二式単座戦闘機

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:Infobox 航空機 二式戦闘機(にしきせんとうき)は、第二次世界大戦での日本陸軍重単座戦闘機キ番号(試作名称)はキ44。昭和17年1月28日陸密第283号により陸軍の兵器として制式制定されたが、このとき「二式戦闘機」が制式名称とされている。「二式単座戦闘機」は、「二式複座戦闘機」(こちらは制式名)に対するものとして、戦後の愛好家の間で広まったものと思われる。愛称鍾馗(しょうき)。略称・呼称は二式戦二式単戦二単ヨンヨンなど。連合軍コードネームTojo(トージョー)[1]。開発・製造は中島飛行機

概要

それまでに開発された他の日本戦闘機とは異なり、旋回性能よりも速度を優先させており、優れた上昇力、加速力、急降下性能を備えた優秀な迎撃機であったが、反面、日本の戦闘機としては旋回性能、航続力は低く、翼面荷重が大きい。これらは欧米の戦闘機と比べると標準的な値であったが、操縦の容易な従来の軽戦での格闘戦に慣れた日本のベテランパイロットには、離着陸の難しさ、航続距離の不足などを理由に嫌われる傾向にあった[2]。設計に携わった糸川英夫技師は、一式戦闘機「隼」は時宜を得て有名だが、自分で最高の傑作だと思っているのは、それの次に設計した「鍾馗」戦闘機である』と戦後の著書に記している。

最高速度(二型甲)605km毎時(高度5000m)、航続力1200km、各型総生産数1225機。

開発

中島飛行機が1936年(昭和11年)に開発した「九七式戦闘機(キ-27)」は、日本陸軍が初めて採用した全金属製低単葉機である。九七戦は空中格闘戦能力に秀でた軽戦闘機だが性能向上に限界があった。欧州では、九七戦と同時期に引込脚のメッサーシュミット Bf109(ドイツ)とスーパーマリン スピットファイア(イギリス)が出現している[3]。陸軍は九七戦の採用と同時に新型機の製作を模索することになった[4]

陸軍参謀本部が示した兵器研究方針によれば、1937年(昭和12年)から1938年(昭和13年)当時の陸軍は3種類の戦闘機を開発、研究しようとしていた[5]。1機種は双発万能戦闘機に基づいた長距離複座戦闘機で、後に二式複座戦闘機として制式化された[6]。残る2機種が格闘性能を重視した「単座戦闘機」と、重武装で対戦闘機戦にも対大型機戦にも対応できる速度重視の「重単座戦闘機」である[7]。それに基づき、中島・川崎三菱の各社に、軽戦と重戦の研究開発指示を出した。これに対する中島の回答が、軽戦のキ43(一式戦闘機「隼」)と重戦のキ44(二式戦闘機「鍾馗」)であった。ただし隼設計チームの青木邦雄は、「隼」も重戦闘機(メッサーシュミット)を目指したものの、重戦闘機開発経験の浅さから結果として軽戦闘機になってしまったと述べている[8]。キ-44に対して軽戦主導からの不要論があったが、ノモンハン事件での戦訓はI-16などの高速機に対して一撃離脱戦法や追撃の行える戦闘機の必要性を認め、停滞していた開発を活発化した[9]

九七式戦闘機(キ27)の発展型として開発の進んだキ43に比べ、重戦というものの開発経験のない陸軍および各メーカーでは、重戦の基本仕様をまとめるだけでも手間取り、開発スケジュールはキ43よりも後回しにされた。とりあえず中島では陸軍の要求性能が出るよりも先に、ドイツメッサーシュミットBf109を目標とし、当時国産で入手可能だった最大出力のエンジン、ハ41(離昇1,250 馬力)を装備し主翼面積は15m2、武装に20mm機関砲を装備する予定で開発を進めることになった。青木によれば「鍾馗」は隼が採用されなかった場合の保険機であり、研究機的な側面が強いという[10]。それ故に、中島飛行機は「鍾馗」に新技術や新構想を盛り込むことが出来た[10]。陸軍側の要求性能は遅れて1939年(昭和14年)に出され、最大速度600km/h以上、上昇時間5000mまで5分以内、行動半径600km等とされた。

