一式戦闘機

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テンプレート:Infobox 航空機 一式戦闘機(いっしきせんとうき、いちしき-)は、第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍戦闘機キ番号(試作名称)はキ43愛称(はやぶさ)。呼称・略称は一式戦一戦ヨンサンなど。連合軍のコードネームはOscar(オスカー)。開発・製造は中島飛行機[注 1]

四式戦闘機「疾風」(キ84)とともに帝国陸軍を代表する戦闘機として、太平洋戦争大東亜戦争)における主力機として使用された。総生産機数は5,700機以上で、旧日本軍の戦闘機としては海軍零式艦上戦闘機に次いで2番目に多く、陸軍機としては第1位[注 2]

開発

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一式戦一型(キ43-I)の三面図

1937年(昭和12年)に制式採用された全金属製低翼単葉機九七式戦闘機(キ27)は、主脚に固定脚を採用した保守的な格闘戦指向の戦闘機だった。しかしながら、同年の欧州では引込脚のBf109ドイツ)とスピットファイアイギリス)が出現しており、九七戦自体に限界を感じていた陸軍は新型戦闘機機の開発を模索するようになる[1]。同年12月、陸軍からキ43試作内示が行われ[2]1939年(昭和14年)末の完成を目指して開発が始まった[3]。軍の要求は、固定機関銃2挺、行動半径300kmを標準として余裕飛行時間30分、同時に製作が決まった重単座戦闘機(重戦)キ44に比べて格闘戦を重視、というものである[4]。中島飛行機では設計主務者として小山悌課長を中心とする設計課が開発に取り組み、研究課空力班からは戦後に国産ロケット開発で大きな足跡を残すことになる糸川英夫技師が設計に協力した。設計陣の一員だった青木邦弘は、陸軍の要求は「九七戦に対し運動性で勝ること」で「近接格闘性」という表現を排除していることに着目し、キ43は重戦指向であったと述べている[5]

引込脚以外の基本構造を前作の九七戦から踏襲したことから開発は比較的順調に進み、翌1938年(昭和13年)12月に試作1号機が完成、同月12日に初飛行している。ところが試験飛行の結果、ノモンハン事件で活躍した九七戦に比べ航続距離は長いものの、最高速度の向上が僅かな上に旋回性能も劣ることが判明する。そこで軽単座戦闘機(軽戦)派、重戦派の双方から中途半端とみなされたキ43試作機型をそのまま制式採用することは見送り、より強力なエンジンに換装して高速化を図った改良型(キ43-II)の開発を進めることが決定された[6]

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飛翔する一式戦一型(キ43-I)

キ43の開発・改良が続けられる間にも、日本と欧米諸国の関係は悪化の一途を辿った。参謀本部は、南進計画に伴い南方作戦にて遠隔地まで爆撃機を護衛可能、および制空することが出来る航続距離の長い戦闘機を要求。アメリカ軍イギリス軍の新鋭戦闘機に対抗可能と考えられたキ44(二式戦闘機「鍾馗」)の配備が間に合わないことと[注 3]飛行実験部実験隊長・今川一策大佐の進言もあり、1941年(昭和16年、皇紀2601年)に、一転してキ43試作機型に最低限の改修を施した機体が一式戦闘機として制式採用されることになった。このため、太平洋戦争開戦時に一式戦が配備されていた実戦部隊は僅か2個飛行戦隊飛行第59戦隊飛行第64戦隊)であったが、旧式化した九七戦に替わり改編が進められ、名実ともに陸軍航空部隊(陸軍航空隊)の主力戦闘機となった。

ちなみに、登場したばかりの頃は一式戦の存在自体があまり知られておらず、また当時の陸軍機は胴体に国籍標識ラウンデル)の日章を記入することをやめていたため、海軍ばかりか身内の陸軍機操縦者からも敵新型戦闘機と誤認され、味方同士の真剣な空中戦が起こるなどの珍事もあった。このため1942年(昭和17年)中頃からは陸軍機も再度胴体に日章を描く様になっている。また、外見が類似していることから、交戦相手の連合軍機操縦者から海軍の零戦と誤認される事例が多く、いわゆる零戦の戦果とされているものの少なからずは一式戦の戦果である。またビルマ方面のイギリス空軍からは「ゼロ・ファイター(零戦)」に類似した「ワン・ファイター(一式戦)」ということで「ゼロワン」と、それ以前にフライング・タイガース(AVG)によって「ニュー・ゼロ」と呼ばれたことも一時期あったという。 テンプレート:-

愛称

戦前中の日本では主に軍内部やマスメディア上において、陸軍航空部隊自体や各飛行部隊、航空機から空中勤務者などの比喩表現として「(荒鷲・陸鷲)」「」「隼」「翡翠」といった鳥類の呼び名が盛んに用いられており、それに呼応するように一般国民に対する宣伝のため、陸軍航空本部発表の正式な愛称として一式戦は「」と命名され(発案者は航本報道官西原勝少佐)、太平洋戦争開戦まもない1942年3月8日には「新鋭陸鷲、隼、現わる」の見出しで各新聞紙上を賑わした。

