彗星 (航空機)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:Infobox 航空機 彗星(すいせい)は、大日本帝国海軍艦上爆撃機。略符号はD4Y1~Y4。連合国軍のコードネームは「Judy」。太平洋戦争後半の日本海軍主力機となり、特攻機としても投入された。

概要

単発複座の高速艦上爆撃機として設計された彗星は零式艦上戦闘機とほぼ同サイズとなる艦上爆撃機としてはかなりの小型機である。機体下部の爆弾倉と中翼配置、空力を重視した平滑な機体外形を採用しており、特に水冷エンジン独特の先細りの機首を持つ一一型・一二型は、空冷エンジンがほとんどだった日本の軍用機の中では特徴的な外見を持っている。

海軍の航空技術研究機関である海軍航空技術廠(以下、空技廠と略)で開発された本機は、当時の最新技術を多数盛り込んだ性能優先の設計とされた。本機で採用された機構は彗星自身の高性能化に貢献しただけではなく、後に開発される彩雲晴嵐といった海軍機の多くにも採用された。反面で複雑な構造や水冷エンジンの採用は日本の生産・運用事情を鑑みたものではなかったため、生産面や整備面で様々な不具合を惹起し稼働率の低下を招いた。特に水冷エンジンの生産が機体の生産数に追いつかず、生産性・信頼性の高い空冷エンジンへの換装に至り、この空冷エンジン搭載機が後半戦の主力となった。

開発は空技廠だが、生産は民間の愛知航空機で行われた(後に第十一航空廠でも水冷型を転換生産)。

開発経緯と名称

日本海軍はロンドン海軍軍縮条約により、戦艦巡洋艦と同様、英米海軍に対する航空母艦の保有数の不利を打開するため、艦上爆撃機の主任務を敵航空母艦に対する先制攻撃とし、それを可能とするために「敵艦上機より長大な攻撃半径」、「迎撃してくる敵艦上戦闘機を振り切ることが可能な高速力」の二点を求めるようになった[1]

このために、十試艦上軽爆としてHe 118を昭和11年(1936年)にドイツから輸入したが要求性能を満たしたものではなく不採用となった[1]。艦上爆撃機として十一試艦上爆撃機(採用機が九九式艦上爆撃機となった)の開発も行なわれたが、更なる高性能艦上爆撃機への要求からHe 118の資料を参考[1]に、新機構を盛り込んだ航空機を新たに開発することとなり、空技廠(当時は航空廠)の山名正夫中佐らに“十三試艦上爆撃機”の開発が命じられた。要求性能は概ね以下のようなものであったとされる。

最高速度
280ノット(約519km/h)
巡航速度
230ノット(約426km/h)
航続力
爆撃正規800海里(約1,482km)
爆撃過荷1,200海里(約2,222km)
その他
過荷重装備として五十番(500kg)爆弾の装備を可能にすること

設計の特徴

「敵艦上機より長大な攻撃半径」と「敵戦闘機を振り切る高速性能」という2つの要求性能を満たすために空気抵抗の軽減に重点を置いて新機軸を多く盛り込んだ結果、試作機は要求以上の性能を発揮した。また、彗星で実用化された翼型や急降下制動板、動翼システムは後に開発された陸上爆撃機銀河、特殊攻撃機晴嵐、艦上攻撃機流星、艦上偵察機彩雲等でも採用され、技術開発の面では高い成果を挙げたと言える。

高速性を買われて開発開始から4年後の昭和17年(1942年)に二式艦上偵察機として実戦配備が開始されたものの、艦爆型の実戦配備は新機構に起因する不具合により開発開始から5年後の昭和18年(1943年)にずれ込んだため、開発開始時に目標とされた「迎撃してくる敵艦上戦闘機を振り切る」ほどの高速機ではなくなっていた。とはいえ、単発複座爆撃機としては世界的に見てもかなりの高速機で、九九式艦上爆撃機零式水上偵察機月光などから乗り換えた搭乗員の多くはその高速性能を褒めている。 空母隼鷹飛鷹龍鳳に所属した第六五二海軍航空隊に至っては九九艦爆と彗星を同時に運用することになり、マリアナ沖海戦では九九艦爆が先に発進、彗星が後から追いかけるという複雑な運用を行っている[2]

