マニラ

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テンプレート:Infobox Settlement マニラ市テンプレート:Lang-tlテンプレート:Lang-en)は、フィリピン共和国首都メトロ・マニラとも呼ばれるマニラ首都圏に所属する市。フィリピンルソン島中西部にあり、マニラ湾東岸に位置している。

『東洋の真珠』などの美称があり、フィリピンがスペイン人によって植民地化された16世紀末よりフィリピンの首府であり、独立後も一貫して首都でありつづけている。市域人口は166万人(2007年)であり、人口1,155万人を抱えるメトロ・マニラの中核都市である。さらに近郊を含む都市圏人口は2,129万人であり、世界有数の大都市圏を形成している[1]

2014年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス人材文化政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第63位の都市と評価された[2]東南アジアでは、シンガポールバンコクジャカルタクアラルンプールに次ぐ第5位である。

語源

「マニラ」という名称は、タガログ語で「ニラノキ (テンプレート:Interlang, テンプレート:Snamei) の生えるところ」という意味の「マイニラ」に由来している。

歴史

スペイン人以前

16世紀のスペイン人到来以前から、パシグ川の流域にあって、マニラ湾に臨む交通の要衝にあった現代のマニラ地域には、マレー人の集落が存在しており、中国人などがさかんに来航して交易をおこなっていた。

レガスピの到来

東洋におけるスペインの拠点を築くべく初代総督としてフィリピンへやってきたミゲル・ロペス・デ・レガスピらはマニラの地理的な重要性に着目し、ここを占領して拠点化しようと考えた。レガスピは1570年に先遣隊を派遣してマニラを占領しようとしたがうまくいかなかったため、1571年に自ら赴いてマニラを占領した。レガスピは占領した5月19日が聖ポテンシアナという聖人の祝い日であったことから、ポテンシアナをフィリピンの守護聖人とした。

レガスピが築いた最初のマニラ市「イントラムロス」は、サン・アントニオ、サン・カルロス、サン・ガブリエル、サン・ルイスの四つの地域からなり、政庁と大聖堂および中央広場、アウグスティノ会の修道院や軍事施設、宿舎などがつくられた。

中国人たちはスペイン人の占拠によって交易に支障をきたしたため、その排除を狙った。初期のマニラは中国南岸部の海賊の領袖であったと考えられるリム・アホン(林鳳)なる人物の襲来を受け、火事などによっても破壊されることが多かった。

16世紀の終わりにこの地をおとずれたイエズス会員アントニオ・セデーニョは建築学の知識があったため、その指揮によってマニラの再建と要塞化がすすめられ、「イントラムロス」と呼ばれるマニラの城壁内地域が整備された。イントラムロスの内部には一般の建築物と共にマニラ大聖堂、サント・ドミンゴ教会など多くの壮麗な教会が建設されたが、多くは第二次大戦中に破壊された。唯一建設当時の姿を残しているサン・アウグスチン教会はフィリピンのバロック様式教会群として世界遺産に登録されている。

中国人たちは依然としてアジア経済を握っていたため、マニラにおいても大きな影響力を持ち、イントラムロスの外に中国人街を築いて暮らしながら、スペイン人たちと取引をおこなっていた。スペイン人と中国人は時に敵対しながらも、共存するという関係を続けていった。こうしてマニラはフィリピン人、スペイン人、中国人の混合する街という独自の性格を形成していくことになる。 テンプレート:Clearleft

スペイン時代からアメリカ時代へ

1762年には一時的にマニラがイギリス軍によって占領されたが、1764年には協定が結ばれてふたたびスペインの管轄化に入った。このころにはイントラムロスは完成しており、強固な要塞、東洋の拠点都市となっていた。交易が盛んになり、マニラを多くの人が訪れるようになると、マニラはいっそう発展し、イントラムロスの外の区域も発達していった。

スペインが強国の地位を滑り落ちた後もフィリピンとマニラはスペインの支配下にあり続けたが、19世紀になるとフィリピン人の知識人の間で独立運動が盛んになった。ホセ・リサールの啓蒙運動やカティプナンの軍事行動によりフィリピンは独立への道を進むかに見えたが、1898年米西戦争によってマニラのスペイン艦隊がアメリカ艦隊にあっさりと撃破されると、フィリピン人たちの願いも空しく、戦後のパリ条約によってフィリピンはアメリカ領となった。一部の闘士たちはなおも抵抗したが、米比戦争が勃発し、フィリピンが完全にアメリカ領となることを避けられなかった。

アメリカ占領下のマニラでは、東洋経営の拠点としての整備がおこなわれ、イントラムロスの旧市街を保存しながら、市内を近代化するという手法でインフラなどの整備がすすめられた。有名なマニラ・ホテルもアメリカ統治時代に建設された。1935年以降、ダグラス・マッカーサーフィリピン軍顧問という肩書きでマニラに在駐し、後に「フィリピン軍元帥」という名誉的な称号を受けている。 テンプレート:Clearleft

