日系人

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テンプレート:存命人物の出典明記 テンプレート:Infobox 民族 日系人(にっけいじん)とは、日本以外の移住し当該国の国籍または永住権を取得した日本人、およびその子孫のこと。現在約260万人存在すると推定されている[1]。いわゆるハーフなどの混血の人も含む。日系人のうち日本に居住する者を「在日日系人」、日本以外に居住する者を「海外日系人」と呼びわけることもある。在日日系人は約35万人存在する。ただし混血が多いため、「日系人」は、その他に「スペイン人」「オランダ人」他多数、さまざまな人種名を併行して使い分けている場合が多い。

歴史

中世・近世

日本人町
朱印船貿易で日本人が移住した東南アジア諸港に日本人町が形成された。その最大のものはタイアユタヤ日本人町で、他にもベトナムホイアン(世界遺産)、マレー半島パタニ王国カンボジアプノンペンフィリピンマニラにも同様の小規模な日本人町があった。これらの日本人町は、江戸幕府鎖国政策により日本との往来が途絶えたため、現地に残留した。また朝鮮半島では中世に三浦倭館と称する日本人居留地があり、近世には釜山の草梁倭館となった。

近代・戦前

近代日本人の海外移民は、第二次世界大戦以前は一時的な出稼ぎの要素が強く、「故郷に錦を飾る」ことを目標とする者が大半であった。そこで、この時期の移民にはおおむね国籍の離脱・変更といった行為が伴っていない。一時的な出稼ぎと移民を区別すべきという意見もあるが、おおむね海外移民の嚆矢とされるのは、ジョン万次郎などごく少数の漂流民を除けば、明治元年(1868年)にいわゆる「元年者」と呼ばれるハワイへの移民153名が、非合法(江戸幕府とイギリス人ブローカーの契約だったため、明治新政府から認められず、パスポート不所持のまま移民)ながら渡航したのが最初である[5]。その後政府公認として、1881年のハワイ国王カラカウアの来日を契機にした1885年のハワイ移民を皮切りに19世紀末以降本格化、第二次世界大戦後暫くの間迄日本政府も積極的に関わって行われた。移民先は主にアメリカ州で、1893年グアテマラ移民をはじめとして、1897年に35名がメキシコへ渡った「榎本移民」をきっかけに組織的移住が始まり[6]アメリカ合衆国(特にカリフォルニア州ハワイ州)とブラジル(特にサンパウロ州パラナ州)が圧倒的に多い。1908年、日本政府と合衆国政府の間で紳士協定が結ばれ、日本からの移民制限、ハワイから米国本土への移民禁止措置が行われ、事実上既に移民した者の親族以外の渡航が不可能となり(親戚でなくとも、移民との結婚を前提に、いわゆる「写真花嫁」などとして渡航した女性はいた)、さらに1924年排日移民法が施行され、いかなる形の新規移民も認められなくなって以降、第二次世界大戦前には、先述のブラジルのほか、ペルーアルゼンチンボリビアパラグアイチリへの移民も盛んに行われた。一時期はフィリピンへも移民が行われた。

第二次世界大戦前には、日本が領有していた南樺太朝鮮半島台湾南洋諸島へ渡った者も多いが、これは日本領地内の移動と考える事もできる。法的には外国であった満州国への移住も、アメリカ州への移住と様相が違っていたともいえるだろう。これらの地域からは、日本が敗戦した1945年から数年間の「引き揚げ」によって合計300万人とも言われる日本人はほぼ一掃されたが、両親を失ったり、「引き揚げ」の途中で家族とはぐれたりして、孤児となった一部の日本人年少者が現地人の家庭に引き取られ、現地人として育てられた例もある(中国残留孤児も参照)。

だが、南洋諸島で居住していた日本人男性と現地人女性との間に生まれた子供は、そのまま米軍統治下に留まって米国籍を取る者が数多くいた。その後独立したパラオでは、クニオ・ナカムラなど日系人の政治家も多く、現在も日系人が大きな発言力を持っている。また数は少ないが、敗戦後にベトナムインドネシアに留まり、これらの国籍を取得した残留日本兵もいる。

アメリカ州への移民は主に農業に従事する人が多かった。大規模農業プランテーションでの小作のほか、日本国と受け入れ先国との取り決めにより一定の土地を自由に開墾する権利を与えられたというケースがよく見られる。しかし多くの場合、その土地は現地の人が開墾に二の足を踏む様な劣悪な場所であり、また流通市場の確保等の面において様々な困難・差別を受ける事も多く、初期の移民は白人地主に搾取される事も多かったため、成功に至れずに潰えてしまった者、帰国した者も少なくない。

