ラバウル

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ラバウル英語:Rabaul)は、パプアニューギニア領・ニューブリテン島都市である。

概要

パプアニューギニア・ニューブリテン島のテンプレート:仮リンク東側に位置する、良港テンプレート:仮リンクを臨む都市で、東ニューブリテン州の州都であったが、火山の噴火でココポに遷都している。ラボールとも呼称される。

ラバウルはコプラコーヒーココアの産地として有名。なお、周囲は火山地帯として知られ、シンプソン湾自体もカルデラである。

歴史

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ファイル:Aust fleet Rabaul (AWM J03326).jpg
1914年9月にラバウルで撮られたオーストラリア艦隊。

1910年ドイツが建設した街である。第一次世界大戦までドイツの統治下にあったが、1914年9月、オーストラリア軍が占領。その後オーストラリアにより統治される。

日本軍の占領

第二次世界大戦中の1942年1月23日には日本軍が占領し、1942年11月20日着任した今村均陸軍大将などの指揮によって東南方面への一大拠点が築かれる。ラバウル航空隊の基地があり連合軍側からはラバウル要塞と呼ばれた。陸海軍合わせて9万余の日本軍が配置された。日本軍は自給自足体制による食料の確保と、堅固な要塞を築き上げていた。これをみた連合軍は、反攻にあたり頑強な抵抗が予想されるラバウルを占領せず包囲するにとどめた結果、終戦時まで日本軍が保持することとなった。また、オーストラリア軍は日本軍占領時に大きな損害を出したためか、他の連合軍に比べ勇猛に戦ったという。

火山の噴火

ラバウル市は、南北14km、東西8kmのBlanche湾(カルデラ)を囲む火山群の北西端にある。

536年の噴火が世界中の気象を変え(テンプレート:仮リンク)、過去2000年で最悪の気候をもたらしたという説があるテンプレート:要出典535年クラカタウ火山(インドネシア)の爆発も原因であるという説や、彗星衝突説もあり、はっきりしていない。

1878年の爆発でブルカン火山が形成された。

1937年のオーストラリア領の時、2つの山が同時噴火し507人が死亡した。オーストラリアはニューギニア地区の中心をラバウルに置いていたが、ラエに移動させた。

1941年末の日米開戦当時に小噴火を繰り返していたタブルブル火山(Tavurvur、日本名は「花吹山」)は、1942年6月に噴火が終わった。

1994年、近郊のタブルブル火山(Tavurvur Volcano)とテンプレート:仮リンク(Vulcan Crater、日本名は西吹山)の同時噴火によって5m以上の降灰が市街を襲い大きな打撃を受けている。住民は近郊の山林に避難し、ラバウル空港は放棄され、南東に20km離れたココポの町に新空港と政府機関が移転した。ラバウル付近では各国の援助で再建が進むものの、旧市街は降灰に埋もれ放棄されたままである。

ラバウルに関する作品

  • ラバウル小唄(作詞:若杉雄三郎、作曲:島口駒夫)
「さらばラバウルよ」の歌いだしで知られる戦時歌謡。1945年昭和20年)太平洋戦争末期に流行した。この歌は1940年(昭和15年)にビクターから発売された歌謡曲「南洋航路」(若杉雄三郎作詞、島口駒夫作曲、新田八郎唄、歌いだし=「赤い夕日が波間に沈む」)の替え歌である。替え歌は歌詞にラバウル(日本軍の飛行場や基地があった)と云う地名が入っていたこともあって、南方の前線から撤退する兵士達に好んで歌われ、レコードに拠らず口伝えで国内にも広まった[1]
戦後の歌集では〔題名=ラバウル小唄(南洋航路)作詞:若杉雄三郎、作曲:島口駒夫〕と紹介されることもある。その場合歌詞の前の方に替え歌が入り、後の方に元歌が続く形となっている[2]

関連項目

脚注・出典

  1. 参考文献「日本流行歌史」(中)」(社会思想社)
  2. 参考文献「歌は時代とともに」(のばら社)

外部リンク

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