太平洋戦争中には戦況を報じる新聞・ラジオ放送ニュース映画雑誌戦記本絵本軍歌戦時歌謡)などといった各種メディアのみならず、加藤隼戦闘隊こと第64戦隊の戦隊長として南方作戦で活躍し軍神と称された加藤建夫少将[7]、「ニューギニアは南郷で保つ」と謳われた第59戦隊飛行隊長・南郷茂男中佐に代表されるエース・パイロットの活躍、映画翼の凱歌』(1942年10月公開)・映画『愛機南へ飛ぶ』・記録映画『陸軍航空戦記 ビルマ篇』(共に1943年(昭和18年)公開)・映画『加藤隼戦闘隊』(1944年(昭和19年)3月公開)といった実機の一式戦が出演する映画作品を通じ、一式戦「隼」は太平洋戦争中、最も有名な日本軍の戦闘機として日本国民に広く親しまれることとなった。

機体の特徴

飛行性能

最高速度・上昇力

ファイル:Oscara.jpg
一式戦一型丙(キ43-I丙)のハ25。環状冷却器が特徴

ハ25(離昇950馬力)を搭載した一型(キ43-I)の最高速度は495km/h/4,000mにとどまった。ハ25は二一型以前の零戦に搭載された栄一二型とほぼ同じものであるが、燃料が統一される開戦直前まで、陸軍では海軍より低オクタン価の燃料を使用していたことや2翅プロペラだったことが零戦との最高速度の違い(主翼改修前の零戦二一型の最高速度は509km/h)となって表れたと考えられる。エンジンをより高出力のハ115(離昇1,150馬力。海軍の栄二一型とほぼ同じ)に換装し、3翅プロペラ(直径は2.90から2.80mに短くなっている)を装備した二型(キ43-II)試作機の最高速度は515km/h/6,000mに向上、主翼を短縮し増速効果のある推力式単排気管を装備した二型後期生産型ではこれより30km/h以上高速だったとされる。更に高出力なハ115-IIに換装した三型(キ43-III)では、最高速度が560km/h/5,850mに向上しているが、機体重量が増したことから上昇力は一型と同程度に留まっている。

このような改良にも関わらず、最高速度は連合軍の新鋭戦闘機と比較すると劣速であった。また連合軍は大戦中期以降は初期の戦訓から一式戦の得意とする格闘戦を避け、一撃離脱戦法を駆使するようになった。大戦中後期、物量に勝る連合軍と、基礎工業力の弱さにより必要な機体数、高オクタン価燃料、高品質潤滑油や部品といった物資を十分に揃えられなかった日本軍との戦力差は開く一方であり、日本軍機は多くの場合寡勢を強いられた。一式戦二型でニューギニアの戦いに従軍した第59戦隊飛行隊長・南郷大尉は、1943年12月16日の戦爆連合40機(一式戦16機・三式戦闘機「飛燕」18機・一〇〇式重爆撃機「呑龍」6機)のマーカス岬上陸連合軍攻撃任務において、高空から急降下一撃離脱を行うP-38に5機の一〇〇式重爆が撃墜されたことに対し「P-38に翻弄され、もはや一式戦の時代に非ず」と日誌にしたためている(なお、この空戦の2日後には再度マーカス岬に南郷機ら一式戦と三式戦の計30機が出動し16機のP-38と交戦、運動性を活かし2機を撃墜し日本側損失は1機であった)[8]

加速性能

最高速度では連合軍の戦闘機に見劣りしていた一式戦だが、機体が軽い、プロペラの直径が比較的小さい(効率は低いが加速に有利)等々の理由で加速性能に優れていた。その加速性能はP-47P-51といった新鋭機にも劣らず、低空においてP-47が急加速した一式戦に引き離された、という事例が報告されている。ただしその軽さと脆弱性が災いし、特に一型では急降下時の加速に対する機体剛性に劣り、これが大きな弱点ともなっていた。

運動性能

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一式戦二型(キ43-II)ないし三型(キ43-III)

一式戦は1,000馬力級エンジン装備戦闘機としては非常に軽快な運動性を持っていた。しかし、試作機の最高速度が九七戦とさほど差がなかったことから、旋回性能についても九七戦と同等以上の確保が要求されたため、キ44用に開発された蝶型フラップ(空力班として、これらの研究開発に携わっていたのが糸川技師)が装備された。このフラップは空戦フラップとしても使用することが可能で、旋回半径を小さくするのに効果的であったが扱いが難しいため、熟練者でなければ実戦で上手く活用することは難しかったとされている。なお、九七戦との比較については、のちに空戦フラップを使用しなくとも、水平方向でなく上昇力と速度を生かした垂直方向の格闘戦に持ち込むことで圧倒可能と判断されている。これはノモンハン事件におけるソ連軍戦闘機I-16の戦法を参考にしたものだという[9]。一式戦一型の翼面荷重は102kg/m²、二型は117kg/m²、二式戦一型は171kg/m²、Bf109-Eは170kg/m²であり、一式戦の数値は群を抜いている[10]。なお零戦二一型は107.89 kg/m²、F4Fは115kg/m²、スピットファイア Mk. IXeは149 kg/m²であり、各国戦闘機の設計思想がうかがえる[11]

