アメリカ海兵隊

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アメリカ海兵隊紋章

アメリカ海兵隊(アメリカかいへいたい、テンプレート:Lang-en、略称:USMC、通称:Marines)は、アメリカ合衆国海兵隊沿岸警備隊を含めたアメリカ軍を構成する5軍では2番目に小さく、最高位の軍人を統合参謀本部の構成員として送り込む4軍の中では最も小さい組織である。2011年6月の時点で約20万人の現役将兵と4万人の予備役を擁している。Marines, Devil Dogs とも呼ばれることがある。

概要

ファイル:Teufel Hunden US Marines recruiting poster.jpg
当時のドイツ軍から「デビルドッグ」と恐れられていたことが書かれている海兵隊の募集ポスター(1914年~1918年)。ピッケルハウベを被ったダックスフントがドイツ軍、追いかけるブルドッグが海兵隊である。

アメリカ合衆国の法律に基づき、海外での武力行使を前提とし、アメリカ合衆国の国益を維持・確保するための緊急展開部隊として行動する。また、必要に応じて水陸両用作戦(上陸戦)を始めとする軍事作戦を遂行することを目的とする。本土の防衛が任務に含まれない外征専門部隊であることから「殴り込み部隊」とも渾名(あだな)される。

独自の航空部隊を保有することで航空作戦も実施でき、航空機をヘリコプターや艦載機とすることで海軍航空母艦強襲揚陸艦などを利用し、さらに活動範囲を広げることができる。地上戦用装備も充実しており、陸軍と同様の主力戦車も配備している。戦闘艦艇は保有しないが、独自の物資輸送船を保有する。

今でこそアメリカ海兵隊は「陸海空軍の全機能を備え、アメリカ軍が参加する主な戦いには一番最初に、上陸・空挺作戦などの任務で前線に投入され、その自己完結性と高い機動性から脚光を浴びている緊急展開部隊」と認識されているが、後述するように設立当初から第二次世界大戦の直前に海軍によるてこ入れがあるまでは、アメリカ軍部内で組織としてのアイデンティティや独自の存在価値を問われ続けて、幾度となく消滅の危機に立たされた組織だった。

戦闘行為に関しては、海兵隊の任務に在外公館を含む海外の拠点の警備があり、戦闘に巻き込まれやすい要件を備えているが、海兵隊も陸海空軍と同じく戦争権限法による拘束を受け、議会の承認を受けずに、大統領命令のみでの出撃では、事後48時間以内に下院議長上院臨時議長へ書面で報告するとともに、議会による宣戦布告の承認がなされなければならない。この宣戦布告の承認がなされない場合、議会への報告後60日以内の戦闘のみ認められ、さらに30日以内の撤兵が義務付けられている[1]。つまり、“海兵隊が警備している在外公館等の防衛のためにやむを得ず行う”戦闘行為は同法による拘束の下に行われる自衛行為であり、海兵隊が戦闘を行ったことが、そのまま「戦争」になるわけではない。

軍政面では海軍省下の部局であり、装備の調達などは海軍省が行う。軍令面では法律によって単独の軍としての独立性が保障されている[2]ことから、指揮系統において海軍省内では海軍と並列になっている[3]。海兵隊は海軍の艦船で共に勤務するなど、連携した活動を行っている[出典 1]

大統領専用ヘリコプターの運用も担当しており、これはマリーンワンのコールサインで呼ばれる。

モットー

公式の標語は、ラテン語の "Semper fidelis"。英語では Always faithful. 直訳すれば「常に忠誠を」となり、通常口語体では Semper Fi! (センパーファーイ)と言う。この標語は、紋章のスクロールにも記されている。

「誇り高き少数精鋭」を意味する"The Few, The Proud." や 「一度海兵となったものは、常に海兵である」という意味のOnce a Marine, Always a Marine.といった標語もあり、「一度海兵隊に入隊したなら、除隊しようとも一生『海兵隊員としての誇り』を失わず、アメリカ国民の模範たれ」とされている。

