高畑勲
テンプレート:ActorActress 高畑 勲(たかはた いさお、1935年10月29日 - )は、日本の映画監督、プロデューサー、翻訳家。別名義として武元 哲(たけもと てつ)を使用したこともある。株式会社スタジオジブリ所属、畑事務所代表、公益財団法人徳間記念アニメーション文化財団理事。元学習院大学大学院人文科学研究科身体表象文化学プロジェクト主任研究員。
目次
概要
岡山出身。岡山県立岡山朝日高等学校を経て東京大学文学部仏文科卒業。紫綬褒章受章。
日本で長編のアニメーション映画が本格的に製作されるようになった最初期から、制作に携わってきた演出家である。『アルプスの少女ハイジ』『母をたずねて三千里』『赤毛のアン』『じゃりン子チエ』『火垂るの墓』『平成狸合戦ぽんぽこ』などの演出、監督などで知られる。別名義にテレビ版『じゃりン子チエ』の演出時に使った武元哲(たけもと てつ)がある。
来歴
生い立ち
三重県宇治山田市(のちの伊勢市)に生まれ、1943年に岡山県岡山市へ転居。父は、岡山県の教育制度発展に尽力し、第4代経団連会長土光敏夫らと共に岡山県で初めての名誉県民に選ばれた元岡山県教育長・高畑浅次郎で[1]、7人兄弟の末っ子。
東京大学文学部仏文科卒業。学生時代からフランスの詩人・脚本家であるジャック・プレヴェールの作品を愛好し影響を受けており、彼の名詩集《Paroles》(邦訳題名『ことばたち』)の日本初完訳(2004年)という仕事も行っている(フランスの長編アニメーション映画でプレヴェールが脚本を執筆した『王と鳥』の字幕翻訳も手がけた)。
『紅の豚』の劇場用パンフレットではさくらんぼの実る頃(原題: Le Temps des cerises)の訳詞を載せている。
東映動画からトップクラフトまで
長編アニメ映画『やぶにらみの暴君』(『王と鳥』の原型)に感銘を受けて、アニメ業界入りを決意。大学卒業後に東映動画に入社。『わんぱく王子の大蛇退治』で演出助手になり、テレビアニメ『狼少年ケン』で演出デビュー。その仕事ぶりを認められ、長編アニメ『太陽の王子 ホルスの大冒険』の演出(≒監督)に抜擢される。
その後、宮崎駿らと共にAプロダクションに移籍、ルパン三世・第一シリーズ後半パートの演出を宮崎と共に担当し後のルパンシリーズの原型を作り上げた。また、映画『パンダ・コパンダ』『パンダ・コパンダ 雨降りサーカスの巻』の監督を務めた。この作品は脚本の宮崎駿のアイデアが存分に盛り込まれ『となりのトトロ』のルーツとされる。
ズイヨー映像(のちに日本アニメーションに改組)に移籍『アルプスの少女ハイジ』『母をたずねて三千里』『赤毛のアン』の演出を担当、海外ロケハンや徹底的に調べ上げた資料を元に生活芝居を中心としたリアリズムあふれるアニメを構築した。場面設計だった宮崎駿、絵コンテを担当していた富野由悠季に与えた影響は大きい。『未来少年コナン』では初監督で苦しむ宮崎駿を演出としてアシストした。のちにテレコム・アニメーションフィルムへ移籍。
ここで大きな転機が訪れる。1980年、当時一部で非常に人気を集めていた漫画『じゃりン子チエ』の映画化の企画が持ち込まれた。高畑は当初、この企画が『吉本興業』の肝いりで、声優に吉本の芸人を使わなければならないこと、公開予定が決まっており制作期間が短いこと、原作の漫画を読んだが、今一つ面白さが理解できなかったことなどがあり、難色を示していた。しかし研究熱心な高畑は、いつものように原作の舞台である大阪の下町に出かけていき、そこでこの原作で描かれている内容が非常にリアルで緻密に描かれていることに感じ入り、そこで初めて原作の面白さを理解し、監督を引き受ける。 1981年に公開された映画は、非常に制約の多い中で制作されたにもかかわらず、興行的にも成功した。その後、TV版が制作されることになり、再び高畑の元へと依頼が来る。この時、高畑は引き受ける条件として、映画版で主役・竹本チエを務めた中山千夏、準主役・竹本テツを務めた西川のりおを起用すること、それ以外の声優に関しても、ナチュラルな大阪弁が話せる声優を起用すること、というかなり厳しい条件を出したが、制作側がその条件を呑み、チーフディレクターを務めることとなった。高畑自身、この作品を非常に気に入っており、別名を使ってコンテを切ったり演出をしている。その時に使っていた別名は、本作で西川のりおが演じた竹本テツをもじった「武元哲」である。