防弾装備にも配慮し既存の防漏タンク[注 1]だけでなく、操縦者保護の為に座席後部に厚さ13mmの防弾鋼板防楯鋼板)を日本の戦闘機としては初めて装備した[注 2]。防弾鋼板は頭当てと背当てに装備され、総重量は60kgであった。ただし、本機を鹵獲し試験したアメリカ軍のレポートでは「(この防弾装備はAN-M2の射出する)12.7mm弾に対し無力」と記述されている。

開発指示段階では、固定機関砲×1、固定機関銃×2の装備が求められていた[11]。武装の20mm機関砲は海軍と同じエリコン系列を予定していたようであるがテンプレート:要出典、生産の目処は全く立たなかった。結局、翼内に12.7mm×2(ホ103:一式十二・七粍固定機関砲)、機首に7.7mm×2(八九式固定機関銃)という、とても重武装とは呼べない装備テンプレート:要出典になってしまった。

試作機は1940年(昭和15年)10月に初飛行したが、エンジンの性能不足で不具合も多かったため、各所に改良を施し、最終的には最大速度580km/h(高度3700m)、外板の継ぎ目を目張りした状態では626km/hを記録した。しかし、従来の戦闘機に比べて旋回性能で劣り、大直径エンジンのために3点姿勢での前方視界が悪く[注 3]、失速速度が高く着陸が難しいとされ、旋回性能も現用機に大きく劣った。反面射撃テストでは優秀な命中率を示した。しかし、1941年(昭和16年)夏にドイツから輸入したBf109E-7との模擬空戦では、キ44の総合性能はBf109Eを上回った[12]。そのため、欧米の新鋭戦闘機に対抗可能な戦闘機として有用と位置づけられたが、軽戦を理想とする多くの古参パイロットからは、相変わらずの不評が多かった。なお、Bf109Eと共に来日したメッサーシュミットのテスト・パイロット、ヴィリー・シュテーアはキ44に試乗し、「日本のパイロットが全員これを乗りこなすことが出来たら、日本空軍は世界一になる」と発言した。

のちに増加試作機による独立飛行第47中隊[注 4]中隊長坂川敏雄)が編成され、実用試験を兼ねて1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争大東亜戦争)開戦と共に実戦投入された。時にはキ44の本領を発揮する一撃離脱戦法を駆使するなど特性を生かし、黒江保彦大尉神保進大尉ら陸軍のエース・パイロットバッファローハリケーンを撃墜するなど戦果を挙げ、実戦では航続力を除いて、運動性は問題とされなくなった。そして1942年2月に二式戦闘機として制式採用された。

開発が難航したことから、試作機テスト中に性能向上のための改修案が検討された。第一次の性能向上策として、搭載エンジンをハ41からこれの改良型であるハ109(離昇1,500馬力)に換装することが試みられた。この改修により速度性能が向上したため、1942年12月に二式戦闘機二型キ44-II)として制式採用された。それまでの生産型は二式戦闘機一型キ44-I)と呼ばれるようになった。なお一型の生産機数は40機だけで、残りのほとんどが二型であった。

1943年(昭和18年)には、第二次性能向上型として2,000馬力級エンジンであるハ145を搭載した三型キ44-III)の開発がなされるが、この試作機が完成した頃には新型の高性能戦闘機であるキ84(のちの四式戦闘機「疾風」)の開発が進んでおり、三型は実用化されず、また二式単戦の生産自体は1944年末に終了した。総生産機数は各型合計1,225機である。

技術的特徴

ファイル:Ki-44 skeleton.jpg
所沢陸軍航空整備学校にて、整備兵の講習に使用されている二式戦二型(キ44-II)

速度・上昇力優先の設計思想に基づき、大径大出力のエンジンに軽い胴体、小さい主翼を備えているが、胴体はエンジン直後から急に細く絞り込んである。この点、同じく大径大出力エンジンを装備しながらさらに太い紡錘形胴体に設計された三菱の雷電とは対照的である。雷電では表面積や重量が増えることがデメリット、プロペラ推力有効面積が増えることがメリットであり、本機ではその逆となる。