沿革

ファイル:USMC War Memorial 02.jpg
1945年2月23日に硫黄島摺鉢山で星条旗を立てる海兵隊の兵士達を撮った写真『硫黄島の星条旗』を元に作られた記念碑 当番兵が棹の後ろに控えている事から分かるように、旗は掲揚・降納できる またこの記念碑はそのまま海兵隊憲兵隊のバッジに意匠が取り入れられている
ファイル:DutyDressOfficer.jpg
士官クラスのサービスドレス
ファイル:DutyDressEnlisted.jpg
下士官・兵クラスのサービスドレス
ファイル:MARPAT combat.jpg
MARPAT(MARines corps PATtern)迷彩戦闘服

創設期

アメリカ海兵隊はアメリカ独立戦争中の1775年11月10日大陸会議によって設立された[4]大陸海兵隊 (Continental Marines) を起源としている。この組織が創設されたのは、本国のイギリス軍海兵隊という組織があったから単に同様のものを設置しただけのことであり、海兵隊という組織ならではの特別な創設理由や責任任務は無かった。ジョージ・ワシントンは、自らが率いる大陸軍から兵士を引き抜かれるのに反対したため、大陸海兵隊は部隊設立の人員を新たに募集しなければならなかった。この募集は「タン・タバーン (Tun Tavern)」という居酒屋で、その所有者のキャプテン・ロバート・ムランによって始められた。この居酒屋は今も海兵隊の誕生の地とされている。しかし、大陸会議で承認された公式の軍事組織であったとはいえ、得体の知れない大陸海兵隊などという組織への入隊希望者はいなかったので、酒場で若者を泥酔させたところで入隊のサインをさせてそのまま入営させるようなことも行われたという。こうして創設時に集めることができたのは、10人の将校と約200人の兵卒に過ぎなかった。彼らの大半は取り立てて技能のない移民であり、戦闘についての知識を持っている者は皆無に近かった。それは将校も似たようなもので、初代海兵隊総司令官に任命されたサミュエル・ニコラスという人物は、実は居酒屋経営者であった。

大陸海兵隊は、当時の艦船乗り組みの海兵隊員の一般的な任務であった荒々しい水兵達の海上での反乱防止など、艦内秩序の維持を目的とする警備任務等を普段は行い、戦闘時には強行接舷した敵艦に斬り込み隊として白兵戦を行ったり、接近した敵艦の乗組員を小銃で狙撃したりする任務をこなした他、コマンド部隊としてイギリス軍の物資集積所を海から上陸して襲ったりしていたが、これらは言わば大陸海軍や大陸軍の助っ人的な立ち回りをしていたに過ぎず、アメリカ独立戦争が大陸側勝利で目処がついた1783年に解散した。

その後、フランス革命の影響による擬似戦争と呼ばれるフランスとの緊張状態の発生により、1798年7月11日アメリカ海兵隊 (United States Marine Corps) として再建された。

総司令官にはウィリアム・W・バローズ少佐が任命され、その当時の構成は次の通りであった。

将校上院による任命制で、兵の任期は3年であった。

再建時に海兵軍楽隊が組織され、1801年1月1日に第2代アメリカ合衆国大統領ジョン・アダムズの求めに応じて大統領府における演奏会を行って以来、大統領の面前で演奏できる唯一の軍楽隊としての栄誉を与えられた。

アメリカ海兵隊構成員のことを別名“Leather Necks”(レザーネックス)と呼ぶが、これはこの再建時に士官・兵士を問わず唯一支給され、共通して首につけていた刃から首を守る黒皮製のカラー(襟)に由来するものであり、アメリカ海兵隊の礼装であるブルードレスが詰め襟なのも、この伝統が引き継がれていることによるものである。

