加藤隼戦闘隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:軍隊資料

加藤隼戦闘隊(かとうはやぶさせんとうたい)とは、太平洋戦争大東亜戦争)初期に活躍した加藤建夫陸軍中佐戦死後、陸軍少将)率いる大日本帝国陸軍飛行戦隊飛行第64戦隊飛行第六十四戦隊飛行第六四戦隊秘匿名高二一九四部隊軍隊符号64FRないし64F)の通称・愛称。および、加藤建夫と同戦隊の活躍を記録した同名の映画、同戦隊の戦隊歌部隊歌・軍歌)である。

本項では部隊・映画・軍歌の3つのすべてを詳述する。

概要・戦歴

ファイル:Tateo Kato Sekkaso.jpg
1938年春、飛行第2大隊第2中隊長時代の加藤建夫

1938年(昭和13年)8月、彰徳飛行場において立川飛行第5連隊第2大隊の第1・第2中隊と、平壌にあった独立飛行第9中隊の計3個中隊が合同して飛行第64戦隊編成された。以降、続いて日中戦争支那事変)、ノモンハン事件に戦隊は従軍し戦果を挙げる。

一式戦「隼」

テンプレート:Main 第64戦隊が一躍有名になったのは、1941年(昭和16年)4月に量産1号機が完成した帝国陸軍の新鋭戦闘機一式戦運用のため第4代目戦隊長として着任した加藤建夫の時で、これが「加藤隼戦闘隊」の創設であった。加藤自身は元々(上述の飛行64戦隊の前身である)飛行第5連隊第2大隊第2中隊の中隊長を務めており、1938年4月にはその第2中隊の事変下における戦功が認められ、帝国陸軍の飛行部隊としては初めて感状を授与されているなど当時からエース・パイロットの頭角を現していた。加藤は同年5月に陸軍大学校専科入校及び陸軍航空本部部員拝命の辞令を受け、北支戦線で従軍中の第2中隊を離れ日本に帰国しているため、部隊名(隊号)こそ変わっているものの1941年に再び古巣の部隊に帰ってきたことになる。

飛行第59戦隊に次ぐ「隼」装備部隊に選ばれていた第64戦隊は、1941年9月から福生陸軍飛行場にて「隼」一型(キ43-I)を受領し機種改編を開始した。しかし、加藤自身は元々一撃離脱、速度重視、武装重視の重戦思想の持ち主であり、軽戦「隼」の大成にかける情熱に当初周囲は驚いた。この時、加藤は到着後直ちに単機の模擬空戦を初めて乗る戦闘機で行ったが、低位からの空戦演習に陸軍飛行実験部実験隊荒蒔義次大尉に勝てず、「どうしても低位からの空戦に勝ちたいと思った」と模擬空中戦を4度繰り返し荒蒔を驚かせている[1]

習熟飛行を修了したのち11月より広東で錬成の猛訓練に入り、12月3日には広東から「隼」35機全機を率い(「隼」が就役する以前より洋上での計器飛行・悪天候下の飛行訓練を繰り返していた)、悪天候の中2千数百kmを6時間余りで無着陸で飛翔して、落伍機も無しに仏印フコク島ズォンドンに進出した。

南方作戦

ファイル:Major General Tateo Kato. (Imperial Japanese Army).jpg
1942年初頭、飛行第64戦隊のピスト[2]にて第3中隊長安間克巳大尉らと談笑する加藤建夫戦隊長

