四式戦闘機

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テンプレート:Infobox 航空機 四式戦闘機(よんしきせんとうき)は、第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍戦闘機キ番号(試作名称)はキ84愛称疾風(はやて)。呼称・略称は四式戦四戦ハチヨン大東亜決戦機など。連合軍コードネームFrank(フランク)。開発・製造は中島飛行機

概要

ファイル:Nakajima Ki-84.svg
一型甲(キ84-I甲)の投影図

九七式戦闘機(キ27)、一式戦闘機「隼」(キ43)、二式単座戦闘機「鍾馗」(キ44)と続いた、小山悌技師を設計主務者とする中島製戦闘機の集大成とも言える機体で、全体的に保守的な設計ながらよくまとまっておりテンプレート:要出典速度武装防弾航続距離運動性・操縦性および生産性に優れた傑作機であった。また、624km/hという最高速度は大戦中に実用化された日本製戦闘機の中では最速であった(キ84-I乙試作機が試験飛行の際に660km/hを記録したとされ、戦後のアメリカ軍によるテストでは687km/hを記録している)。四式重爆撃機「飛龍」(キ67)と共に重点生産機に指定され、総生産機数は基準孔方式の採用など量産にも配慮した設計から、1944年(昭和19年)中頃という太平洋戦争大東亜戦争)後期登場の機体ながらも、日本軍戦闘機としては零戦、一式戦に次ぐ約3,500機に及んだ。

帝国陸軍から早くから「大東亜決戦機(大東亜決戦号)」として大いに期待され、大戦後期の主力戦闘機として多数機が各飛行戦隊といった第一級線の実戦部隊に配属され参戦し、対戦したアメリカ軍からも「The best Japanese fighter日本最優秀戦闘機日本最良戦闘機)」と評価されたテンプレート:要出典機体だったが、搭載した新型エンジンハ45海軍名・)の不調や、潤滑油ガソリンオクタン価)の品質低下、点火プラグ電気コードといった部品の不良・不足、整備力の低下などにより全体的に稼働率が低く、また、スペック通りの最高性能を出すのが難しかったため、大戦後半に登場した陸海軍機の多くと同様、テンプレート:誰範囲2機体である。

開発経過

1941年(昭和16年)12月29日、キ44(のちの二式単戦)の発展型として中島に対し、最高速度680km/h以上、20mm機関砲2門・12.7mm機関砲2門装備、制空防空襲撃など、あらゆる任務に使用可能な高性能万能戦闘機の開発指示がなされた。当初はキ44の2,000馬力級エンジンハ145搭載型であるキ44-III(計画のみという説と少数機試作されたとの説がある)をベースに翼面積を増やして着陸を容易にし、燃料搭載量を増して航続距離を伸ばし、強力なエンジンにより速度・上昇力の向上を狙ったものになる予定であった。

しかし、キ84は最初から広大な太平洋戦域で運用される事が決まっていたため、更なる航続距離の伸長が求められ、燃料搭載量の増加と共に翼面荷重を計画値の155kg/m²に収める為に翼面積の拡大を余儀なくされ、2,700kg程度と目されていた全備重量は3,000kgを優に越える見通しとなり、それに対応して翼面積を増やすとまた重量が増加するという悪循環に陥り、特に主翼の設計は難航した。さらに、前線からの要求で防弾・防火装備、武装の強化なども必須となり、これも重量が増加する一因となった。

結局主翼面積は計画値の17.4m²から最終的に21m²となり、予定していた全備重量が実機の自重になってしまう程だったが、紆余曲折を経てようやくキ84の設計はまとまり、1943年(昭和18年)3月に試作1号機が完成。試験飛行は1~3号機までは比較的順調に進み、好成績を収めたが、量産型のハ45を搭載した4~7号機ではエンジンとプロペラのトラブルに悩まされ、特にエンジンに関しては試験期間中最後まで解決しなかったと伝えられる。

問題を抱えながらも一刻も早い実用化と生産体制の整備を目的に、また陸軍航空審査部飛行実験部(旧・飛行実験部実験隊)のテスト・パイロットである荒蒔義次陸軍少佐の進言により、増加試作機は10機以内という従来の方針を転換し審査と試作を併行して進めた結果、制式前に100機を越える大量の増加試作機が生産され、1944年(皇紀2604年)4月にキ84は四式戦闘機として制式採用、順次中島飛行機製作所太田工場・宇都宮工場で量産が開始された。