海賊退治、米墨戦争、第一次世界大戦

アメリカ海兵隊の海外派遣は、地中海の自由航行権をめぐるトラブルからオスマン帝国の独立採算州であるバーバリ諸国との間で発生した第一次バーバリ戦争1801年-05年)が初めてで、この時は、1804年アレクサンドリアに上陸したプレスリー・N・オバノン中尉の率いる部隊が、1805年4月27日、トリポリの要塞を占領[5]したことにより、勝利を確定的なものにし、拿捕された自国艦の乗組員の身代金6万ドルを支払ったものの、今後はアメリカ合衆国船籍の船の航行を妨害しないことを約束させることに成功した。

このとき与えられたマムルーク剣の改良型は、海兵隊将校の儀礼用のみならず、戦闘用も含め、一時期を除いた現在に至るまで制式装備となっている。

米墨戦争では陸軍に先んじて宮殿を占領する等の活躍を見せたほか[6]第一次世界大戦では兵力も増強され、士官4千人、兵7万5千人となり、アメリカ合衆国欧州派遣軍の一部としてフランスベロー・ウッドで逃げ腰のフランス軍に代わってドイツ軍と激戦を繰り広げ、崩れかけた体勢を立て直してドイツ軍を撃退し、その他にも地上戦において戦果を挙げている。

しかし、これらの海兵隊の勇敢な戦果の数々は、結局は陸軍と区別がつけられるものではなく、同じ地上戦を所管する陸軍からは「戦果を横取りされた」として敵視されたあげくに予算の配分を巡って争う始末であり、海兵隊不要論はアメリカ軍部内に燻りつづけて、ときおり火を吹いていた。

1910年代から1930年代の戦間期の海兵隊は、独立した戦闘能力を維持するために小規模な師団的な部隊を大隊単位で恒常的に設置するようになり、人員も大体、士官1千人、兵2万人で推移して、海兵隊総司令官も少将から中将になった。

この頃になると水兵の気質も昔に比べて穏やかになり、白兵戦が生起することも無くなって、海兵隊を海軍艦内に常駐させる必要性は薄れていた。艦内での海兵隊の役割は海軍水兵のものと区別がつかなくなっており、当然、指揮系統上も海軍と対立が起きていたので、海兵隊はアメリカ国内外の海軍基地の警備、海外緊急派遣という新たな任務が与えられた。

1903年に締結されたパナマ運河条約によって、アメリカ合衆国がパナマから「パナマ運河地帯」と呼ばれるパナマ運河の中心から両側5マイルの地域を租借し、海兵隊がその警備を割り当てられると、数個大隊を集めてパナマへ派遣するための連隊が例外的に編成された。この時代の海兵隊の組織は基本的に中隊であり、総兵員も19世紀で士官は100人以下、兵が1千〜2千人、20世紀初頭で士官200人台、兵1万人弱程度であった。それでも海兵隊不要論者からは「アメリカ軍が獲得した前進基地を防衛する任務は、海兵隊では能力不足だ」として攻撃されていた。

海兵隊はこの当時、中米カリブ海諸国ハイチドミニカ共和国パナマメキシコニカラグアなどに派遣されていたが(バナナ戦争)、1927年にニカラグアで始まったサンディーノ戦争で、アウグスト・セサル・サンディーノ将軍率いるゲリラ部隊に苦戦すると1933年に撤退した。ニカラグアから撤退すると、フランクリン・ルーズベルト大統領は善隣外交を導入し、他の中米諸国からも撤退させた。

海兵隊は、設立当初から組織としてのアイデンティティや独自の存在価値を問われ続けて平時には常に規模が縮小され、議会などでも海兵隊の維持経費は「無駄な経費」と罵倒され、解体されて海軍や陸軍に吸収される危機に何度もさらされていた。このような状況にも関わらず、海兵隊が解散しなかったのは、他国の海兵隊のように陸海軍の傘下として設置したのではなく、1798年の再建時に海兵隊を陸海軍と並列の立場で別に設置することを法律で定めたことに端を発しており、議会の決議で法律を制定して設置した以上、アメリカ軍部内の独自判断では解散させることができず、解散についても議会の決議が必要であったためであり、議会に海兵隊擁護論者がいたためであった。