第7飛行団に所属する第64戦隊は、12月7日より対米英戦争(太平洋戦争)開戦にむけて、マレー作戦の主力第25軍司令官山下奉文中将)を乗せた上陸部隊輸送船団の海上空中護衛を夜間荒天の中成し遂げた(この護衛作戦で高橋三郎大尉・中道格蔵少尉・都築昌義准尉の3機を悪天候により失った)。翌8日に部隊はほとんど休養を取らずに9時50分(日本時間)出撃、マレー半島北部の連合軍航空戦力を攻撃して上陸部隊を支援した。9日にはシンゴラ、13日にはコタバルに進出。マレー作戦の主要戦場は日本軍に対して数倍の規模を持つ連合軍地上戦力への攻撃であり、常に日本軍航空戦力の制圧下に置く事が勝利の条件であった。このため第64戦隊も日に複数の長距離の行程を経て地上支援と哨戒戦闘を行い、連合軍機の多くを地上で撃破した。第64戦隊の記録では最初の空中戦は12月20日、イギリス空軍を相手としクアラルンプール上空と記されている。マレー作戦の最終目的地であるシンガポール攻略戦では、イギリス空軍のハリケーン戦闘機と対峙するがこれに完勝。この後、第64戦隊は蘭印作戦インドネシア)、ビルマ作戦ミャンマー)にも転戦し連合軍に勝利を重ね、各南方作戦において「隼」と64戦隊はその威力を発揮した。

なかでも蘭印作戦における1942年(昭和17年)2月14日のパレンバン空挺作戦では、第59戦隊とともに、加藤の統一指揮のもとスマトラ島パレンバン油田落下傘降下する陸軍空挺部隊「空の神兵」こと第1挺進団一〇〇式輸送機ロ式輸送機)を護衛・掩護。第64戦隊はハリケーン15機と交戦するも、マクナマラ少尉機・マッカロック少尉機の2機を撃墜し残機も撃退(内撃墜1機は加藤の戦果。さらにもう2機が燃料切れで不時着し英軍損失は計4機)[3]、かつ「隼」および降下前輸送機に損害もなく一方的に勝利している。南方資源地帯掌握のため始められた太平洋戦争において、東南アジア屈指の大油田地帯であるパレンバンは戦略上の最重要攻略目標であり、その確保に大貢献した「隼」と第64戦隊の働きは相当なものであった。

加藤はマレー戦において、しばしば上層部からの指示を越える範囲まで攻撃を行っている。これによって地上部隊の進撃速度は上がったが、操縦者ら空中勤務者の疲労を招き、飛行場大隊といった整備員ら地上勤務者の派遣も追いつかないという問題が生じた。軽い戦闘整備については当初空中勤務者自らが行っていたが、後に移動の際に操縦席後部と胴体に機付の整備員を同乗させていた。燃料も占領した飛行場において遺棄された敵機から抜いて「隼」の運用に充てたという。

第64戦隊が中華民国国民革命軍国民党軍)を支援していたアメリカ義勇空軍AVG(フライング・タイガース)と初めて交戦したのは、1941年12月25日のラングーン爆撃行で、25機の「隼」で九七式重爆撃機を護衛していた時だった。AVGは一撃離脱戦法を駆使して護衛の「隼」を翻弄し、重爆隊に損害を与えた(AVGは被撃墜や不時着により2機、イギリス空軍はF2A5機を失った代わりに日本軍の戦闘機10機、爆撃機9機の撃墜を報じているが、現実には飛行第77戦隊の九七戦3機、第64戦隊の「隼」2機、飛行第12戦隊の九七重爆4機が失われるに止まっている)。その後、第64戦隊はマレー半島の戦闘に参加しAVGとの戦闘はしばらく無かった。1942年3月24日、AVGの6機のP-40はチェンマイ飛行場を攻撃、1機を対空砲火で撃墜されながら、第64戦隊の「隼」3機を地上銃撃で炎上させ十数機を損傷させる戦果を挙げた。また4月8日のロイウィン飛行場に襲撃に来た第64戦隊への迎撃に成功し、「隼」4機を撃墜している(この時はAVGが損耗し迎撃能力が無いとの誤認から上空からの奇襲を許し、加藤をして「加藤一代の不覚であった」と言わしめた)。翌々日には第64戦隊の地上銃撃で飛行可能なP-40のうち9機が損傷したが、半日後には修理が完了している。同日、AVGとイギリス空軍機は再び襲撃に来た「隼」1機を撃墜、1機を撃破した。4月28日の第64戦隊の迎撃で連合軍は22機撃墜の大戦果を報じているが、大半は誤認であり現実の戦果は撃墜1機、敵機同士との衝突で1機の計2機のみであった。AVGのP-40は撃墜こそ免れたものの被弾による損傷で飛べなくなっていたものが多く、30日には修理中だった22機を放火処分、昆明に撤退し7月にAVGは解散している。1942年末に第64戦隊は「隼」二型(キ43-II)への改編のため日本の立川に帰還、1943年(昭和18年)2月まで飛行第50戦隊がAVGの後身である中国空軍機動部隊(CATF)の相手となった。

