九七式戦闘機

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九七式戦闘機(きゅうななしきせんとうき)は、大日本帝国陸軍戦闘機キ番号(試作名称)はキ27。略称・呼称は九七戦九七式戦など。連合軍のコードネームはNate(ネイト)。開発は中島飛行機、製造は中島のほかに立川飛行機満州飛行機でも行われた。

陸軍最初の低翼単葉戦闘機として、1940年(昭和15年)前後の主力戦闘機として活躍した。旋回能力に大変優れ、水平面での格闘戦では右に出る機体は無かったとされる。だが同時期に登場したドイツイギリスの戦闘機(メッサーシュミットBf109、スピットファイア)に比べ、活躍期間は短かった。

誕生の経緯

1935年(昭和10年)、海軍九試単座戦闘機(のちの九六式艦上戦闘機)の成功に刺激された陸軍は、海軍の了解のもとに、九試単戦を陸軍用に改修させた三菱キ18を、川崎九五式戦闘機を採用した際の試作審査に途中参加させた。しかし、エンジンの信頼性不足など性能不十分を理由採用には至らず、とりあえず川崎キ10を九五式戦闘機として採用した。だが旧態依然たる複葉機である九五戦では次期主力戦闘機としての任に耐えないため、それに代わる戦闘機として1936年(昭和11年)4月、低翼単葉戦闘機の競争試作を中島・三菱・川崎の3社に指示した[1]

これを受けて中島のキ27、川崎のキ28、三菱のキ33(九六艦戦の改造機)の競争となったが[1]、先のキ18の不採用にしこりが残る三菱は、試作機の提出はしたものの熱意を示さなかった。このため1937年(昭和12年)2月から始まった審査では[2]水冷でエンジンに不安のあるキ28を抑えて本機が選定された。この間、盧溝橋事件が発生したため審査を急ぎ[3]、9月に終了、1937年(昭和12年、皇紀2597年)に九七式戦闘機として制式採用された[4]

結果的に三菱は本機の技術的熟成のための当て馬として使われた形であり、以後海軍の戦闘機は三菱、陸軍は中島が主体となる端緒ともなった。日中戦争支那事変)中の中国漢口基地でしばしば行われた陸海共同の模擬空戦では、九六艦戦よりも九七戦の方が速度、上昇力、格闘戦性能の全てで勝り、海軍の操縦者達からうらやましがられたという。しかし欧州ではメッサーシュミット Bf109スーパーマリン スピットファイアホーカー ハリケーンが九七式戦闘機と同時期に完成しており、軽量型戦闘機に限界を感じた日本陸軍は重戦闘機志向を強めていくことになる[5]

技術的特徴

ファイル:Ki-27 2.jpg
九七戦乙型(キ27乙)

中島は、先代の九五式戦闘機の競争試作の際に低翼単葉のキ11を提案したが、当時としても保守的な複葉を採用した川崎に敗れた。キ11は単葉ながら主翼に強度保持の為の支線を張り巡らし、斬新さは今一歩であったが、キ27では抵抗大の張線を全廃し、空気力学的に洗練された流麗な外形となった。

本機で初採用された前縁直線翼は、新任技師だった糸川英夫の発案による。主翼前縁の後退角がゼロで後縁の前進のみでテーパーし、翼端部捻り下げのため主桁は軽い前進角を持つ。本形式はその後一式戦「隼」(キ43)二式単戦「鍾馗」(キ44)四式戦「疾風」(キ84)の、小山悌設計主務者による一連の中島製単座戦闘機に採用され続けた。プロペラも、糸川と同じく新任技師の佐貫亦男日本楽器製造)が担当した。

剛性向上と軽量化を図るため、通し桁を用いて左右翼を一体製造した。その上に発動機架・操縦席を含む胴体中央部を載せ、機体後部をボルト留めする機体分割法も新規開発され、これは本機以降の日本陸海軍機の標準的技法になった[6]。また、操縦席の後ろに胴体内燃料タンクを持たない代わりに、陸軍単座戦闘機として初めて落下タンクを装備した[7]。非常脱出装置も装備している[8]

