ダカール・ラリー
テンプレート:スポーツ大会シリーズ ダカール・ラリー(フランス語:Rallye Dakar ラリー・ダカール)とは、1978年にティエリー・サビーヌによって創始された、ラリーレイド競技大会の一種である。「世界一過酷なモータースポーツ競技」とも言われている。
このラリー競技大会は、コース設定が徐々に変わってきたことでその名称も変化してきており、かつては 「rallye Paris-Dakar パリ-ダカール・ラリー(略称 パリダカ)」と呼ばれた。もともとフランス人が始めた大会であるため、大会の公式語はフランス語であり、フランス語では一般に「Rallye Dakar[1] ラリー・ダカール」と呼び、さらに短縮して 「Le Dakar ル・ダカール」と呼ぶこともある。日本語では英語風の語順で「ダカール・ラリー」と呼ぶことが多い。
目次
概要
1979年から始まり毎年行われているラリーレイド大会であり、ラリーレイド大会の代表的なもののひとつである。
以前は、例年1月1日(前年の12月末に始まることもある)にフランスの首都・パリからスタートし、スペインのバルセロナからアフリカ大陸に渡り、セネガルの首都・ダカールまでのおよそ12000kmを走ることで知られていたが、2009年からは南米アルゼンチンの首都ブエノスアイレスからチリを回る周回コースに、2012年からはペルーを加えた3カ国を通るルートとなった。1981年より国際自動車連盟(FIA)と国際モーターサイクリズム連盟(FIM)の公認レースとなっている。
かつてのヨーロッパ-アフリカ大陸時代は、途中ほとんど集落や救護施設のないサハラ砂漠を縦断する過酷な競技なため、出場者の5割以上がリタイアする大会も珍しくなく、時折死者や負傷者も出た。競技区間には、西サハラなど政治的に不安定な国が入っていることも「世界一過酷」と呼ばれる由縁であった。それ故、「全ての完走者が勝者である」という言葉が出場者全員の共通の認識となっており、最終日のレースは「ビクトリーラン」と呼ばれている。
同様にヨーロッパ-アフリカ大陸時代は、フランスなど欧米を中心とした選手とメーカーがかつて植民地として支配していたアフリカ諸国で行っているだけに、植民地主義的だとする批判が根強く存在し、テロの標的にされる理由の一つであった。またアフリカの一般住民の住む地域を競技車両が猛スピードで駆け抜け住民と競技車の事故も発生しており、批判されるのもやむを得ないとする見方も多かった。それらの事情から、後に開催地が南米に変更された。
冠スポンサーは2007年はポルトガルでロト(日本でいえば宝くじ)を販売するユーロミルホーが務めた。過去にはテレフンケン(de:telefunken:ドイツの電機メーカー)、トタル(フランスの石油メーカー)、テレフォニカ(スペインの通信会社)などが務めている。日本企業ではパイオニアが1991年に冠スポンサーを務めた。 舞台が南米大陸になってからは2009年はトタルや2010年と2011年はpersonal社が冠スポンサーを務めた。
歴史
1978年12月26日に第1回大会が開催、この時の名称は「オアシス・ラリー」となっていた。
本ラリーの創始者はティエリー・サビーヌ(Thierry Sabine)である。下記の言葉は1978年の第1回開催の時に彼が言ったとされ、ダカール・ラリー創設の精神を語る言葉として有名である。
ティエリーは運営団体としてTSO(ティエリー・サビーヌ・オーガニゼーション)を設立、主催者としてパリ・ダカを象徴する存在となる。しかし、ティエリーは1986年に競技期間中に起こったヘリコプター墜落事故により死去、彼の遺志とTSOは父ジルベールによって引き継がれた。だが、そのジルベールもティエリー程のカリスマ性を持つには至らず、高齢を理由に1994年1月に引退。TSOは主催者権を売却し、1994年からはフランスのアモリー・グループである「ASO」(アモリ・スポル・オルガニザシオン)が主催している。
1982年の大会では、競技者として参加していたイギリス首相(当時)マーガレット・サッチャーの息子のマーク・サッチャーが競技中に一時行方不明となり、世界を巻き込んだ大騒ぎとなった。この際、サッチャーは「息子が発見されなかったら、このような危険なレースを2度と開催させない。」と発言している。TSOによる捜索の結果、マークは数日後に無事発見・保護され、この騒動でラリーが世界的に認知される事となる。
1986年の大会では6人の死者を出した。その中には大会主催者であったティエリー・サビーヌも含まれている。