武装

一式戦は「運用目的を対戦闘機戦闘に絞ることで、武装の限定等の軽量化を可能とし、低出力エンジンでも一定の性能を確保する」という思想の元で開発されたため、当初はドイツ製のMG17 7.92mm機関銃の国産型が予定され、実際に試作1~3号機に2挺ずつ搭載されていた。この機関銃は口径こそ従来の7.7mm機関銃と大差ないが、より発射速度と弾丸威力の大きい新型で、九八式固定機関銃の名で仮制式となった。ところが、使用するバネの国産化が上手くいかずプロペラ同調に狂いが生じたため、4号機以降の増加試作機や最初期の量産型である一型甲(キ43-I甲)には従来の八九式固定機関銃(口径7.7mm)が機首に2挺装備された。

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ホ103 一式十二・七粍固定機関砲

1939年(昭和14年)、陸軍はより威力の大きい口径12.7mmの機関砲の搭載を模索し、ホ101ホ102ホ103ホ104の4種類の試作が始まった。ホ102はイ式重爆撃機としてイタリアより輸入したBR.20爆撃機搭載のブレダSAFAT 12.7mm機関銃の国産型で、増加試作機の7号機と10号機に搭載して試験が行われた。ホ103は、アメリカブローニングM2 12.7mm重機関銃の航空機関銃型であるAN/M2(MG53-2)を参考に、ブレダSAFATの弾薬筒規格(もともとはイギリスのヴィッカーズ12.7mm×81SR弾。AN/M2 12.7mmは12.7mm×99弾を使用)に変更・開発されたものであり、これは一式十二・七粍固定機関砲の名称で制式採用され、のちの陸軍主力航空機関砲となっている。

一式戦は開発中だったホ103の生産に目処がついたことから、機首左側の八九式をホ103へ換装することになり、これは順次施され一型乙(キ43-I乙)と呼称された。太平洋戦争開戦時までには全ての第一線機が機首右側に八九式を1挺、左側にホ103を1門装備となり、のちの一型丙(キ43-I丙)からは機首2門ともホ103装備となった。

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第25戦隊の新品の一式戦二型(キ43-II)。機首のカウリング上部の穴はホ103の発射口

ホ103は発射速度も良好で、またモデルとなったAN/M2 12.7mmにはない炸裂弾マ103)が使用可能かつ、より小型軽量という長所がある一方で、軽量弱装弾のため威力や有効射程に劣るという短所もあった。また初期はマ103の機械式信管の不具合により、弾丸が砲身内で破裂して機体を破損するケース(腔発)が多発した。このため、初期には砲身に鉄板を巻くことで腔発時の被害を少しでも軽減する措置がとられた。しかしながら、ホ103・マ103の量産と並行してこれらの不具合も徐々に改良されていき、また1943年後半には新型マ103(新型マ弾)が実用化され同年末から早急に実戦配備されている。この新型マ103は陸軍で新開発された空気式信管を使用することにより暴発事故は激減、かつ生産効率が(従来の複雑な機械式信管と比べ)8倍に上がり、さらに信管機構が単純化されたことにより弾丸にスペースができ炸薬が増量されたため火力が増している。新型マ103を装備する一式戦と交戦したアメリカ軍機の乗員は、その破壊力からよく「20mm弾が命中した」と報告している。なお、1943年12月1日にラングーンに飛来したアメリカ軍戦爆連合82機を第64戦隊を中心とする陸軍戦闘機隊が迎撃し、第7爆撃航空群第493爆撃飛行隊指揮官・プランマー中佐機や第308爆撃航空群指揮官・オブライエン少佐機を筆頭に6機のB-24を撃墜した。さらに第530戦闘爆撃飛行隊の1機のP-51Aが撃墜されている。日本側の損失は2機被撃墜(戦死1名)、5機が被弾損傷あるいは不時着した。同空戦が初陣となったのちのエース・池沢十四三伍長は、この頃から新型マ103を使用し始めたと証言している[12]

一式戦が搭載するホ103の装弾数は1門につき計270発で、弾種は基本的に一式曳光徹甲弾・マ102[注 4]・マ103の3種類を各割合1で使用していた。

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「B-24撃墜王」の通り名を持ち第25戦隊で活躍した第2中隊長たるエース、尾崎中和大尉の一式戦二型(キ43-II)。部隊マークとして白色で縁取られた中隊色の赤色帯と、機体番号「71」を垂直尾翼に、さらに「中隊長標識」として白縁の赤帯を胴体後部に描いている

