関西弁である。「キイキ悪い(体調が悪い、病気の意)」、「(二本松の)ねき(脇、近くという意味)」などといった現在ではほとんど使われることがなくなった古い表現も、原作小説のままに使用されている。ただ、いわゆる神戸弁ではなく、大阪弁に近い言い回しに統一されている点が異なる。

テレビ放映

日本テレビ系列で放送されている『金曜ロードSHOW!』(前身の『金曜ロードショー』を含む)では1989年(平成元年)と 1990年(平成2年)に2年連続で放送された後、1993年(平成5年)以降は2年に1度(奇数年)、8月の終戦の日前後にこの作品を放映するのが恒例となっている。2009年(平成21年)に放送されてからはしばらく放送されていなかったが、2013年(平成25年)11月22日には高畑勲監督作品『かぐや姫の物語』公開記念で約4年ぶりに放送された[18]

反響・評価など

原作者の野坂は、映画公開前年に発表した文章「アニメ恐るべし」の中で、「いわゆるアニメの手法で飢えた子供の表情を描き得るものかと、危惧していたのだが、これはまったくぼくの無知のしるし、スケッチをみて、本当におどろいた。(中略)ぼくの舌ったらずな説明を、描き手、監督の想像力が正しく補って、ただ呆然とするばかりであった」とその緻密さに驚き、場所も含めたその描写によって自分が「眼をそむけつづけてきた」過去と「今は、少し正直に向き合っている」と記している[19]

『となりのトトロ』のような楽しいアニメを見ようと映画館を訪れ、楽しいトトロを見た後に『火垂るの墓』を見て、衝撃を受ける、涙が止まらない、茫然自失で席から立ち上がれない観客が続出したという[20][注釈 9]。そのため、「上映の順番を逆にしてくれればよかったのに」という声も少なくなかったテンプレート:要出典範囲

また、舞台となった西宮市の西宮回生病院香櫨園浜、夙川駅夙川公園ニテコ池(貯水池)、神戸市の御影公会堂や御影小学校、石屋川などを、モデルとなった場所を訪ねる人は絶えず、地域史研究の一環として地元の教育委員会が見学会を催すこともある。尚、ニテコ池へは阪神電鉄西宮駅より阪神バスの「山手線」もしくは「鷲林寺線」で「満池谷(まんちだに)」下車すぐである(ここには巨大な墓地と火葬場がある)。但し、舞台の一つである阪急三宮駅神戸阪急ビル)については、公開後に発生した阪神・淡路大震災により建物が全壊し、別設計の駅舎が再建されている。

日本で「ジブリがいっぱいCOLLECTION」シリーズとして発売されたセルビデオは、40万本を出荷した[21]。また海外でも多く視聴されており、英国の映画雑誌『エンパイア』誌が発表した「落ち込む映画ベスト10」の第6位にランクインされた。

黒澤明は『火垂るの墓』を見て感動するが、宮崎駿監督の作品と勘違いしてしまい、宮崎に賞賛の手紙を送っている。受け取った宮崎は複雑な顔をしたという[22]。ただ、一番好きだというわけではなく、一番最近の作品の中ではよかったということで褒めていたのだと、娘である黒澤和子が語っている。

パロディ・その他

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  • 中川家はコント内で、剛が節子、礼二が清太役を演じ、弱った節子が物を要求、だが清太は名前が似ているだけの物を持ってきて、節子がのり突っ込みした後違うことに気付き、清太が「それ○○やない、○○や〜」とぼけるネタを披露した。
  • 陣内智則は自身の「さお竹売り」というタイトルのコント内で、期末試験の勉強中の学生が、「節子と清太の一人二役を演じ同情を誘い、さお竹を売りつけようとしたさお竹売り」にキレて、さお竹売りの演技には騙されなかったものの結局ラストでは騙され、竿だけを売りつけられるというネタを披露した。
  • お笑い芸人のスギちゃんの過去の持ちネタの一つに本作の節子の物まねをするといものがあった。
  • KAMEN RIDER DRAGON KNIGHT』に登場するアルバートが関西弁で「兄ちゃん」と言うシーンは、日本語吹き替え版を担当した村井良大によると、関西ということで本作の節子の言い回しを参考にしたと明かしている[23]