愛称

ファイル:The Nakajima Hayate of the 73rd squadron.jpg
四式戦「疾風」初公開時の写真。73Fの部隊マークとして垂直尾翼に「赤色の3本ストライプ」、方向舵下端を「黄色中隊色」で塗り分け、さらに機体番号(第491号機)下二桁の「91」を描いた飛行第73戦隊の一型甲(キ84-I甲)

1944年10月、四式戦は所沢飛行場において各報道関係者に初公開された。公開された機体は飛行第73戦隊[注 1]に所属し、無塗装銀地に部隊マークや機体番号などを描いている実戦機であり、この際に写真撮影された機体(右掲)は最初期量産型である第491号機であった。

さらに愛称は「一式戦)」・「鍾馗二式単戦)」・「飛燕三式戦)」・「屠龍(二式複戦)」といった各新鋭戦闘機に次ぐものとして日本全国から募集された。中でも多くの票数を占めかつ陸軍省の選定を受けた結果「疾風」(はやて)に決定し、1945年(昭和20年)4月11日付の各新聞にて「殊勲を樹てている陸軍最新鋭戦闘機」「疾風のごとく敵に襲いかかるわが戦闘機の雄姿を讃ふにふさわしい名前」という賛辞が交えられつつ、実戦部隊所属機の写真付きで発表されている[1]

四式戦「疾風」は「帝国陸軍の新鋭戦闘機」として国民に知られた存在であり、一式戦「隼」の宣伝に代表される広報活動に対する陸軍の関心の高さも相まり、「疾風」もまた各メディアで登場することになる。例として、1945年7月1日公開の日本ニュース第254号では『陸の猛鷲「疾風」戦闘機隊 神州犯す醜翼に挑む我等が決戦機隊』と題し、軍歌『疾風戦闘機隊の歌』をBGMに、機体番号を派手なフォントで大きく垂直尾翼に描いた明野教導飛行師団教導飛行隊所属の四式戦数十機の映像(地上駐機時や操縦席4機編隊からなる小隊離陸や低空飛行シーン)が使用されている。 なお、この日本ニュース第254号『征空部隊』号は海軍の雷電と前後でセットになっており、また大戦最末期の公開のため第二次大戦最後の日本ニュースとなっている[注 2]

コードネーム

本機に付けられた連合軍のコードネーム「Frank(フランク)」の由来は、当時フィリピン鹵獲した当機をテストしたチームの長、フランク・マッコイ陸軍大佐が、優れた性能を持つ敵機に自らの名を呈上したものだと伝えられる。

彼はコードネームを付与する部門の責任者でもあり、自分の名前を有力な戦闘機に付けたいと願い、一旦「三菱陸軍零式単座双発戦闘機(Mitsubishi Army Type 0 Single-seat Twin-engine Fighter.」(架空の機体)に与えたが、のちにそれを取り上げて四式戦に割り当てた、ということになっている。「三菱陸軍零式単座双発戦闘機」には代わりに「Harry(ハリー)」という名が与えられたという[2]

技術的特徴

機体設計

四式戦は2,000馬力級戦闘機としては極めて小型、軽量に設計されている。基本的に一式戦、二式単戦の延長線上にあり、機軸と前縁が直交し後縁が前進する主翼や、水平尾翼より後方にある垂直尾翼、蝶形フラップ[注 3]、前後で分割する胴体など、中島製戦闘機の特徴を有している。ただし、一式戦や二式単戦がエンジンの後方から急速に絞られた胴体を採用しているのに対し、四式戦ではここでの乱流発生を警戒して零戦に類似した徐々に細く絞った胴体形状を採用しているのが特徴となる。生産性に配慮しているのも特徴で、一式戦や二式単戦と比較して生産時間が2/3ほどに減少している。

生産性を除くと四式戦の機体設計は従来の一式戦や二式単戦とあまり変わり映えのしないものであったが、九七戦や一式戦では軽く設定されていた操縦系統が意図的に重く設定されている。

従来の軽い操縦系統は急旋回を行えるためその際にかかる荷重に対応して機体強度を高くしなければならず、強度確保のために機体重量が増加し、結果として飛行性能が低下するという悪循環が起きていた。そこで、急旋回を難しくすることで機体強度を低く設定して機体の軽量化を図り、速度や上昇力の向上につなげるという意図の元に重い操縦系統が採用されている[注 4]。これは陸軍から中島飛行機のテスト・パイロットに転出した吉沢鶴寿の意見を取り入れたものと推測される。以下に機体設計時に吉沢が述べた意見を記す。

