菊水作戦

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5月14日、エンタープライズに特攻機が命中した瞬間
戦争太平洋戦争
年月日1945年4月6日-6月22日
場所沖縄近海
結果
交戦勢力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | テンプレート:JPN1889 テンプレート:Flagiconアメリカ合衆国
テンプレート:Flagicon大英帝国
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 指揮官
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | テンプレート:Flagicon宇垣纏
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 戦力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 特攻機1,827(他に通常作戦機も多数出撃)
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 損害
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 戦死3,067 戦死4,907
戦傷4,824
損傷218隻
駆逐艦など撃沈36隻

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ファイル:Chiran high school girls wave kamikaze pilot.jpg
知覧飛行場から出撃する特攻機と、見送る女学生たち。1945年4月12日

菊水作戦(きくすいさくせん)は、太平洋戦争末期、連合国軍の沖縄諸島方面への進攻(沖縄戦)を阻止する目的で実施された日本軍特攻作戦である。作戦名の「菊水」は楠木正成の旗印に由来する。

作戦は第一号(1945年4月6日-11日)から第十号(6月21日-22日)まで実施され、その後も終戦までの間、断続的に特攻が続けられた。沖縄諸島周辺での特攻作戦において、海軍機は940機、陸軍機は887機が特攻を実施し、海軍では2,045名、陸軍では1,022名が特攻により戦死した。

特攻作戦と連動して、艦上攻撃機天山」や陸上爆撃機銀河」、海軍指揮下の陸軍雷撃隊に所属する四式重爆撃機「飛龍」(海軍名:「靖国」)などによる夜間雷撃や、艦上爆撃機彗星」12型などを主力とする芙蓉部隊、水上偵察機(実質的には水上爆撃機)「瑞雲」による夜間爆撃なども実施された。また、菊水1号作戦時には、航空総攻撃に呼応して、戦艦大和の水上特攻が実施された(詳細は坊ノ岬沖海戦を参照)。

背景

太平洋戦争末期の1945年、既に日本海軍レイテ沖海戦で主力艦艇の大部分を喪失し、艦隊決戦を行う戦力は持っていなかった。また長い戦争の間に、太平洋戦線においてアメリカ軍イギリス軍オーストラリア軍などを主体とする連合国軍と1国のみで戦う日本軍との間の軍事力差は大きく開き、最早、正攻法での作戦遂行は困難になっていた。

一方でレイテ沖海戦では、関行男大尉らの行った最初の特攻がアメリカ海軍の護衛空母セント・ロー」を撃沈するという意外なる大きな戦果を上げていた。これに着目した軍首脳部は、当時の戦力状況であっても特攻であればアメリカ軍に打撃を与えうるとの期待を寄せ始めていた。

3月18日、ミッチャー中将率いる空母12隻を基幹とするアメリカ海軍第58機動部隊が九州沖に接近し、本作戦の前哨戦ともいうべき九州沖航空戦が開始された。連合国軍の沖縄進攻は確実な情勢となり、3月20日、大本営は沖縄防衛のための天号作戦を下令する。参加兵力は、海軍の第5航空艦隊・第1機動基地航空部隊(在九州、司令長官:宇垣纏中将。なお、海軍指揮下の陸軍雷撃隊所属の雷撃機型の四式重爆撃機「飛龍」部隊2個飛行戦隊を含む)、第5基地航空部隊(在台湾)、および第3、第10航空艦隊の一部を主体とし、陸軍の第6航空軍(在九州、司令官:菅原道大中将)と第8飛行師団(在台湾、師団長:山本健児中将)も連合艦隊司令長官の指揮下に入ることとなった。そして、特攻作戦として海軍の「菊水作戦」と陸軍の「航空総攻撃」が準備された。

4月1日、大本営では「昭和二十年度前期陸海軍戦備ニ関スル申合」が行われ、「陸海軍全機特攻化」が決定された。同日、連合国軍は沖縄本島に上陸を開始した。沖縄諸島近海に集結した連合国軍艦隊に対し、日本軍では九州沖航空戦の終結後から菊水1号作戦の実施前日まで、連日、特攻を含む陸海軍機による攻撃を散発的に実施したが、結局、連合国軍を阻止することはできなかった。4月6日正午、海軍の特攻作戦「菊水一号作戦」と陸軍の作戦「第一次航空総攻撃」が発令された。