加藤の戦死

なお1942年5月22日、加藤は僚機と共に飛行場に襲来したイギリス空軍のブレニム(ブレンハイム)軽爆撃機を追撃したが、攻撃中に後上方銃座の攻撃を受けて乗機が被弾、ベンガル湾上であり帰還が不可能と悟った加藤は海面に突入し自爆、戦死した。加藤は死後二階級特進して少将となり、軍神(「軍神加藤少将」)として日本国民に広く喧伝され讃えられた。加藤の戦死後、第64戦隊長はエース宮辺英夫少佐(第9代目)まで5人交代したが、部隊は一貫して「加藤隼戦闘隊」を名乗り続け、加藤の精神を受け継いでいる。

丸尾大尉・大谷大尉の両中隊長、さらに加藤の後任たる八木戦隊長を失った第64戦隊において、1942年4月に第3中隊長に着任していた黒江保彦大尉は先任将校として指揮統率。自身も陸軍航空部隊指折りのエースである黒江は、ビルマ戦線(ビルマ航空戦)でイギリス空軍の高速機モスキートを撃墜[4]するなど活躍、1944年(昭和19年)1月半ばにテスト・パイロットとして再度陸軍航空審査部に転任するまで第64戦隊を支えた。

末期

第64戦隊は1944年には、チッタゴンインパールコックスバザーへの侵攻、アキャブ方面の地上協力を行い、11月25日にはラングーン上空におけるP-51Aとの初遭遇戦に勝利している。また、同年4月22日にアラカン山脈方面を進撃中だった宮辺機が、成都に単独で向かっていたアメリカ陸軍航空軍第444爆撃航空群所属のB-29と世界で初めて交戦。8発の命中弾を与え右内側エンジンを一時停止させ撃破した(宮辺は帰還後撃墜を報じたが、実際には墜落には至らずこのB-29は生還している)。

この他、拉孟騰越両守備隊に対する物資投下作戦(拉孟・騰越の戦い)やインパール作戦以降撤退する地上軍の掩護、輸送船団護衛に任じた。また、技量優秀な者による戦闘爆撃機隊も編成され、1945年(昭和20年)2月11日にはラムリー島上陸作戦掩護にあたっていた、イギリス海軍駆逐艦パスファインダー」を池澤軍曹機と僚機の池田軍曹機の2機が攻撃。合計2発の爆弾が艦尾に命中し「パスファインダー」は大破全損になっている。特攻に関しては志願者が参加、宮辺自身は隊内事情を鑑みて、後がないようなら特攻を志願する腹だったが、最終的には第64戦隊は精鋭部隊との陸軍上層部の理由により、特攻要員の抽出や特攻隊掩護は行われていない。

終戦

終戦南部仏印のクラコールで迎え、この時点での保有機は「隼」三型(キ43-III)18機だけだったという。飛行分科「戦闘」の飛行戦隊の定数は42機だったが、大戦後期には充足されることはほとんど無かった。主要機種は前身部隊時代を含めて九五戦、九七戦、一式戦「隼」[5]および、戦力強化のために若干数が送られた二式戦「鍾馗」。また、鹵獲したハリケーンも若干数保有していた。なお、第64戦隊と共に長くビルマ航空戦を戦っていた、同じく有数のエース部隊である第50戦隊は1944年夏に四式戦「疾風」へ機種改編しているが、第64戦隊は「疾風」に乗り換えず「隼」を使用し続けていた。