テンプレート:Quotation

このため四式戦では急旋回を多用する従来の空戦法格闘戦)を行い難くなり、四式戦に適応した一撃離脱戦法を用いなければ本来の能力を活かせなくなった。その為、太平洋戦争初期からのベテラン操縦者の一部からは「いざというときに敵弾を回避できない気がする」や「座敷のような広い主翼のついた、押しても引いてもびくともしない戦闘機」、「何をしてもできるが、何をしても大したことがない戦闘機」と不評を投じる向きもあった。
上記、昇降舵の重さについては設計主務者である小山悌、テストパイロットの吉沢鶴寿、計画課長の内藤文治は「航空情報」誌馬場一夫の司会する対談において戦後以下のように述べている。

テンプレート:Quotation

操縦者によっては四式戦より慣れ親しんだ一式戦や、末期に登場した五式戦闘機(キ100)を高く評価する事があるのは、エンジンの信頼性の他、パワーアップされた三式戦闘機「飛燕」(キ61)改といえる旋回性能を極限まで発揮できる機体であったからとも言える。しかし、飛行第22戦隊脇森降一郎陸軍少尉の「操縦桿を力っぱい振れば格闘戦用の旋回能力もかなりある」といった感想や、実戦での模様から四式戦は「格闘戦も出来る重戦」「軽戦(一式戦)と重戦(二式単戦)の良いとこ取り」とも評価され、また、高高度での操縦性や速度、防御の点で本機の右にでる日本機はなく、まさに「大東亜決戦機」であった。

エンジン

テンプレート:Main 搭載エンジンであるハ45(誉)はハ25/ハ115(海軍名「」)の18気筒版とでも言うべきものであり、当時欧米に水を空けられていたエンジン技術の格差を埋めるべく、ハ25と殆ど同じ前面面積で約2倍の出力を目指した新世代エンジンであった。やや無理な小型化が行われたためエンジン各部の余裕が少なく、「芸術品」と評されるほど繊細な部分があったとされる。このため大戦末期の量産時には、初期故障の頻発の上に、未熟な徴用工員を動員しての軍需省主導の無理な大量生産、更には、量産数を維持させる為の監督官からの指示が原因による品質低下等が起こり、額面通りの性能が発揮できないものが多発した[注 5]。この事態に陸海軍や中島飛行機が手をこまねいていたわけではなく、可能な限りの対策が取られている。なお、1944年に海軍に納められた誉のベンチテストの結果が、カタログ値より数割低かったという証言があるが、その反面で同時期にフィリピンでアメリカ軍に鹵獲され、好評価を得た機体のエンジンは完全な量産品であった。

ハ45は高品質の100オクタンガソリンの使用を前提に設計されたが、対外情勢の悪化に伴い入手が困難となったため、91オクタンガソリンに水メタノール噴射を行うことで100オクタンガソリンと同様の効果を得られる様に設計変更された。反面この水メタノール噴射の調整が難しく、ハ45の不調原因の一つとなっている(海軍の局地戦闘機雷電においても同様の不調が発生している)。因みに「陸軍は87オクタンガソリンが精々で実態はそれ以下」とする説もあるが、本土だけでなく南方に展開していた実戦部隊の記録には最低限の需要を満たす程度の91オクタンガソリンは安定的に供給されていたことが記されており、87オクタンガソリンで飛んだという証言も「後方で実用機を転用した練習機に使えるかどうか試してみた」や「実戦でも使えないか試験的に入れて飛行してみた」という記述がほとんどである。つまり、陸海軍を問わず、練習機を除く第一線の実用機には91オクタンガソリンが使用されていたことになる。しかし、飛行第47戦隊で整備隊長を務めていた刈谷正意陸軍大尉は自著で「これ(ガソリン)自身も果たして充分にその性能を発揮していたか疑わしい」と述べており、「燃料の性能が額面割れ」していた可能性も全く無いとは言えない。

「ハ45(誉)」の運転制限

1943年7月1日と10日の2回、福生飛行場で行われた飛行実験機材によれば、供試機体キ84第3号機、発動機ハ45特とある。中島飛行機の技術報告書によると、ハ45特は離昇2,000馬力のハ45(海軍名「誉」二一型)より先行して開発されていた離昇1,800馬力の誉一一型と同じになっている。つまり四式戦の初期試作機が搭載していたハ45特は「誉」一一型とほとんどおなじものということである。なお、ハ45特と離昇出力2,000馬力のハ45の性能差は、不具合への対策による運転制限によるものである。この運転制限はキ84の操縦参考書にも「ハ45特と同等の水準に運転制限を行う」と明記されている。なお、1944年末になっても、ほぼ同一エンジンの紫電改の操縦参考書において「制限解除の見通しが立ちつつある」と述べられていることから、かなりの長期間運転制限が行われていたのは確かである[注 6]

