戴季陶

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戴 季陶(たい きとう)は中華民国の政治家。本名は伝賢で、季陶選堂がある。号は天仇

生涯

1896年に塾に入り古い学問を学ぶ。日本留学のため1902年成都の東游予備学校に入学し、日本語を学ぶ。そのころ啓蒙運動をしていた学者・徐子休から革命論や明末に漢民族が満州人に虐殺された話を聞き、民族意識を呼び起こされたという。1905年来日し、師範学校から転学し日本大学の法科に入学。在学中は戴良弼と名のり、麹町の松浜館で下宿をした。1908年頃大学にいた中国人留学生を組織して同学会をつくり日本語で講演もしたという。

1909年に学費がつきたので上海に戻り、江蘇地方自治研究所の主任教官をした後ジャーナリズムの世界に入り、その間に中国古来の学問素養を身につけ始めた。1910年に上海日報社と天鐸報の記者となり、総編輯として社説を書き文名を知られはじめる。国民党の元老といわれるようになる于右任の『民呼報』にも寄稿をする。

1911年に結婚。『天鐸報』が筆禍事件を起こしたため、マレー半島ペナンへ亡命し華僑の雑誌(新聞)『光華報』を出して革命を鼓吹する。中国革命同盟会に入り、武昌蜂起ののち上海に帰り、『民権報』を創刊。アメリカから帰った孫文と会う。1912年に孫文の秘書となる。1913年に日本へ亡命、1916年に帰国。この間、孫文の日本訪問における重要な会見・演説の通訳を務め、桂太郎犬養毅と交渉があった。1917年張勲が満州王朝の復辟を企てたため、孫文の命により田中義一秋山真之などに会い、日本政府の態度を調査している。1919年胡漢民廖仲愷朱執信らとともに孫文を助けて『建設雑誌』を出す。五四運動を評価し合作社の問題などにも興味を持っていたという。1920年、証券物品交易所を経営して、株に手をつけ翌年に不渡手形を出して失敗。陳独秀が上海にマルクス主義研究所を創立したときに、主要賛助者の一人になった。雑誌にカウツキーの『資本論』解説の翻訳をのせたこともあり、このころはマルクス主義に接近していた。

1923年の秋、国民党改組・容共政策について廖仲愷と対立。廖仲愷が容共政策を主張したのに対し、戴季陶は国民党のリーダーシップを維持するために共産党員が党籍を捨てて国民党員になるべきだと主張した。当時の中国共産党はコミンテルンの指導に盲目的に従っており、中国民族の革命をロシア一国の利益のために犠牲にする可能性があり、そのことに危惧を覚えていたためと考えられる。

1924年に孫文・廖仲愷の招きで広州へ行き、国民革命に参加する。国民党の中央執行委員・政治委員・宣伝部長に選ばれ、黄埔軍官学校の政治部部長になる。中央通訊社を創設。1925年に孫文が死去し、その6月『孫文主義之哲学』、7月『国民革命与中国国民党』を完成し、反共イデオロギーの理論化を行う。国民政府が成立し、委員となる。11月の西山会議に出席しようとしたが、国民党右派から容共分子と目されて暴漢に襲われたため果たさなかった。

1926年湖州にもどり政務から引退。このころの国民党は左派が強く、彼は警告を受け微妙な立場に立っている。広東大学(中山大学に改組)の校長となる。1927年、武漢政府に対抗して国民党右派の主張を宣伝するために訪日し、神戸・東京・大阪などの公開演説で武力侵略の方針をやめ、和平合作をせよと訴える。日本から帰った後『日本論』を書き、翌年出版。

1928年10月に国民政府の考試院院長になる。その後国共内戦によって国民党が中国大陸から追われるまで、国民党の文教政策の重鎮であった。少数民族政策に注意を払い、ボーイ・スカウトをつくり、仏教信者でもあったためインドに関心を持ち、ガンディーネールとも交渉があった。

1949年広州での死は、睡眠薬によるものといわれる。中国文学研究家で戴季陶の日本論を高く評価する竹内好は、戴季陶が自殺したという説について紹介し、自殺の原因として「中国共産党政権に追いつめられたというより、国民党の腐敗に対する絶望のためではないか」と推測している[1]

戴季陶の日本観

戴季陶は1917年『日本観察』、1919年『わが日本観』などでその日本への関心をあらわしている。1927年『日本論』は、それら論文の総仕上げであり、中国人が書いた政治・歴史をふくめた日本論の古典である。

戴季陶が日本論を執筆した動機は、田中義一内閣を批判すること、この内閣の対中国政策を日本の最終決定と見なし、その破滅的な結果を予測し、日本人に警告することである。

戴季陶は明治維新を分析し、日本が江戸幕府までの精神遺産により独自の近代化に成功したと説明する。そこで「武士道」に見られる犠牲精神を特筆する。日露戦争後の日本は、「尚武」の気象が国民全体から失われて軍国主義が幅をきかすようになり、他国の侵略に走るようになった、という。

彼が取りあげている日本の政治指導者は、桂太郎・板垣退助・秋山真之など直接面識がある人物であり、日本の新聞を良く研究し、そのことが戴季陶の「日本論」が学術著作ではなく、ジャーナリストが書いたユニークな史論となりえている理由かもしれない。

上記以外の著作

  • 1912年 『第三次平和会の研究』
  • 1914年 『中華民国と連邦組織』
  • 1914年 『欧米時局観』『世界時局観』
  • 1920年 『協作社の効用』
  • 1928年 『青年の道』
  • 1943年 『学令録』
  • 1959年 『戴季陶先生文存』全4冊
  • 1962年 『天仇文集』
  • 1967年 『戴季陶先生文存』続編

参考文献

  • 戴季陶『日本論』(1972年、社会思想社)
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年

脚注

  1. テンプレート:Cite book

文献情報

  • 「戴李陶における「中国革命」とその思想:中国・日本・アジアをめぐって」久保純太郎(神戸大学リポジトリ2005.3.31)[1]
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先代:
(創設)
考試院長
1928年11月 - 1948年6月
次代:
張伯苓