胴体

前面投影面積の小さい水冷エンジンの直径に合わせて胴体を細く絞り込み、風防を可能な限り低くするために背負式落下傘の新規開発まで行われている。 また、日本製艦上爆撃機としては初となる爆弾倉の採用に加えて爆弾倉扉を胴体内側に畳み込む方式とすることで、爆装時のみならず爆撃時における空気抵抗の増加を防いだ。さらに、He 118を参考にラジエーターと潤油冷却器を爆弾倉の前に配置することで機首下面を滑らかに成形している。

主翼

空力的な面と爆弾倉との兼ね合いのため中翼配置とし、誘導抵抗を抑えて高速を得るために主翼面積を最小限に抑えた。また折り畳み機構を省略するために空母のエレベーターに合わせて翼幅を11mに抑えた。その一方でセミ・インテグラル式燃料タンクを採用して長大な航続力に要する大量の燃料を搭載した。

主翼の翼型は内翼側に層流翼翼型を採用し[1]、外翼側は翼端失速しにくい通常の翼型にすることで、空気抵抗を増やすことなく捻り下げと同様の翼端失速防止効果を得ている。

小さな主翼面と空母からの短距離離陸を両立させるため、翼幅の60%に及ぶセミ・ファウラー式フラップを装備した上に補助翼急降下制動板を補助フラップとして使用可能にするといった様々な設計上の工夫を凝らしたが、過荷重時の離陸滑走には翔鶴型以上の大型高速空母でなければ多数機の同時運用は困難となる程の距離を要した。

大幅なフラップの代償として切り詰められた補助翼は艦爆としての許容範囲内の性能しか得ることが出来ず、後に夜戦として採用された際に効きの不足を指摘された。

その他

十二試陸上攻撃機(一式陸上攻撃機)から採用され始めた各部の電動化を全面的に採用し、脚の出入やフラップ・爆弾倉扉の開閉に使用した。未熟な電気駆動技術による不適切な艤装やモーター出力、及び、バッテリー容量の不足から故障や不具合が多く、従来の油圧駆動式に比べ信頼性に劣った。

「アツタ」発動機

空気抵抗の面で有利と試算された愛知航空機製の水冷エンジンである「アツタ」を搭載した。この発動機は当時同盟関係にあったドイツのダイムラー・ベンツから購入したDB601Aをライセンス生産した物である。

精密なDB601エンジンの国産化に際して、液冷エンジン生産に必要な資源物資もままならず、精密パーツの生産に必要な最新の工作機械を導入できなかったことから、原型の設計図の材質や部品精度のままでの大量生産は不可能と判定された。このため大量生産に向けて材質の変更や部品精度の低下などの設計の改変を行ったが、エンジントラブルの頻発やエンジン性能の低下を招くこととなった。一例として、冷却液について、オリジナルのDB 601Aで使用するエチレングリコールから、資源不足や物資の行き届きにくい前線での整備を考慮して、普通の水に変更したことが挙げられる。エチレングリコールに比べて沸点が低い水で置き換えただけではオーバーヒートを起こしやすいため、加圧することによって沸点を最高125℃まで引き上げたが、冷却系部品への圧力負荷による水漏れのトラブルを招き、エンジン稼働率低下の一因となった。

その反面で同じくDB601Aエンジンのライセンスを購入し国産化した際にニッケルの使用禁止で部品強度の落ちていた[3] 川崎ハ四〇[4] 系に比べると、製造工程で強度低下を抑えていたアツタはハ四〇で多発したクランクシャフト折損のトラブルがなく、全体的に状態が良かったと言われる。

整備面では、比較的早くから二式艦偵を運用していた第三艦隊沖縄戦での活躍で知られる芙蓉部隊では、豊富な予備部品とアツタに熟知した整備兵を揃える(メーカーで専門教育を受けた整備兵を教官にして自隊で教育する等)ことで、エンジントラブルは多いものの特に整備に困難を覚えることなく、空冷エンジン搭載機と遜色ない高い稼働率(芙蓉部隊では8割以上)を達成している。アツタに限ると、搭載機全体の相対的な稼働率の低さはエンジン自体の問題もさることながら、既知のトラブルに対処する整備能力が講習や整備マニュアル不足により限られていた結果であると言える。 当時の日本製航空機は空冷エンジンを搭載した機体がほとんどで、アツタ搭載機の機種(大量生産されたのは本機のみ)及び相対的な機数の少なさ、戦況の悪化などもあって有効な対策が行き渡ることなく終わり、前線の整備員の大半にとって液冷エンジンは馴染みが薄いままトラブルの多い非常に扱いづらい難エンジンとの印象を与えてしまった。