そのような逆境下において、アメリカ合衆国と同じ連合国として第一次世界大戦に参戦した日本が赤道以北のドイツ領ニューギニア各諸島を占領し、大戦後はヴェルサイユ条約によって正式に日本の委任統治領とされたことに伴い、米西戦争で獲得した西太平洋におけるフィリピングアム海外領土や中国での各種権益を持つアメリカにとって、わずか半世紀と少し前にマシュー・ペリー率いる自国の東インド艦隊が訪問して開国させた日本が急速に発展膨張し、中部太平洋に割り込む形で旧ドイツ領ニューギニア地域にまで進出してきたことは、脅威となり始めていた。そこで、海兵隊という組織としての存在価値を新たに明示するため、1921年テンプレート:仮リンク海兵隊少佐が日本本土侵攻作戦についての論文「ミクロネシア前進基地作戦行動 (Advanced Base Operations in Micronesia)」を7ヶ月で書き上げた。この論文は、海軍が以前より研究し1919年に非公式に立案されたオレンジ計画を肉付けすることとなり、1924年アメリカ陸海軍合同会議 (Joint Army and Navy Board) で採用された。

第二次世界大戦

ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発し、日中戦争が拡大してくると、海軍の海兵隊に対する扱いがそれまでのものから180度変わるようになった。

陸軍は戦略上、ヨーロッパ戦線に主眼を置き、太平洋方面の戦いに消極的であったので、太平洋方面は大規模な地上戦兵力を持たない海軍が島嶼の制圧も含めて単独で戦わざるを得ない状況に陥ったことで海軍と連携する地上戦兵力を確保する必要に迫られ、それには海軍と同じ海軍省の所管にある陸上戦闘集団である海兵隊と連携する以外に打開策がなくなったからである。アーネスト・キング合衆国艦隊司令長官は、ジョージ・マーシャル陸軍参謀総長による海兵隊の陸軍吸収案に強硬に反対すると共に、従来、海軍長官の指揮下にあった海兵隊を、海軍長官ではなく大統領に直属している合衆国艦隊の指揮下に置く手続きを取った。そして陸軍の反対を押し切って海兵隊の兵力を4個師団に増やし、さらに1個師団を追加しようとした。

第二次世界大戦時の海兵隊は、戦間期のオレンジ計画を元に1930年代から島嶼における、敵前強行上陸を主体とする作戦展開を研究したほか、海兵隊航空団を拡充し、海兵隊装備委員会では敵前強行上陸において効率的に作戦が進むよう LVT など海兵隊独自の戦闘車両を始めとする装備の研究が行われており、太平洋戦争開戦後は海軍と連携しての三次元作戦が行える段階にまで調整されていた。

このような経緯で第二次世界大戦時の海兵隊は太平洋を主な戦場として戦い、水陸両用軍団として参加したガダルカナル島タラワ環礁サイパン島ペリリューの戦いを始めとするマリアナ諸島硫黄島沖縄などにおける日本軍との激戦の経験は、現在のアメリカ海兵隊の基礎となり、敵前強行上陸などでの活躍は海兵隊の存続に貢献した。

ちなみに1945年2月19日硫黄島への敵前強行上陸で生じた戦死者501名は、1日の戦闘によって生じた戦死者数としては、海兵隊創設以来、2011年までの間において最大である。硫黄島擂鉢山に星条旗が掲げられた日は、後日「アメリカ海兵隊記念日」に制定されている。

同年3月には連邦議会の決議によって海兵隊の最高階級は大将となり、アレクサンダー・ヴァンデグリフト海兵隊総司令官は同年4月4日付けで海兵隊初の大将となった。この頃には海兵隊は6個師団、士官3万7千人、兵卒48万人にまで膨らんでおり、来るべき日本本土上陸作戦に備えていたが、作戦発動前に日本は降伏した。