「空の狙撃兵」と呼ばれた九七戦譲りの高い射撃安定性を持つ一式戦は、武装搭載数の割には命中率がよかったと言われる。しかし、ラバウルやニューギニア、ビルマでB-17やB-24の4発大型爆撃機の迎撃にあたっては、防弾装備の質の高さやハリネズミと形容された旋回機関銃の優秀な防御砲火により苦戦を強いられるなど、設計時に想定していない大型爆撃機迎撃に用いるには火力不足であった。第64戦隊の加藤中佐の一式戦が撃墜されたのも、火力不足を補うためにイギリス空軍のブレニム爆撃機に接近しすぎ、機体引起し時に腹部を晒したことが原因の一つだったとされている。ただし、一式戦の火力は大型爆撃機に対し無力だったというわけではなく、誤認による事故であるが、一式戦が防弾装備が皆無である海軍の九六式陸上攻撃機の右エンジンに短い連射を浴びせただけで空中爆発させ、撃墜してしまった「実績」もある[13]。さらに連合軍相手の一例としても(両軍の損害報告からの数字)、第25及び第33戦隊の一式戦は1943年8月の漢口の迎撃戦などで、陸軍航空軍第425爆撃飛行隊のB-24に対し前上方・前下方からの反航攻撃を試み、1ヶ月に満たぬ期間で損失2機に対し10機を撃墜[14]、1943年末以降は上述の通り新型マ103が配備され、信頼性とともに一式戦の火力は従来より増している。1944年11月5日、シンガポールのセレターに飛来した53機のB-29を、第1野戦補充飛行隊第17錬成飛行隊の一式戦15機が迎撃、損失1機に対し第468超重爆撃航空群指揮官・フォールカー大佐機1機を撃墜した[15]

しかしながら連合軍機との火力差を埋めようにも、主翼が翼銃・翼砲搭載に向かない三桁構造であったため、搭載するには主翼構造自体を再設計して変更せざるを得ず、新たな生産ラインを作る手間と時間が必要だった。また中島においては、より高速で12.7mm40mmの翼砲を持つ二式戦や、後続機となる四式戦の開発・配備が進んでいたためか、一式戦への翼銃・翼砲の装備は見送られた。手っ取り早い武装強化として、主翼下へのガンポッド装備も検討されたが、飛行性能が低下することからこれも見送られている。また、ホ103の拡大型であり四式戦などに装備されていた口径20mmのホ5 二式二十粍固定機関砲を搭載したキ43-III乙も試作されたが制式制定には至らなかった。

防弾装備

最初の量産型である一型では、生産当初から被弾時の燃料漏れによる火災を防ぐため、外装積層フェルト式の防漏燃料タンク(防漏タンク・防弾タンク、7.7mm弾対応)を装備。二型ではさらに防火性に優れた外装積層ゴム式(セルフシーリング)に換装、かつ大口径の12.7mm弾対応にしたほか、1943年6月よりの量産型からは操縦席背面(操縦者の頭部と上半身を保護)に13mm厚装甲(12.7mm弾対応)の防弾鋼板(防楯鋼板)を追加装備している。

陸軍はソ連軍を相手としたノモンハン事件の戦訓および、欧米機情勢の研究によって防弾装備の重要性を痛感しており、一式戦や二式戦といった次期主力戦闘機のみならず、九七式重爆撃機(キ21、1939年の初期量産型時点から防漏燃料タンク・防漏潤滑油タンクを装備。1943年中頃からはさらに防弾鋼板・防弾ガラスを追加装備)や、九九式襲撃機(キ51、1939年の試作時点からエンジン下面・操縦席下面・背面・胴体下面・中央翼下面に6mm厚の防弾鋼板ならびに、防漏燃料タンクを装備)といった主力重爆撃機・襲撃機攻撃機)などでも相応の防弾装備を要求している(九七戦も太平洋戦争開戦時には防漏燃料タンクに換装済)。

実戦

ファイル:Major General Tateo Kato. (Imperial Japanese Army).jpg
1942年初頭、第64戦隊のピスト(空中勤務者の控所を意味するフランス語由来の陸軍用語)にて第3中隊長安間克巳大尉らとくつろぐ戦隊長加藤建夫中佐

太平洋戦争開戦前の日中戦争支那事変)中、1941年6月から8月にかけて一式戦に全機機種改編した第59戦隊所属の9機が、漢口から明楽武世大尉[注 5]に率いられ重慶までの長距離進攻に参加、これが一式戦の初陣となる。同進攻戦では迎撃機が現れず空戦は起こらなかったが一式戦の長距離航続性能を実証した。同年8月末から日本内地の福生飛行場にて機種改編を開始した第64戦隊は、12月3日に旧駐屯地の広東から35機全機を加藤戦隊長が率い、1機の落伍もなしに2千数百kmを一気に飛翔し仏印フコク島ズォンドンに進出。7日夕刻からマレー半島コタバル上陸のため、海上を航行中の第25軍司令官山下奉文中将)部隊を乗せた輸送船団の上空掩護を夜間かつ荒天の悪条件のなか成し遂げ、8日の太平洋戦争開戦を迎える(マレー作戦)。以降、一式戦は南方戦線(マレー・シンガポールパレンバンジャワビルマといった各地の航空撃滅戦など)で大いに活躍する。