同じ時期に、オープロダクションが自主制作で手がけた『セロ弾きのゴーシュ』の監督も担当し、5年を費やして1981年に完成(劇場公開は1982年)した作品は毎日映画コンクールの大藤信郎賞を受賞した。
『じゃりン子チエ』に前後して、当時テレコム・アニメーションフィルム(および親会社である東京ムービー)が社運をかけて取り組んでいた日米合作の劇場大作『NEMO/ニモ』に参加する。いったんは日本側の監督にノミネートされたが、制作体制の問題から1983年に降板し、テレコム・アニメーションフィルムを退社する(宮崎駿は一足先に退社していた)。『NEMO/ニモ』製作のための渡米時にフレデリック・バックの作品『クラック!』に出合い感銘を受けている。
その後、宮崎が監督する『風の谷のナウシカ』に参加しプロデューサーを務める。この『風の谷のナウシカ』は成功を収めたことから、宮崎はこの映画で得た資金を有意義に使いたいと考え、今度は高畑が監督する映画を製作しようと提案した[2]。その結果、水の都福岡県柳川市の風情をとらえた映画『柳川堀割物語』を撮影することになり、高畑が脚本・監督を務め、宮崎の個人事務所「二馬力」が製作を担当した。しかし、高畑があまりにも巨額な製作費を費やしたため、宮崎が用意した資金を全て使い果たした挙句、宮崎の自宅を抵当に入れざるを得ない事態となった[2]。困惑した宮崎は徳間書店の鈴木敏夫に相談し、『柳川堀割物語』の製作費を回収するには、新作アニメーション映画を製作しその収入で賄うしかないとの結論に至る[2]。その後、宮崎と鈴木は新作映画『天空の城ラピュタ』の製作を目指し奔走することになる。
スタジオジブリ以降
『風の谷のナウシカ』を制作したトップクラフトは既に解散していたため、宮崎駿と鈴木敏夫は『天空の城ラピュタ』を制作してくれるアニメーションスタジオを探していた。そのとき、高畑が「ならいっそのことスタジオを作ってしまいませんか」[2]と宮崎、鈴木らに提案した。これを受け、1985年、徳間書店が宮崎らの映画製作のためスタジオジブリを設立した。高畑も宮崎に請われてスタジオジブリに参加したが、高畑は「作り手は経営の責任を背負うべきではない」[2]と主張し役員への就任を辞退した。現在もスタジオジブリに所属してはいるが経営に関わる役職には就いてはいない。また、ジブリとは別に高畑個人の様々な窓口的事務を行う畑事務所を持つ。
1988年『火垂るの墓』の監督をつとめる。公開時点で清太が野菜泥棒をして捕まる場面など未完成のシーンが残ったままとなり、わずかながらも未完成のままでの劇場公開という不祥事に、いったんアニメ演出家廃業を決意したが、後に宮崎駿の後押しを受けて1991年に『おもひでぽろぽろ』で監督に復帰している。
1999年公開の『ホーホケキョ となりの山田くん』のあとは、10年以上公開作品がなかった。鈴木敏夫は2007年6月のTV番組において、なるべく早く高畑勲に映画を撮らせたいと語った。ただ高畑の場合自分で絵を描くことが出来ないので、彼のイメージを具現化できるアニメーターが必要になるのでその点が難しいが、何とかすると述べた。鈴木は実際に脚本段階まで進んでいる企画が複数あると明かした。2008年に高畑が新作長編を製作していることがアナウンスされた。