アメリカ軍は、日本側の攻撃計画を暗号解読により全て知っており、フィリピンの戦いの経験から空および水上からの特攻隊に対する防御を固めていた。沖縄周辺に展開するリッチモンド・K・ターナー提督の遠征部隊は、駆逐艦高速輸送艦、砲装備歩兵揚陸艇(LCI(G), en)などによる二重の防衛線を洋上に築いた。この「フライキャッチャー・スクリーン」と称する防衛線は、四式肉薄攻撃艇震洋といった水上特攻艇や潜水艦による攻撃をさえぎる防護幕であると同時に、レーダーピケット艦として特攻機に対する早期警戒網という重要な任務を負っていた。区分された迎撃ステーションごとに駆逐艦に戦闘機指揮官が乗艦しており、防空任務の護衛空母から発進した戦闘空中哨戒中の戦闘機に対する航空管制を行うことができた[1]。また、4月8日にはアメリカ海兵隊所属の戦闘機89機が占領した読谷飛行場に進出して戦闘空中哨戒に加わり、翌週には144機に達し、14日からは夜間戦闘機による夜間哨戒も開始された[2]。16日にアメリカ軍は伊江島を占領したが、その目的の一つは陸上にレーダーサイトを設置することにあった[3]

経過

菊水一号作戦

「菊水一号作戦」・「第一次航空総攻撃」(4月6日 - 11日)
ファイル:Kamikaze zero.jpg
4月11日、戦艦ミズーリへの至近弾となった零式艦上戦闘機

4月6日正午、海軍の作戦機は391機、陸軍は133機が九州と台湾の航空基地を飛び立った。うち特攻機は海軍215機、陸軍82機。だが、これまでのフィリピンでの作戦と比べて、特攻機には故障などで途中で引き返す機が増えていた。

それでも、海軍第一制空隊30機が囮となり、さらに陸軍の司偵が東シナ海上にチャフを散布してアメリカ軍の防空網の目をひきつけ、沖縄本島上空に隙を作った。これを衝いて、特攻機がアメリカ艦隊へ突入した。特攻機の未帰還機は海軍162機、陸軍50機に及び、341名が特攻により戦死した。

この日のアメリカ軍の損害は決して軽微なものではなかった。駆逐艦「ブッシュ」、「コルフーン」、「エモンズ」、弾薬輸送任務の貨物船2隻、戦車揚陸艦1隻が特攻機の命中により沈没。空母「サン・ジャシント」以下18隻が大中破した。アメリカ軍の戦死・行方不明者は272名、戦傷者は264名に達した。翌4月7日には、空母「ハンコック」などが損傷した。「ハンコック」は、戦艦大和以下の第1遊撃部隊(海上特攻隊。下述)に対する攻撃機部隊を出撃させた直後に、鹿屋基地から出撃した建武隊所属の爆装零戦と見られる特攻機1機の体当たりを受けたが、攻撃機部隊の帰投前に火災を鎮火させた。7日までのアメリカ軍の人的損害は、戦死466名・戦傷568名に上った[4]

6日15時、航空作戦と呼応して、戦艦大和以下の第2艦隊(司令長官:伊藤整一中将)第1遊撃部隊が徳山沖を出撃した。しかし翌7日午後、大和はアメリカ海軍第58機動部隊の艦上機群につかまり撃沈された(坊ノ岬沖海戦)。日本艦隊が満足な直衛機を伴っていなかった点に関して、サミュエル・モリソンは、日本軍は全戦闘機を特攻に振り向ける極めて悪い決断をしたと評している[1]

日本側の航空攻撃は8日から11日までの間にも断続的に続けられ、その間に延べ200機余りの特攻機が出撃し、約100機が未帰還となった。11日の攻撃では、空母「エンタープライズ」や戦艦「ミズーリ」などが特攻機の命中により損傷し、空母「エセックス」が日本海軍機の急降下爆撃で至近弾により喫水線下の船体に損傷を受けた。ただ、11日の特攻による被害は比較的軽度の損傷にとどまった[5]