特に蘭印作戦中の1942年2月14日には、スマトラ島パレンバンに奇襲落下傘降下する第1挺進団挺進第2連隊(「空の神兵」)の挺進兵を乗せた一〇〇式輸送機(キ57)とロ式貨物輸送機、物資投下用の九七式重爆郡を加藤戦隊長の指揮のもと第64・第59両戦隊が空中掩護。一式戦は15機のハリケーン飛行場高射砲と応戦、第64戦隊機がマクナマラ少尉機とマッカロック少尉機を撃墜した(日本側喪失機は高射砲によって被弾した九七式重爆1機被撃墜のみ。挺進飛行戦隊輸送機と一式戦に損害はない)。結果、空挺作戦は成功し太平洋戦争の戦略的最重要攻略目標であるパレンバン油田・製油所および飛行場を占領確保した(パレンバン空挺作戦)。

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「白色電光戦闘穴吹」の通り名を持ち第50戦隊で活躍したトップ・エース、穴吹智曹長。1944年12月、曹長任官記念として明野陸軍飛行学校助教時代に撮影された1枚で、後方は同校所属の一式戦二型(キ43-II)

1942年4月にフィリピン攻略戦などを経て日本に帰国した飛行第50戦隊から手初めに、旧式化した九七戦を運用する部隊は順次機種改編され、以降一式戦は陸軍主力戦闘機として一〇〇式司令部偵察機とともに全ての戦線に投入された。

連合軍のトップクラスのエースを相手とした一式戦による戦果としては主に以下の事例が存在する。1944年初期、ニューギニア戦線では当時21機撃墜のニール・カービィ大佐(P-47操縦)が24機撃墜のリチャード・ボング大尉(P-38操縦)とアメリカ軍トップ・エースの座を巡り争っていた。カービィ大佐は第348戦闘航空群の指揮官(群長)として最新鋭のP-47を操縦し、1943年10月には同戦線にて、第64戦隊初代戦隊長を歴任したベテランである第14飛行団長寺西多美弥中佐操縦の一式戦を撃墜するなど戦果を多数記録していたが、1944年3月5日、僚機2機を率いて飛行第208戦隊九九式双発軽爆撃機3機を攻撃中に、飛行第77戦隊の一式戦5機の奇襲を受けて撃墜されている[16]。また、フィリピン防衛戦中の1945年1月7日、飛行第54戦隊杉本明准尉操縦の一式戦と飛行第71戦隊福田瑞則軍曹操縦の四式戦が、38機撃墜を誇るアメリカ全軍第2位のエースであるトーマス・マクガイア少佐操縦のP-38Lないし、その僚機でベテランのリットーメイヤー中尉のP-38Jを協同撃墜している。不意の遭遇戦で4機のP-38に遭遇し最初に劣位から応戦した杉本准尉機は1機のP-38を撃墜するも被弾、不時着するも地上でゲリラに射殺された。杉本機の空戦を目撃し現場に駆けつけた福田軍曹機は反航戦で1機を撃墜。先に撃墜されたマクガイア少佐・リットーメイヤー中尉の僚機であった2機のP-38の追撃を回避し生還。なお、福田軍曹は空戦時はマラリアの高熱により意識朦朧状態であり、かつ落下タンクと100kg爆弾を搭載したままであった。本空戦は特に乱戦であったため、一式戦(杉本)と四式戦(福田)のどちらがマクガイア機・リットーメイヤー機を撃墜したのか詳細は不明である[17]

ファイル:Ki43 NAN15Apr43.jpg
1943年、不時着大破した第50戦隊第2中隊所属の一式戦二型(キ43-II)。部隊マークとして機体後部側面に大きく「電光」を、また部隊マーク・スピナー・カウリング先端を第2中隊の中隊色である「黄色」で描いている。垂直尾翼の「孝」の文字は本機を愛機とする操縦者が考案・記入した個別愛称(第50戦隊にて流行した行為)

カタログスペックから見て太平洋戦争後半には完全に旧式化したと思われる一式戦だが、1945年(昭和20年)まで生産が続けられた。そのような機体を大戦末期まで生産・運用したことを陸軍の不手際と評価する記事もあるが、後続となる二式戦は重戦型で、運動性能に優れた機体に慣れたベテラン操縦者(あるいは適応力のない操縦者)の中には使いにくいと評価する者がいた。ほかの戦闘機を見るならば、三式戦闘機「飛燕」(キ61)はエンジンの信頼性に問題があり全体的に稼働率が低く、1944年より「大東亜決戦機」たる主力戦闘機として重点的に生産・配備された四式戦は、そのバランスの取れた高性能と実戦での活躍により、アメリカ軍から「日本最優秀戦闘機」と評されたものの、末期にはハ45の質の低下や、高品質潤滑油や高オクタン価燃料の不足などによりこちらも信頼性に難があった。一式戦は全生産期間を通じて比較的安定した性能を維持しており信頼性も高く、また新人操縦者にも扱いやすかったため使用は継続された。

また、開戦初中期の航空戦に限らず、ビルマ戦線や中国戦線では大戦末期の1944年後半においても、P-40やハリケーンのような同時期に登場した戦闘機のみならず、P-38・P-47・P-51・スピットファイアといった連合軍の新鋭戦闘機との戦闘で互角の結果を残している。中でもP-38・P-47・P-51はビルマ戦線において一式戦との初交戦で一方的に撃墜されているなど、勝利を収めたことも少なからずある。これらは日本軍と連合軍側の戦果・損失記録の比較により裏付けも取れている記録である[18]