2009年、第62回ロカルノ国際映画祭にて、高畑の新作が日本の古典『竹取物語』を原作に、『鳥獣戯画』のようなタッチで描いた作品であることが明らかにされた[3]。2010年1月には、高畑のコメントも含んだ形で『週刊文春』で紹介される[4]。この中で高畑は「ストーリーは変えずに印象が全く違う作品にしたいと思っています。なかなか進まなくてだいぶ先になっちゃうかもしれませんが」と語った[5]。高畑が述べたように制作には時間を要し、約3年が経過した2012年12月になって、スタジオジブリは『かぐや姫の物語』のタイトルで2013年夏に公開予定であることを正式に発表した[6][7][8]。しかし2013年2月になり、制作の遅れから公開予定が2013年秋に延期されることが発表され[9]、同年11月23日に公開された。
ロシアのアニメ作家ユーリ・ノルシュテインとも交流があり、ノルシュテインの代表作『話の話』の研究書(徳間書店)も刊行している。また、前記のフレデリック・バックとはその後も交流や日本での紹介をおこない、尊敬を持って接し続けた。2011年にスタジオジブリの企画によりバックの展覧会を日本で開催した際には、来日したバックとテープカットもおこなっている[10]。2013年12月には亡くなる直前のバックを訪問し、『かぐや姫の物語』を見せることができた[10]。
アニメーション以外にも、人形劇の演出も手がけている。『おもひでぽろぽろ』をつくる前に、しかたしん原作の『国境』をもとにして、日本による中国への侵略戦争、加害責任を問う企画を進めていたが、1989年に起きた天安門事件の影響で企画が流れた。
近年は、講演活動やフランスのミッシェル・オスロ監督の長編アニメーション映画『キリクと魔女』などの一連の作品の日本語版の字幕翻訳・演出に従事。さらに原作本の翻訳も手がけている。
宮崎駿との関係
アニメーション作家・映画監督の宮崎駿は東映動画(現・東映アニメーション)時代の後輩である。また、『太陽の王子 ホルスの大冒険』から『おもひでぽろぽろ』に至るまで、永年に渡ってともに作品を作ってきた盟友でもある。東映動画時代、組合活動を通じて(まだ一アニメーターに過ぎなかった)宮崎に与えた思想的影響は少なくない。東映動画を離れて以降も共に作品を作り続け、演出面でも宮崎に影響を与えた。ただし、現在は二人三脚で作品を作ることはなくなっている。
高畑は現在の二人の立場の違いを「ジブリは宮崎駿のスタジオ。彼は役員だが僕は違うし…」と語っている[11]。
高畑は『となりのトトロ』について、「子供たちは森にトトロがいる可能性を感じられるようになった」と評価している。また、宮崎が基本設計した「三鷹の森ジブリ美術館」を激賞し、その建築的意義を称えている。また、宮崎は、その三鷹の森ジブリ美術館で開催された「アルプスの少女ハイジ展」で、高畑の演出を評価しながら詳細な解説を行ったり、『千と千尋の神隠し』の制作の際には、視点がずっと千尋を追うことに対し「パクさん(高畑)に怒られるな」とぼやいていたという。これは演出に際し、そういうことだけは絶対にやるなと高畑に教わったためである[12]。鈴木敏夫によると、宮崎が一番自分の作品を見せたい相手は高畑で、宮崎が見る夢にはいつも高畑しか出てこないと話したことがあるという[13]。
宮崎駿の映画には久石譲が『風の谷のナウシカ』以来、音楽を担当しているが、高畑が、まだ新進気鋭の作曲家にすぎなかった久石を、このとき決定したのが最初の出会いとなった[14]。この起用に関して、当時無名の久石を起用することにレコード会社と製作会社が難色を示し、公開前年の夏から年末にかけて難航する事態となったが、高畑が防波堤となり反対意見を退けたという[15]。
同じスタジオジブリで映画を製作する関係だが、興業成績では高畑は宮崎の監督作品に遠く及ばない。ジブリでの監督作品では最も高いのが『平成狸合戦ぽんぽこ』が配給収入26.5億円であり、宮崎の『千と千尋の神隠し』の興行収入304億円[16]とは桁違いの差をつけられている。『ホーホケキョとなりの山田くん』は、当時ジブリの親会社だった徳間書店社長の徳間康快が東宝と「ケンカ」してしまったため、東宝よりも配給力で劣っていた松竹で配給せざるを得なくなった[17]。これが原因となって制作費に20億円以上かけながら、興行収入16億円弱[17]・配給収入8億円弱という失敗(松竹は60億円の興行収入を見込んでいた)に終わり、かえって赤字が膨らむことになった。以後、高畑は次の新作まで14年を要することとなった。