関連商品

作品本編に関するもの

映像ソフト
  • 火垂るの墓 (VHS)ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント(1998年8月7日)
  • 火垂るの墓 DVD ワーナー・ホーム・ビデオ(2005年7月29日)
  • 火垂るの墓 完全保存版 DVD ウォルト・ディズニー・スタジオ・ホーム・エンターテイメント(2008年8月6日)
  • 火垂るの墓 Blu-ray ウォルト・ディズニー・スタジオ・ホーム・エンターテイメント(2012年7月18日)
  • 『となりのトトロ』&『火垂るの墓』2本立てブルーレイ特別セット ウォルト・ディズニー・スタジオ・ホーム・エンターテイメント(2012年7月18日)
出版
  • 節子―「火垂るの墓」メモリアルアルバム(1988年8月10日)ISBN 4-10-369603-6
  • 火垂るの墓(徳間アニメ絵本)(1988年8月31日)ISBN 4-19-703729-5
  • スタジオジブリ作品関連資料集 型録Ⅱ(1996年8月31日)ISBN 4-19-860560-2
  • 火垂るの墓(スタジオジブリ絵コンテ全集4)(2001年6月30日)ISBN 4-19-861379-6
  • ジブリの教科書4 火垂るの墓(文春ジブリ文庫)(2013年10月10日)ISBN 978-4-16-812003-9
  • シネマコミック4 火垂るの墓(文春ジブリ文庫)(2013年11月10日)ISBN 978-4-16-812103-6
音楽
  • 火垂るの墓 イメージアルバム徳間ジャパンコミュニケーションズ(1997年4月5日)TKCA-71115
  • 火垂るの墓 サウンドトラック 徳間ジャパンコミュニケーションズ(1997年4月5日)TKCA-71116

テレビドラマ

終戦60年スペシャルドラマ『火垂るの墓―ほたるのはか―』として2005年(平成17年)11月1日の火曜日21:00 - 23:54に日本テレビ系列で放送された。

ドラマ・コンプレックス」第一弾番組でもある。

撮影は当時の風景を可能な限り再現するために、神戸周辺のみならず日本各地をロケして行われた。視聴率は21.2%を記録した。アニメでは描写されなかった部分(清太達の名字、父親がいかにして戦争に出掛けたか、叔母が清太達を引き取ることになった経緯、清太が通う学校描写)が描かれた。本編のDVDは2006年(平成18年)2月22日発売された。

なお、ドラマ版の製作に当たって、野坂昭如は「ドラマは、原作を離れて自由である。ぼくの小説が戦後60年経った現在、違う形となり、今を生きる人たちに、戦争の惨たらしさを少しでも伝えられれば、原作者として有難いこと」とのメッセージを寄せている。

番組終了後、「このドラマはフィクションですが、世界中には今も清太や節子のように戦火の中に暮らしている子供たちが数多くいます。」と視聴者にメッセージを寄せている。

キャスト(ドラマ)

横川家
アニメ映画と同様駅員に節子の遺骨が入ったドロップの缶は放り投げ出されるが、久子に拾われた。
清太・節子の父、海軍大佐。1943年夏、出征の際、息子の清太に自分の代わりに大黒柱として母の京子と妹の節子を守り抜くよう言い聞かせた。戦争終了後、実は既に死亡していたことが判明する。
清太・節子の母。
澤野家
親戚の叔母。半年前に嫁ぎ先の源蔵の実家を空襲で失い疎開してきた。京子に頼まれ清太と節子を預かり当初は好意的に接していたが、帰りを待っていた源造が戦死し食べ物を自分の子供たちに与える為諍いが絶えなくなっていき、なつには「鬼」と比喩された。冒頭の2005年(現代)では95歳で大往生を迎え死去し、遺骨を拾われた。
久子の夫、大工。疎開先で赤紙が届き、1943年夏、「必ず生きて帰ってくる」と家族に伝え出征。その後、1945年にソルモン諸島ルバング島玉砕し、吉岡 利之により戦死通告が届く。
久子の長女。
源造の末弟で足が悪く杖を使用している。戦争終了後、老人に絡まれている清太を助けた後、久子に貯金を取り上げられそのまま家を後にする。
久子の次女。
久子の三女。
久子の長男。
町の人々
町の駐在。澤野源蔵の出征の際の行事に参加した他、戦死通告を久子に届けた。よろず屋の主人に殴られ警察に連れて行かれた清太を久子に引き渡した。清太達が二人で生活していると聞くと「戦争中に子供二人だけで生きていくなんて無理やで」と驚いていた。
非難先の小学校で、清太を重傷を負った母親の元に案内し、指輪を渡した。
配給された米を一人一人配っているが久子は澤野家では6人(清太、節子を預かってからは8人)分必要なためこれだけでは足りないと言うため度々口論になり、そんなに欲しいのなら闇米を買うしかないと勧めている。
清太と節子に食べ物を分けるのを拒否したため、清太に食べ物を奪われた。
よろず屋の主人。澤野源蔵の出征の際には本編の1943年夏以前に海軍で戦死した息子を思い出し泣いていた。
自分で飯を作ることになった清太に金額を負け、「何があったか知らんけど意地をはったらあかんで」と励ました。上記のように戦死した息子が海軍であったため、海軍大佐を父に持つ清太が自分の店に盗みに入った時には、情けなさのあまり自分の手も怪我をするほど殴りつけた。戦争終了後、現れた清太に素子とともに呆れるも、節子に食べ物を食べさせるため土下座され、卵と米を渡している。
栄作の妻。源蔵の出征の席で泣き出した栄作を叱責し、「あの子は天皇陛下のために死んだんや」と息子の死を受け入れていた。久子に清太が中学生なのに勤労動員や隣組の消火活動にも参加しないことに疑問を投げかけた。
60年後の現代
現代のなつ。
  • 光村 恵子 - 井上真央(二役)
現代のなつの孫。
その他