プロペラ

エンジンと並んで四式戦の不調の元凶となったのがプロペラで、一式戦や零戦に使われていたアメリカ「ハミルトン」式の油圧式可変ピッチプロペラではピッチ変更角度が足りず性能不足とされ、フランスの「ラチェ」式を独自に改良した電動可変ピッチ機構を採用した。当初ピッチ変動速度が遅く戦闘機には不向きとされたが、日本国際航空工業で構造が改善され(毎秒1.2度→13.2度)戦闘機への搭載となった。しかし、今度は変節速度が早過ぎてハンチングやエンジンの過回転といった問題が発生し、最終的には電動機の電力を半減して動作速度を落とす(毎秒13.2度→6.6度)事で解決された。四式戦に採用されたプロペラは直径3.05mの四翅タイプで、2,000馬力クラスの諸外国の戦闘機が採用した3.6~4.0mに比べるといかにも小さく、上昇力や最高速度の発揮を難しくしたと言われている。同時期に海軍の紫電/紫電改に採用されたドイツ「VDM系」のプロペラが直径3.3m、同じ中島製の彩雲が3.6mを採用したことから、機体を小型にまとめようとするあまり、小径のプロペラを採用したことを悔やむ意見も後年多く出されている。一般にプロペラ直径を大きくすると離陸時と上昇時の効率が向上し、小直径化すると高速飛行時の効率が向上する。戦闘機の設計において離陸と上昇、速度性能のどれを優先するかは運用コンセプトによって定めるものである。そもそも中島では、設計段階で「プロペラ効率76%で、最高速度660km/h」と試算し、実際それに近い速度性能を発揮している。

最高速度

ファイル:Captured Ki-84 with Seafire Hellcat and Mustang 1945.jpg
1945年、アメリカ軍によって鹵獲された四式戦と連合軍戦闘機との編隊飛行。手前よりシーファイア(スピットファイア)、四式戦「疾風」(編隊先頭)、F6F-5 ヘルキャット、P-51D マスタング

四式戦の最高速度は、航空審査部キ84審査主任の岩橋譲三陸軍少佐が高度5,000mで記録した624km/hが広く知られている。同じ試作機の別の記録では、640km/hというのもある。また、船橋陸軍中尉が試作4号機により、高度6,120mにて631km/hを記録している。これらの記録は、いずれも集合排気管を装備した初期試作機のもので、量産型と同じ単排気管に改造した機体では、一型乙試作機が福生の審査部において、高度6,000mで660km/hを記録した。実戦においては、エンジンの調子が良い時ならば、一型甲量産機が650-655km/h以上出たという証言がある。

アメリカ軍はフィリピンの戦いで鹵獲した1446号機(1944年12月に製造された量産機)を使い、戦後の1946年(昭和21年)4月2日から5月10日にかけて、ペンシルベニア州のミドルタウン航空兵站部(Middletown Air Depot)で性能テストを行った。140オクタンの燃料と高性能点火プラグを使用した四式戦は、武装を取り除いた重量7,490lb(3,397kg)の状態(四式戦の正規全備重量は3,890kgである)で、高度20,000ft(6,096m)において時速427mi(687km/h)を記録した。これは同高度におけるP-51D-25-NA マスタングおよびP-47D-35-RA サンダーボルトの最高速度よりも、それぞれ時速3mi(5km/h)および時速22mi(35km/h)優速であった。[3]。しかし、この高度6,096mでの最高速度が全高度における四式戦の最高速度であり、それ以上の高度では速度が落ちてしまうので[4]、高度7,600 mで最高速度703 km/hを出せるP-51Dや9,145 mで最高速度697 km/hを記録するP-47Dに対して必ずしも優位に立っていたとは言えない。

武装・防弾

陸軍単発単座戦闘機としては初めて計画段階から20mm機関砲(ホ5 二式二十粍固定機関砲)の装備が要求された機体で、当時の陸軍単発単座戦闘機の中ではホ301装備の二式単戦二型乙(キ44-II)を除き、三式戦一型丙/丁(キ61-I丙/丁)・二型(キ61-II改)と並んで最も火力が大きかった。また、一型甲(キ84-I甲)のホ103 一式十二・七粍機関砲は装弾数が各350発と、同じく機首砲としてホ103を装備する一式戦二型(キ43-II)・二式単戦二型丙(キ44-II丙)・三式戦一型乙(キ61-I乙)の250発~270発より約100発多くなっている。しかし、世界的な趨勢からみるとやや軽武装であるのは否めず、開発の比較的初期段階から武装強化型の乙型や丙型の開発が始まっている。照準器は一式戦二型(キ43-II)などが装備していた従来の一〇〇式射撃照準器(光像式)に代わり、量産機では新開発の三式射撃照準器(光像式)を装備している。