仕事
緻密な構成力を有し、アニメーションでありながら、リアルで自然な説得力のある世界観を追求している。演出家であるものの、絵は描かず、制作の際は口述や筆記によって自身の演出プランを展開させ、それを作画技術を持つスタッフが絵コンテにまとめるという形式をとっている[18]。
しかしながら制作のスピードに関しては、宮崎が「パクさんはナマケモノの子孫です」と譬えるほど遅筆である。『太陽の王子 ホルスの大冒険』では、製作の遅れの責任を取って、プロデューサーが何度も交代するほどであった。『ホーホケキョとなりの山田くん』では「製作は順調に遅れています」という異色の予告編がつくられた。『かぐや姫の物語』がいったん『風立ちぬ』と同日公開とされたのは、制作作業の遅れ(絵コンテの進捗が1ヶ月で2分相当で、企画から5年経過の時点で30分しか完成しなかった)に業を煮やしたプロデューサーの西村義明が鈴木敏夫と相談の末、高畑を奮起させて進捗を回復させるために打った「大博打」だったという[19]。
予算管理については甘いと指摘されている。特に、『柳川堀割物語』を監督した際には、高畑が巨額の製作費をつぎ込んだため、宮崎駿が調達した資金だけでは足りず、結果的に宮崎が自宅を抵当に入れざるを得なくなるという騒動が起きている[2]。この『柳川堀割物語』騒動について、鈴木敏夫は「高畑さんはプロデューサーとしては予算管理ができても、自分が監督となると際限なくお金を使ってしまう」[2]と指摘している。また、総制作費50億円という日本映画としては破格の予算をつぎこんだ『かぐや姫の物語』の完成報告会見では、自ら「お金も時間もたくさんかけてやっと完成した。お金のことは考えずに作っちゃうのですが、できてしまうと、後はどう回収するか。問題はそればかり」と述べた[20]。『かぐや姫の物語』にこれだけの制作費を投入できたのは、高畑の監督作品、とりわけ『ホーホケキョ となりの山田くん』を気に入った日本テレビ会長(当時)の氏家齊一郎が、「高畑さんの新作を見たい。大きな赤字を生んでも構わない。金はすべて俺が出す。俺の死に土産だ」という意向で製作を要請し、氏家の逝去後もそのパトロンとしての遺志が尊重されたことが要因であると鈴木敏夫は述べている[21]。
人物
血液型O型。宮崎駿やプロデューサーの鈴木敏夫、元同僚の人びとから呼ばれる愛称「パクさん」は、東映動画時代に高畑がよく遅刻して食パンをパクパク食べていたことからついたニックネーム。趣味は音楽鑑賞と勉強。音楽に関しては特に造詣が深く、ピアノ演奏や読譜も出来るが、大塚康生によるとあまりそのことを表に出さないという[22]。『かぐや姫の物語』では挿入歌である「わらべ唄」「天女の唄」を作曲している。
かつては宮崎駿や鈴木敏夫と同じく愛煙家だったが、その宮崎と鈴木からの指示により2009年11月より禁煙に踏み切る[23]。高畑は2011年の氏家齊一郎への追悼文の中で、宮崎と鈴木がその後もタバコをやめないことも踏まえ、二人の禁煙の指示は氏家の強い意向を受けてのものであったと記している[24]。
略歴
- 1935年10月29日、三重県宇治山田市(現伊勢市)に生まれる。
- 1938年、三重県津市に転居。
- 1942年、三重県立師範学校男子部付属国民学校に入学。
- 1943年、父の転勤に伴い岡山県立師範学校男子部付属国民学校に転入。卒業後、岡山大学付属中学校に進学し卒業。
- 1954年、岡山県立岡山朝日高等学校を卒業、東京大学教養学部に入学。
- 1956年4月、東京大学文学部仏文科に進級。