菊水二号作戦

「菊水二号作戦」・「第二次航空総攻撃」(4月12日 - 15日)

日本軍は続けてアメリカ軍へ打撃を与えるべく9日に「菊水二号作戦」と「第二次航空総攻撃」を発令したが、天候悪化により決行は先延ばしとなっていた。12日、作戦の決行が下令され、海軍の作戦機354機、陸軍の作戦機124機、うち特攻機として海軍103機、陸軍72機が出撃した。

12日の出撃には「桜花」8機が参加していた。うち1機は駆逐艦「マンナート・L・エーブル」を撃沈する。これは結局、桜花による唯一の軍艦撃沈事例となる。他にも特攻により戦艦「アイダホ」と戦艦「テネシー」に損傷を与えた。特攻機の未帰還は海軍69機、陸軍49機であった。

13日以降も小規模な出撃が行われ、戦艦「ニューヨーク」などに損傷を与えた。

菊水三号作戦

「菊水三号作戦」・「第三次航空総攻撃」(4月16日 - 17日)

16日、「菊水三号作戦」と「第三次航空総攻撃」が発令され、海軍は最大規模の出撃を敢行した。この日海軍は作戦機415機、陸軍は92機を投入。うち特攻機は海軍176機、陸軍52機であった。特攻機の未帰還は海軍106機、陸軍51機。この頃には既に陸軍の特攻機は実用機が不足し、旧式の九七戦や練習機を投入し始めていた。

この日の攻撃により、レーダーピケット任務の駆逐艦「プリングル」を撃沈。空母「イントレピッド」、戦艦「ミズーリ」などが損傷した。さしものアメリカ軍も執拗な攻撃に悩まされ、サイパンにあったB-29を動員し、21日と22日に南九州の日本軍飛行場を爆撃した。

菊水四号作戦

「菊水四号作戦」・「第四次・第五次航空総攻撃」(4月21日 - 29日)

菊水三号作戦を転機として、日本軍の特攻作戦への姿勢も後退し始めていた。当初目論んでいたアメリカ上陸部隊の洋上での撃滅は手遅れとなり、一方本土決戦に備えて特攻機を温存する必要もあったためである。4月18日、連合艦隊司令部は第10航空艦隊の作戦参加を取りやめていた。一方で沖縄諸島を見捨てるわけにもいかず、特攻は中途半端な戦略のもとで続けられることになる。レーダーピケット線によるアメリカ軍の防御戦術は効力を発揮しており、「桜花」を抱いた鈍足な陸攻や練習機は、早期に発見され撃墜された。

20日から22日にかけ、海軍は作戦機258機、うち特攻機26機を投入。特攻機の未帰還は3機であった。陸軍も作戦機11機を投入した。23日から26日の攻撃は低調に終わったが、27日から30日にかけて海軍は再び全力を動員し、作戦機587機、うち特攻機100機を投入、特攻機59機が未帰還となった。これらの攻撃では駆逐艦「ヘールズウッド」「ハッガード」「ベニオン」などに損傷を与えたほか、弾薬輸送艦1隻が撃沈された。また、病院船コンフォート」は、夜間照明を行っていたにもかかわらず特攻機の突入を受け、陸軍看護婦6名を含む39名が死亡、看護婦4名を含む52名が負傷した[6]

菊水五号作戦

「菊水五号作戦」・「第六次航空総攻撃」(5月3日 - 9日)

5月3日、沖縄本島の第32軍は総攻撃を開始した。大本営がこれを支援する方策は特攻作戦しかなかった。同日、「菊水五号作戦」と「第六次航空総攻撃」が発令された。海軍は1日から4日にかけて、作戦機449機、うち特攻機160機を投入、特攻機の未帰還は65機であった。戦果は大きく、3日に駆逐艦「リトル」撃沈。4日の攻撃は大規模なものとなり、駆逐艦「モリソン」「リュース」が撃沈され、護衛空母「サンガモン」が損傷した。また、イギリス軍の空母「フォーミダブル」と「インドミタブル」が損傷した。