第二次世界大戦中の統合参謀長会議には海兵隊司令官は招かれなかったが、戦後は必要に応じて招かれるようになり、やがて正規メンバーとなった。

第二次世界大戦以後

第二次世界大戦後は朝鮮戦争において韓国救援の先遣部隊として派遣され、釜山に追い詰められた国連軍の中の米軍の中核として困難な時期を支え、マッカーサー元帥の立案した仁川上陸作戦(クロマイト作戦)に中核戦力として用いられ、上陸後のソウル奪還にも一番乗りの一翼を担った。また、中華人民共和国の参戦によって総崩れとなった国連軍の殿(しんがり。最後尾防衛)を務めたのも海兵隊であった。その後もゲリラの掃討戦に従事し、アメリカ軍やイギリス軍イギリス連邦軍)、大韓民国軍ベルギー軍などから構成された国連軍が行った攻勢には常に主力として用いられ、海兵隊は朝鮮戦争の休戦を38度線の防御陣地で迎えることになる。

その後も、ベトナム戦争グレナダ侵攻湾岸戦争イラク戦争など、米国の行った大規模軍事行動には常に最前線に投入され、米海兵部隊は規模の大小はあるものの全世界に展開されており、有事の際には世界中どこにでも展開できる能力[7]を保有している。

創設以来、志願制による補充を原則としてきたが、第二次世界大戦中及びベトナム戦争中には徴兵による補充を行っている。

組織

軍政・部隊管理面では海軍と同じく、海軍省海軍長官)の監督下にある。海兵隊総司令官は海兵隊の中で最高位の軍人であって、官職としての海兵隊総司令官は海兵隊の最高指揮官である。統合参謀本部の一員でもあり、海軍長官(文官)に直属している。これは海軍作戦部長(海軍軍人最高位)と同格の職位である。海兵隊総司令官は、軍政・部隊管理面での権限を有し、海兵隊をいつでも戦闘可能な状態に保つ責任があるが、軍令・作戦指揮権限は有していない。軍令・作戦指揮については、各統合軍司令官を通じて行なわれる。

海兵隊の上部機構として、海兵隊司令部 (HQMC) がバージニア州に設置されている。作戦部隊 (Marine Corps Forces, MARFOR) は海兵隊総軍 (United States Marine Corps Forces Command, MARFORCOM) および太平洋海兵隊 (MARFORPAC, Marine Forces Pacific)、海兵隊予備役 (MARFORRES, Marine Forces Reserve) で構成されており、海兵隊総軍は第2海兵遠征軍を、太平洋海兵隊は第1海兵遠征軍・第3海兵遠征軍を、海兵隊予備役は第4海兵師団を指揮する。これらは各統合軍へ兵力を派遣している。

海兵隊は航空部隊も含めた諸兵科統合部隊であり、米陸軍とは異なった編制を取っている。通常編制が戦闘を見越した海兵空地任務部隊(MAGTF、マグタフ、Marine Air-Ground Task Force)編制となっている。MAGTF の最大規模のものは海兵遠征軍 (MEF, Marine Expeditionary Force) であり、1個海兵師団および1個海兵航空団からなる。必要に応じ、より小規模な海兵遠征旅団 (MEB, Marine Expeditionary Brigade) や海兵隊遠征隊 (MEU, Marine Expeditionary Unit) が編成される。平時において MAGTF は、MEF で3隊、MEB で3隊、MEU で7隊を編制し、有事にはこれらが組み合わされ、組み替えられて作戦が実行される。

特殊部隊として海兵隊特殊作戦司令部 (MARSOC, Marine Forces Special Operations Command) に2個大隊基幹の戦力を有するほか、常設されている7つの海兵遠征隊 (MEU) すべてが特殊作戦能力を有している[8][出典 1]