- 1959年3月、東京大学卒業。4月、東映動画に演出助手として入社。『安寿と厨子王丸』『鉄ものがたり』『わんぱく王子の大蛇退治』『狼少年ケン』『太陽の王子ホルスの大冒険』『ひみつのアッコちゃん』『ゲゲゲの鬼太郎(第1作)、(第2作)』『もーれつア太郎』 『アパッチ野球軍』などに参加。東映動画労働組合で副委員長に就き、仕事では無く組合運動を通じ宮崎駿と知り合い親交を深める。
- 1971年6月10日、宮崎駿、小田部羊一と共にAプロダクション(現シンエイ動画)へ移籍。『ルパン三世 (TV第1シリーズ)』『パンダコパンダ』『パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻』『荒野の少年イサム』に参加。
- 1973年、宮崎駿、小田部羊一と共にズイヨー映像(現日本アニメーション)へ移籍。『アルプスの少女ハイジ』『フランダースの犬』『母をたずねて三千里』『ペリーヌ物語』などに参加。
- 1978年、宮崎駿の『未来少年コナン』に(絵コンテ)参加。
- 1979年、 『赤毛のアン』脚本・演出。
- 1981年、 テレコム・アニメーションフィルムへ移籍。『じゃりン子チエ』(脚本・監督)公開。
- 1982年、『セロ弾きのゴーシュ』(脚本・監督)公開。
- 1983年、『NEMO/ニモ』の準備作業をするが米国側と意見が合わず演出を降板。
- 1984年、『風の谷のナウシカ』(プロデューサー)公開。
- 1985年、 スタジオジブリ設立に参画。
- 1986年、『天空の城ラピュタ』(プロデューサー)公開。
- 1987年、『柳川堀割物語』(脚本・監督)公開。
- 1988年、『火垂るの墓』(脚本・監督)公開。
- 1989年、『魔女の宅急便』(音楽演出)公開。
- 1991年、『おもひでぽろぽろ』(脚本・監督)公開。
- 1994年、『平成狸合戦ぽんぽこ』(原作・脚本・監督)公開。
- 1998年、1998年秋の紫綬褒章を受章。
- 1999年、『ホーホケキョとなりの山田くん』(脚本・監督)公開。
- 2012年、ドキュメンタリー映画『いわさきちひろ 〜27歳の旅立ち〜』(出演)公開。
- 2013年、『かぐや姫の物語』(原案・脚本・監督)公開。
手がけた主要作品
- 1962年 鉄ものがたり (演助進行(演出助手と制作進行を兼任することを指す)
- 1963年 わんぱく王子の大蛇退治 (演出助手)
- 1963年 暗黒街最大の決闘 (助監督)
- 1964年 狼少年ケン おばけ嫌い ジャングル最大の作戦 (演出)
- 1965年 狼少年ケン 誇りたかきゴリラ (演出)
- 1968年 太陽の王子 ホルスの大冒険 (監督・演出)
- 1969年 1970年 もーれつア太郎 (演出)(カラー版OP/ED演出も担当)
- 1971年 長くつ下のピッピ ※アニメ化権取得に失敗
- 1971年 ルパン三世 (TV第1シリーズ) (演出)(大隅正秋降板後、宮崎と共に「Aプロダクション演出グループ」名義で参加)
- 1972年 パンダコパンダ (監督)
- 1973年 パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻 (監督)
- 1974年 1975年、1979年 アルプスの少女ハイジ (演出)
- 1975年 フランダースの犬 (第15話絵コンテ)
- 1976年 1980年 母をたずねて三千里 (演出)
- 1977年 アルプスの音楽少女 ネッティのふしぎな物語(絵コンテ)
- 1977年 シートン動物記 くまの子ジャッキー (絵コンテ)
- 1978年 ペリーヌ物語 (絵コンテ)
- 1979年 赤毛のアン (演出・脚本)
- 1981年 じゃりン子チエ (監督・脚本) ※劇場版
- 1981年 1982年、1983年 じゃリン子チエ (チーフディレクター、絵コンテ、演出) ※テレビ版
- 1982年 セロ弾きのゴーシュ (監督・脚本)