5日以降、第32軍の反攻は大きな損害を受けて頓挫し、航空部隊の攻撃力も低下した。少数の特攻機による散発的な攻撃の中で、9日には、イギリス海軍空母「ヴィクトリアス」と「フォーミダブル」に損傷を与えている。ただ、飛行甲板に装甲を施されたイギリス空母の防御力は高く、致命傷には及ばなかった。

菊水六号作戦

「菊水六号作戦」・「第七次航空総攻撃」(5月11日 - 14日)

11日、「菊水六号作戦」と「第七次航空総攻撃」が発令され、海軍は8日から11日にかけて作戦機345機、うち特攻機86機を投入、12日から15日にかけても作戦機237機、うち特攻機47機を投入した。特攻機の未帰還はあわせて95機であった。陸軍も作戦機80機、うち特攻機35機を投入した。

この最後の力を振り絞ったかのような攻撃によって、11日、第58機動部隊の旗艦である空母「バンカーヒル」に特攻機2機が命中、同艦は大破して戦死402名、戦傷264名という損害を受けた。しかしアメリカ軍のダメージコントロールの進歩によって、ミッドウェー海戦で日本軍の空母が受けた程度のダメージではアメリカ軍の空母は撃沈できなくなっていた。

ミッチャー中将は旗艦を空母「エンタープライズ」へ移したが、さらにエンタープライズも、14日に特攻を受けて損傷し、この殊勲艦も終戦まで戦線から離脱させられた。ミッチャー中将はさらに旗艦を空母「ランドルフ」へ移さざるを得なくなった。アメリカ軍は再び南九州の特攻基地へのB-29による爆撃を強化した。

菊水七号作戦

「菊水七号作戦」・「第八次航空総攻撃」(5月24日 - 25日)

24日、「菊水七号作戦」と「第八次航空総攻撃」が発令された。この頃になると海軍でも実用機が払底し、練習機「白菊」を特攻機として投入する末期的状況を呈していた。一時的にでも飛行場を制圧して防空網に隙を作るため、同じ24日には義烈空挺隊による沖縄本島の飛行場への空挺奇襲作戦(義号作戦)が実施された。

23日から25日にかけて、海軍は作戦機387機、うち特攻機107機を投入。特攻機の未帰還機は32機であった。陸軍は作戦機174機、うち特攻機61機を投入した。しかし、高速輸送艦「ベイツ」を撃沈し、護衛空母「スワニー」他数隻を損傷させたほかは、目だった戦果を上げられなかった。ほとんどの日本機はレーダーピケット線を突破できずに撃墜された。

菊水八号作戦

「菊水八号作戦」・「第九次航空総攻撃」(5月28日 - 29日)

28日、「菊水八号作戦」と「第九次航空総攻撃」が発令される。26日から28日にかけて、海軍は作戦機217機、うち特攻機51機を投入し、特攻機の未帰還機は26機。陸軍は作戦機71機、うち特攻機57機を投入した。アメリカ側はウィリアム・ハルゼーからレイモンド・スプルーアンスへの艦隊指揮官交代に伴い第58任務部隊から第38任務部隊に改称していたが、これまでと同様の効果的な迎撃を行った。日本軍の戦果は、27日にレーダーピケット任務の駆逐艦「ドレクスラー」を撃沈した他は、駆逐艦数隻を損傷させたのみであった。アメリカ軍の戦死者は290名、負傷者は207名だった[7]。こうして特攻は次第に戦果を上げられなくなっていった。28日、陸軍の第6航空軍が連合艦隊司令長官の指揮下から外れた。

菊水九号作戦

「菊水九号作戦」・「第十次航空総攻撃」(6月3日 - 7日)

6月、沖縄本島では既に第32軍が首里を放棄し、地上戦は最終段階に至っていた。3日、「菊水九号作戦」と「第十次航空総攻撃」が発令されたが、もはや航空戦力も尽きかけていた。1日から7日にかけて、海軍は作戦機367機、うち特攻機23機を投入し、特攻機の未帰還機は5機。陸軍は作戦機71機、うち特攻機31機を投入した。5日、戦艦「ミシシッピ」と重巡「ルイスビル」他が損傷、6日には護衛空母「ナトマ・ベイ」他が損傷した。

菊水十号作戦

「菊水十号作戦」・「第十一次航空総攻撃」(6月21日 - 22日)