第二次世界大戦

1941年12月7日に日本がアメリカやイギリスと戦争状態に入り、日本軍がマニラへ迫ったことを受け、12月30日アメリカ陸軍部隊は、市と廃止されるすべての軍事施設から退出するよう命令された。

アメリカ陸軍ダグラス・マッカーサー将軍は潜水艦などを乗り継いで副官らとともにオーストラリアへ逃亡し、残留したアメリカ陸軍部隊は日本軍に降伏した。マニラはマニュエル L. ケソン大統領により「非武装都市」と宣言され、同市を死と破壊から回避させた。ケソン大統領は法令を発布し、行政区域「大マニラ (テンプレート:En)」を成立させ、マニラから離れた地域を安全地域として組み込んだ。

大マニラの市長にはケソン大統領の前官房長官だったホルヘ・B・ヴァルガスが選ばれた。1942年元日夕方、日本特使はヴァルガスに対し、日本軍は既にパラニャーケで野営し、翌日には大マニラに入ることを伝えた。1月2日午前9時から午前10時に、日本軍はマニラ市内に行進して入る。

ヴァルガスは、大マニラを新しい当局に委ね、残っているフィリピン人指導者たちを日本当局に紹介する仕事が任された。ヴァルガスと出席したフィリピン人指導者たちは、3つの選択肢から選ぶことを求められた。それは(1)全くの日本の軍政、(2)米比戦争の後、日本に亡命したアルテミオ・リカルテ将軍の下、ひとりのフィリピン人に任される独裁的な政府、もしくは(3) フィリピン人によって選んだ委員会による政府、というものだった。ヴァルガスと地元指導者たちは、第3の選択肢を選び、まず大マニラ、後にはフィリピン全土を統治しようとフィリピン委員会 (テンプレート:En) を設立した。

1942年、ヴァルガスはフィリピン委員会の議長となり、マニュエル L. ケソン大統領統治の米国自治連邦区としてのフィリピンだった時期に労働長官であったレオン・G・ギント卿を大マニラの市長に指名した。ギントは大マニラの解放まで同市の市長職を続けた。

ギントの戦時統治下、カロオカン、ラス・ピニャス、マラボン、マカティ、マンダルヨン、ナボタス、パラニャ-ケ、パサイ、サンファンはマニラの地区とされ、マニラ市はその南側地域の テンプレート:En(ニュータウンの意)、サンパロク、キアポ 、サンミゲル、サンタクルス地域の テンプレート:En(新時代)、 トンド地域の テンプレート:En(新生活)、ビノンド及びサン・ニコラス 地域の テンプレート:En(新秩序)などを併合して大マニラとなり、新しく成立したケソン市は破綻し、2つの地区に分けられた。

レイテ島の戦いの結果、1944年10月20日にアメリカ陸軍のマッカーサー将軍はフィリピンに戻り。1945年2月3日から3月3日にかけて日米両軍の間で行われたマニラの戦いのイントラムロス決戦終了後、日本軍は降伏し、完全に破壊されたマニラ市は正式にアメリカ軍の施政下へと戻された。

戦後

戦後のフィリピン独立とその後の経済発展を経て、1976年には、メトロ・マニラという広域都市圏が確立し、マニラは従来の区域を越えて大きく拡大した。イントラムロスと旧市街は戦後も破壊されたままであったが、1979年になってようやく国による再建活動が始められ、整備がすすめられて現代に至っている。

かつてマニラは東洋で最も美しい都市のひとつといわれていたが、戦後のフィリピンの発展とマルコス時代の停滞にともなって多くの貧民が流入し、多数のスラムが形成された。また、生活排水などによる環境汚染がすすみ、マカティ市などの近代的な区域を除いては多くの部分が雑然とており、都市の美化という問題を抱えている。

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地理

マニラ市はフィリピン北部ルソン島に設けられたマニラ首都圏の、マニラ湾に面した西側中央部に位置する。

市域はテンプレート:仮リンク北岸の8地区、南岸の8地区に分けられる。北岸のテンプレート:仮リンクチャイナタウントンドは東洋最大のスラムとして知られる。南岸にあるマニラ旧城のイントラムロス地区や、マニラ湾に沿ったベイウォークなど、観光名所はほとんどが南岸に集中している。

気候

マニラはケッペンの気候区分ではサバナ気候熱帯モンスーン気候の境界付近に位置する (Aw/Am)。フィリピンの他の地域と同様、マニラも熱帯地方に位置している。赤道に近いことから年間の温度変化は少なく、気温が20°Cから38°Cの範囲を超えることはごく稀である。しかしながら、湿度は年間を通してとても高い。乾季は12月の後半から5月にかけてで、残りの期間が雨季となる。雨季は雨により熱気が幾分抑えられる。また雨が一日中が降ることは稀で、短時間に激しく降る天気となる。台風の季節は6月から9月で、しばしば都市の一部に洪水を引き起こす。[3]