それらの悪環境の中にあっても、日本人の特質とも言えるきめの細やかな管理が重要となる養鶏果実栽培等の分野を中心に徐々に成功する者も現れ、ブラジルでは大地主になる者も現れた。これらの成功者の功績等により、日系人は移民受け入れ国内でも一定の評価を得るに至り、"nikkei"と言う単語が認知される程になった所が多い。

戦後

第二次世界大戦直後には沖縄等の戦争の傷跡の深い地域から南米に移民する人が多かった。例えば、ボリビアには「オキナワ」と言う名前の日本人移住者が作った村がある。この移住事業にはGHQアメリカ軍の意向が強く働いたと言われている。

戦後の南米の移住者達には、日本政府の比較的手厚い支援があった。JICA(国際協力事業団、現国際協力機構)の南米での事業の大きな柱の一つは日系人移住者の支援にある。JICAによる日系社会支援は資金援助よりも、多数の農業専門家を派遣したり、日系社会青年ボランティア制度を運用する等と言った、人的・技術的な支援が主になっている。

移住者数は第二次世界大戦終結から1950年代にかけて、ベビーブームによって人口爆発が起こった事などから飛躍的に増加したが、この時に「土地がなくなる」などと言った農村部に危機感をあおる報道がなされ、国策的に移民が行われた。周到な準備がなされずに移民送出が行われたため、「棄民」と呼称されることもある。しかし、日本が高度経済成長を遂げ、国民が豊かになった1960年代に移民希望者が減少し始め、外国に移住するメリットがなくなり、1980年代から1990年代にはごくわずかとなった。

近年

1970年代末以降の「移民」は主に、海外への憧れによって海外移住を求める者がするものとされ、アメリカ(ニューヨーク市やカリフォルニア州)やヨーロッパの大都市(ロンドンパリなど)を中心に以前と比べるとかなり小規模ながらも行われた。この時代になると、交通機関、メディア・通信技術の発達、またビザなどの渡航に関する手続きが簡素になったため(主要国へビザなし観光渡航などが出来るようになった)海外の情報が大量に流入し、それに憧れる者が増えたためである。1970〜1980年代などに行われた、日本からの留学生が帰国せずに居留国にて永住権を取得する、または国籍を変更する行為は、通貨の価値バランスにも影響されて(1990年代初頭に1ドル80-100円時代があった為)1980年代末〜1990年代初頭の留学ブームで多少助長された。

しかしながら、バブル崩壊後から2010年前後には留学ブームの加熱自体がほぼ終息し、留学生の数は最盛期に比べかなり減少したため、現在の主な移民理由は外国人との結婚、親族の国への移民、1980年代の日本企業が海外に進出した時、外国で生まれた子供が成人し、日本国籍を選択しない場合、長年外国に住む帰国子女が日本になじめず、居留国に同化、移民するなどが主な理由である。

現在、日系人社会は、19世紀末から20世紀初頭に移民した所では3世〜5世が、戦後移民した所でも2世・3世が中心世代となってきている。日本国外にいる日系人を中心に日本語が読み書きできない、話せない日系人も珍しくなくなっている。特に、アメリカ州では、太平洋戦争下で、日系人の強制収容や、激しい差別が行われたため、日系人が移民先の国民である事・敵性外国人ではない事を国内に示すため、1930-1940年代生まれの3世以降には、わざと日本語を教えなかった家庭が多くあった事も影響している。

国籍

日本国の国籍法は、1985年に改正されるまで父系血統主義をとっていた。すなわち、父親が日本国民であれば子も日本国籍を得られるが、母親のみが日本国民である場合、子は日本国籍を得られなかった。20世紀前半に日本から移民した1世の下で生まれ、現地で結婚した日系2世の女性から生まれた子供(3世)は、日本国籍を得ていない。またこの事情により日本国籍を得られなかった3世男子の子供(4世)も日本国籍を得られない。日本国の国籍法が父母両系血統主義に改正されてから30年近くが経過し、このような事情が存在していることを想像することは難しくなっているが、留意すべき点である。

日系人はしばしば複数の国籍を持っている。1985年以降、日本は国籍に関して主に「血統主義」(親のいずれかが日本国民ならば日本国籍を取得できる)であるのに対し、日本人が多く移住した北米·南米の多くの国は主に「出生地主義(生地主義)」(生まれた国の国籍を取得できる)を採っているためである。近年の改正により、出生地主義国も血統主義的な要素を、血統主義国も出生地主義的要素を統合する傾向がある。例えばカナダ人夫婦の子供は、カナダ国外で生まれてもカナダ国籍が与えられる。