実戦

試作機による審査と実戦投入

ファイル:D4Y2 before take off.jpg
離陸準備中の二式艦偵一一型
  • 昭和15年(1940年)11月1日、AE2A(DB 600Gのライセンス生産型)を搭載した十三試艦爆試作一号機が完成した。その後、不調のAE2Aを十三試ホ号(アツタ二一型の試作名)に換装して試験が続けられ、当時の海軍機最高速度となる551.9km/h/4,750mと偵察過荷重にて3,780kmという長大な航続力を記録、五号機まで試作機が製作された。
  • 既存の九八式陸上偵察機九七式艦上攻撃機零式水上偵察機に代わる高速偵察機の必要性を感じていた海軍は、海軍機最高速度と大航続力を記録した十三試艦爆に目を付け、開戦直前の昭和16年(1941年)11月に十三試艦爆40機を偵察機として次年度生産分に追加発注した。これに先立って試作二、三、四号機を爆弾倉にカメラを搭載した偵察機に改造、昭和17年(1942年)1月に四号機が第三航空隊に貸与されたが、不調のため前線に到着するのに半月以上を要した上に実戦投入されずに終わっている(後に再整備の後、第三艦隊翔鶴に配備され、南太平洋海戦で実戦投入されている)。
  • 昭和17年(1942年)5月、偵察機に改造された試作二、三号機が開戦前から高速偵察機の配備を要望していた第一航空艦隊第二航空戦隊所属の空母蒼龍に配備された。うち1機はミッドウェー海戦にて米機動艦隊を発見したが、無線機故障のため空母飛龍に帰還してからの報告となり、後に飛龍ごと沈没、残る1機も喪われている。戦闘詳報では十三試艦爆の偵察を『敵機動部隊情況不明なりし際、極めて適切に捜索触接に任じ、その後の攻撃(飛龍の反撃)を容易にならしめたり。功績抜群なり』と評価している[5]

二式艦上偵察機

  • 昭和17年(1942年)8月15日、試作五号機が飛行試験中に空中分解し、艦爆としては機体の強度が不足しているため改修が必要と判断されたが[6]、通常の飛行には差し支えないことから、海軍は爆弾倉内蔵式増加燃料タンクやカメラを搭載した機体を二式艦上偵察機一一型(D4Y1-C)として採用した。昭和17年末から配備の始まった二式艦上偵察機の運用は比較的良好で搭乗員の評判も良く、後継の艦上偵察機彩雲と共に大戦後半における日本海軍の眼として働いた。