例として1943年11月27日の迎撃戦では、88機のP-38・P-51・B-24・B-25戦爆連合に対し第64戦隊の黒江保彦大尉は一式戦8機・二式戦1機を率い迎撃[注 6]、のちに遅れて飛行第21戦隊二式複戦「屠龍」(キ45改)8機が迎撃に参戦するが、戦闘はほとんど第64戦隊の9機によって行われ、むしろ遅れてやってきた二式複戦がP-51に追い立てられて黒江大尉の一式戦に助けられるなど戦力になっていなかった。結果としてB-24撃墜3機と損傷4機、P-38撃墜2機(2名戦死)、P-51撃墜4機(3名戦死、1名捕虜)と損傷1機の戦果を挙げ、損害は一式戦被撃墜1機(操縦者生存)と損傷1機、二式戦被撃墜1機(1名戦死)、二式複戦被撃墜1機(操縦者と同乗者2名戦死)というものだった。この日、第21戦隊はB-24の撃墜を1機報告しているのみであるから、殆どが一式戦の戦果と思われる。またこの日報告された64戦隊側の戦果報告はB-24撃墜2機、P-38撃墜2機、P-51撃墜4機としており、5倍や10倍の戦果誤認が多い空中戦にも関わらず実戦果と一致させている。撃墜認定の厳しい64戦隊では少なからずこのような事態が発生している事も特筆される[19]

ファイル:Ki-43s and Ki-84s.jpg
終戦直後の一式戦(右列。所属不明)他。左列は四式戦郡(手前、部隊マーク「片矢印」の飛行第85戦隊、左奥数機、部隊マーク「菊水紋」の飛行第22戦隊。両戦隊ともに在朝鮮部隊)、右奥は一式双発高等練習機

また一式戦は陸軍機という性質上、零戦に比べ多くの爆弾(両翼下に最大で250kg爆弾を1発ずつ搭載可能)を搭載ないし落下タンクとの併用が可能であった。これは襲撃機の代用がつとまることも必要とされたことであった。主に大戦中後期には飛行分科「戦闘」の部隊機は戦闘爆撃機(通常爆弾やタ弾を搭載)としても積極的に利用されており、また一部の飛行分科「襲撃」・「軽爆」の部隊は(戦闘爆撃機となった)一式戦に機種改編している。戦果の一例として、1945年2月11日、ラムリー島の戦いにおいてイギリス海軍の艦艇攻撃に出撃した第64戦隊の爆装一式戦12機のうち、池沢軍曹機と僚機の池田軍曹機の2機は2,200t級駆逐艦パスファインダー」に急降下爆撃、「パスファインダー」は艦尾に2発の直撃弾を受け大破。戦闘後にイギリス本国に曳航されたものの、損傷激しくそのまま廃艦となっている。ただし大型爆弾を搭載した場合、飛行性能は大幅に低下し、また脚部の強度が不十分であるため離着陸に注意が必要であった。

テンプレート:-

諸元

ファイル:Nakajima Ki-43 Hayabusa Peregrine Falcon.jpg
両翼下に落下タンクを搭載した一式戦二型(キ43-II)
制式名称 一式戦闘機二型
試作名称 キ43-II
全幅 10.837m
全長 8.92m
全高 3.085m
翼面積 22m²
翼面荷重 117.7 kg/m²
自重 1,975kg
正規全備重量 2,590kg
発動機 ハ115(離昇1,150馬力)
プロペラ 住友ハミルトン可変ピッチ3翅 直径2.80m
最高速度 初期型:515km/h/6,000m
前期型:536km/h/6,000m
後期型:548km/h/6,000m
上昇力 高度5,000mまで4分48秒
降下制限速度 600km/h[20]
航続距離 3,000km(落下タンク有)/1,620km(正規)
武装 機首12.7mm機関砲(ホ103)2門(携行弾数各270発)
爆装 翼下30kg~250kg爆弾2発

各種形式

ファイル:Ki-43-I at Brisbane 1943.jpg
一式戦一型(キ43-I)
一型(キ43-I)
ハ25を装備した最初の生産型。武装は増加試作機や極初期量産型は7.7mm機関銃2挺(一型甲キ43-I甲)だが、開戦前に7.7mm機関銃1挺+12.7mm機関砲1門に強化(一型乙キ43-I乙)し、また更に12.7mm機関砲2門に換装(一型丙キ43-I丙)された。生産当初から7.7mm弾対応の防漏タンク(防弾タンク)を装備。1941年4月から量産され6月より部隊配備された。1943年中に大半の実戦部隊では二型(キ43-II)に改編され第一線を退き、1944年末頃まで標的曳航機や訓練機として運用された。いきすぎた軽量化のために機体強度に問題があり、例として1942年7月31日のビルマにおける空中戦では、急降下するP-40を追尾した3機の一型が、引き起こしの際に両翼が折れて失われている。