生地主義の国で1985年以降に生まれた者は、両親のどちらかが日本国籍を保持している限り日本と出生国両方の国籍を持つ事ができる。また生地主義の国ではなくとも、日本人と血統主義の国の人間との国際結婚であれば、生まれた子供が二重国籍を持つ可能がある(イランなど父親のみの血統主義しか認めない国もある)。またそのような国際結婚家庭の子供が生地主義の国で生まれた場合(例えばペルー人と日本人の子供がアメリカ合衆国で生まれた場合)、子供は三重国籍となる。

ただし、中華人民共和国など一部の国では血統主義の規定が厳密である。例えば、出生した日本人と中華人民共和国籍保持者の子は、出生と共に中国籍を保有するか、日本籍を選択する事を強いられるため、多重籍はほぼありえない。日本人と中国人の親を持つ子供が両国に出生届を出して、両方の国籍を得ようとしても、日本の国籍を選択する意向がないか厳しく調査される。後に、中国側に外国籍を持っている事が後に発覚した場合、中国籍を剥奪されるため、中国人と日本人夫婦の子孫は日系人にはなりえたとしても、日本国籍と中国籍を持つ多重国籍になる事はほぼあり得ない。

逆に海外で生まれた子供の出生届を日本の大使館総領事館に提出しなかったり、出生届に国籍留保の記入をしなかった場合は、両親とも日本人であっても子供に日本国籍は与えられない(ただし、養子でなく日本国民であった者の子の場合、日本に引き続き3年以上住所または居所が有れば、帰化手続きを取って日本国籍を取得することができる)。

日本の国籍法は、経過措置等を除き、多重国籍を防止するよう1984年に改正、1985年に施行されたため、基本的には22歳になるまでに国籍を選択しなければならないとされている。しかし、日本国籍の選択の宣言をしても、他の国が多重国籍を権利として認めていたり、問題としていない場合にはその国籍は失われないため、多重国籍の状態でいられる事になる。日本の国籍法は日本の国籍の選択の宣言をした場合、他国の国籍の離脱に努めることとなっているが、それには強制力は無く、また実際の運用上それを強力に要求した事例は知られていない。日本の国籍法は、多重国籍を認めている他国において日本国民の権利を行使する事や他国民の権利を行使する事を禁じてはいない。

1985年に日本では国籍法の大幅な改正が施行され、1984年12月31日までに海外で出生するなどして多重国籍になっていた者は、改正施行日の1985年1月1日の時点で20歳以上の場合(著名人の例ではアルベルト・フジモリ)はその日から2年以内に、20歳未満の場合(著名人の例では宇多田ヒカル)は22歳になるまでの間に、国籍の選択をする義務が定められた。同期限内に日本国籍選択の宣言をしなかった場合は、日本国籍を選択し他国籍を放棄する旨の宣言をしたものとみなされ日本国籍の保持が確定するが、必ず多国籍を喪失するわけではない。他国籍ついてはあくまで「日本の国内法に基づき」「外国籍を放棄する」ことを「日本政府に対してのみ宣言」したと「日本政府が一方的にみなす」に過ぎず、当該「他国政府」に対して国籍を変動させるような拘束力を持たないからである。また、法改正前からの既得権者に対する経過措置として、みなし宣言者に対しては国籍法第15条の「国籍選択の催告」及び第16条の「他国籍の離脱の努力規定・外国公務員となった場合の日本国籍喪失規定」は適用されないこととなっている(既得権対象者であっても自主的に日本国籍を選択した人は第16条の対象にはなる)。このため、「日本政府からは『日本国籍を選択し外国籍を放棄することを宣言した』とみなされているものの、法的には日本国籍も外国籍も引き続き合法的に保有している」重国籍者が多数存在する。

一方、この改正以降に出生するなどして本人の志望によらずに日本と他国との重国籍となった者は、22歳になるまでの間に国籍の選択をしなければならないのは改正前からの重国籍者と同じである。ただし

  1. その期限までに選択しなかった場合に「日本国籍選択宣言したものとみなす」ようなどちらかに自動決着させる規定はなく、そのまま「未選択状態」が続く
  2. 選択をしなかった場合は国籍法第15条の「催告」規定の適用を受け日本国籍を失う可能性がある。
  3. 日本国籍の選択を宣言した場合は他国籍の離脱に努めることが求められる(あくまで努力規定)