1987年の大会では、プジョーがWRCにおけるグループBの廃止に伴って行き場がなくなった205ターボ16を投入し、圧倒的な速さでラリーを席巻した。それまでのパリ・ダカは耐久ラリーの色合いが非常に濃いものであったが、プジョーはWRCのサービス体制をそのままパリ・ダカに持ち込み、どんなトラブルやアクシデントに見舞われようとも、ゴールまでたどり着けば翌日のスタートには新品同様に車両を修復するという手法でパリ・ダカの長丁場を乗り切った。このプジョーの手法は三菱をはじめとした他のエントラントにも大きな影響を与えることとなり、この年以降、この動きに追従した三菱とプジョー(1990年からは同じPSAグループのシトロエン)による優勝争いはより激しさを増し、パリ・ダカは高速化の一途をたどることとなった。
1988年の大会では、オート部門首位だったアリ・バタネンの車両が盗難に遭うという事態が発生し、後に失格の裁定が下された。この時、失格の裁定を巡って、プジョーとFIA、というより、以前から遺恨があったとされる、プジョーチーム監督ジャン・トッドとFIA会長ジャン・マリー・バレストル個人の間で深刻な対立が生じている(ジャン・マリー・バレストルの項目参照)。なお、この年から日本のパイオニアがタイトルスポンサーを務めることになった。
1991年にはシトロエンチームのサポートカミオンが、モーリタニア国内でポリサリオ戦線が敷設していた地雷を踏み、コドライバーが逃げ遅れて焼死する事件が発生した。事前警告で地雷が存在するため、メインピストから外れて走らないよう指示が出ていたのにもかかわらず、主催者から指示され、ルートブックにも記載されていたメインピストを外れて走行していたのが原因とされている。
1992年、パリ・ダカの歴史上初めてゴール地がダカールから南アフリカのケープタウンに移された。名前もパリ-ル・カップに改められ、タイトルスポンサーは日本のパイオニアからフランスの石油メーカーのトタル(TOTAL)に変更になった。この年は大会のサポートカーが事故を起こし、救護に駆け付けようとしたメディカルカーに1989年のモトクラス覇者ジル・ラレイが接触し、この世を去るアクシデントが発生した。
この事件だけではなく、特に近年の同レースはテロ組織以外にも強盗も現れ、ドライバーがその被害・脅迫に遭遇することは少なくなかった。銃撃を受ける、盗賊に金品を略奪される等、事件例は枚挙に暇が無い。通行する集落の住民による投石による事故や負傷も多い。シトロエンのサポートカミオンのドライバーが何者かによって射殺されたり、ミツビシのサポートカミオンが狙撃を受ける事態すら発生した。
2008年は走行区間のアフリカ北西部モーリタニアの治安悪化のため、開幕前日になって全区間開催中止が発表された[2]。2008年の再開催の予定はなし。2007年末のフランス人旅行者殺害事件を契機にフランス政府が事実上のレース中止勧告をしていたほか、主催者にも直接テロの脅迫が届いていたという。レースが全面中止されるのは30年の歴史で初めてであり、主催者側はテロの危険が絶えないサハラ砂漠からの撤退を含めた議論を示唆した[3]。
2008年2月4日、ASOは中止になったダカール・ラリーの代わりに中央ヨーロッパを舞台にしたラリー「ダカール・シリーズ」を創設、4月20日~26日に開催すると発表した[4]。ハンガリーの首都・ブダペストからスタートし、途中ルーマニアを通過、同国西部のバラトン湖までのおよそ4800kmを走る。
同年2月11日には2009年のダカール・ラリーは南アメリカのアルゼンチンとチリを舞台に行われると報じられた[5]。ブエノスアイレスが発着点となる。この地が舞台となった理由として、ダカール・ラリーの特徴である砂漠や難コースを持ちながらテロの脅威がないことが挙げられている。
2009年2月、2010年も引き続き南米で開催されることが発表された。この年、長らくトップコンテンダーとして健在だった三菱自動車が、2009年限りでワークスチーム撤退を表明した。撤退が噂されていたフォルクスワーゲンは後に参戦継続を表明したが、パリダカールラリーはワークス主体のレースが継続されるか、初期のプライベーター主体のレースに回帰するか、開催地の問題も含め岐路に立たされた。
2010年1月、この年もアルゼンチン・チリを舞台にし、落盤事故で33人が奇跡的に救出され有名となったチリ・サンホセ鉱山もルートに設定された。 この大会で、市販車クラスのTLC(チーム・ランドクルーザー/トヨタ車体)が同クラス6連覇を達成した[4]。
2012年、2013年大会ではペルーが開催国に加わり、南米開催となって以来初の片道ルートとなった。