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経済

マニラの経済は様々な分野に多岐に渡っている。都市は良港であるテンプレート:仮リンクを抱えており、フィリピンの海の玄関として機能している。製造業としては化学製品や織物、洋服、それに電子機器といったものが生産されている。また飲食物やタバコといった製品も生産されている。地元の起業家は主にロープ、合板精製糖コプラココナッツオイルといった日用品を輸出用に加工している。食品加工業は都市で最も発達した産業の一つである。マニラはフィリピンの情報発信源でもある。[4]

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テンプレート:仮リンクはフィリピンの海の玄関である

テンプレート:仮リンクは市場のあるディビソリアと並んで活気のある地域で、高層マンションやオフィスが立ち並んでいる。同地域は市によりビジネス・プロセス・アウトソーシング (BPO) のハブとなるよう計画が進められており、既に30の施設がBPOオフィスへと更新されている。これらの施設は主にEscolta Streetに位置しており、以前はいずれも使用されていない建物であった。[5]

マニラには毎年100万人を超える観光客が訪れている。[4] 主な観光地としては城塞都市イントラムロステンプレート:仮リンクといったミュージアムがあり、その他にもテンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンク、マニラ動物園、チャイナタウン、それにブラック・ナザレ祭やリサール公園のパフォーマンスといったイベントが知られている。テンプレート:仮リンクは著名な観光地であり、かつフィリピンを象徴する施設の一つである。テンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクはかつてはナイトライフで知られた歓楽街であり、現在では上流階級が訪れるショッピング街として知られている。

マニラの名前は特産であるタバコ葉の名前としても使用される。いわゆる「マニラ葉」は幅広い味わいを特徴としている。ロープの原料となるマニラ麻にも用いられている。 テンプレート:Clearleft

交通

テンプレート:Multiple image マニラで最も有名な交通機関の一つがジープニーである。これは第二次世界大戦後に在比米軍が払い下げたジープが元となったいわゆる乗合タクシー[6]、今日ではトヨタ・キジャン第3世代のTamaraw FXのように、最初からこの用途に製造された車体も登場している。バスとジープニー、それにTamarawは、規定された料金で決まったルートを走行する。

マニラにはまた多数の通常のタクシーに加え、トライシクルと呼ばれるオートバイにサイドカーを付けた三輪タクシーや、ペディキャブと呼ばれる自転車にサイドカーを付けたものまで運行されている。ディビソリアなどいくつかの地域では、ペディキャブも動力付きのものが一般的である。テンプレート:仮リンクイントラムロスでは、スペイン時代から残るテンプレート:仮リンクと呼ばれる馬車が、主に観光客向けに運行されている。これらの公共交通機関はいずれも、市の許可の下民間により運営されている。

マニラ市を含むメトロ・マニラでは、LRTと呼ばれるマニラ・ライトレールとMRTと呼ばれるテンプレート:仮リンクの2系統の高架鉄道が運行されている。これらの路線は1970年代マルコス政権下で計画が開始されたもので、東南アジア初のライトレールであった。LRT-1線がタフト・アベニュー駅からリサール・アベニュー駅まで、MRT-2線がRamon Magsaysay Boulevardからテンプレート:仮リンクケソン市を経由して、パシッグ市のサントラン駅へと繋がっている。

マニラ市にはフィリピン国鉄の主要なターミナル駅も存在している。鉄道網は北側ではパンパンガ州サンフェルナンドと、南側ではアルバイ州レガスピへと続いている。

マニラ湾に位置するテンプレート:仮リンクはフィリピンの主要な港湾であり、同国の海の玄関でもある。海路だけでなく、テンプレート:仮リンクを用いるフェリーもまた運航されている。

マニラ市の空の玄関は、メトロ・マニラ南部に位置するニノイ・アキノ国際空港である。パンパンガ州クラーク国際空港も代替空港として使用される。

フォーブス誌2006年、マニラを世界で最も混雑した都市 (the world's most congested city) にランキングした。マニラでは交通渋滞が多発しており[7]、行政ではテンプレート:仮リンクの高架道路の建設といった渋滞緩和策を進めている。[8]

教育

施設

姉妹都市・友好都市

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脚注

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関連項目

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外部リンク

テンプレート:メトロ・マニラの行政区画 テンプレート:アジアの首都

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  1. Demographia: World Urban Areas & Population Projections
  2. 2014 Global Cities Index and Emerging Cities Outlook (2014年4月公表)
  3. テンプレート:Cite web
  4. 4.0 4.1 テンプレート:Cite encyclopedia
  5. テンプレート:Cite web
  6. テンプレート:Cite web
  7. テンプレート:Cite web
  8. テンプレート:Cite web