防弾・防火装備については従来の陸軍戦闘機と同じく装備かつ強化することになり、全ての燃料タンクに防漏ゴムを張ったセルフシーリング式とし、操縦席の風防前面に70mm厚の防弾ガラス、操縦者座席の頭当てと操縦席後方に13mm厚の防弾鋼板が装備されている。

諸元

下表の数値において量産型以外の飛行性能は初期試作機のもの。量産型は整備体制の問題から来るエンジンの不調などにより、カタログスペック通りの性能を出せない機体が多い。そのため最高速度624km/hが広く知られている。

正式名称 四式戦闘機一型甲 四式戦闘機一型甲(量産型) 四式戦闘機一型乙
試作名称 キ84-I甲 キ84-I甲 キ84-I乙
全長 9.92m
全幅 11.24m
全高 3.38m
翼面積 21m²
翼面荷重 185.24 kg/m²
自重 2,698kg 2,698kg+胴体12.7mm機関砲×2⇒胴体20mm機関砲×2への換装分
正規全備重量 3,890kg 3,890kg+携行弾増加分 3,890kg+胴体12.7mm機関砲×2⇒胴体20mm機関砲×2への換装分
発動機 ハ45-21(離昇1,825馬力)
排気管 推力式集合排気管 推力式単排気管
最高速度 624km/h(高度5,000m)
640km/h(高度6,000m)
631km/h(高度6,120m)
624~655km/h(高度5,000~6,000m) 660km/h(高度6,000m)
上昇力 5,000mまで6分26秒 5,000mまで約5分弱
航続距離 2,500km(落下タンクあり)/1,400km(正規)
武装 翼内20mm機関砲(ホ5)2門(携行弾数各120発)
胴体12.7mm機関砲(ホ103)2門(携行弾数各250発)
翼内20mm機関砲(ホ5)2門(携行弾数各150発)
胴体12.7mm機関砲(ホ103)2門(携行弾数各350発)
翼内20mm機関砲(ホ5)2門(携行弾数各150発)
胴体20mm機関砲(ホ5)2門
爆装 30kg~250kg爆弾2発
生産機数 100機以上(推定/試作機のみ) 3,000機(推力式集合排気管装備の試作機含む) 500機(推定/試作機含む)

</table>

発展型

一型甲(キ84-I甲)
翼内にホ5:20mm機関砲2門、機首にホ103:12.7mm機関砲2門を装備した対戦闘機戦重視の基本型。生産されたほとんどの機体はこの型式。携行弾数はホ5が1門につき150発、ホ103は1門につき350発であった。
一型乙(キ84-I乙)
甲型の翼砲ホ5はそのままに機首砲ホ103をホ5に換装した対爆撃機戦重視の武装強化型。製造番号3001以降がこの型とされるが、生産数は不明。試作機は試験飛行において660km/hを記録したとされる。
キ84-I丙
一型乙の機首砲ホ5はそのままに翼砲ホ5をホ155-II・30mm機関砲に換装した武装強化型。試作のみ。
キ84-I丁
一型乙の操縦席後方にホ5を上向き砲として1門を追加した夜間戦闘機型。試作のみ。
キ84-II
機体の一部を木製化したもの。計画のみ。
キ84-III
排気タービン搭載を追加装備した高高度型。計画のみ。
キ84-IV
エンジンを高高度性能に優れたハ45-44に換装した高高度戦闘機型。計画のみ。
キ84サ号(サ号機とも)
ハ45の水エタノール噴射を酸素噴射に変更し、高高度における性能向上を図った型。上昇力が向上し、高度9,000mでの速度が50km/h増したといわれる。テスト中に終戦を迎えた。
キ106
1944年、アルミ合金の不足から、機体の大半を木製化したもの。重心の変化により機首が延長され、フラップは蝶型ではないスプリット式に変更された。17%もの重量増加のため上昇力・速力が低下。また組み立てに使う接着剤に問題があり、試験中に主翼下面外板が剥離・脱落するトラブルも発生した。立川飛行機に加え呉羽紡績や、王子航空機においても試作され、合計10機が完成した。訓練用としての使用も考えられたが、強度不足や構造が量産向きでない問題から生産は中止された。終戦後、アメリカ本国に1機が送られ調査された[5]。のち1994年に北海道江別市早苗別川畔の地中から設計図が発見された。[6]
キ113
アルミ合金の不足から、機体の大半を製化したもの。中島飛行機で試作一号機体が完成しエンジン未着装の状態で終戦を迎えた。やはり重量増加や工程増加による生産性の悪さに加え、鋼材も不足したため生産の見込みがたたず失敗作となった。
キ116
満州飛行機での転換生産型。発動機を信頼性の高い三菱ハ112-II(公称1,500馬力)に換装。プロペラも3翅とし、全長が重心調整のため20cm長くなり翼面荷重は制式機より25kg程度減少したこともあり、速度がやや低下したが、飛行特性も向上したといわれる。かつ、エンジン他での1,000kg重量減少はエンジン出力の約300Hp低下を十分補って余りあるものとなった。特に翼面荷重はキ84の185kg/mに対して160kg/mになったために旋回性能や、離着陸性能はむしろ向上したものと容易に推定することが出来る。試験飛行の結果は良好であったが、各種飛行特性や厳密な性能測定の直前の1945年8月9日ソ連侵攻に遭遇し、関係者の手により機体・設計図とも自らの手で処分された[7]
キ117
エンジンを大馬力のハ44-13型(離昇2,400馬力)に換装した性能向上型。主翼を1.5m²広げ高高度性能の向上を図った。設計中に終戦。キ84-Nとも称した[8]