残った隊員のうち何人かは強い誘いにより国民党軍やベトミンに身を投じた(宮辺の回想による)。宮辺は戦後、「飛行第64戦隊略歴」を作成。現在はその写しが防衛省防衛研究所に保管されている。また、1944年1月に陸軍航空審査部に戻った黒江は各新兵器の審査にあたり、また臨時防空部隊の「福生飛行隊」として日本本土防空戦に従軍し活躍。また、1945年2月に漢口鹵獲されたマーリンエンジン搭載P-51Cのテスト・パイロットを務め、戦後は航空自衛隊に入隊し空将補となったが、1965年(昭和40年)12月5日に趣味の釣りの最中に高波により事故死した。

第64戦隊の最終的な戦果は撃墜283機・地上撃破144機(日本側記録による)。主な損害は戦死160余名(空中勤務者)。感状授与数は7枚で日本陸海軍全軍中最多であり、かつ飛行第2大隊時代を含めると計9枚となる。

陸上自衛隊丘珠駐屯地丘珠空港と同居)資料館に加藤関連の資料や遺品が保存・展示されている。

部隊マーク

ファイル:Khalkhin Gol Japanese Ki 27 1939.jpg
1939年、ノモンハン事件当時の第64戦隊の九七戦。部隊マークとして操縦席側面に「赤鷲」を描いている

テンプレート:See also

帝国陸軍航空部隊には、その機体の所属を示す部隊マークとして図案等を機体に描く瀟洒な文化があり、飛行第64戦隊は「矢印斜矢印)」を使用していた。この「斜矢印」は垂直尾翼に大きく描かれ、いわゆる中隊色としては戦隊本部は「コバルトブルーの縁取った白矢印」、第1中隊は「矢印」、第2中隊は「矢印」、第3中隊は「矢印」がある。

なお「矢印」の部隊マークが採用される前は(九七戦時代の途中頃まで)、を意匠化した「赤鷲」を使用していた。「赤鷲」は操縦席側面の胴体に文字通り赤色で描かれている(同時期の撃墜マークは「赤鷲の片翼」であり「赤鷲」の横に描かれる)。この「胸に描きし赤鷲」は後述の戦隊歌の歌詞として歌われており、映画でもオープニングタイトル画に採用された。 テンプレート:-

映画『加藤隼戦闘隊』

テンプレート:Infobox Film

1944年、東宝映画『加藤隼戦闘隊』として公開された。山本嘉次郎監督を務め、陸軍省後援・情報局選定の国民映画として、同年3月9日に封切り公開[6]され、1944年に最も興行成績を上げた大ヒット作となった。

原作は「加藤隼戦闘隊(飛行第64戦隊)」に所属していた後の「義足のエース」こと檜與平中尉および遠藤健中尉が、中隊長教育を受けるために日本に帰国し明野陸軍飛行学校(現・陸上自衛隊明野駐屯地陸上自衛隊航空学校)の甲種学生時代、戦隊の緒戦の戦いぶりを著した『加藤隼戦闘部隊』である。原作者の一人の檜は、1943年11月にP-51Aと交戦中に右足を負傷し内地後送となり義足となったが戦列に復帰、本土防空戦にてP-51Dを確実撃墜するなど活躍、大戦を生き延び1991年(平成3年)に71歳で死去した。もう一人の遠藤は著作の上梓前に1943年5月15日に雲南で戦死している。『加藤隼戦闘部隊』は2003年(平成15年)にカゼット出版から復刻発売されている[7]