編制

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解散した部隊

階級

士官

  • 士官 (Officers) の階級に元帥は設定されていない。
給与等級 O-1 O-2 O-3 O-4 O-5 O-6 O-7 O-8 O-9 O-10
階級章
階級名称 少尉
(Second Lieutenant)
中尉
(First Lieutenant)
大尉
(Captain)
少佐
(Major)
中佐
(Lieutenant Colonel)
大佐
(Colonel)
准将
(Brigadier General)
少将
(Major General)
中将
(Lieutenant General)
大将
(General)
略称 2ndLt 1stLt Capt Maj LtCol Col BGen MajGen LtGen Gen
NATOコード OF-1 OF-2 OF-3 OF-4 OF-5 OF-6 OF-7 OF-8 OF-9

准士官

准士官(Warrant Officers) の階級の最上位は5等、最下位は1等である。1等は国防長官によって任命され、2等以上は大統領によって任命される。また、准尉以上は階級章が袖から肩に移る。

給与等級 W-1 W-2 W-3 W-4 W-5
階級章 gold bar with two red squares gold bar with three red squares silver bar with two red squares siver bar with three red squares silver bar with a red line down the long axis
階級名称 1等准尉
(Warrant Officer 1)
2等准尉
(Chief Warrant Officer 2)
3等准尉
(Chief Warrant Officer 3)
4等准尉
(Chief Warrant Officer 4)
5等准尉
(Chief Warrant Officer 5)
略称 WO1 CWO2 CWO3 CWO4 CWO5
NATOコード WO-1 WO-2 WO-3 WO-4 WO-5

下士官・兵

下士官(Enlisted)

  • 伍長より制服(ブルードレスB)のズボンに赤い線が入る
給与等級 E-1 E-2 E-3 E-4 E-5 E-6 E-7 E-8 E-9
階級章 階級章なし single chevron single chevron with crossed rifles two chevrons with crossed rifles three chevrons with crossed rifles three chevrons up and one down with crossed rifles three chevrons up and two down with crossed rifles three chevrons up and three down with crossed rifles three chevrons up and three down with diamond three chevrons up and four down with bursting bomb three chevrons up and four down with star three chevrons up and four down with Eagle, Globe, and Anchor insignia flanked by two stars
階級名称 二等兵
(Private)
一等兵
(Private First Class)
上等兵
(Lance Corporal)
伍長
(Corporal)
三等軍曹
(Sergeant)
二等軍曹
(Staff Sergeant)
一等軍曹
(Gunnery Sergeant)
曹長(専門職)
(Master Sergeant)
先任曹長(管理職)
(First Sergeant)
上級曹長(専門職)
(Master Gunnery Sergeant)
最上級曹長(管理職)
(Sergeant Major)
海兵隊最上級曹長
(Sergeant Major of the Marine Corps)
略称 Pvt PFC LCpl Cpl Sgt SSgt GySgt MSgt 1stSgt MGySgt SgtMaj SgtMajMarCor
NATOコード OR-1 OR-2 OR-3 OR-4 OR-5 OR-6 OR-7 OR-8 OR-9
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一等軍曹への名誉昇進で、ブルードレスを着るR・リー・アーメイ 左腕の2本の帯は臂章(service stripe)で、勤続10年を表している
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エジプトで上陸作戦の演習を行う第22海兵隊遠征隊

入除隊と昇進

入隊

伝統的に志願制を採り、少数精鋭を目指している海兵隊では、入隊志願者は採用時に選別されるため、入隊する人数はそれほど多くない[9]