設計者の一人糸川英夫はブランコに乗る二人の子供を見て、縦と横の運動が互いに連動せずに切り離された操縦系をもつ機体(パイロットが縦の操作や横の操作を行った時、機体は余分な動きをせず、その操作のみに反応する。)を発想し[注 5]、この構想から本機は水平尾翼のかなり後方に位置する特徴的な垂直尾翼をもち、機動から射撃の体勢に移ったときの安定性を高めている。このため射撃時の据わりがよく、機関銃・機関砲の命中率が高いと好評であった。この構造は後の四式戦にも受け継がれた。その一方で垂直尾翼は高さが不足し(他メーカーと比べた場合、背が低く前後に長い。面積は保てるので飛行中の安定性は保て、且つ空気抵抗は減る)、離着陸時(機首が上を向くことにより垂直尾翼は胴体の陰に入る形になり、垂直尾翼の高さが大変重要になる)の安定性・操作性の低さが事故の頻発につながり、明野飛行学校の実用試験では「若い者は乗せられない」「暴れ馬」「殺人機」との悪評を下された[13]。二型では垂直尾翼が増積された。

主翼は二本桁のボックス構造で、内側は波板で補強されており「850km/h以上の急降下でもびくともしない」と評される。当時の陸軍に重戦の明確な思想がなかったため急降下制限速度は一式戦闘機と殆ど変らない650km/hに設定されているが[14]、実際にはBf109の荷重倍数10.8Gを上回る12.6Gの強度試験をクリアしている。実戦では800km/hの速度で引き起こしを行っても主翼にシワがよることはなかった[15]平面形はスパンこそ短いものの、九七戦から採用している翼端失速に強い直線翼を用いており、フラップは中島独自の蝶型フラップ(ファウラーフラップの一種)を装備している。蝶型フラップは高速戦闘機の旋回性能を高める効果が期待されたが、実戦では出し入れがわずらわしく使用されることはなかった(後廃止)。また、旋回性能は連合軍戦闘機よりも優れており実際の戦闘では全く問題にならなかった。

一型が搭載していたハ41は出力が不足気味で予定性能に達し得なかったため、性能が向上したハ109が二型に装備され二式戦の主力生産モデルとなった。とはいえ、ハ109も稼働率の点から整備の難しいエンジンであることには変わりなく、飛行第47戦隊[注 6]で整備指揮隊長を務めた刈谷正意大尉はハ109について、「こまごまとした点では手の掛かる奴だった」と述懐している。

主な派生型としては下記のものがある。

  • 一型甲キ44-I甲):ハ41(1250hp)。12.7mm機関砲X2 7.7mm機関銃X2
  • 一型乙キ44-I乙):12.7mmX4
  • 二型甲キ44-II甲):ハ109(1450hp)。12.7mmX2 7.7mmX2
  • 二型乙キ44-II乙):12.7mmX2 40mm砲(ホ301)を主翼に2門特別装備可能。
  • 二型丙キ44-II丙):12.7mmX4。光像式照準器採用。
  • 三型キ44-III):ハ145:1900hp 単排気管、翼面積増大。

実戦配備

最初の二式戦の実戦部隊は上述の通り、増加試作機と一型を装備した独立飛行47中隊(愛称・通称はカワセミ部隊、新撰組)。太平洋戦争緒戦の南方作戦に従軍し、インドシナマレービルマと転戦したが、補助タンクを装備しても航続距離が短く敵地深くへの侵攻ができなかったため同方面に投入された飛行第64戦隊などの一式戦隼にくらべて華々しい活躍の機会には恵まれず、1942年5月には内地に呼び戻され、のちに飛行戦隊に増強改編された。なお、独飛47中隊が内地に呼び戻された理由は97戦ではドーリットル空襲を阻止できず、本土の防空力強化の為の移動[16]と言われている。このことが起因となり日本初の邀撃戦闘機となった。

1942年12月には性能向上した二型が生産に入り、1943年に入ってから少数の部隊が二式戦に機種改編し、主に中国戦線に投入され、中でも飛行第85戦隊若松幸禧大尉は「赤鼻のエース」として名を上げた。