艦上爆撃機型の配備とエンジン換装

ファイル:D4Y3 pulling up.jpg
飛行中の彗星三三型
  • 昭和18年6月から、機体強度を向上させた艦上爆撃機型も彗星一一型(D4Y1)として量産に移り、昭和18年後半のソロモン戦から実戦投入された。マリアナ沖海戦時には母艦航空隊、基地航空隊とも艦爆隊の主力を占める様になったが、制空権が米軍の手に握られていた上に、テンプレート:要出典範囲
  • 昭和18年5月に出力と整備性を向上させたアツタ三二型に換装した性能向上型の彗星一二型(D4Y2)試作一号機が完成した。しかしアツタ三二型は生産数が伸び悩み、生産終了予定だった旧型エンジン(アツタ二一型)の生産を再開する対策は取ったものの、多数の「首無し機」(滞留機…エンジンの無い機体)が工場外に並ぶという事態になってしまった。そこで一二型試作機完成から約半年後の昭和18年12月から、比較的供給に余裕があり出力の若干高い空冷エンジン金星六二型に換装した彗星三三型(D4Y3)の開発が始まり、完成後は一二型と平行生産された。なお、生産数は一一型705機、一二型約710機、三三型・四三型合計約830機である。直径のやや大きな金星を装備した三三型は「首」が太くなり、水冷型の流麗な胴体形状は失われたものの、金星はアツタに比べて出力が大きい上軽量だったため最高速度は若干の低下にとどまった。一二型は艦上爆撃機または夜間戦闘機、三三型は陸上爆撃機という棲み分けの元に配備が行われているが、三三型は特攻に用いられるものも多かった。
  • 昭和19年(1944年)10月24日、レイテ沖海戦にて基地航空隊の彗星1機が軽空母プリンストンに命中弾を与え、艦上機・弾薬庫の誘爆により火災鎮火の見込みが無くなったプリンストンは味方駆逐艦により雷撃処分された。単機、1発の爆撃でプリンストンを撃沈したこの彗星が誰の乗機であったかは現在も判明していない。なおプリンストンの救援作業に当たっていた軽巡バーミンガムも誘爆の巻き添えにより上層構造物が破損、大破している。
  • 最終量産型は昭和20年(1945年)から投入された三三型を改修した四三型(D4Y4)で、操縦席に防弾設備を増設する一方で後部座席と機銃類を廃し、爆弾倉に800kg爆弾を装備可能とした特攻仕様機であった。第五航空艦隊司令長官宇垣纒中将が終戦当日に沖縄沖の米艦隊に特攻出撃した際、複座型の四三型に搭乗(操縦員席に中津留達雄大尉、偵察員席に宇垣中将、遠藤秋章飛曹長)したことでも知られる。

夜間戦闘機への転用

  • 戦闘機に準じた機体強度と高速性能を持つことから、旧式化したテンプレート:要出典範囲として一二型に20mm斜銃を追加装備(試作機のみ30mm機銃)した一二戊型が三〇二空、三三二空、三五二空等の本土防空部隊に配備され、主にB-29の夜間迎撃に投入された。終戦間際には三三型に20mm斜銃を追加装備したテンプレート:要出典範囲され、少数が実戦配備されている。
  • 沖縄戦では、美濃部正少佐率いる芙蓉部隊所属の一二戊型が一二型と共に米軍に占領された嘉手納飛行場や沖合の艦隊に対して夜間銃爆撃を粘り強く続けたことで知られる。1945年6月10日には、芙蓉部隊所属の中川義正上飛曹-川添普中尉機(一二戊型)がP-61ブラック・ウィドウと思われる米軍夜間戦闘機の撃墜という希有な戦果も報じている。

保存機等

ファイル:D4Y1 Judy type12 Yasukuni.JPG
遊就館にアツタ三二型と展示されている彗星一二型。機番は「鷹-13」
  • 昭和47年(1972年)にカロリン諸島ヤップ島の旧滑走路脇のジャングルで発見された一二型が、昭和55年(1980年日本テレビの協力で回収され、陸上自衛隊木更津駐屯地において飛行機愛好家らの手により復元された。修復の模様はテレビ番組(木曜スペシャル)で放映された。現在は靖国神社遊就館に奉納展示されている。テレビ番組の限られた予算と日数、専門技術を持たない愛好家の手による修復のため状態は良いとはいえないが、世界で唯一完全な形を保つ実機としては貴重である[7]
  • 北マリアナ連邦ロタ島の空港駐車場脇にアツタ二一型エンジン1機がプロペラが付いた状態で、零戦の栄二一型3機、天山の火星二五型1機とともに展示されている。展示といっても、コンクリートの台の上に雨ざらしで置かれているだけで、柵や解説等も全くない。以前は零戦の機体の残骸も置かれていたが現在はない。展示というよりも放置に近く自由に触れることができる。戦後に同地を訪れた元ロタ島守備隊員の証言によるとマリアナ沖海戦の際にF6Fヘルキャット戦闘機に追われてロタ島の海軍航空基地(現ロタ国際空港)に不時着した機体のものであるという。1944年6月19日に空母「隼鷹」を発進した彗星1機(阿部善朗大尉・中島米吉少尉)が1時間近くF6Fに追跡され、かろうじて滑走路に着陸している[8]記録と符合している。
  • パラオ共和国の本島、バベルダオブ島のパイナップル工場跡前に彗星のエンジンと水平尾翼、他部品が設置されている。この尾翼は稼働し自由に触ることもできる。
  • 2013年にアメリカ・カリフォルニア州のプレーンズ オブ フェイム(Planes of Fame)航空博物館で保管されていた彗星一一型の残骸が自走可能状態まで復元されている。但し、エンジンはオリジナルではなく空冷エンジンのプラット・アンド・ホイットニー R-1830エンジンを搭載した為三三型か四三型のような外見になっている。また、着艦フックも装備している。[9]