コース
開始当初より1991年まで元日(前年末の時もあった)にパリをスタートし、アフリカ大陸に上陸後、サハラ砂漠を経由してダカールをゴール地点とするレースフォーマットで運営されていた。そのため、日本国内では「パリ・ダカ」と言われた。
開催ルート一覧
- 1979年-1980年:パリ→ダカール
- 1981年-1988年:パリ→アルジェ→ダカール
- 1989年:パリ→チュニス→ダカール
- 1990年-1991年:パリ→トリポリ→ダカール
- 1992年:パリ→ケープタウン (同年に開催されたパリ・北京ラリーへのエントリー流出を防ぐため、ゴールを移したという説がある。)
- 1993年:パリ→ダカール
- 1994年:パリ→ダカール→パリ (「パリ・ダカール・パリ・ラリー」として往復コースで開催した。)
- 1995年-1996年:グラナダ→ダカール (初めてパリ以外の都市からスタートした。)
- 1997年:ダカール→アガデス→ダカール
- 1998年:パリ→グラナダ→ダカール
- 1999年:グラナダ→ダカール
- 2000年:ダカール→カイロ (前年の大会でテレビ局取材スタッフが襲撃されたことを受け、アフリカステージをダカールからスタートしてエジプト・カイロのギザのピラミッドにゴールを設定した。)
- 2001年:パリ→ダカール (パリからスタートした大会はこの年で最後となった。)
- 2002年:アラス→マドリード→ダカール
- 2003年:マルセイユ→シャルム・エル・シェイク
- 2004年:クレルモン=フェラン→ダカール
- 2005年:バルセロナ→ダカール
- 2006年-2008年:リスボン→ダカール (2008年大会はテロリストの攻撃を受けて中止された。)
- 2009年:ブエノスアイレス→バルパライソ→ブエノスアイレス
- 2010年:ブエノスアイレス→アントファガスタ→ブエノスアイレス
- 2011年:ブエノスアイレス→アリカ→ブエノスアイレス
- 2012年:マル・デル・プラタ→コピアポ→リマ
- 2013年:リマ→サン・ミゲル・デ・トゥクマン→サンティアゴ
コースはASOのコースディレクターによる事前の試走に基づいて決定される。経由地やルートは毎年変更され、前年と全く同じコースを走行することはほとんどない。なお、コースディレクションはティエリー・サビーヌの存命中は彼自身の手によって行われ、彼亡き後はルネ・メッジやユベール・オリオールなど、本ラリーの過去の参加経験者の手によって行われている。
日々のコースは、リエゾンと呼ばれる移動区間とSS(通常のラリーではスペシャルステージの略であるが、本ラリーにおいてはセレクティブセクターもしくはそのままエスエスと呼称される事がある)と呼ばれる競技区間とで構成される。リエゾンとSSを合計した1日の走行距離はおよそ500kmから800kmにも及び、過去には1,000kmを超える競技区間が設けられた事もあった。
また、マラソンステージと呼ばれる区間が全コース中1度ないし2度設けられる。これは競技車が到着後、通常はその日のビバーク地で行う事が出来る整備を一部禁じ(具体的にはエンジン、駆動系などの部品交換が禁止される)、そのまま翌日のステージを走行するものである。2日にわたるステージをタイヤ交換などの軽整備のみで乗り切らなければならないため、ステージ内でのエンジンや駆動系の深刻なトラブルは即リタイヤに繋がる。そのため、車両を壊さないように労わりながらも速く走らなければならないという、2つの相反する要素が求められるステージとなっている。
競技期間中には1日ないし2日の休息日があり、競技車両の整備やクルーの休息に充てられる。 テンプレート:-
- Rally Dakar 2009 5.jpg
砂漠(2009)
- Dakar 2006 Chicherit BMW.jpg
砂漠(2006)
- Dakar2006 riders Otger.jpg
荒地(2006)
- Rally Dakar 2011 en San Juan, Argentina.JPG
観客が見守る悪路(2011)
- Subaru forester Dakar 2011.jpg
溝ができた道(2011)
- Rally Dakar 2009 10.jpg
水を突破する場所(2009)
- Rallye dakar 1 enero 2011 plaza de mayo.JPG
市街地。ブエノスアイレス、Plaza de Mayo(2011)
- 2011 Rally Dakar Nasser Al-Attiyah Tucuman.JPG