兵卒
志願者は海兵隊ブートキャンプという志願者訓練所(カリフォルニア州サンディエゴ訓練所と、サウスカロライナ州パリス・アイランド訓練所の2か所が存在)に3ヶ月間入所して訓練を受ける。
訓練所内では男女は同様の訓練を受けるが、訓練そのものは別々で行われ、厳しい戦闘訓練などの試練に3ヶ月間耐えた者は訓練期間終了と同時に1等兵または2等兵として任命され、海兵隊隊員となる。志願採用時に各人の経歴に応じてブートキャンプ後に1等兵か2等兵になるかがあらかじめ契約されており、訓練所内での成績、席次は関係ない。
4軍の中でも最も訓練期間が長く、苛烈な練兵を行う。練兵では入営者の個性を徹底的に否定し、団体の一員として活動させ、命令に対する即座の服従を叩き込まれる。ついて来られない者は容赦なく民間社会に投げ戻される。練兵訓練を修了した者のみが「海兵」と名乗ることを許される。海兵隊除隊後に他の軍に入隊しても再度練兵訓練を受ける必要は無いが、他軍を除隊して海兵隊に入隊した者は、それまでの功績を問わず海兵隊の練兵訓練を受けなければならない。
士官
海兵隊は陸軍ウエストポイント海軍アナポリス空軍コロラドスプリングスといった独自の士官学校を持たず、入隊する士官は大学卒業が最低条件で全米の大学からの卒業生や多様な職業の者が入隊を希望して来る。
これらの士官希望者は、まず海兵隊の士官候補生学校 (Officer Candidate School、OCS) に入校し、10週間の訓練を受けて修了することが求められる。アナポリス卒の士官候補生が海兵隊将校に任官する道もある。各大学に設けられている予備役将校訓練課程を修了すれば海兵隊少尉に任官される。教育は前半2年間は海軍関係を、後半2年間は海兵隊について学ぶ。無事に OCS を修了すると海兵少尉 (2nd Lieutenant) に任官され、すぐに続けてバージニア州クアンティコの米海兵隊基礎訓練校 (TBS、The Basic School) に入校し、6ヶ月間の訓練と教育を受ける。期間中に TBS での成績が規定レベルに達しない者は海兵少尉の任官が取り消される。TBS の卒業によって真の米海兵隊士官となる[出典 1]

昇進

兵卒
海兵隊に入隊した兵は、二等兵に任命される。入隊契約で初期教育課程終了後一等兵への昇進が確約されている者は課程修了を以って直ちに昇進するが、その他は入隊から6ヶ月後。一等兵昇進から9ヵ月後に上等兵に昇進する。
士官
士官候補生として入隊して小隊指揮官課程 (Platoon Leader Course) を終えると少尉に任命され、1年に及ぶ基本術科学校 (The basic School) の課程を終えると専門別に1週間から16ヶ月の教育を受ける。
少尉任官後の5-6年の勤務を経て、成績がよければ中尉に昇進し、10年から12年経つと有望な士官は少佐となるための専門教育を受けて昇進するが、佐官は非常に狭き門であり少佐にまでなれる人間は少ない。
さらに将官を目指すものはアメリカ海兵隊指揮幕僚大学 (Marine Corps Command and Staff College) へ入学して教育を受ける。

除隊

名誉除隊
軍人として在役中の成績が概ね良好で、軍法会議または民事訴訟などの対象にならずに一定の条件を満たして除隊した者は、名誉除隊となり、名誉除隊証書が交付される。名誉除隊証書の交付を受けると、福利厚生・生活保障の面においてさまざまな恩典を受けることができる。海兵隊において名誉除隊となる勤務成績以外の主な条件は、次のようなもの。
  • 20年以上の勤続(大尉で定年を迎える・佐官に昇進している。)
  • 傷痍除隊(戦傷によって職務への復帰が不可能と判断された場合がこれに当たる。勤続年数を問わない。)
  • 名誉ある職業[10]への転職(勤続年数を問わない。)
普通除隊
軍人として在役中の成績が概ね良好で、軍法会議または民事訴訟などの対象にならなかったが、名誉除隊の条件を満たせずに除隊した者は普通除隊になる。例としては以下の通り。
  • 二度昇進を見送られた者
  • 尉官(中尉・少尉)のまま勤続20年目を迎え、佐官に昇進出来なかった者
  • 勤続19年目以前に昇進見送りとなった者
不品行除隊
軍法会議による有罪判決の確定、犯罪で逮捕されるなど、軍人として不名誉な行為に対する懲戒処分の一種で、強制的に除隊させられる。
不名誉除隊となった場合、軍人年金や退職金の不支給をはじめとして事実上退役軍人としてのあらゆる権利を剥奪される他、不名誉除隊後は、次のような不利益を被ることがある。
  • 医療保険の停止
  • 市民権の停止
  • 再就職の際においては、履歴書に不名誉除隊の旨の記載を義務付けられる。
  • 銃器所持の制限(銃規制で非海兵隊員の民間人と同等になる)