実戦

ファイル:Jozo Iwahashi.jpg
岩橋譲三(陸軍航空兵大尉当時)

四式戦「疾風」を最初に装備した実戦部隊は1944年3月1日付編成[注 7]の飛行第22戦隊で、垂直尾翼に描く部隊マークを菊水紋とした同戦隊は四式戦の実戦テストも兼ねたものであり、使用機体はキ84増加試作機を、幹部空中勤務者・地上勤務者は主に航空審査部から精鋭を抽出となり[注 8]戦隊長はキ84審査主任を務め当機を熟知していたテスト・パイロットであり、ノモンハン事件からのエース・パイロットでもあった岩橋譲三陸軍少佐[注 9]、整備隊長は同じくキ84班整備班長として長く携わっていた中村考陸軍大尉の両名が任命された。

第22戦隊は当初フィリピン戦に投入される予定だったが、アメリカ陸軍航空軍第14空軍(旧フライング・タイガース)のP-51B/Cを始めとする多数のアメリカ軍新鋭機の登場により、旧式の一式戦や性能に限界のある二式単戦では苦戦を強いられていた中国戦線に、現地の第5航空軍の強い嘆願もあり一ヶ月間の期限付きとして投入された。中国戦線漢口に進出した第22戦隊は現地軍の要請もあり、9月末までの短期間ながら僅か一個戦隊で連日中国全土に出撃し初陣を飾る。

こののち、フィリピン戦に備える為帰還する第22戦隊から残機を引き継いだ飛行第85戦隊と飛行第25戦隊もP-51を相手に善戦し、「マスタング・キラー」「赤鼻のエース」として知られていた若松幸禧陸軍中佐(第85戦隊)[注 10]の活躍など、一時的にではあるが中国上空の制空権を回復する活躍をしている。このように四式戦は中国戦線において実戦部隊の操縦者からも高い評価を受けた一方で、台湾沖航空戦においてほぼ奇襲された状況、しかも圧倒的な数的劣勢下でアメリカ海軍のF6Fに立ち向かった第11戦隊の四式戦に対する評価は芳しくないものであった。

台湾沖航空戦とは比較にならないほど多数の四式戦部隊が編成・投入されたフィリピン戦(捷号作戦)では、レイテ島の戦いの初期にアメリカ陸軍のP-38 ライトニングに苦戦したため、レイテ島防衛に当たっていた第2飛行師団長は1944年10月28日、「四式戦に大いなる信頼を置き居たるに困った事なり」と誌している[9]。しかし、11月1、2日にはオルモック湾を制空し第1師団の上陸成功に貢献(多号作戦#第2次輸送部隊)、また一時的とはいえレイテ湾の制空権確保に成功。1945年1月7日には飛行第71戦隊福田瑞則陸軍軍曹が操縦する四式戦が、アメリカ全軍第二位のエース(38機撃墜)であるトーマス・マクガイア陸軍少佐のP-38Lを撃墜している。この代償として最終的には四式戦戦隊を含む多くの部隊が壊滅し多くの犠牲を払ったとは言え、ようやく四式戦の存在に気が付いたアメリカ軍も「速度と上昇力に優れ、運動性も高く、被弾にも強い」と評価している。