帝国陸軍の古参の戦闘機乗りとして空に生き、性格は豪放磊落かつ部下思い、また洒落っ気のある名指揮官名パイロットたる加藤の人物像そのものは名優藤田進が演じている。

本作は陸軍省報道部、陸軍航空本部、各陸軍飛行学校、各基地の全面協力のもとに製作され、映画に登場する軍用機は、この映画のためだけに大半のシーンで実際に一式戦「隼」を始め、九七重爆、九七輸、九七戦といった実機を飛ばし、また敵連合軍機役のF2A、P-40、ハドソンなどは、実際に太平洋戦争で鹵獲された実機が日本軍機と同じく映画のために用意され撮り下ろしされリアリズムに徹している。なお加藤時代の装備機は「隼」一型(キ43-I)であったが、映画では撮影の都合により二型(キ43-II)が主に、また「鍾馗」が敵機役として少数使用され遠景シーンに登場している。映画序盤の僅かなアクロバット飛行シーンのみ同じ東宝映画の『翼の凱歌』(1942年、山本薩夫監督)から流用され、また当時南方戦線で航空部隊の記録映画を撮影していた村田武雄による「隼」部隊の現地映像も数カット提供を受けているが、大半は『加藤隼戦闘隊』のオリジナル映像である。

さらに帝国陸軍は本作の空中撮影用に偵察機、爆撃機、戦闘機計3機を提供、高度6,000mでの空中戦撮影では、三村明カメラマンが夢中になって撮影機の窓から半身を乗り出してしまい、これを山本監督が必死になって押さえるという一幕もあった。タイトルの通り、加藤と第64戦隊を主軸にしたセミ・ドキュメンタリー映画であるものの、第64戦隊が空中掩護したパレンバン空挺作戦も再現され、陸軍空挺部隊の降下・戦闘の各描写が丹念に当映画のため撮影されている。このパレンバン空挺作戦の撮影には、陸軍の意向で30台の撮影カメラが動員され、カメラマンは画面に映っても支障のないよう挺進兵の降下服姿でこれを行った。カメラ30台を持ちだされた東宝撮影所は、このため一時他の作業がすべて止まってしまったという。

重爆隊によるラングーンのイギリス空軍飛行場と港湾の空爆描写に至っては、円谷英二の名特撮にて迫力をもって再現されている。特に、飛行場爆撃の地上シーンでは、リアルな造形の格納庫や地上設備(ミニチュア撮影)が続々と爆撃で粉砕されていくそのすぐ横を避難する英軍将兵の集団を、「移動マスク合成トラベリングマット合成)」により、極めて完成度の高い合成映像に作り上げられている事から評価も高い。円谷特撮監督ら特撮班は、本作のためにこの「移動マスク合成」の技法を開発し、日本初となる本格的導入を行った。「爆発する格納庫の手前を逃げる将兵」といった画面は、向山宏合成技師がフィルムを青と赤に染め分け、人物一人一人のマスク(黒く切り抜いた部分)を作りはめ込んだものであるが、当時の資材としては非常に手間のかかるものだった。しかし本作で東宝特撮班の合成技術は飛躍的に発展することとなった。

戦中の国威掲揚映画という側面はあるものの、『加藤隼戦闘隊』は戦前中の戦争映画・特撮映画、そして往年の名機達の息吹を感じられる、貴重な戦争映画の白眉のひとつとして記憶されるものとなっている。

軍歌『加藤隼戦闘隊歌(飛行第六十四戦隊歌)』

「エンジンの音 轟々と 隼は往く 雲の果て」と始まるこの歌は、1940年(昭和15年)2月末に南寧に応急派兵された「丸田部隊」こと飛行第64戦隊第1中隊(丸田文雄中尉を隊長とする事実上独立した分遣隊として運用)で、部隊の戦意高揚のため生まれたが[9]、すぐに全隊員の要望で「飛行第64戦隊歌飛行第六十四戦隊歌)」となった部隊歌である。