1944年、日本本土にB-29が飛来するようになると、外地にあったいくつかの部隊は本土防空に呼び戻され各地の基地に展開し、飛行第47戦隊(1945年前後には四式戦疾風へ機種改編)や飛行第70戦隊(東京都内の調布飛行場を基地とする。)などが戦果を挙げ、第70戦隊は吉田好雄大尉や小川誠准尉ら二式戦乗りのエースを輩出し、本土決戦用の兵力温存の処置がなされるまでは邀撃部隊として活動を行った。イギリスのケネス・マンソンの著作[17]によれば、37mm砲装備の二型丙(40mm砲装備の乙型特別装備機との誤認とされる)が高高度で編隊を組んで飛来した爆撃機に対してよく戦ったとの記述も見られるが、日本側の記録では高高度で飛来するB29に対しては、高空性能が著しく劣って攻撃ができず、防弾版、防漏ゴム、4門の機銃まで降ろして200キロの軽量化を行って、体当たりでB-29撃墜をする「震天特別攻撃隊」が飛行47戦隊や飛行70戦隊などで編成されるほどだった。南方の第一野戦補充飛行隊所属の陸軍トップ・エース、上坊良太郎大尉がホ301装備の二型乙でB-29撃墜の戦果を記録したが、高度な技術を持つエースの稀な例でしかなかった。だが、軽戦闘機が大半であった日本軍機の中では数少ないB-29にも有効な火力を持つ機体であったのは変わりなく、残存機は迎撃戦闘機(インターセプター)として本土防空の任務に就き終戦まで活躍した。

軍上層部はハ109の低い稼働率の問題と、四式戦疾風の実用化に目処がついたことを理由として、陸軍は途中で本機の製造を打ち切っており、このため二式単戦の改善も停まっている。そのため、大戦末期になっても旧式の眼鏡式照準器を装備した機体があったり、当時の日本戦闘機では当り前になっていた推力式単排気管への改修も行なわなかった。(この簡単な改造を施すだけで速度は10~20km/h向上したとみられ、第47戦隊長機および第2航空軍で試験的に現地改造を行った例がある)。

軽戦闘機に慣れた一部の古参パイロットには海軍の雷電と同様に着陸時に機首のエンジンの大きさから視界が悪いため敬遠され、速い着陸速度や高い運動性(安定の悪さ)から扱いが難しい機体であるとされ、当初飛行時間800時間に満たない操縦者は危険であるとされたが若年パイロットを乗せても何ら問題はなかった。また、従来1000時間以上の者でないと乗りこなせないとされたが、200時間程度の者でも戦果をあげるなどしており、頑迷な隼などの軽戦闘機乗りの古参パイロット達の重戦闘機軽視発言力が高かった故に、重戦闘機への発展を阻害していた例とされる[18]。四式戦疾風が登場する前の陸軍機としては、その反面、高いダイブ力や最高速度、重武装や防弾装備した頑丈な機体に魅力を感じたエースパイロットやベテランも多かった。

米軍による評価

TAIC(米海軍航空情報部)では、鹵獲した二式戦鍾馗二型の1機を使用し、実際に飛行テストと性能調査を行っている。報告書によれば「急降下性能と上昇力が傑出(Excellent)しインタ-セプタ-としてもっとも適切(Suitable)な機体」と論じている。同機関では他にも、雷電21型、紫電11型、三式戦飛燕、四式戦疾風などの鹵獲機を調査しているが、二式戦はこれらの中で迎撃戦闘機(インタ-セプタ-)として最高の評価を得ている。[19]

諸元

ファイル:Ki-44 (1).jpg
飛行中の二式単戦二型丙(キ44-II丙)。
制式名称 二式戦闘機二型丙
試作名称 キ44-II丙
英名 Ki 44-II Hei
全幅 9.448m
全長 8.85m
全高 3.248m
翼面積 15m²
翼面荷重 184.67 kg/m²
自重 2,109kg
正規全備重量 2,764kg
発動機 ハ109(離昇1,500馬力)1基
最高速度 605km/h(高度5,200m)
上昇力 5,000mまで4分26秒
航続距離 1,600km(落下タンク有)
武装 胴体12.7mm機関砲(ホ103)2門(携行弾数各250発)、
翼内12.7mm機関砲2門(携行弾数各250発)
爆装 30kg~100kg爆弾2発または250kg爆弾1発
総生産数 1,227機