ビルマの戦い(ビルマ航空戦)では飛行第50戦隊が1944年9月から四式戦に機種改編。改編当初は故障が続出したものの、一式戦装備の飛行第64戦隊と共に12月31日に撤退する第15師団を追尾するイギリス軍を中心とした連合軍機甲部隊の捕捉・攻撃(襲撃)に成功。のちの第64戦隊長である宮辺英夫陸軍少佐はこの戦闘と四式戦に対し「(掃射では20mm機関砲の)威力が大いに発揮された」「まずは、四式戦のビルマにおける初のお手柄」と述べている[10]

ファイル:Ki-43s and Ki-84s.jpg
終戦直後の第85戦隊(手前、部隊マーク「片矢印」)および第22戦隊(左奥数機、部隊マーク「菊水紋」)の四式戦他。右列は所属不明の一式戦、右奥は一式双発高等練習機

上述のように「量産型の四式戦は満足に飛べないものすら珍しくない」という説もあるが、飛行第47戦隊は同部隊整備指揮班長を務め整備の神様と謳われた刈谷正意大尉のもと、戦隊内に指揮小隊を設けそこで戦隊機の整備に関する全てを掌握し、厳密なる飛行時間の管理、点火プラグの早期交換、定期的なオーバーホールなど、徹底的かつ適切な整備を施すことで部隊の四式戦稼働率を常時87から100パーセントに保っている。ただ、このような整備方法は欧米諸国では一般的に行われていたので、ハ45自体がどうこうと言うよりもむしろ、それを扱う整備兵の教育や補給が立ち遅れていた側面が大きい。また本土より遙かに条件が劣悪なフィリピンにおける四式戦の稼動率は三式戦はおろか一式戦よりも高かったという記録も残されている。さらに満州飛行第104戦隊は再生潤滑油を使用せず、補給廠デッドストックのアメリカ産輸入潤滑油を用い稼働率80から100パーセントを保ったという記録があり、これは潤滑油をアメリカ産の輸入に頼っていながら、事前の国産化を怠ったままアメリカとの開戦に突入し、戦前に輸入したストックに頼らざるを得ない状況に陥らせた、日本の戦時工業行政の致命的な失敗であった[注 11]

本土での運用時期における可動割合については前述の刈谷正意が第47戦隊においては前述の通り在隊機100%、航空廠修理機を含めて87%、その当時一般部隊においては良好なところで40%、悪いところで20〜0%であると述べている。[11] また、この時期の陸軍調査の数字としては昭和20年5月20日航空総軍調査の「航空総軍飛行機保有状況」があり、ここでは野戦部隊・防空部隊あわせて555機保有[注 12]の四式戦のうち状態甲(自隊内にて整備完了。出撃可能機数は同数かこれ以下となる)の機体は235機となり割合としては42%となる。[12]

その後も沖縄戦菊水作戦)や日本本土防空戦にも投入されたが、既に多くの熟練操縦者を失いさらに戦局自体もますます悪化した末期には散発的な戦果に留まり、更に最末期には本土決戦決号作戦)に備え兵器は温存され、迎撃も控えられていたために大きな戦果を挙げることは出来なかった。1945年8月13日には沖縄から朝鮮に飛来してきたP-47に対し、機数に勝る京城飛行場の第22戦隊と第85戦隊の四式戦が迎撃したものの一方的な敗北を喫した。フィリピン戦末期(アメリカ軍のリンガエン湾上陸後)や、沖縄戦においては、部隊マークとしてドクロを描いた事で有名な第58振武隊他、四式戦で編成された特別攻撃隊も出撃している。

また、満州では1945年8月9日にソ連軍が侵攻したが(ソ連対日参戦)、8月12日と終戦の日である8月15日の2度にわたって、第104戦隊の四式戦が、同じく満州に展開していた独立飛行第25中隊二式複座戦闘機「屠龍」とともにソ連軍機甲部隊に対しタ弾による攻撃を行ない、戦車トラックなどの軍用車輌数十輌を破壊・炎上させる戦果を挙げている。

なお、海軍空技廠に初期生産の2機が海軍の研究用として正式に譲渡された。陸海軍の機種統一を検討してとも言われるがテンプレート:誰詳細は不明。これらは終戦時まで残置しており、写真も残されている。

現存機

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1970年カリフォルニア州オンタリオ国際空港における四式戦一型甲(キ84-I甲)。里帰り時は第11戦隊の部隊マーク「稲妻」に直される