など、改正前からの重国籍者とは異なり、規制が厳しくなっている(ただし、過去実際に第15条と第16条の手続が行われた例はない)。

なお、元々の制度として重国籍者を網羅的に正確に把握・登録するシステムが日本にはない(重国籍を自ら表明している著名人や自ら重国籍者であることを法務局等に届け出ている人のような個別ケースを除く)ため、このような「みなし宣言者」、「未選択者」、「日本選択宣言者」である日本人の中には日本の旅券と外国の旅券の両方、あるいは外国の旅券のみを持って日本での出入国手続に及ぶ者が存在する。このような場合、出入国管理及び難民認定法(入管法)第2条第2号の規定の建前から言えば重国籍者は「当然に日本の旅券で日本人扱いで出国・帰国手続をする」ことが求められることになるが、実際には前述のように政府がそもそも誰が重国籍者かを把握仕切れていないため、(重国籍者とは気づかれぬまま)外国旅券でそのまま外国人として手続ができてしまうケースもある。現実的な出入国手続の現場の対応としては、戸籍謄本その他の資料で確認の上、外国旅券に日本人用の出国・帰国証印(スタンプ)を押して「重国籍者」と漢字で付記し日本人の出国・帰国の記録として取り扱うこととなっている[1][2]が、特に日本からの出国で外国旅券のみの場合は日本国籍の確認に手間取り出発便に乗り遅れるなどの不便をこうむる可能性もある。[3]

日本の国籍法の多重国籍に関するさらに詳しい内容は国籍法 (日本)#多重国籍者の国籍選択制度を参照のこと。

在留資格と労働範囲について

日本には35万人の日系人が居住しているが、基本的にビザの問題は存在しない。1990年の入管法改正で日系2世や3世又はその配偶者は、就労活動には制限のない在留資格(日本人配偶者等もしくは定住者)が与えられており唯一「公認」された「合法的な非熟練外国人労働者」である。日本政府は、政策上、製造業や建設業、サービス分野での単純労働の外国人は受け入れないという方針を定めているが、(不法滞在者以外は)日系人が唯一間接的に合法化されたその種の労働力である。

日系人数

日本国籍を保持している場合、永住者として外務省が調査する在外日本人の海外在留邦人統計に出てくるが、2世、3世となると、国籍は離脱し、また、混血も多く正確な日系人数の把握は難しい。南洋諸島のパラオミクロネシア連邦マーシャル諸島では全人口の2割程度が日系人とされることもある。また、長らくペルー日系人口は8万人といわれてきたが、この調査は数十年前に行なわれたものであり、しかも当時、ペルー国外に住む日系ペルー人は調査対象とはならなかったうえ、日本人との混血をあまりカウントしなかった。これらの事実と、その後の自然増を勘案すれば、現在の日系人口は数十万に達している可能性がある。テンプレート:要出典範囲もあるが、いずれも実数調査がなされていない。

ブラジル
1,400,000人
アメリカ合衆国
1,000,000人
ペルー
80,000人
カナダ
68,000人
アルゼンチン
32,000人
オーストラリア
20,000人
メキシコ
17,000人
パラグアイ
7,700人
ボリビア
6,700人
チリ
1,600人
コロンビア
900人
ドミニカ共和国
800人
キューバ
800人
ベネズエラ
800人
ウルグアイ
500人
エクアドル
300人

海外日系人協会資料より抜粋。平成16年。概数。

著名な人物

(名字の50音順)

あ行

か行

さ行

た行

な行

は行

ま行

や行

ら行

わ行

  • 若林兄弟() - 元プロアイスホッケー選手。カナダ移民の息子。
  • 若林忠志 - 元プロ野球選手、監督
  • 渡部満 - 元プロ野球選手

フィクション

フィクションにおいても、「日系人」という設定は、外国人っぽさを持たせつつも日本語が流暢であっても不自然でない存在としてよく利用される。例として、MASTERキートンの太一・平賀=キートン、機動警察パトレイバーの香貫花クランシー、To Heartの宮内レミィなど。

テンプレート:See also

関連項目

脚注・出典

テンプレート:Reflist

外部リンク

テンプレート:日系人
  1. 海外日系人協会の資料より在日日系人数、海外日系人数を合計。概数。アジア・ヨーロッパなどへの永住者や日系人は含まれていない。
  2. 「日本人奴隷の謎を追って」ニッケイ新聞
  3. 「慶長遣欧使節」派遣400周年」ニッポンドットコム財団
  4. 「慶長遣欧使節」派遣400周年」ニッポンドットコム財団
  5. これとは別に、当時独立国であった琉球王国からの出稼ぎ移民も多数存在した。このため現在もハワイの日系団体は、本土系団体と沖縄県系団体は別個の組織として運営されている。
  6. 日本と中南米(エピソード集)~遠くて近いアミーゴの国々~
  7. ヤンマーサッカー部セレッソ大阪の前身)在籍時代、釜本邦茂Jリーグ初代キャプテン)とチームメイトだった。
  8. テンプレート:Cite web
  9. テンプレート:Cite web