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二型(キ43-II)
一型の欠陥を改善、機体構造が強化され降下制限速度が一型の500km/hから600km/hにまで引き上げられた他、エンジンをハ115に換装、これに伴いカウリングも抵抗の少ない丸みを帯びた形に変更され、一型ではカウリング内に環状式に装備されていた潤滑油冷却器がカウリング下に移されている。さらに左右主翼端を30cmずつ短くし、プロペラを2翅から3翅に、照準器は眼鏡式(八九式照準眼鏡)から光像式(一〇〇式射撃照準器)に、操縦席の天蓋(キャノピー)も一型の平面構成から枠が少ないよりスマートな曲面構成となった。武装は12.7mm機関砲2門、防漏タンクは12.7mm弾対応に強化されたほか、1943年6月生産の第5580号機から操縦席背面に厚さ13mmの12.7mm弾対応防弾鋼板(防楯鋼板)を追加装備した。1942年2月にキ43-II試作1号機が完成し同年11月から量産開始、1943年1月より実戦配備された。一式戦の各型のうち最多生産型。
前期生産型では一型と同様の集合排気管であったが、排気のロケット効果を利用して速度を向上させるため、後期生産型では推力式集合排気管に変更し最高速度が536km/hに向上、さらに効果の高い推力式単排気管を採用し最高速度を548km/hまで向上させた。なおこの排気管は二型を三型に改造する現地改修用キットが、末期生産型の二型に転用されたものであった。

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ファイル:Chiran high school girls wave kamikaze pilot.jpg
1945年4月、250kg爆弾を搭載し特攻に出撃する第20振武隊穴沢利夫少尉の一式戦三型甲(キ43-III甲)
三型(キ43-III)
エンジンを水メタノール噴射装置付きのハ115-IIに換装した最終生産型。武装や防弾は二型と同じ(三型甲キ43-III甲)。四式戦の生産のために中島は試作のみを行い、量産は全て立川で行われた。1944年7月から量産が開始されたが、実戦配備当初は水メタノール噴射装置の不具合や整備兵の不慣れにより稼働率が一時低下している。武装を20mm機関砲2門に強化したキ43-III乙は試作のみ。
三型(二型後期含む)になると、当初の「軽戦」のイメージが薄れ、かなり無理がきく機体になっていた。

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キ43-IV
計画のみに終わった型式で、幾つかの異なるプランが存在した。
(1) - エンジンを陸軍側の提案でハ45に換装した機体で、多くの文献にも記述が見られるが、三型の開発主務者であった大島賢一技師が異議を唱え、中島も四式戦の開発に専念するために中止となったもの。
(2) - エンジンを水メタノール噴射装置付きのハ112-II(海軍の金星六二型とほぼ同じ)に換装し、機体の一部を木製化した機体。
このほかにも、生産が立川に移管されたのち、余剰になっていたハ33-42(海軍の金星四二型とほぼ同じ)を使用した機体を計画したが、出力がハ25程度でしかないためか、陸軍航空本部の指示で中止しており、実現していれば四型を名乗った可能性がある。

日本国外での運用

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インドネシア軍で戦後に使用された一式戦二型(キ43-II)。天蓋がオリジナルの二型とは異なるなど手が加えられている。インドネシア空軍中央博物館

一式戦は日本軍以外の軍隊で最も運用された日本製戦闘機でもある。大戦中には「友好国」であった満州国軍タイ王国軍に供与され、両軍では連合軍機を相手に幾度となく戦闘を行っている。タイ王国軍は一式戦に国籍標識として「白」を垂直尾翼に描き、第64戦隊により運用の指導[注 7]が行われ(それらの模様は1944年4月27日の日本ニュース第204号『タイ空軍「隼」戦闘機で訓練』に収録)、バンコク空襲では日本軍機とともに迎撃戦に参戦している。第二次大戦後も数年間、アメリカ製戦闘機が配備されるまで使用されていた。

また、外地で終戦を迎えた一式戦はフランス軍インドネシア軍中華民国軍国民革命軍国民党軍)、中国人民解放軍紅軍共産党軍)、朝鮮人民軍に接収された上で使用されている。フランス第一次インドシナ戦争において二つの部隊で二型を対ゲリラ戦に、インドネシアではインドネシア独立戦争において二型を対イギリス軍・オランダ軍に実戦投入している。これら各国では、敗戦により武装解除を受け捕虜となった日本軍操縦者により操縦方法を伝授されていた。中国では共産党軍が関東軍第2航空軍第101教育飛行団第4練成飛行隊の日本軍人らによる東北民主連軍航空学校での指導の下に、国共内戦において使用。一方の国民党軍においても自軍の国籍標識を付けた機体が複数存在したが、アメリカからの全面的な支援を受けていた国民党軍においてこれらがどの程度実用されていたのかは明らかでない。朝鮮人民軍では、戦後の一時期、創設間もない航空部隊の訓練用に二型を運用しており、ソ連機が配備されるまで使用された。