派生型

十三試艦上爆撃機(D4Y1)
DB 601Aエンジンを搭載した試作型。生産数5機。
二式艦上偵察機一一型(D4Y1-C)
偵察用カメラと爆弾倉内蔵式増加燃料タンクを追加した艦上偵察機型。
二式艦上偵察機一二型(D4Y2-C/R)
エンジンをアツタ三二型に換装した艦上偵察機型。後方旋回機銃を13mm機銃に強化した一二甲型(D4Y2-Ca/Ra)も生産された(文献では主にD4Y2-Rが使われているが、陸上基地からの運用が多かった事からであり、D4Y2-Cも誤りではない)。
彗星一一型(D4Y1)
艦上爆撃機型としては最初の量産型。
彗星一二型(D4Y2)
エンジンをアツタ三二型に換装した艦上爆撃機型。二式艦偵一二型同様、後方旋回機銃を13mm機銃に強化した一二甲型(D4Y2a)も生産された。
彗星一二戊型(D4Y2-S)
一二型の偵察員席後方に20mm斜銃を追加した夜間戦闘機型。三〇二空を始めとする本土防空部隊と芙蓉部隊に配備。
彗星二二型(D4Y2改)
航空戦艦に改装された伊勢型戦艦搭載用に機体を強化してカタパルト射出可能とした機体。一一型または一二型から改造(一一型は熱田三二型への換装を含む)。
彗星三三型(D4Y3)
エンジンを金星六二型(離昇1,560馬力)に換装した陸上爆撃機型。試作機を除き着艦フック無し。一二型同様、後方旋回機銃を13mm機銃に強化した三三甲型(D4Y3a)も生産された。
彗星三三戊型(D4Y3-S)
三三型の偵察員席後方に20mm斜銃を追加した夜間戦闘機型。大戦末期、一二戊型の代替として三〇二空などに少数機が配備。
彗星四三型(D4Y4)
後席廃止(一部は複座型に戻されている)、防弾装備強化、爆弾倉扉廃止などの改修を施した簡易型。800kg爆弾1発の搭載が可能。一般的には特攻仕様として認知されることが多い。増速ロケットの追加も検討され、実際に胴体下部にロケット装着用の切り欠きが作られたが実際には未装備(ロケットを装備すると空気力学的な問題が生じ、性能が低下する恐れがあるため)。
彗星五四型(D4Y5)
エンジンを一二型(離昇1,825馬力)に換装した型。計画のみ。

諸元

制式名称 彗星一一型 彗星一二型 彗星三三型
機体略号 D4Y1 D4Y2 D4Y3
全幅 11.50m
全長 10.22m 同左[注 1]
全高 3.175m 3.069m
主翼面積 23.6m2
自重 2,510kg 2,635kg 2,501kg
過荷重重量 3,960kg 4,353kg 4,657kg
発動機 アツタ二一型(離昇1,200馬力) アツタ三二型(離昇1,400馬力) 金星六二型(離昇1,560馬力)
最高速度 546.3km/h(高度4,750m) 579.7km/h(高度5,250m) 574.1km/h(高度6,050m)
上昇力 高度5,000mまで9分28秒 高度5,000mまで7分14秒 高度6,000mまで9分18秒
航続距離 1,783km(正規)~2,196km(過荷) 1,517km(正規)~2,389km(過荷) 1,519km(正規)~2,911km(過荷)
武装 機首7.7mm固定機銃2挺(携行弾数各600発)
後上方7.7mm旋回機銃1挺(97発弾倉×6)
機首7.7mm固定機銃2挺(携行弾数各400発)
後上方7.7mm旋回機銃1挺(97発弾倉×6)[注 2][注 3]
機首7.7mm固定機銃2挺(携行弾数各400発)
後上方7.92mm旋回機銃1挺(75発弾倉×3)[注 3]
爆装 胴体250kgまたは500kg爆弾1発 胴体250kgまたは500kg爆弾1発
翼下30~60kg爆弾2発
胴体250kgまたは500kg爆弾1発[注 4]
翼下250kg爆弾2発[注 5]
乗員 2名