注釈

  1. 燃料タンクへの被弾着火を防ぐために外装積層ゴムセルフシーリング)の防漏タンク(防弾タンク)。一式戦一型(キ43-I)など多くの陸軍機が早々に装備していた。
  2. 一式戦は二型(キ43-II)の生産途中より装備。なお戦闘機以外では九九式襲撃機(キ51)や九七式重爆撃機二型(キ21-II)が既に防弾鋼板を装備している。
  3. ただし空中で重要な前下方の視界はその絞り込んだ機体設計により極めて良好。
  4. 部隊名は赤穂四十七士にちなむ。
  5. この飛行機のデザインは、妙な動機から生まれた。公園に行って、ぼんやりベンチにすわっていたとき、男の子と女の子がブランコをしていた。同じ鉄棒にブランコが二つぶら下がって、一つに女の子が、もう一つに男の子がのっていたわけである。そのブランコは、長さが全く同じだった。振り方の周期は、だから、女の子も男の子も、両方が同じはずなのだが、見ていると、男の子と女の子のブランコは実際、周期が違う。そこで、私はハッとなった。じつは、隼戦闘機の設計でもさんざん苦労したことなのだが、方向舵を踏んで方向を変えようとすると、かならずローリングといって横の運動が起こる。飛行機は、横の運動と縦の運動がカップルする。その神経を断つことができれば、画期的な戦闘機になると、そのとき、チラッと頭にひらめいたのである。この次の戦闘機は、方向舵の操縦、補助翼の操縦などあらゆる操縦、それらが全部カップルしないような、神経が全部断ち切られたようなものであれば、これはものすごいスピードが出るはずである。同時にまた、ものすごい命中精度と上昇力が出るはずである。というようなことがヒントになり、私は、全知全能をつくして鍾馗戦闘機を設計した。糸川英夫『前例がないからやってみよう』光文社 1979年
  6. 1943年10月より改編された独立飛行第47中隊の後身。

脚注

テンプレート:Reflist

参考文献

  • 糸川英夫『前例がないからやってみよう』光文社 1979年
  • 大木主計編集『丸メカニック 二式単戦「鍾馗」』潮書房 1984年
  • 鈴木五郎 『「疾風」日本陸軍最強の戦闘機』 サンケイ出版 1975年
  • 碇義朗 『戦闘機 疾風』 廣済堂〈Kosaido Books〉、1977年
  • 秋本実 『日本の戦闘機 陸軍篇』 出版共同社、1961年
  • 文林堂編 『世界の傑作機 No.147 特集・陸軍二式戦闘機 鍾馗』 文林堂、1985年
  • テンプレート:Cite book
  • 宮田豊昭 「翼烈伝 国破れて戦闘機スカイネット・ワン事務局、2002年7月9日
  • 刈谷正意 『日本陸軍試作機物語』 光人社、2007年 ISBN 978-4-7698-1344-6 C0095
  • 梅本弘 『陸軍戦闘隊撃墜戦記〈2〉中国大陸の鍾馗と疾風1943‐45年―飛行第9戦隊と85戦隊』 大日本絵画、2007年 ISBN 4499229529

関連項目

外部リンク

テンプレート:大日本帝国陸軍
  1. 「2式戦闘機(2型)取扱法」p.1。当時の内閣総理大臣東條英機陸軍大将から。
  2. #青木回想112頁
  3. #青木回想115-117頁
  4. #青木回想104、107頁
  5. #作戦上要望pp.3-4
  6. #作戦上要望pp.6-7
  7. #作戦上要望p.5
  8. #青木回想107-108、124頁
  9. 大木主計編集・丸メカニック 二式単戦「鍾馗」・潮書房 1984年・4頁
  10. 10.0 10.1 #青木回想111-112頁
  11. #作戦上要望p.6
  12. #青木回想123-124頁
  13. 大木主計編集・丸メカニック 二式単戦「鍾馗」・潮書房 1984年・27頁
  14. 「2式戦闘機(2型)取扱法」p.67
  15. 大木主計編集・丸メカニック 二式単戦「鍾馗」・潮書房 1984年・26頁
  16. 大木主計編集・丸メカニック 二式単戦「鍾馗」・潮書房 1084年・29頁
  17. 湯浅謙三訳・野沢正監修『第2次大戦戦闘機』鶴書房刊、1970年
  18. 鈴木五郎/「疾風」日本陸軍最強戦闘機/サンケイ出版 1975年 122頁
  19. 文林堂編 『世界の傑作機 No.147 特集・陸軍二式戦闘機 鍾馗』 文林堂、1985年