リエゾン。ステージとステージをつなぐ区間。サン・ミゲル・デ・トゥクマンの後(2011年)
車両
現在、競技に使用される車両はおおまかに言うと、MOTO モト(オートバイ)、AUTO オート(自動車)、CAMION カミオン(トラック)の3つに分類される。それ以外の参加車両としてバギー、ATVなどがある。
- Dakar 2006 Floirac Kastan Cornuaille.jpg
Motoすなわちオートバイのカテゴリ
- Dakar 2006 Alphand.jpg
Autoすなわち自動車のカテゴリ
- Rally Dakar 2009 KABIROV BELYAEV MOKEEV camión KAMAZ.JPG
Camionすなわちトラックのカテゴリ
ごく初期においては2輪車と4輪車にカテゴリー分けされている程度であり、ナンバープレートが取得可能な車両であればどのような車両であっても大抵の場合は参加することが可能であった。そのため参加車両には、街中を走るごく普通の市販車を改造したものもあり、たとえば2輪部門ではスーパーカブやベスパも参加したことがあり、また自動車メーカーのプロトタイプ・カー、軍用車両の流用などもあった。
かつてはT1(市販車無改造クラス)、T2(市販車ベースの改造車クラス)、T3(プロトタイプ車)にグループ分けされ、オート部門にはこれにカミオン部門(T4)とチームのサポートトラック(T5)が加わっていたが、2001年にグループ分けが見直された。2008年時点の大まかなクラス分けは下記のとおりで、更に燃料の種類や排気量で細分化されている。
- プロダクション(無改造の市販車:二輪・四輪共通)
- スーパープロダクション(市販車ベースの改造車および競技専用車。バギーを含む:二輪・四輪共通)
- カミオン(トラックベース)
- エクスペリメンタル(サイドカーや三輪・四輪のATVなど)
1997年にワークスチームのプロトタイプカー(競技専用車)とガソリンターボエンジンを搭載しての参戦が禁止されたが、2001年から上述のようにスーパープロダクションという形でプロトタイプカーが実質解禁となった。ガソリンNAエンジンの市販改造車のほか、ディーゼルターボエンジンを採用するチームもある。フォルクスワーゲン・レーストゥアレグや三菱・レーシングランサーはディーゼルターボを採用する。
開催日程
回 | 開催日程 |
---|---|
第1回 | 1978年12月26日~1979年1月14日 |
第2回 | 1980年1月1日~23日 |
第3回 | 1981年1月1日~20日 |
第4回 | 1982年1月1日~20日 |
第5回 | 1983年1月1日~20日 |
第6回 | 1984年1月1日~20日 |
第7回 | 1985年1月1日~22日 |
第8回 | 1986年1月1日~22日 |
第9回 | 1987年1月1日~22日 |
第10回 | 1988年1月1日~22日 |
第11回 | 1988年12月25日~1989年1月13日 |
第12回 | 1989年12月25日~1990年1月16日 |
第13回 | 1990年12月29日~1991年1月17日 |
第14回 | 1991年12月25日~1992年1月16日 |
第15回 | 1993年1月1日~16日 |
第16回 | 1993年12月28日~1994年1月16日 |
第17回 | 1995年1月1日~15日 |
第18回 | 1995年12月30日~1996年1月14日 |
第19回 | 1997年1月4日~19日 |
第20回 | 1998年1月1日~18日 |
第21回 | 1999年1月1日~17日 |
第22回 | 2000年1月6日~23日 |
第23回 | 2001年1月1日~21日 |
第24回 | 2001年12月18日~2002年1月13日 |
第25回 | 2003年1月1日~19日 |
第26回 | 2004年1月1日~18日 |
第27回 | 2004年12月31日~2005年1月16日 |
第28回 | 2005年12月31日~2006年1月15日 |
第29回 | 2007年1月6日~21日 |
第30回 | 中止(2008年1月5日~20日に開催予定だったが モーリタニアの政情不安定を理由に中止[2]) |
第31回 | 2009年1月3日~18日 |
第32回 | 2010年1月1日~17日 |
第33回 | 2011年1月1日~15日 |
第34回 | 2012年1月1日~16日 |
第35回 | 2013年1月5日~20日 |
第36回 | 2014年 |