スタッフ(ドラマ)

撮影協力

実写映画

原作者の野坂によると、アニメ映画製作の段階までに何度か実写映画化の企画は存在した[19]。もっとも具体的だったのは、KKベストセラーズ創業者の岩瀬順三によるものだった[19]。岩瀬は、アメリカ・アリゾナ州に戦災を受ける前の神戸の街を再現し、アメリカで保存されている飛行可能なB-29から実際に焼夷弾を投下、出演者には断食をさせて栄養失調を再現するといった壮大なプランを描き、野坂自身も取材をかねてB-29に乗りに行ったりしたが、実現することなく岩瀬は亡くなった[19]

その後、2000年代になって改めて実写企画が発足し、2008年(平成20年)7月5日に公開された。黒木和雄監督により企画が進行していたが、黒木の死去により、黒木を師と仰ぐ日向寺太郎が監督となった。叔母役の松坂慶子は事実上の悪役ということから一度はオファーを断ったと告白している。

全ての撮影が舞台となる兵庫県内で行われた。池の土手を歩くシーンや池辺で飛び交うをとる印象的なシーンは、西脇市黒田庄町喜多字秋谷口の秋谷池[1]で撮られた。メイキングのDVDは公開同年の8月8日、本編DVDは翌2009年(平成21年)3月27日発売。

特徴

アニメ映画とは異なり、登場人物による回想を廃止し、現在進行形のストーリーに変更している。一部原作でのみ描かれた部分、本作オリジナルの部分も多い[注釈 10]。また、清太は喘息を持病に持ち、剣道が得意という設定が追加された。原作では駅で亡くなっていたが、実写映画では一人で生きようと雨の中歩き、倒れるもその後再び立ち上がり去っていった。

原作やアニメ映画などでは、当初はうまく行っていた叔母の家での共同生活が次第に悪くなる展開だったが、実写映画は最初から最後まで叔母の態度が悪い。「家に置くのを追い返そうとするも食料を持っていたことから態度を変えて置く」流れで共同生活が始まっている[注釈 11]。叔母の夫は直接登場しないもの「半年前に亡くなった」と言及されている。

清太の父の消息(生死)については特に触れられていない。なお、日向寺監督は、「姓名は亡くなった人物にだけ付ければいい」との考えで、作中で亡くなった人物にしか姓名は設定されていない。このことから、清太の父は姓名が設定されていないため、生きているのではないかとも言える。

原作、アニメ映画などでは空襲の被災により意識不明のまま亡くなった母を、実写映画では一瞬だけ意識を取り戻し、その後亡くなると言う形へ変更している。これに伴い叔母の家に向かう場面をやや変更し、到着するまでの道順が初めて描写された。また、今までは最初しか出番がなかった清太の地元の町内会長や西宮に住む原作の登場人物などがクローズアップされオリジナル化されて、今まではあまり描かれなかった清太と他者との交流シーンが大幅に追加されている。ちなみに、同じ野坂の小説『アメリカひじき』では、主人公の回想部で終戦直後の町内会の人々の様子が少し描かれている。

キャスト(映画)

スタッフ

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漫画化

『火垂るの墓』は滝田ゆうなどにより漫画化されている。

  • 『怨歌劇場』(ぱる出版、1993年10月20日)
    • 絵:滝田ゆう。原作:野坂昭如。
    • ※ 『火垂るの墓』をはじめ、野坂の12編の短編が漫画化されている。
  • 宙コミック文庫 漢文庫シリーズ『怨歌劇場』(宙出版、2007年1月25日)
    • 絵:滝田ゆう。原作:野坂昭如。
  • ホーム社 MANGA BUNGOシリーズ『火垂るの墓』(ホーム社、2010年7月10日)