1937年当時、列強の新鋭機では引込脚が既に主流であったものの、敢えて保守的な固定脚が流線型スパッツ装備の上で採用された。頑丈かつ軽量で不整地への離着陸も可能だったが、中国大陸ではスパッツと車輪の間に泥や草が詰まるため、前線ではカバーを取り外して運用する場合も少なくなかった。

武装の八九式固定機関銃は機体外面に開口していないが、これは空冷単列星型エンジンシリンダーの隙間に銃身を配置し、カウリング中央の開口部より射撃するためである。

九七戦の機体分類には風防・天蓋の異なる初期製造のファストバック型の甲型キ27甲)と、中後期製造の水滴型の乙型キ27乙)がある。

活躍

ファイル:Japanese type97 fighter plane.jpg
部隊マーク稲妻飛行第11戦隊所属の九七戦乙型(キ27乙)。始動車や地上勤務者とともに日中戦争にて
ファイル:Khalkhin Gol Japanese Ki 27 1939.jpg
赤鷲を胸に描いた飛行第64戦隊の九七戦乙型(キ27乙)。ノモンハン事件にて

1938年(昭和13年)より日中戦争に九五戦の後続機として実戦投入。

1939年(昭和14年)、日本軍とソ連軍モンゴルで2度に渡って戦ったノモンハン事件では、ソ連軍の複葉戦闘機I-153や単葉戦闘機I-16と空中戦を行い、運動性の良さでソ連軍機を圧倒し大戦果を上げ、日本軍の戦線の崩壊とソ連の進軍を防いだと言われた。複葉戦闘機すら蹴散らす旋回性と、「空の狙撃兵」といわれたほどの射撃安定性の両立が生んだ成果であった。58機撃墜を報告した飛行第11戦隊第1中隊篠原弘道准尉を筆頭に、のちのB-29撃墜王樫出勇曹長や、陸軍航空審査部(飛行実験部実験隊)で四式戦テスト・パイロットを務める岩橋譲三大尉ら多数のエースを輩出した。

第一次と第二次を併せた撃墜総数は日本側の発表では1,252機である。だがソ連側の資料(ペレストロイカ以降に発表された資料に基づくものであり、スターリン体制下の宣伝資料に基づいたものではない)によると、ソ連軍の損害は約200機から約250機程度だった。日本機の損害はノモンハンでは大中破も合わせて157機(未帰還及び全損は64機、内九七戦は51機で戦死は53名)である。日本側の損耗率は60パーセントで、これらノモンハン航空戦の戦訓として陸軍は、単機空戦から編隊空戦への移行・防弾装備(防弾板、防漏タンク)の必要・飛行部隊と地上支援部隊の空地分離化と並び、航空機と操縦者の有効性と消耗性を知り、数を揃える必要性を痛感した。

ノモンハンでは上述の篠原准尉といった多くのベテラン・パイロットが戦死し、パイロットの補充に危惧がもたれたが、大きな戦果のため士気は高かった。実際には、ノモンハン航空戦の後期にもなると、防弾装甲を強化したI-16が、従来の格闘戦から優速を活かしての一撃離脱戦法に切替えたため、敵を取り逃がすことが多くなっており、またソ連軍側はスペイン内戦に従軍していたベテラン・パイロットを投入してきた事もあり、戦果は初期ほどあがらなくなっていたが、緒戦の大勝利に酔い痴れたパイロットたちの多くは、この現実を見過ごしてしまった。

しかし、陸軍上層部は、九七式戦闘機の限界を認識しており、新型戦闘機の開発は必須とされた[9]。特に高度7000m以上を飛翔するソ連軍爆撃機ツポレフ SBに対し九七戦は無力であり「頗ル遺憾トスル所ナリ」と評されている[10]。武装の威力不足も指摘されている[11]。だが陸軍パイロットは旋回性が良く格闘戦に強い戦闘機による制空権確保に自信を持ち、太平洋戦争初期頃に至るまで「軽戦万能主義」などとも言われる考え方が支配的になった[12]。そのため、当時開発中だった、九七戦の後継機キ43(のちの一式戦「隼」)にも九七戦を上回る旋回性能が求められ、空戦フラップまで装備して旋回性能を追求したものの、結局九七戦にはおよばず、キ43は不採用になるという始末であった。その一方、九七戦を徹底的に軽量化した実験機が製作されたが「空の蛙」と渾名されたあと、消えてしまった[13]。キ43の審査は長引いたが、戦略の転換から南方作戦の長距離侵攻に使える戦闘機が必要になったため、太平洋戦争直前にようやく制式採用となった。