歴代優勝者
オート(四輪)
モト(二輪)
カミオン(トラック)
回 | 参加台数 | 完走台数 | 優勝ドライバー | 優勝マシン |
---|---|---|---|---|
第1回 | 12台 | |||
第2回 | 10台 | 7台 | テンプレート:Flagiconアタクア/ブークリフ/カオーラ | テンプレート:Flagiconソナコム |
第3回 | 15台 | 3台 | テンプレート:Flagiconヴィレット/ガブリエル/ヴォルロー | テンプレート:Flagiconアルム・アクマ |
第4回 | 23台 | テンプレート:Flagiconグローヌ/デ・ソウリュー/マルフェリオル | テンプレート:Flagiconメルセデス | |
第5回 | テンプレート:Flagiconグローヌ/デ・ソウリュー/マルフェリオル | メルセデス | ||
第6回 | テンプレート:Flagiconラルー/デュルス/ヴェンチュリーニ | メルセデス | ||
第7回 | 55台 | 20台 | テンプレート:FlagiconK-F.カピト/J.カピト/シュヴァイカール | メルセデス |
第8回 | テンプレート:Flagiconヴィスマーラ/ミネーリ | メルセデス | ||
第9回 | 73台 | テンプレート:FlagiconJ.デュ・ロイ/ジューネンス/ヴァン | テンプレート:FlagiconDAF | |
第10回 | 109台 | テンプレート:Flagiconロプライス/スタッチュラ/イングマック | テンプレート:Flagiconタトラ | |
第11回 | 中止 | |||
第12回 | 93台 | 23台 | テンプレート:Flagiconヴィア/デルフィーノ/ヴィナンテ | テンプレート:Flagiconペルリニ |
第13回 | 113台 | 46台 | テンプレート:Flagiconウーサ/ド・ソーリウー/ボッタロ | テンプレート:Flagiconペルリニ |
第14回 | 101台 | 56台 | テンプレート:Flagiconペルリニ/アルビエロ/ヴィナンテ | テンプレート:Flagiconペルリニ |
第15回 | 42台 | テンプレート:Flagiconペルリニ/アルビエロ/ヴィナンテ | テンプレート:Flagiconペルリニ | |
第16回 | 96台 | 47台 | テンプレート:Flagiconロプライス/スタシュラ/カリナ | テンプレート:Flagiconタトラ |
第17回 | 24台 | 18台 | テンプレート:Flagiconロプライス/スタシュラ/カリナ | テンプレート:Flagiconタトラ |
第18回 | 70台 | 21台 | テンプレート:Flagiconモストフスキー/コウジミン | テンプレート:Flagiconカマズ |
第19回 | 55台 | 22台 | テンプレート:Flagiconレイフ/デインホッファー | テンプレート:Flagicon日野 |
第20回 | 35台 | 8台 | テンプレート:Flagiconロプライス/スタッチュラ/セルマック | テンプレート:Flagiconタトラ |
第21回 | 29台 | 16台 | テンプレート:Flagiconロプライス/スタシュラ/カリナ | テンプレート:Flagiconタトラ |
第22回 | 30台 | 23台 | テンプレート:Flagiconチャギン/ヤコボフ/サヴォステン | テンプレート:Flagiconカマズ |
第23回 | 30台 | 12台 | テンプレート:Flagiconロプライス/カリナ | テンプレート:Flagiconタトラ |
第24回 | 34台 | 22台 | テンプレート:Flagiconチャギン/マルデエフ/サヴォステン | テンプレート:Flagiconカマズ |
第25回 | 51台 | 27台 | テンプレート:Flagiconチャギン/ヤコボフ/サヴォステン | テンプレート:Flagiconカマズ |
第26回 | 63台 | 38台 | テンプレート:Flagiconチャギン/ヤコボフ/サヴォステン | テンプレート:Flagiconカマズ |
第27回 | 69台 | 36台 | テンプレート:Flagiconカブロフ/ベレイエフ/モケエフ | テンプレート:Flagiconカマズ |
第28回 | 69台 | 33台 | テンプレート:Flagiconチャギン/ヤコボフ/サヴォステン | テンプレート:Flagiconカマズ |