歌詞の意味は作詞者の田中林平中尉(当時准尉)によれば、「威風堂々、陸の隼がゆくところ、そこには激しい空中戦が待ち構えていた」、勲の蔭で多くのパイロットが死んでいったが、戦いが継続する限り、哀しみを乗り越えて、我々は祖国のために闘わねばならない。「立川出征以来、身をもって(華北やノモンハンで)体験した様々の哀歓と感動がこめられ、また亡くなった先輩・戦友を想う心」を秘めた第1中隊の歌であるが、「広く日本陸軍戦闘飛行戦隊に共通する、明野スピリットでもある」という[10]。なお、歌詞に出てくる「隼」とは作詞当時は単に戦闘機を猛禽類に例えた愛称にすぎなかったが、後の太平洋戦争緒戦において第64戦隊が一式戦をもって活躍したため、その部隊歌「飛行第64戦隊歌」から「隼」が取られ「一式戦の公式の愛称」に採用されている(1942年3月8日、陸軍航空本部は一式戦を「隼」と命名・発表)。

1940年2月22日、南寧に到着した飛行第64戦隊第1中隊(丸田部隊)の任務は、援蒋ルートの遮断、柳州、桂林地区への攻撃、南寧地区の防空であった。しかし、南寧は天候が悪く、その上敵航空勢力との会敵もないことから士気の低下が心配された[11]。そこで、部隊人事係に任命された田中林平准尉が士気高揚の為に、北支での戦訓をもとに部隊歌を作ることを発案、歌詞が隊内で公募された。丸田隊長ら将校で選考した結果、同盟通信記者の藤本有典や隊の者の意見を入れて作詞した、十篇近く集まった中で発案者の田中准尉と旭六郎中尉の合作とされるものが選ばれた[12]。この歌詞への作曲は、部隊が広東に戻ったとき南支那方面軍軍楽隊の守屋五郎隊長に丸田隊長が依頼した[13]。この時、丸田隊長が「四節は調子を変えて欲しい」と要望したため、一、二、三、五節は明るいハ長調であるが四節のみはハ短調へと転調(岡野正幸軍曹がこのパートを書いたとされる)され、「悲しき部隊の犠牲者」を偲ぶ思いをあらわす節として完成した[14][15]。この丸田部隊歌を、当時第64戦隊本隊が駐屯する満州東京城で朝日中尉が披露したところ、戦隊の全員より懇願され飛行第64戦隊に「申し受け」された。以後「飛行第64戦隊歌」となったという[16]

1941年1月1日に公開された「同盟ニュース映画」で初めて世の中に紹介され[17]、映画『加藤隼戦闘隊』でも事実上の主題歌として使用[18]、映画封切直前に灰田勝彦[19]の吹き込みでレコード化されている。これにより日本国民が広くこの歌を知ることとなり、また「飛行第64戦隊歌」はそのまま「加藤隼戦闘隊」とも呼称され人気を博した。

なお、南支で従軍中の丸田部隊は日本ニュース映画社の取材を受けており、その模様は1940年12月27日に「日本ニュース第30号」「凱歌南支を圧す 陸鷲暁の出動」として公開、空中撮影した編隊飛行を行う九七戦の映像を背景に、この後の「飛行第64戦隊歌」(合唱付)が使用されている。

  • 作詞:飛行第64戦隊 田中林平准尉
  • 作曲:南支那方面軍軍楽隊 原田喜一軍曹、四番の旋律のみ岡野正幸軍曹
  • JASRAC管理著作物
階級は1940年当時

また、文才も豊かな黒江保彦が第64戦隊時代に、戦地の飛行場で作詞した第二隊歌ともいうべき「印度航空作戦の歌」(作詞:黒江保彦、作曲:ビルマ方面軍軍楽隊荻原益城軍曹)が存在し、伊藤久男によりレコーディングされている。このためか、一部では「飛行第64戦隊歌」の作詞者を黒江保彦と混同・誤解されている[20]