太平洋戦争開戦直前の1941年(昭和16年)12月7日、マレー作戦に参加する上陸部隊を乗せた輸送船団の上空護衛を行い、哨戒中のカタリナ飛行艇1機を(正式な開戦の前であったが)撃墜したのは第12飛行団所属の九七戦であり、太平洋戦争の初戦果を挙げるとともに、上陸作戦成功の大きな鍵となった。

太平洋戦争では、1942年(昭和17年)春辺りまで実戦に参加した。英軍ハリケーンMk.2バッファローに対しては劣勢で、旧式化した九七戦は後継機の一式戦に第一線の座を譲った。東南アジアでは、米国義勇兵航空隊フライング・タイガースと交戦、一撃離脱戦法を得意とするカーチス P-40C型と交戦し、被害を出している。

その後は優れた操縦性・安定性から訓練用の九七式練習戦闘機および二式高等練習機として、また短い未整地路で運用できるため連絡用途、内地や満州の防空戦隊といった後方の二線級部隊(本土防空戦が行われる大戦中後期には新鋭機に改編)などで用いられた。ドーリットル空襲の際には、東京瓦斯電気工業横浜工場の防空隊に配備されていた本機もB-25の迎撃に上がったが取り逃がしている。

戦争末期には他の機体と同様に特攻機に転用され、若年操縦者が操縦の容易な九七戦に250キロ爆弾を搭載した爆装機で出撃させられた。しかし250キロ爆弾を搭載するには軽量小型で馬力不足である本機の場合、操縦時は離陸から飛行まで常時エンジンを最大出力にしておく必要があった。このため潤滑油が焼き付けを起こしてエンジンが停止するなど故障が頻発、出撃不能や帰投が続出した。太刀洗平和記念館に現存する同機も250キロ爆弾搭載による過積載のため飛行中エンジン不調に陥り、博多湾に不時着水を余儀なくされた機体であるといわれる。

九七戦は満州国タイ王国へ輸出され、特に後者では空中戦においてP-51に損傷を与え、P-38 1機を撃墜したとされ、戦後も用いられた。

現存する機体

ファイル:Imperial Japanese Army 97 type fighter.JPG
世界で唯一の現存機(大刀洗平和記念館)

1996年(平成8年)に博多湾の海中より引き揚げられた機体が、復元されて筑前町立大刀洗平和記念館に展示されている。

諸元

  • エンジン:空冷9気筒 中島ハ1乙 (地上正規610HP/2400r.p.m 地上最大710HP/2600r.p.m)[14]
  • 最大速度:470km/h(水平3,500m)
  • 航続距離:627km
  • 全高:3.28m
  • 全幅:11.31m
  • 全長:7.53m
  • 主翼面積:18.56㎡
  • 自重:1110kg
  • 全備重量:1547kg(燃料満載)
  • 上昇時間:5000/5'22"
  • 実用上昇限度:12250m
  • 武装:胴体内7.7mm機関銃(八九式固定機関銃)×2(携行弾数各500発)
  • 爆弾:25kg×4
  • 落下タンク 左右各133L

脚注

テンプレート:Reflist

参考文献

外部リンク

関連項目

テンプレート:大日本帝国陸軍
  1. 1.0 1.1 #仮制式制定の件p.20
  2. #仮制式制定の件pp.20-21
  3. #仮制式制定の件p.21
  4. #仮制式制定の件pp.21-22
  5. #青木回想85-86頁
  6. 三式戦「飛燕」等の川崎製戦闘機を除く。
  7. #仮制式制定の件pp.8、14
  8. #仮制式制定の件p.15
  9. #ノモンハン意見p.3
  10. #ノモンハン意見pp.4,8
  11. #ノモンハン意見p.10
  12. #ノモンハン意見p.6
  13. #青木回想110頁
  14. 以下諸元は『#仮制式制定の件pp.16-19、23-26』に依る。