第29回 | 245台 | 132台 | テンプレート:Flagiconステイシー/ゴッドリーブ/デルキンデレン | テンプレート:Flagiconマン |
第30回 | 中止 | |||
第31回 | - | - | テンプレート:Flagiconカブロフ/ベレイエフ/モケエフ | テンプレート:Flagiconカマズ |
第32回 | - | - | テンプレート:Flagiconチャギン/サヴォステン/ニコラーエフ | テンプレート:Flagiconカマズ |
第33回 | - | - | テンプレート:Flagiconチャギン/サヴォステン/シャイスルタノフ | テンプレート:Flagiconカマズ |
第34回 | - | - | テンプレート:FlagiconG.デュ・ロイ/コルスール/ロートワルド | テンプレート:Flagiconイヴェコ・パワースター |
第35回 | - | - | テンプレート:Flagiconニコラーエフ/サヴォステン/リュバコフ | テンプレート:Flagiconカマズ |
第36回 | - | - | テンプレート:Flagiconカルギノフ/モケエフ/デヴィアトキン | テンプレート:Flagiconカマズ |
クアッド(四輪バギー)
回 | 参加台数 | 完走台数 | 優勝ドライバー | 優勝マシン |
---|---|---|---|---|
第31回 | - | - | テンプレート:Flagiconヨセフ・マハチェク | テンプレート:Flagiconヤマハ |
第32回 | - | - | テンプレート:Flagiconマルコス・ペトロネリ | テンプレート:Flagiconヤマハ |
第33回 | - | - | テンプレート:Flagiconアレハンドロ・ペトロネリ | テンプレート:Flagiconヤマハ |
第34回 | - | - | テンプレート:Flagiconアレハンドロ・ペトロネリ | テンプレート:Flagiconヤマハ |
第35回 | - | - | テンプレート:Flagiconマルコス・ペトロネリ | テンプレート:Flagiconヤマハ |
第36回 | - | - | テンプレート:Flagiconイグナシオ・カザーレ | テンプレート:Flagiconヤマハ |
日本との関係
日本からは個人での参加、企業での参加、それぞれ様々なものがある。企業での参加では、ヤマハ、ホンダ、三菱自動車、トヨタ、日野自動車の各社が健闘してきた歴史がある。
モト部門ではかつてはヤマハ、ホンダ、スズキがワークス・チームを編成して参戦していた。ヤマハはモト部門で1991年、1992年、1993年、1995年、1997年、1998年など9回、ホンダは5回の優勝を手にした。その後、各メーカーともワークス参戦を見送る時期が続いたが、2013年からホンダがCRF450でワークス参戦を復活させている。
モト部門の車両としては、1979年の第一回から、ヤマハのXT500に乗ったライダーが優勝、翌1980年(第2回)も同車が優勝。1982年にはホンダのXR550(XL550R改)に乗った[6]シリル・ヌヴー(Cyril Neveu)が優勝した。歴代の優勝者のおよそ半数が日本のメーカー(ヤマハやホンダ)の車両に乗って勝利を手にしている。
オート部門では1985年に三菱のワークス・チームが1・2位を独占した。これをきっかけに広報活動などで「パリ-ダカール・ラリー」の名称や画像が用いられるようになり、日本人にもダカール・ラリーが広く知られるようになった。 オート部門でのワークス・チームの参加としては、2011年時点で、日本からは三菱自動車工業テンプレート:要検証、日産自動車、が参戦していた。ただし近年の景気低迷により、日産は2005年、三菱は2009年を最後にワークスでの参戦を行っていない(プライベーターへの支援活動は継続している)。三菱自動車は2001年から2007年まで7年連続総合優勝し、2011年までに12回の総合優勝を勝ち取った。
オート部門の市販車無改造クラスには、トヨタ自動車(トヨタ車体[7])がランドクルーザーで参戦しており、市販車無改造クラスで2005年から2011年にかけて6連覇を達成した。