テンプレート:Reflist

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 海軍 艦上爆撃機「彗星」 古峰文三 歴史群像2006年2月号 P2-5 学習研究社
  2. #艦爆隊長p.168
  3. 渡辺洋二『液冷戦闘機 飛燕 日独合体の銀翼』(文春文庫、2006年) ISBN 4-16-724914-6 p156~p157。
  4. 陸軍もまた海軍とは別にDB601Aエンジンのライセンスを購入し、川崎航空機が担当して国産化したハ四〇/ハ一四〇エンジンを三式戦「飛燕」に搭載している。統合名称(アツタ二一型 ~ 三二型とハ四〇・一四〇両者)をハ六〇と称した。しかし同一のエンジンから派生したとはいえ、二種の発動機は既に双方とも独自に変更・改良を進めた後であったため互換性が無く、三式戦がハ一四〇の不調のためエンジンの変更を検討した際にはアツタを搭載することができないと判定されている。また一説には、三式戦にアツタを流用することも検討されたものの、アツタは彗星以外に供給できるほど生産量を増加できず、三式戦に回すだけの余裕がなかったために実現しなかったともいう。
  5. 「昭和17年6月1日~昭和17年6月30日 ミッドウエー海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」
  6. 山名正夫「海軍航空技術の粋を集めた 艦爆「彗星」」その2(鳥養鶴雄 監修『知られざる軍用機開発』上巻(酣燈社、1999年) ISBN 4-87357-049-2 p40~p41、初出:酣燈社『航空情報』1955年7月号)
  7. 発見当時、本機はプロペラスピナーが付いておらず、胴体後部が折損し一部が失われ、尾翼部分が胴体から分離していたものの、両主脚と胴体後部切断面で三点自立していた。回収の際、輸送機へ積載するために両主翼を付け根付近でガスで切断し、また、固着して分解できなかったプロペラのガバナーは、時間に制約が有ったためとは言え、バーナーで炙って固着を解くという暴力的解決法をとっている。飛行再生を前提としていないとは言え、主翼切断と並び貴重な機体の再生とは思えない手法である。 ガス切断の結果、日本での再生の際の繋ぎ直しで主翼強度を回復できず、再生したエンジンを再度搭載することが出来なくなり、代わりにプロペラ回転展示用の電気モーターを搭載するに終わり、エンジンは別展示となった。胴体後部の欠損部分は、パイプ等で機体全長が合うように組み付けられている為、オリジナル通りではない。復元箇所の外板は安価なアルミ板をブラインドリベットで結合している。現在、遊就館で展示中の本機機体後部下面の支柱部分が胴体修復部分に当たる。計器板はオリジナルを用いずに一枚の白い板に黒い線画でメーターを描いた模造品となっている。失われていたスピナーキャップは番組が探しだした国内の個人から寄贈されたものである。また、機体後部の旋回機銃の弾倉は映画用のフィルム缶である。修復から30年余を経て、機体の劣化が激しいようである。 修復に関わった阿施光南氏は自らのHPに修復途中の写真を多数掲示されているが、航空機レストア作業としては杜撰であったことが見て取れる。(http://mach.air-nifty.com/photos/d4y1/index.html)
  8. #艦爆隊長p.174
  9. 航空ファン (雑誌) 2013年2月号p.8

参考文献

  • 雑誌「丸」編集部 編『軍用機メカ・シリーズ11 彗星/九九艦爆』
(潮書房保存版、1994年) ISBN 4-7698-0681-7
(潮書房ハンディ判、2000年) ISBN 4-7698-0920-4

関係項目

テンプレート:大日本帝国海軍
引用エラー: 「注」という名前のグループの <ref> タグがありますが、対応する <references group="注"/> タグが見つからない、または閉じる </ref> タグがありません