- 1982年 ニモ/NEMO (日本側演出) ※1983年3月12日に降板
- 1984年 風の谷のナウシカ (プロデューサー)
- 1986年 天空の城ラピュタ (プロデューサー)
- 1987年 柳川堀割物語 (監督・脚本)
- 1988年 火垂るの墓 (監督・脚本)
- 1991年 おもひでぽろぽろ (監督・脚本)
- 1994年 総天然色漫画映画 平成狸合戦ぽんぽこ (原作・監督・脚本)
- 1999年 ホーホケキョ となりの山田くん (監督・脚本)
- 2013年 かぐや姫の物語 (監督・脚本・原案)
賞歴
- 厚生省児童福祉文化賞『赤毛のアン』
- 第36回毎日映画コンクール大藤信郎賞『セロ弾きのゴーシュ』
- 第42回毎日映画コンクール教育文化映画賞『柳川堀割物語』
- 日本カトリック映画大賞『火垂るの墓』
- 文化庁優秀映画『火垂るの墓』
- 国際児童青少年映画センター賞『火垂るの墓』
- シカゴ国際児童映画祭最優秀アニメーション映画賞『火垂るの墓』
- シカゴ国際児童映画祭子供の権利部門第1位『火垂るの墓』
- モスクワ児童青少年国際映画祭グランプリ『火垂るの墓』
- 1992年 芸術選奨文部大臣賞『おもひでぽろぽろ』
- 第49回毎日映画コンクールアニメーション映画賞『平成狸合戦ぽんぽこ』
- 1995年度アヌシー国際アニメーション映画祭長編部門グランプリ『平成狸合戦ぽんぽこ』
- 第3回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門優秀賞『ホーホケキョ となりの山田くん』
- 1998年 紫綬褒章を受章。
- 2007年 第12回アニメーション神戸賞・特別賞を受賞。
- 2009年 ロカルノ国際映画祭名誉豹賞を受賞。
- 第68回毎日映画コンクールアニメーション映画賞『かぐや姫の物語』
- 2014年 東京アニメアワード特別賞「アニメドール」を受賞[26][27][28]。
- 第23回日本映画批評家大賞アニメーション監督賞を受賞。
- 2014年度アヌシー国際アニメーション映画祭で「名誉賞」(Cristal d’honneur)を受賞[29][30][31]。
著書
単著
- 『「ホルス」の映像表現』徳間書店アニメージュ文庫、1983
- 『映画を作りながら考えたこと 1955~1991』徳間書店、1991 ISBN 978-4-19-554639-0
- 『映画を作りながら考えたこと 2(1991-1999)』徳間書店 1999 ISBN 978-4-19-861047-0
- 『十二世紀のアニメーション―国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの』徳間書店、1999 ISBN 978-4-19-860971-9
- 『漫画映画(アニメーション)の志―「やぶにらみの暴君」と「王と鳥」』(岩波書店 2007年)
- 『一枚の絵から 海外編』岩波書店 2009
- 『一枚の絵から 日本編』岩波書店 2009
- 『アニメーション、折りにふれて』岩波書店 2013
共著
訳書
- ジャン・ジヨノ『木を植えた男を読む』訳著 徳間書店 1990
- ミッシェル・オスロ『キリクと魔女』徳間書店スタジオジブリ事業本部、2003
- ジャック・プレヴェール『ことばたち』(ぴあ 2004年
- プレヴェール『鳥への挨拶』編訳(ぴあ 2006年 奈良美智絵)
関連書籍
- 大塚康生『作画汗まみれ 増補改訂版』(ISBN 4198613613)
- 大塚康生『リトル・ニモの野望』(ISBN 4198618909)
- 大塚康生『大塚康生インタビュー』(ISBN 4408612553)
研究実績
- 学習院大学大学院人文科学研究科身体表象文化学プロジェクト編 主任研究員・高畑勲『世界の鏡としての身体:シェイクスピアからアニメーションまで』(ISBN 9874990398804)
脚注