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現存機

ファイル:Ki-43-I at Rabaul 1945.jpg
のちにレストアされフライング・ヘリテッジ・コレクションが収蔵する一式戦一型丙(キ43-I丙)。終戦直後の1945年9月にニューブリテン島で撮影
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フライング・ヘリテッジ・コレクションが収蔵する上掲の一式戦一型丙(キ43-I丙)

一式戦の代表的な現存機としては、主に以下の機体が存在する。

このほか、テキサス・エアプレーン・ファクトリーおよびゴスホーク・リミテッドが、占守島付近で発見された実機の三型甲(飛行第54戦隊機)の残骸を元にリバースエンジニアリングし4機を再生、うち1機はR-1830 ツインワスプなど現用品を使用するなどし、飛行可能状態でティラムック空港のティラムック航空博物館[25]、飛行不可能な残り3機のうち1機がボーイング・フィールドのミュージアム・オブ・フライト[26][27]、また、1機はロシア大祖国戦争中央博物館に存在する。

日本国内では、知覧特攻平和会館[28]に映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』の撮影に使用された三型甲をモデルとするレプリカが、世界で唯一良好な形で現存する実機である三式戦・四式戦と共に展示されている。

登場作品

  • 翼の凱歌』(東宝映画製作の戦争映画) - 実機の一型が登場。一式戦の開発ストーリーを描く。
  • 『陸軍航空戦記 ビルマ篇』(日本映画社製作の記録映画) - 実際のビルマ戦線の戦場における一型や九九襲・九九双軽・九七重爆・九七司偵などの従軍模様を撮影。
  • 加藤隼戦闘隊』(東宝製作の戦争映画) - 実機の一型と二型が登場。加藤建夫と飛行第64戦隊の活躍を描く。
  • 俺は、君のためにこそ死ににいく』(東映製作の戦争映画) - 実物大模型機及びCG制作の三型甲が登場。
  • 『夜の蜉蝣』(松本零士作。戦場まんがシリーズ) - 三型乙が登場。
  • 『メコンの落日』(松本零士作。戦場まんがシリーズ) - P-51と対決。
  • IL-2 Sturmovik』(コンバットフライトシミュレータゲーム) - PACIFIC FIGHTERSと1946にプレイヤーの操縦可能機体として登場する。一型甲、一型乙、一型丙、二型、二型改の5機種に搭乗することができる。

注釈

  1. 二型の量産時点から立川飛行機でも生産されており、 さら三型(キ43-III)の全ては立川で移管生産された。また陸軍航空工廠でも少数機が生産されている。
  2. 総生産機数日本軍第3位、陸軍機第2位は大戦後期の主力機である四式戦。
  3. 制式制定前に新鋭機の実戦テストも兼ね、開戦と共に増加試作機装備の1個独立飛行中隊独立飛行第47中隊)が参戦。
  4. マ103と同じマ弾であり焼夷弾
  5. のちに少佐となり第64戦隊長として1943年2月25日戦死。
  6. この時ビルマ方面陸軍航空部隊主力は龍一号作戦(カルカッタ爆撃)の準備で後方にいたため戦力は少なかった。黒江大尉は鈴木京参謀から増援を送ろうかと言われたが断っている。
  7. エース・中村三郎大尉もその1人。

脚注

テンプレート:Reflist

参考文献

  • 『世界の傑作機 No.13・No.65 陸軍1式戦闘機「隼」』 文林堂、1988年11月・1997年7月
  • テンプレート:Cite book
  • 『図解・軍用機シリーズ12 隼/鍾馗/九七戦』 『』編集部編 光人社 2000年8月
  • 『一式戦闘機「隼」』 学習研究社、2005年11月
  • 梅本弘 『第二次大戦の隼のエース』 大日本絵画、2010年7月

関連項目

外部リンク

テンプレート:大日本帝国陸軍

テンプレート:Mil-aviation-stub
  1. #青木回想104、107頁
  2. #青木回想106頁、#作戦上要望p.2
  3. #作戦望p.3
  4. #作戦上要望p.5
  5. #青木回想108頁
  6. #青木回想110-11頁
  7. 「写真週報 232号」p.2
  8. 『第二次大戦の隼のエース』 p.92
  9. #青木回想108頁
  10. #青木回想123頁
  11. #青木回想118頁
  12. 『第二次大戦の隼のエース』 p.63
  13. 渡辺洋二著『重い飛行機雲』「さいはて邀撃戦」
  14. 梅本弘『陸軍戦闘隊撃墜戦記1』
  15. 『第二次大戦の隼のエース』 p.113
  16. 『第二次大戦の隼のエース』 p.95
  17. 秦郁彦 『太平洋戦争航空史話』 中央公論社、1980年
  18. 『第二次大戦の隼のエース』等
  19. 梅本弘『ビルマ航空戦(上・下)』
  20. データは陸軍航空本部作製「一式戦(二型)取扱法」より引用。
  21. フライング・ヘリテッジ・コレクション
  22. Australian War Memorial - P00001.340
  23. ピマ・エア・アンド・スペース・ミュージアム
  24. NASM
  25. ティラムック・エア・ミュージアム
  26. ミュージアム・オブ・フライト
  27. 航空ファン 2006年7月号』文林堂
  28. 復元された一式戦闘機「隼」