合唱組曲

2010年(平成22年)に、新実徳英により混声合唱組曲が作られている[24]

  • 混声合唱組曲『火垂るの墓』 第33回演奏会 神戸市役所センター合唱団
    • 2010年(平成22年)11月19日 神戸文化ホール中ホール
    • 作曲:新実徳英。作詞:車木蓉子
    • 構成は、「1.駅」、「2.火垂る」、「3.飢え」、「4.悔」、「5.愛―蛍」、「6.臨―声」の、6から成る。
    • ※ 被爆・終戦65周年記念特別企画。

おもな刊行本

  • アメリカひじき・火垂るの墓』(文藝春秋、1968年3月25日)
  • 文庫版『アメリカひじき・火垂るの墓』(新潮文庫、1972年1月30日。改版2003年)
  • 限定豪華版『火垂るの墓』(成瀬書房、1978年6月21日)
    • あとがき:野坂昭如。
    • 収録作品:アメリカひじき、火垂るの墓
    • 限定200部。毛筆署名落款
  • アニメ絵本『火垂るの墓』(新潮社、1988年5月)
  • 大型アニメ絵本『火垂るの墓』(徳間書店、1988年8月)
  • 朗読CD『火垂るの墓』(新潮社、2001年7月25日)
    • 朗読:橋爪功。CD1枚。76分。
    • 収録内容:火垂るの墓、野坂昭如談話
  • 英文版『The Grave of the Fireflies』(Tate Pub & Enterprises Llc、2009年)

脚注

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注釈

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出典

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参考文献

関連項目

外部リンク

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  1. 『シネマトゥデイ』(2012年11月24日付)[2]
  2. 2.0 2.1 尾崎秀樹「解説」(文庫版『アメリカひじき・火垂るの墓』)(新潮文庫、1972年。改版2003年)
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 3.6 3.7 3.8 3.9 「第58回直木賞(昭和42年度下半期)選評」(オール讀物 1968年4月号に掲載)
  4. 野坂昭如「私の小説から 火垂るの墓」(朝日新聞 1969年2月27日号に掲載)。のち『アドリブ自叙伝』(筑摩書房、1980年。日本図書センター、1994年と2012年に復刊)に所収
  5. 野坂昭如「プレイボーイの子守唄」(婦人公論 1967年3月号に掲載)
  6. 野坂昭如「五十歩の距離」(『野坂昭如エッセイ集1 日本土人の思想』)(中央公論社、1969年)
  7. 7.0 7.1 野坂昭如『アドリブ自叙伝』(筑摩書房、1980年。日本図書センター、1994年と2012年に復刊)
  8. 1988年5月号『アニメージュ』の高畑勲監督の発言、ジブリレイアウト展の音声解説より
  9. 叶精二『宮崎駿全書』フィルムアート社、2006年、p113
  10. 叶精二『宮崎駿全書』フィルムアート社、2006年、p123
  11. 鈴木敏夫『映画道楽』ぴあ、2005年、p101-p102
  12. 12.0 12.1 12.2 高畑勲「『火垂るの墓』から、はや二十四年」『アニメーション、折にふれて』岩波書店、2013年、pp.122 - 126(初出は『百瀬義行 スタジオジブリワークス』一迅社、2011年)
  13. 鈴木敏夫『映画道楽』ぴあ、2005年、p107-p108
  14. 魔女の宅急便』TV初公開時の宮崎駿の発言
  15. アニメージュ』1988年5月号に掲載インタビュー
  16. 高畑勲『映画を作りながら考えたこと』(徳間書店、1991年)471頁
  17. 竹熊健太郎編『庵野秀明 パラノエヴァンゲリオン』太田出版、1997年、p69-p70
  18. テンプレート:Cite news
  19. 19.0 19.1 19.2 19.3 野坂昭如「アニメ恐るべし」(初出は『小説新潮』1987年9月号、アニメ映画版パンフレットに再録。『火垂るの墓』(文春ジブリ文庫・ジブリの教科書4、2013年)のpp.78 - 81にも掲載。 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "anime"が異なる内容で複数回定義されています
  20. 竹熊健太郎編『庵野秀明 パラノエヴァンゲリオン』太田出版、1997年、p72
  21. 日経BP社技術研究部 『進化するアニメ・ビジネス―世界に羽ばたく日本のアニメとキャラクター』日経BP社、2000年、47頁。ISBN 4822225542
  22. ラジオ「ジブリ汗まみれ」の鈴木敏夫の発言。
  23. 2010特撮ニュータイプ3月号インタビューより
  24. 混声合唱組曲『火垂るの墓』初演リーフレット表紙


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