23日、第32軍司令官牛島満中将が自決し、沖縄本島での日本軍の組織的抵抗は終わった。大規模な特攻作戦も、21日に発令された「菊水十号作戦」と「第十一次航空総攻撃」が最後となった。16日から22日にかけて、海軍は作戦機271機、うち特攻機67機を投入し、28機の特攻機が未帰還となった。この間、目だった戦果は16日に駆逐艦「トウィグス」を雷撃により撃沈した程度であった。

その後

沖縄戦の終了によって菊水作戦も終了したが、その後も沖縄本島の兵站基地化を妨害するために散発的な特攻作戦は終戦まで続けられ、有為な若者の血が流され続けた。7月29日、海軍の93式中間練習機「赤とんぼ」で編成された神風特別攻撃隊「龍虎隊」による攻撃で駆逐艦「キャラハン」が撃沈された。これが特攻によって撃沈された最後の艦となった。

終戦の日3日前の8月12日夜半には、沖縄本島の中城湾(陥落後、アメリカ軍によって「バックナー湾」と名付けられていた)に停泊していた戦艦ペンシルベニアが、鹿児島県・串良基地から出撃した第五航空艦隊指揮下の第931海軍航空隊・攻撃第251飛行隊所属の艦上攻撃機天山」4機からなる夜間雷撃隊による夜間雷撃を受け、そのうちの1機が発射した航空魚雷1本が艦尾付近に命中して浸水・大破した。

8月15日、菊水作戦を指揮した宇垣纏中将は、終戦の玉音放送を聴いた後に、艦上爆撃機「彗星」で出撃して「最後の特攻」を行い、沖縄諸島方面で戦死した。

結果と影響

沖縄諸島周辺での特攻作戦において、海軍機は940機、陸軍機は887機が特攻を実施し、海軍では2,045名、陸軍では1,022名が特攻により戦死した。そのうち133機が命中、122機が至近弾となり、アメリカ軍の艦艇36隻を撃沈し、主力艦艇の多数を損傷させた。菊水作戦によるアメリカ軍とイギリス軍の戦死者は4,907名、負傷者は4,824名に上った。第二次世界大戦におけるアメリカ海軍の艦艇の喪失の7分の1は沖縄諸島周辺海域におけるものであり、その8割は特攻による戦果である。

しかし、菊水作戦では遂に1隻の戦艦も、空母も、巡洋艦も撃沈できなかった。そもそも特攻機は爆弾を搭載しているとはいえ、構造が脆弱な航空機の機体をぶつけても貫通力は乏しく、装甲で防護された大型艦には致命傷を与えにくい。特攻では命中時の速度が航空機の降下速度と同じ時速650キロ程度にとどまり、高空から爆弾だけを投下して重力で加速させた場合よりも遅く、貫通力が小さくなってしまう。アメリカ海軍艦艇のダメージコントロール能力も優秀で、搭載弾薬の誘爆を起こしてすら沈まなかった艦もある。また、連合国軍の対特攻防御戦術も進歩していた。戦闘機とレーダーピケット艦の連携による防空網は、犠牲を出しながらも日本機の主力部隊への接近を効果的に阻止しており、日本軍が撃沈できた艦船の多くはレーダーピケット任務の小型艦艇であった。初期の特攻が成果を上げ得た、奇襲という前提条件はもはやなくなっていた。

脚注

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参考文献

  • 森本忠夫 『特攻―外道の統率と人間の条件』 光人社、2005年 ASIN: 4769821913
  • 防衛庁防衛研修所戦史室戦史叢書 沖縄・台湾・硫黄島方面陸軍航空作戦』 朝雲新聞社、1968年。
  • 同上 『戦史叢書 沖縄方面海軍作戦』 朝雲新聞社、1968年。
  • サミュエル・E・モリソン 『モリソンの太平洋海戦史』 光人社、2003年。
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  1. 1.0 1.1 モリソン(2003年)、419頁。
  2. モリソン(2003年)、430頁。
  3. モリソン(2003年)、433頁。
  4. モリソン(2003年)、429頁。
  5. モリソン(2003年)、421頁。
  6. モリソン(2003年)、434頁。
  7. モリソン(2003年)、436頁。