一度入隊した者は終生規範や誇りを持てという考えから、除隊後も「元海兵隊員」ではなく「海兵隊員」と呼ばれ続けるが、もし不名誉除隊となった場合は「海兵隊員」はおろか「元海兵隊員」と名乗ることすら禁止される

基地

基地については、テンプレート:仮リンクを参照。

広報誌

  • Okinawa Marine - 沖縄県内の米軍基地で配布、Web版もある。

主な装備

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アメリカ海兵隊出身の有名人

政治家・官僚

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俳優

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歌手

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スポーツ選手

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実業家

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その他

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アニメ・ゲーム・漫画の登場人物

出典

  1. 1.0 1.1 1.2 北村淳・北村愛子著 『アメリカ海兵隊のドクトリン』 芙蓉書房出版 2009年2月25日第1版発行 ISBN 9784829504444

脚注

テンプレート:Reflist

関連項目

テンプレート:Sister

外部リンク

テンプレート:アメリカ合衆国 テンプレート:アメリカ軍 テンプレート:アメリカ海兵隊

テンプレート:Gunji-stub
  1. 50 USC Chapter 33 - WAR POWERS RESOLUTION コーネル大学法学大学院・法学情報院
  2. 「Act for establishing and organizing a Marine Corps」という法律が1798年7月11日に連邦議会で可決されている。
  3. 海兵隊総司令官 (Commandant of the Marine Corps) は、陸軍参謀総長、海軍作戦部長、空軍参謀総長たちとの間で指揮命令系統の上下関係はない。米大統領の下で戦略の立案といった軍事顧問の役を務める統合参謀本部 (Joint Chiefs of Staff) の長である統合参謀本部議長も、長年、海兵隊出身者からは出なかったので四軍の中で海兵隊だけが格下である印象を持たれていたが、2005年にピーター・ペース海兵隊大将 (Gen. Peter Pace) が第16代統合参謀本部議長に就任したことで、四軍が並列の関係とみなされるようになった。
  4. 自らの組織を生き物だと捉えるアメリカ海兵隊では、毎年11月10日になるとバースデーケーキで誕生日を祝う。
  5. 描写は海兵隊讃歌の歌詞「To the shores of Tripoli」に反映された。
  6. 星条旗を立てた部屋の名前が海兵隊讃歌の歌詞に反映された。
  7. 部隊だけでなく、世界中に散らばった物資輸送船(事前集積船)を持つ。派遣地域の近くにいる物資輸送船が保管していた重装備と、素早く輸送できる軽装備の人員を合流させることで、展開速度と重装備を両立する
  8. 従来は特定の海兵遠征隊 (MEU) のみが特殊作戦能力 (Special Operations Capable) を有していたのでその海兵遠征隊だけを特に "MEU (SOC)" と呼んだが、今ではすべての海兵遠征隊が特殊作戦能力を有しているので MEU (SOC) とは呼ばれなくなった。
  9. 米海兵隊の人数は、2008年夏時点で195,000名ほどである。また、米海兵隊は将校の割合が他の軍種と比べ少なく、米陸軍16%、米海軍18%、米空軍20%に比べて、約10%である。
  10. 警察官など。一部の地方警察では元海兵隊員に、“同志の証し”として特別なバッジを作成し斡旋している。シカゴ市警察での