関連項目
外部リンク
テンプレート:Normdaten- ↑ 小谷野敦『高畑勲の世界』青土社、2013年、p.20
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 鈴木敏夫「宮崎駿のスタジオジブリは『毎日が綱わたり』」『文藝春秋』88巻11号、文藝春秋、2010年9月1日、272頁。
- ↑ スタジオジブリの次回作は、高畑勲監督の「竹取物語」的映画 映画.com(2009年10月) 2013年5月26日閲覧。記事中にアジア映画専門ニュースサイト「Asian Movie Pulse」からの情報とある。
- ↑ 『週刊文春』2010年1月21日号、P134
- ↑ 『週刊文春』2010年1月21日号、P134
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 10.0 10.1 フレデリック・バックさん…死去直前に「かぐや姫」鑑賞 - 読売新聞2014年1月14日
- ↑ こどもの城(渋谷)での講演における発言テンプレート:要出典
- ↑ 『宮崎駿の世界』竹書房、2004年、p.14
- ↑ 鈴木敏夫『仕事道楽』岩波書店《岩波新書》、2008年、p117
- ↑ 『ジブリの哲学』鈴木敏夫 岩波書店、2008年
- ↑ 『I am 遥かなる音楽の道へ』久石譲 メディアファクトリー、1992年
- ↑ 日本映画においては、2000年より興行成績発表が興行収入ベースとなった。配給収入は興行収入から劇場の取り分を除いた金額で、通常興行収入の5~6割程度とされる。これに従うと『千と千尋の神隠し』は配給収入ベースで150~180億円程度となる。
- ↑ 17.0 17.1 『仕事道楽』p130
- ↑ ただし宮崎と組んだ時などには、どんな物語にするか? プロットは? 一つ一つの情景は? という事を綿密に打ち合わせて、共通のイメージが出来上がった時点で絵にしていくという繰り返しで、物語を作る際に宮崎は膨大な量のイメージボードを描いている。それがスタッフ共通のイメージとなって進行していく事が多く、『母をたずねて三千里』 の脚本の深沢一夫は、宮崎のイメージボードで出てきた着想も多かったと語っている。
- ↑ 西村義明「映画監督・高畑勲との8年。」『かぐや姫の物語』パンフレット
- ↑ 総製作費50億円の『かぐや姫の物語』に高畑監督「お金のことは考えずに作っちゃう」 2013年11月7日 ムービーコレクション
- ↑ 鈴木敏夫「氏家齊一郎という重石」『かぐや姫の物語』パンフレット
- ↑ 大塚康生・森遊机『大塚康生インタビュー』実業之日本社、2006年、p.255
- ↑ 高畑勲「禁煙レポート」『アニメーション、折にふれて』岩波書店、2013年、pp.350 - 367(初出はスタジオジブリ機関誌『熱風』2010年1月号)
- ↑ 高畑勲「追悼・氏家齊一郎」『アニメーション、折にふれて』pp.127 - 130(初出は『熱風』2011年5月号)
- ↑ 「日本共産党に期待します」 各界著名49氏が表明2012年12月4日 しんぶん赤旗
- ↑ 高畑勲監督、TAAF初の「アニメドール」を授賞!! - TAAFニュース2014年3月20日、2014年3月20日閲覧
- ↑ 東京アニメアワード:「かぐや姫の物語」高畑監督に特別賞 - 毎日新聞2014年3月20日、2014年3月20日閲覧
- ↑ アニメドール受賞の高畑勲監督、敬愛するM・オスロ監督と熱い握手! - 映画.com2014年3月20日、2014年3月20日閲覧
- ↑ Cristal d’honneur à Isao Takahata - アヌシー国際アニメーション映画祭公式サイト(仏語)
- ↑ 『かぐや姫』高畑勲監督、仏アニメ映画祭で名誉賞! - シネマトゥデイ2014年4月19日
- ↑ 高畑勲監督に名誉賞=仏アニメ映画祭 - 時事通信2014年6月10日