オート部門の車両としては、様々な日本のSUVが国内外のプライベーターの車両として選ばれ参加した。例えば三菱・パジェロ、トヨタ・ランドクルーザー、日産・サファリといった世界的なSUVの他にも、トヨタ・ハイラックスサーフ、三菱・チャレンジャー、日産・テラノ、いすゞ・ビッグホーン、いすゞ・ミュー、スズキ・エスクードなどがダカール・ラリーを走り、他にも初期の大会には、構造上砂漠で不利なトヨタ・スターレットやトヨタ・カリーナといった二輪駆動の乗用車で市販車無改造クラスにエントリーした強者もいた(その後のレギュレーション改定にて、オフロード車である事が義務付けられた)。また、かつてはプロトタイプ(実際に市販されていない競技専用車両)も参加可能であったため、テラノのシャシーに日産・パルサーGTi-R風のボディーを被せたものや、パジェロを国産初の四輪駆動車・PX33風に改造した車両もあった。
カミオン部門では、日野自動車がレンジャーで参戦して17年連続完走、1997年にはカミオン部門1-2-3フィニッシュを達成しており、サポートカミオンとしてではあるがスーパードルフィン・プロフィア(2013年まで)→700シリーズZS(プロフィアの海外仕様。2014年から)も参戦している。また、過去には三菱ふそうが1997年にはザ・グレートで、1998年には純粋な競技車輌ではなくサポートカミオンとしてではあるが、スーパーグレートで参戦したことがある。
なお、日本の自動車メーカー各社では販売網やその末端の士気向上を目的に、全国各地の系列ディーラーのメカニックが参加するグループ内部の技術コンテストなどの成績優秀者などを選抜して、実際にラリーに参戦するチームのメカニックに起用することも多く行われており、2012年現在もトヨタ(トヨタ車体)・日野の両メーカーが同様の活動を継続している。
出場した日本人
1981年 第3回にはすでに根本純と久保田勝の計2名が参加した[8]。それから数年で出場者が増えてゆき、その後はほぼ毎年10人以上の日本人が出場している[8]。
- 四輪(カミオン含む)
- 根本純 - 自動車ジャーナリスト。1981年に日本人として初参戦し、完走・1982年・1985年・1988年 - 1997年に参戦。
- 菅原義正 - 1983年から参戦。日本人で唯一、モト・オート・カミオンの全部門に参戦。本田技研工業→三菱自動車→日野自動車。2008年1月、ギネス・ワールド・レコーズにダカール・ラリーの最多連続出場(25回)記録保持者として認定された。
- (2005年からは息子の菅原照仁と共に親子で参戦。)
- 夏木陽介 - 俳優。1985年と1986年にドライバーとして、1987年~1993年にチーム監督として参戦。
- 篠塚建次郎 - 三菱自動車→日産自動車→フリー(トーヨータイヤ開発ドライバー)。1986年から参戦、1997年に総合優勝
- 増岡浩 - 三菱自動車。1987年からダカール・ラリーに参戦。2002年・2003年に総合優勝
- 石原孝仁 - テレビディレクター。1987年にテレビ番組のスポンサードを受けた「なるほど号」でドライバーとして出場(ナビゲーターは横田紀一郎)。市販車改造ディーゼルクラスで優勝した。
- 片山敬済 - 元ロードレース世界選手権チャンピオン。1990年に三菱パジェロ改のPX33で完走。1991年に日産パルサーベースのオリジナルマシンで出場するもリタイヤ。
- 佐々木隆 - 元モトクロス国際A級ライダー。1989年は二輪で出場するもリタイア、1990年は完走、クラス3位。
- 立松和平 - 作家。ナビゲーターとして2回出場し、1990年はリタイア、1991年に完走。
- 岡本佳保里 - 女優。トヨタ・フランスよりドライバーとして1991年参戦。1992年完走などの結果を残す。
- 新井敏弘 - WRCドライバー。いすゞ自動車、1997年参戦、総合32位完走。
- 池町佳生 - 二輪部門→四輪部門、日産自動車→トヨタ車体→フリーランス
- 三橋淳 - 2001,2002,2003年 二輪部門→2004年 四輪部門、日産自動車→トヨタ車体[9]
- 片山右京 - フリーランス(Team Ukyoなど) 2007、2008、2009年参戦。
- 菅原照仁 - 父の菅原義正のコ・ドライバーやチームメカニック、サポートカミオンで経験を積み2005年~カミオン部門で参戦。日野自動車
- 二輪
- 山田秀靖 - モータースポーツ・ジャーナリスト及びカメラマン。パリ・ダカール・ラリーでは初期の頃から取材活動を続けている。日本に紹介されるこのラリーの画像のほとんどは彼の撮影によるものである。パリ・ダカール・ラリーでは完走経験有り。
- 風間深志 - 冒険家。1982年に日本人として初参戦し、完走(クラス6位で総合18位)。2004年にも再挑戦するが、リタイア。
- 柴田哲孝 - 作家・評論家。1986年・1988年に「チーム・シンバ」として参戦。
- 打田稔 - ジャーナリスト。1986年に取材。