参考文献

  • 檜與平『つばさの血戦―かえらざる隼戦闘隊』光人社NF文庫、1984年、ISBN 4-7698-2104-2。
  • 黒江保彦『あゝ隼戦闘隊―かえらざる撃墜王』光人社NF文庫、1984年、ISBN 4-7698-2017-8。
  • 宮辺英夫『加藤隼戦闘隊の最後』光人社NF文庫、1986年、ISBN 4-7698-2206-5。
  • 田中林平『翼よ雲よ戰友よ』時事通信社 1972年
  • 秦郁彦『太平洋戦争航空史話(上)』中央公論新社文庫、1995年。
  • 押尾一彦・野原茂『日本軍鹵獲機秘録』光人社、2002年、ISBN 4-7698-1047-4。
  • 梅本弘『ビルマ航空戦・下』大日本絵画、2002年、ISBN 4-499-22796-8。
  • 『太平洋戦争秘録 勇壮!日本陸軍指揮官列伝』別冊宝島編集部編、2009年、ISBN 978-4-7966-7247-4。
  • 中山雅洋『中国的天空(下)沈黙の航空戦史』大日本絵画、2008年、ISBN 978-4-499-22945-6
  • 『日本陸軍機写真集』エアワールド、1985年。
  • Sakaida, Henry. (1997). Japanese Army Air Force Aces, 1937-45. London: Osprey Publishing.ISBN 1-85532-529-2
  • 梅本弘『第二次大戦の隼のエース』大日本絵画、2010年、ISBN 978-4499230285
  • 『東宝特撮映画全史』(東宝)
  • 『東宝SF特撮映画シリーズVOL3』(東宝)

注釈

  1. 高城肇 「丸メカニック45号(隼・飛燕)」 潮書房 p.35
  2. フランス語に由来する空中勤務者控所を意味する陸軍用語。
  3. 梅本弘『第二次大戦の隼のエース』大日本絵画、2010年、20項
  4. 「隼」の最高速度では補足できないが、航続力を生かして相手からほとんど視認できない距離でこれを追尾、モスキートが残燃料の関係で巡航速度に落としたところ、漸く追いつき死角から接近して撃墜する「送り狼作戦」で仕留めている。
  5. 加藤はこの「隼」の性能向上に大変意欲的であり、既存の無線機無線電話)や防弾装備を重要視していた。
  6. 戦後の1963年(昭和38年)に本作は再び劇場公開された。
  7. ISBN 4-434-07988-3
  8. 挺進兵としても出演している。
  9. 田中林平「翼よ雲よ戰友よ」時事通信社、1974年、p.230
  10. 田中林平「翼よ雲よ戰友よ」時事通信社、1974年、p.231~233
  11. 田中林平「翼よ雲よ戰友よ」時事通信社、1974年、p.230
  12. 粕谷俊夫「加藤隼戦闘隊の最後」二見書房、1960年、p.22
  13. 粕谷俊夫「加藤隼戦闘隊の最後」二見書房、1960年、p.22
  14. 田中林平「翼よ雲よ戰友よ」時事通信社、1974年、p.233
  15. 粕谷俊夫「加藤隼戦闘隊の最後」二見書房、1960年、p.22
  16. 田中林平「翼よ雲よ戰友よ」時事通信社、1974年、p.234
  17. 田中林平「翼よ雲よ戰友よ」時事通信社、1974年、p.234
  18. 映画の本来の主題歌は「隊長殿のお言葉に」(作詞:佐伯孝夫、作曲:清水保雄。歌:灰田勝彦、小畑実など)であり、「加藤隼戦闘隊」はB面に収録された挿入歌である。これはレコードに添付の文句紙(歌詞カード)の記載と順番により明らかであるが、劇中では「加藤隼戦闘隊」が多用されている。
  19. 灰田は映画の中ではパレンバンに降下する落下傘部隊の隊長役で出演している。
  20. 黒江保彦「隼戦闘機隊-かえらざる撃墜王-」光人社 P.1 高木俊郎氏の回想

関連項目

外部リンク