フィリピンの戦いにおいてアメリカ軍に鹵獲され、性能テストに使用された元第11戦隊所属の四式戦が世界で唯一の現存機として、現在鹿児島県知覧知覧特攻平和会館に展示されている。この機体は戦後アメリカ軍より民間に放出されレストアを経て飛行可能であったもので、栃木県宇都宮市の日本人実業家(元海軍下士官・戦闘機操縦者)が買収し、1973年(昭和48年)の航空自衛隊入間基地への里帰り当時は華麗な飛行でファンの目を楽しませた。この後、四式戦は中島飛行機の後身である富士重工業の航空部門たる宇都宮製作所(当時はFA-200 「エアロスバル」を開発生産)が隣接する陸上自衛隊宇都宮飛行場に空輸され、当時の関係者らによる整備も行われつつ富士重工業によって飛行可能な良好な状態で保管されていた。

しかしながら、オーナーの死後は京都の嵐山美術館に売却され同地で展示される事となるが、劣悪な管理状況により飛行不能となった。本機を日本へ譲渡したアメリカの私設航空博物館のドン・ライキンスはこの状況を聞いて譲渡したことを深く悔いており、その後も復元を行ったマロニー博物館では、他の機体数機との交換で良いので還して欲しいとコメントしている。飛行不能となった要因については「ずさんな野外展示が行われ、元々機体から容易にはずせない部品を強引に取る盗難にあった」、「嵐山美術館閉館伴い南紀白浜に移転し、海岸そばでの展示のため零戦六三型と同じく機体の腐食やエンジンの悪化が進んだ」などである。嵐山美術館時代は容易に取れる部品に関しては初めからはずして展示されていたが前述のように盗難被害に遭った。「輸送のために機体をガスで切断した」といわれているが誤認であり、正規の方法で分解されてから輸送されている。知覧特攻平和会館展示の三式戦二型や、靖国神社遊就館彗星などの保存機(いずれも一度ガス切断されている)と混同されている可能性がある。

最終的に、四式戦を装備する第103戦隊が知覧陸軍飛行場に展開、また四式戦も一部が特攻に使用されていた関係から当時の知覧町がこれを取得、空調設備のある屋内展示の形で現在に至る。 テンプレート:-

脚注

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注釈

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出典

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参考文献

  • 防衛研修所戦史室編 『戦史叢書 41 捷号陸軍作戦(1) レイテ決戦』 朝雲新聞社、1970年
  • 歴史群像『太平洋戦史シリーズ46 四式戦闘機 疾風』学習研究社、2004年、ISBN 4-05-603574-1
  • 軍用機メカ・シリーズ第7巻『疾風/九七重爆/二式大艇』光人社 1993年 ISBN 4-7698-0637-X C0372
  • 『続・日本機傑作機物語』 酣燈社 1960年
  • 『決戦機疾風 航空技術の戦い 知られざる最高傑作機メカ物語』光人社 (碇義朗 著)2007年
  • 刈谷正意『日本陸軍試作機物語』 光人社 2007年 ISBN 978-4-7698-1344-6 C0095
  • 鈴木五郎 『第二次大戦ブックス64『疾風』』サンケイ新聞社出版局 1975年
  • 鈴木五郎 『不滅の戦闘機 疾風 日本陸軍の最強戦闘機物語』光人社 2007年
  • 前間孝則 『悲劇の発動機 誉』 草思社 2007年7月31日 ISBN 978-4794215130
  • 渡辺洋二 『未知の剣 陸軍テストパイロットの戦場』文春文庫 2002年

登場作品

関連項目

外部リンク

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  1. 『疾風』と命名 陸の最新鋭戦闘機 大阪毎日新聞、昭和20年4月11日
  2. "JAPANESE AIRCRAFT Code Name & Designations" Robert C. Mikesh, Schiffer Military/Aviation History, 1993(フランク・マッコイ少将の序文付)
  3. R. J.FRANCILLON"Japanese Aircraft of the Pacific War"(New Edition 1979,London,ISBN 0-370-30251-6)p.236
  4. http://www.wwiiaircraftperformance.org/japan/Ki-84-156A.pdf
  5. 文林堂『世界の傑作機No.19』、大日本絵画 『世界の駄っ作機3』他
  6. 田中和夫『幻の木製戦闘機キ106』北海道新聞社、2008年、10-17頁
  7. 大内建二『間に合わなかった軍用機』光人社、2004年、53頁
  8. 秋本実『日本の戦闘機 陸軍編』出版協同社、1961年、50頁
  9. 戦史叢書 41 P.342, P.356
  10. 宮辺英夫『加藤隼戦闘隊の最後』光人社、1986年、245項
  11. 刈谷正意『日本陸軍試作機物語』光人社、2007年、273頁
  12. 防衛研修所戦史室『陸軍航空の軍備と運用(3)大東亜戦争終戦まで』 朝雲新聞社戦史叢書〉1976年 412頁