- 山村レイコ - 1988年から合計5回参戦。1997年は二輪総合57位(女性クラス優勝)、夫の山村雅康と共に完走したことで敢闘賞も受賞。1998年は夫婦で四輪部門にいすゞビッグホーンで参戦し完走。
- 渡辺明 - 元モトクロス世界選手権チャンピオン。1991年にスズキ準ワークスのガストン・ライエ・レーシングより参戦し、完走。
- 松井勉 - ジャーナリスト。1992年参加。
- 渡邊毅 - エンジニア。1992年参加。1997年には日本人プライベーター2輪チームのマネージャー兼メカニックとして参加した。
- 博田巌 - 高知県出身。ラリーレイド・モンゴルなどでの優勝経験あり。ダカール・ラリーでは、1998年20位、1999年15位。
- 柏秀樹 - ライディングスクール校長。ジャーナリスト。計4回参戦:1996年、1997年(35位完走)、1998年、2006年(62位完走)
- 木下博信 - 埼玉県草加市の元市長。同市議会議員時代の2001年に参戦し、完走した。
- 堀田修 - 2002年・2004年・2006年に参戦し100%完走した。総合での上位入賞はないが、クラス別や部門別では常に上位成績を収める実力派。普通の会社員(SE)でありながら有給休暇を利用して参戦した。エコエネルギー(新エネルギー)推進やフォトジャーナリストとしても活躍している。
- 桐島ローランド - 写真家。2007年に参戦し完走した。
歴代の日本人参加者年の名および結果のリストが、ダカール・ラリーの日本事務所の公式サイトに掲載されている[10]。
放送
日本国内におけるテレビ放送は、かつてはテレビ朝日やNHK衛星第1テレビがダイジェストを大会中毎日放送し、一部のニュース番組のスポーツコーナー内でも取り上げられた。1987年には、フジテレビの番組「なるほど!ザ・ワールド」がチームACPのトヨタ・ランドクルーザー2台をスポンサードし、参戦の模様を3回にわたって放送した(このとき、出場した2台中の1台が市販車改造ディーゼルクラスでクラス優勝している)。現在、総集編がテレビ東京系列で放送されるほか、J SPORTSが大会期間中にダイジェストを、終了後に総集編を放送している。しかし、放送頻度や認知度は同じモータースポーツであるF1などと比較して低いのが現状である。
販売促進への利用
サーキット系レース以上に地域や企業のイベントで競技車両を展示したり、自動車メーカーの販売促進の一環として全国のメーカー系販売会社やショールームを選手が回って報告会を行うなどの取り組みが見られる。特に後者(販売促進イベント)は三菱自動車が熱心であった[11]。
本レースを題材にしたゲーム
日本では、国内の企業がラリーに参加している為に認知度が高く、本レースを題材にしたゲームがいくつか製作・販売されている。
出典・注
- ↑ 注:フランス語では、名詞を形容(修飾)する語句が名詞の後ろに置かれるのが基本であり、英語とは順番が異なる。
- ↑ 2.0 2.1 「ダカール・ラリー2008、全面中止」。2008年1月5日、スラッシュドット ジャパン。2008年1月5日閲覧。
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ http://www.honda.co.jp/news/1982/2820708.html
- ↑ TOYOTAのブランドをかかげており、組織図上はチーム運営はトヨタ自動車ではなくトヨタ車体が行う、という意味。
- ↑ 8.0 8.1 [1]
- ↑ 三橋淳の公式サイト [2]
- ↑ [3]
- ↑ 三菱自動車系で行った「報告会」は、篠塚建次郎が参戦して以来ほぼ毎年続けられ、2009年までは増岡浩の報告会が毎年2月~3月に開催されるのが恒例となっていた。開催日が平日でも他府県から報告会を見に来るファンが多かった。 篠塚が三菱自動車を退職する2002年まで篠塚・増岡の報告会が開催された期間があり、2人揃って行動した年と別行動の年があった。別行動の場合は参戦車種の関係で篠塚がパジェロを扱うギャラン店系販売会社、増岡がRVRやチャレンジャーを扱っていたカープラザ系販売会社を担当した。ギャラン店・カープラザ店の区切りのない販売会社(山口三菱自動車・徳山支店など)では、篠塚・増岡が揃って登場した。
関連項目
- モータースポーツ
- ラリー
- ラリーレイド
- ヤマハ・XTZ750スーパーテネレ - ヤマハ発動機のワークス参戦史
- ボルボ・オーシャンレース - 「海のダカール・ラリー」と称されるヨットレース。ちなみにアメリカスカップは「海のF1」と称される